2019年5月9日木曜日

姉 3

母親が亡くなったのは、2014年8月7日の夕方であった。金曜日であった。午前中の外来を終えて携帯電話を確認すると、母親の容体が思わしくないとのメールが主治医から届いていた。早ければ1週間以内に母親は亡くなるかもしれないと書かれていた。私は直ちに主治医に電話をかけ、電話をかけると同時に実家のご近所の人に連絡した。何人かの隣人が病院に駆けつけてくれた。私の従兄姉も病院に来てくれた。
 
私はその日の午後、手術があった。手術を終えて携帯電話を確認すると、ひとりの従兄から繰り返しメッセージが入っていた。母親の容体が刻一刻と悪くなっていく模様が述べられていた。「もう駄目だ!」というのが最後のメッセージであった。なんということか・・・。
 
私はその数日前に母親を見舞っていた。いつも母親は寿司を食べたがるのでその帰省の際にも病院近くのスーパーで寿司を買って病院に持っていった。しかしそのとき、母親はその寿司を口にしようとはしなかった。すでに病態がかなり悪化していたのであろう。
 
帰省するたびに母親の容体は悪化していた。それを見るのは私にはとても辛いことであった。入院当初は、私が病室に入るや否や「お姉は?」と尋ねた。その一言から、母親の電話に姉が無視を続けていることがわかった。私は返す言葉もなく、ただ首を横に振るだけであった。母親はそれを見ると天井を見つめ、しばらく沈黙した。寂しそうであった。入院後数ヶ月すると、母親は携帯電話を手にしなくなった。そして「お姉は?」と私に尋ねることもなくなった。
 
私は母親がかわいそうでならなかった。目と鼻の先に済んでいる実の娘が一度も見舞に来ないどころか電話すらとらない。姉の子供たちも夫も無視を続けている。
 
母親が亡くなったあと、私が高知に帰ることができたのは、その翌日の夕方であった。既に外は暗くなっていた。母親の遺骸は従兄らによって既に葬儀場に運ばれていた。白いハンカチを顔にかぶせられ横たえられている母親の遺骸を見た瞬間、私は涙が止まらなくなった。泣き続けた。
 
私が泣き続けているとき、なんと一度も母親の見舞に来なかった姉が私に寄ってきた。そして、私一人に母親の介護をさせたことをわびた。しかし、姉が母親の面会に来なかった理由は弁護士が止めたからだと姉は言った。
 
そんなことがあろうはずはない! その理由は真っ赤な嘘である!
 
遺産相続の問題が姉と私と母親との間で持ち上がったのは、父親の死後のことである。姉は父親の存命中も一度たりとも病院には来なかった。電話もとらなかった。。
 
なんという言い訳であろうか。
 
これは姉の人生を象徴的に表す出来事である。姉は他人を陥れること金にしか興味がない。これが私と私の家内の共通の認識である。私は生涯、姉(池友子)を憎む。

0 件のコメント: