2009年9月29日火曜日

きゅうり

私の息子は11歳になる。小学5年生である。息子の最大の長所は、気分転換が早いことだ。嫌なことがあってもすぐにけろっと忘れてしまう。

服装も全く気にしない。スイミングパンツがすり切れてお尻に穴があいても、母親に繕ってもらってまたはき続ける。新しいスイミングパンツを履くようにといっても、古いのがいいと言う。帽子もしかり。5年前からずっと同じ野球帽をかぶる。頭が大きくなったので、当然、帽子はきちんと頭にはまらない。それでも、その帽子がいいらしい。穴があいた靴もずっと履き続ける。

こんな息子でもたまには落ち込むことがあるようだ。息子は週に1回、水泳教室に通っている。その際に、先日、おやつとして生のきゅうりを2本持たされたらしい。皮も剥いていない買ってきたそのままのきゅうりである。当然、味付けもされていない。水泳教室が終わったあと、友達が甘いあんぱんをおいしそうにかじるそばで、息子は生のきゅうりを猿のようにかじっていたわけである。友達のお母さんは「まあ、健康にいいわね」と言ってくれたらしいが、息子はとても惨めと感じたらしい。

息子はその翌日、私の家内にぽつりとこう言ったという。「おやつにきゅうりは、もうやめてくれない?」

息子は生野菜も刺身も調味料を何もつけないで食べる。きゅうりは息子の好物であるが、やはり味付けをしないまま食べる。私は不思議でならないが、これはおそらく小さい頃からの食習慣の影響であろう。離乳食を始めたときから調味料を入れない食事ばかり食べさせていた。このような事情もあって私の家内はあまり深く考えずに、買ってきたままのきゅうりを息子の手提げに入れたのに違いない。

私がこの出来事を知ったのはそれからずっと後のことであった。夕食時に息子がいるそばで家内はくすくす笑いながらこの話を私に聞かせた。息子が恥ずかしそうにきゅうりをぽりぽりかじる姿を想像し、私は大笑いした。そして、息子に「惨めだったの?」と冷やかし半分にわざと尋ねた。息子は小声で「うん」と答えた。私はまた笑った。家内も、「きっと治豊はこのことを一生忘れないよ」と他人事のように言い、くすくす笑っていた。そして、さらに意地悪く、「治豊は生のきゅうりが好きなじゃないの?」と言った。息子は、もじもじしながら小声で「家で食べるのはいいけど」と答えるのがやっとであった。

激しい水泳の後に買ってきたままのきゅうり2本のおやつ。きゅうりにはほとんど当分も含まれていないし、激しいスポーツの後のおやつとしてはふさわしくない。何本きゅうりをかじっても空腹は満たされない。

ただ、この出来事の救いは、我が家の生活が苦しいがために息子にきゅうりしか持たせられなかったわけではないということである。少なくとも親である私たちにとっては単なる笑い話の域を出ない。食べ物のことで引け目を感じる経験も息子にとって無駄ではなかったのではないかと思っている。

この種の惨めな思いを私自身は高校を卒業するまで幾度となく感じた。小学校時代、母が私に持たせた弁当のおかずは毎日、10円の「鯛デンプ」だけであった。クラスメートのお弁当のおかずを見て、いつもうらやましく思うとともに恥ずかしく感じた。クラスメートのお弁当には、私が見たことも食べたこともない珍しいおかずがたくさん詰め込まれていた。もやしを見たのも初めてのことであった。私はクラスメートに「それはきんぴら?」と尋ねた。そのクラスメートからは「もやし」という答えが返ってきた。私には、その「もやし」というものの味すら想像することができなかった。そのクラスメートのお弁当の内容は毎日異なっていた。

自宅でも食事情はほぼ同じであった。タケノコの季節には毎日、タケノコだけを煮た鍋が出てきた。1日3色ともおかずはタケノコの煮物ということも珍しくなかった。ワラビがとれる時期には毎日ワラビだけが食卓に並べられた。夏になるとサツマイモの茎ばかり食べさせられた。私は食事中、よくべそをかいた。しかし他におかずがあろうはずもない。空腹に耐えかねて私は泣きながらそれらを口にかけこんだ。そんな私を慰めることもせず、私の母は黙々と毎日同じおかずを食べ続けた。祖父母も父親も同じおかずに文句を言わなかった。

貧困は恥ではない。恥ずかしいことではない。しかし、まだ幼い子供であった私には、貧困はつらいだけでなく恥ずかしいことであると感じられた。

2009年9月24日木曜日

映画

私は20年以上前から映画館に足を運んだことがない。映画館には行かないと決めているわけではない。ただ、よほどの差し迫った理由がなければ今後も私が映画館で映画を観ることはないように感じる。

今朝、出勤途中、このことについて、何故なのだろうと、いろいろ考えてみた。

私の頭にまず浮かんだのは、私が生まれ育った田舎にあった小さな映画館であった。その映画館は私の実家から2キロほど離れた場所にあった。映画館というよりもむしろ掘建て小屋と表現した方が適切と思えるような今にも倒壊しそうな木造の古い建物であった。その映画館では時々いろいろな映画が上映されていた。

私もその映画館で何度か映画を観る機会があった。すべて、当時はやっていた怪獣映画であった。ゴジラだとかモスラだとか、私の年代の男性にとってはとても懐かしい怪獣映画ばかりであった。大魔神の映画もその映画館で観たことがあったが、大魔神の映画を思い出すと、いまでも背筋が寒くなるような恐怖感に襲われる。

それらの映画を私が観ることができたのは、当時、その映画館の主が営業していた米屋に勤めていた私の実家の隣のおじさんが私に無料チケットをくれたためであった。親からもらった小遣いでその映画館を訪れたことは一度もなかった。

当時、私の家は貧しかった。我が家は貧しいのだと親からも言い聞かされた。私が生まれたのは昭和30年代初頭。まだ第二次世界大戦から10年あまりしか経っていなかった。いま振り返れば、当時は日本全体が貧しかった時期ではなかったかと思う。しかし当時の私は、貧しいのは我が家だけであると無意識のうちに思い込んでいた。こんな私にとって、自分の小遣いで映画館に行くなどということは夢の夢であった。

その映画館に入ると、壁の隙間から日光が差し込んできた。その光を見ると、映画館にはもうもうとほこりが立ちこめているのがわかった。それだけで私は息苦しくなるような気がした。

映画の上映はたびたび中断された。フィルムがところどころで切れていたのだ。上映が中断されると同時にガシャガシャという音が聞こえてきた。2〜3回の中断はいつものことであった。

映画館から出てくると外はまだ明るい。そのまぶしさに耐えかねて私はしばらくじっと眼を閉じてうずくまった。そのとき、いつも私は車酔いのような吐き気と頭痛を覚えた。動く画面を長時間観ていたために起きた動揺病であったのだろうと思う。

チケットをくれた実家の隣のおじさんにはとても感謝した。次はいつまたチケットをくれるだろうかと私はいつも心待ちにしていた。しかしその一方で、映画館とは不潔で空気の汚い場所であるという先入観が私のなかにできていった。映画館を出た後の気分の悪さも手伝って、私は映画館という場所に対する親しみを徐々に失っていった。映画館は当時の我が家の貧しさを私の心の中で引き立たせるひとつの象徴でもあった。

いまの映画館の中がどのようになっているのか私にはわからない。おそらく、とても換気がよく、かつ清潔であろう。しかし、当時の貧しい生活から這い上がってきた今でも映画館に足を運ぼうという気にはならない。映画館の外にでた後の頭痛と吐き気はいまも生々しい記憶である。加えて、今の私はテレビや映画のドラマに全く関心がない。