2020年12月31日木曜日

喪中の葉書 2

きょうは大晦日である。今年は34通の喪中葉書をいただいた。喪中葉書をくださった方の一部にはお悔やみの返書をだした。
 
私の父親が亡くなったのは2014年3月。母親が亡くなったのはその翌歳の8月であった。両親の臨終の日のことは生涯忘れられないであろう。
 
私は、両親の死後、母親のことはなるべく思い出さないように努めている。母親の最晩年はあまりにも寂しいものであった。全ての責任は姉と姉の長女にある。今も私はふたりに対する憎しみを消すことができない。思い出すたびに彼らに対する怒りが煮えたぎる。
 
姉は、母親の生前、姉に対するよりも私に対して多めに遺産を残したいと姉に言ったことが許せなかったらしい。私は父親とも母親とも両親が亡くなった後の遺産相続について両親と話したことは一度もなかった。父親が死ねば母親が2分の1、姉が4分の1、私が4分の1を相続する。漠然とそのように思っていただけであった。両親の遺産など私の関心事ではなかった。祖父の時代、我が家には財産といえるものは何もなかった。父親の遺産は全て父親が一代で築いたものであった。私は、両親が一切遺産を残さず、使いたいようにお金を使って死んでいってもらいたいと望んでいた。
 
ただ、姉は両親の遺産に並々ならぬ執着を持っていた。姉と電話で話せば両親の悪口と遺産の話。私は辟易していた。
 
1993年6月下旬に父親が出血性脳梗塞で緊急した際に私は数日間帰省したが、その際に姉と姉の長女は私に対して母親との絶縁を私に告げた。そのときには理由がわからなかったが、私はいつもの親子喧嘩であろう程度にしか受け取らず、何も返答をしなかった。
 
その一ヶ月あまり後、今度は母親が自宅で転倒。緊急入院した。ご近所の人たちが救急車の後を追いかけて病院まで行ってくれた。その中の一人が母親の入院を姉に電話で告げて病院に来てくれるようにと頼んだ。しかし姉は「國弘家とは縁を切った。家族全員がもう國弘家とは付き合わない。弟ととも縁を切った。だから病院には行かない」と告げたという。結局、姉も姉の子供たちも誰一人としてその後、父親の見舞いにも母親の見舞いにも来なかった。8ヶ月後に亡くなった父親の葬儀にも姿を見せなかった。
 
私は東京と高知とを往復しながら2週間に1度の頻度で高知に帰った。母親の病室を訪れるたびに、母親から出る言葉は「お姉は?」であった。その言葉を聞くたびに、まだ姉は母親を見舞いに来ないのかと怒りが込み上げてきた。私は母親に返す言葉が見つからなかった。
 
母親は入院当初は繰り返し姉に電話していたようであったが、姉は電話に出なかった。数ヶ月して母親は電話を放り投げた。母親の表情がこわばり蝋人形のようになっていったのはその頃からであった。
 
姉と姉の長女が母親の病床を訪れたのは母親の臨終の後であった。母親の遺体にすがって姉は泣きじゃくったとそばにいた親戚から聞かされた。その親戚は泣きじゃくる姉に対してこう言ったという。「ちっくと遅かったねえ。」

2020年12月29日火曜日

喪中の葉書

11月に入ると喪中の連絡葉書が届き始める。今年も30通ほどの喪中葉書をいただいた。多くは天寿を全うしたといえる年齢に達したご親族の訃報である。しかし、「えっ」と驚かされる喪中葉書も混じっていることがある。
 
山梨県に住む30年来の知人が亡くなったことを知ったときには葉書を見つめたまましばらくその場に立ちすくんだ。知人の奥さまからの訃報であった。その葉書には知人の病名については書かれていなかった。手書きで「薬が効かず、亡くなりました」と書かれていた。
 
翌朝、私は奥さまに電話をかけた。電話に出られたときの奥さまの声は元気であった。しかし私からの電話であることを知ると、急に感極まったようであった。そしてご主人の発病から亡くなるまでの経過を涙声で話してくれた。膵臓がんであったという。発病したのは今年8月。それから3か月足らずで亡くなったということであった。その知人には3人のお子様がいる。そのうちの一人はアメリカで仕事をしていたが、コロナウイルス騒動のためビザが下りず、なかなか帰国できなかった。主治医に英文の手紙を書いてもらい、なんとか帰国ビザを取得できたということであった。主治医から余命4か月と告げられた知人は自暴自棄になり、自宅で荒れたらしい。最期は三人のお子様と奥さまに見守られながら自宅で息を引き取ったという。
 
亡くなった知人は奥さまと二人でペンションを経営していた。フランス料理のシェフでもあった。私はその知人の経営するペンションに2度泊めてもらい自慢のフランス料理を振る舞ってもらった。一度は仕事関連の友人と一緒。もう一度は、私の家族でうかがった。亡くなった父親と母親もいっしょであった。もちろん家内とまだ幼かった息子もいた。家族5人が揃って旅行したのはそれが最後となった。仕事関連の友人とのときは夏であったが、家族とうかがったのは三月。まだ山中湖周辺には雪が残っていた。アルバムを探すと、そのときの写真が出てきた。2004年3月21日の写真であった。あれから17年近く経つ。私の両親も既に亡くなった。
 

2020年12月25日金曜日

恩師 2

やんしゅう先生には随分と可愛がってもらった。そのやんしゅう先生が脳梗塞で倒れたのは1993年。私が留学する直前であった。私がやんしゅう先生を見舞ったとき、奥様がベッドサイドにいらっしゃった。やんしゅう先生は私の顔がわかったらしく、私を見ると興奮して懸命に何か言おうとした。しかし言葉は出てこなかった。やんしゅう先生の変わりように私は大きなショックを受けた。もう社会復帰は無理だろうと思った。
 
私は病室を出ると奥様が私を追いかけてきた。そしてやんしゅう先生が倒れたときの模様を話してくれた。
 
やんしゅう先生はある歯科大学の耳鼻咽喉科教授に赴任することになっていた。その赴任先に私を助教授としてきてもらいたいと倒れる前に奥様に話していたということであった。「國弘は来てくれるかなあ」と奥さまに毎日のように自信なさそうに言いながら、私に電話をする決心がつかずにいたという。「よし、明日の晩、國弘に電話するぞ!」と決心し、奥様にそのことを告げたその晩にやんしゅう先生は倒れたと聞かされた。
 
その話を聞いて、私はどっと涙が出てきた。奥さまも泣いた。何分ほど泣いたであろうか。
 
やんしゅう先生が亡くなったのはそれから1年あまり後。私が留学中のことであった。奥様に再度お会いしたのはやんしゅう先生の三回忌の時であった。三回忌は群馬県太田市の奥様の実家で執り行われた。

2020年12月4日金曜日

恩師

 
 
先日、亡き恩師の奥様から菓子折りが届いた。帝国ホテルの菓子折りであった。なぜその菓子折りが送られてきたのか合点がいかなかった。一昨日、その菓子折りに挟まれている封筒に家内が気づいた。その中には、上の手紙が入っていた。
 
恩師の名前は齊藤誠次。しかし本名で呼ばれることはほとんどなく、医局員も病院の職員もほぼ全員が「やんしゅう先生」と呼んでいた。本人も自分の名を尋ねられると「やんしゅうだよ」と答えていた。「やんしゅう」という名は「やんしゅうかもめ」から取られたのだと聞いた。若い頃、あちこちの病院を転々としていたことからそう呼ばれるようになったらしい。
 
この恩師にはずいぶんかわいがってもらった。夕方になると毎日のように職場の私の部屋に入ってきては飲みに行こうと私を誘った。恩師の行きつけの店は、当時、病院のそばにあった「キャンドルライト」というラウンジであった。そこは当時50歳前後と思われた上品な女性が経営していた。松村という女性であった。フルネームは知らない。彼女には当時、東京工業大学に通っていた一人の息子がいた。夫はいないようであった。離婚したのか死別したのかについては聞かなかった。
 
原宿にある「ウィークポイント」というラウンジにもよく連れていってもらった。そこには仕事を終えた「宝塚ジェンヌ」が毎回、夜遅く入ってきた。ただ、店内での彼女たちの立居振る舞いは決して上品ではなかった。私が今でも宝塚が嫌いなのは、この店のなかでの彼女たちの振る舞いに幻滅したためであろうと思う。
 
帝国ホテルもやんしゅう先生は大好きであった。当時、ホテルの中にあった「フォンテンブロー」というフレンチレストランに何度も連れていってもらった。このレストランでは、著名人の姿を何度か見かけた。私の記憶違いでなければ、当時、やんしゅう先生の奥様も帝国ホテル内で書道教室を開いていた。
 
「フォンテンブロー」は今はない。
 
やんしゅう先生の奥様が今回お送りくださった菓子折りが帝国ホテル内のお店のものだったのは、奥様にとっても私にとっても帝国ホテルが共通の思い出の場所であるからであるということを手紙の文面から知った。恩師が亡くなってから27年。恩師が亡くなったのは私がドイツに留学中のことであった。したがって恩師の葬儀には参列できなかった。しかし帰国後、奥様の実家のある群馬県太田市で執り行われた恩師の三回忌には参列した。恩師の遺骨は奥様と実家とで分骨したと聞かされた。
 
恩師が亡くなって30年近く経過した今も、恩師の奥様が私を記憶に留めてくれていることに感謝せざるをえない。しかも「強く、彩かな思い出とともに」。

2020年8月21日金曜日

御巣鷹山

今年も御巣鷹山に慰霊登山した。8月16日であった。

日航機の墜落事故から35年。遺族は高齢になり、加えて今年はコロナウイルス騒ぎ。事故が起きた8月12日の登山者の数は例年の半数ほどであったと山守の黒澤官一氏から聞かされた。

登山口にある駐車場は昨年10月の台風による崖崩れのため一部が閉鎖されていた。軽井沢から下仁田を通り上野村に来る途中でも何ヶ所か片側通行になっていた。駐車場から事故現場への登山路にも至る所に仮設の階段が設けられていた。また事故現場の端にあるすげの沢地区の慰霊塔は土砂によってほとんど流されてしまっていた。

駐車場から事故現場までは800メートル。昨年は急な坂を登るのが辛かった。今年はもう登る体力はないのではないかと思っていた。ところが、今年はなぜか脚が軽かった。一緒に登った家内も今年は楽だと言った。

毎回、私たちは事故現場をくまなく回る。しかしじっと立ち止まる場所はいつも同じである。

この事故では520名もの人が亡くなった。しかしこの事故現場に立つと、犠牲者の霊は清められているように感じる。遺族や関係者の祈りの賜物であろう。何年か前に浅間山荘事件の現場を訪れた際には、車から出て浅間山荘の前に立った瞬間にめまいと吐き気に襲われた。

50回忌を迎えるまで慰霊登山を続けたいと家内は言う。しかしそれまで私たちは生きていないだろうと思う。たとえ生きていたとしても、この急な坂を登る体力は到底ないであろう。


2020年8月7日金曜日

母親の命日

きょう(8月7日)は母親の命日である。母親は2015年に亡くなった。金曜日の夕方であった。母親が危篤状態に陥ったことを知ったのはその日の昼前に受け取った主治医からのメールによってであった。そのメールには、まだ1週間程度は大丈夫と思われると書かれていた。しかし母親の容体が刻一刻と悪化。私がその日の午後の手術を終えて携帯電話を見ると、従兄の叫び声に近いメッセージが分刻みで送られてきていた。母親は亡くなっていた。父親が亡くなったのも同じく金曜日の夕方であった。私は父親の臨終の場にも母親の臨終の場にも立ちあえなかった。あと1日長く生きていてくれたら土曜日なので帰れたのにと思うと、今も悔やまれて仕方がない。

2020年6月7日日曜日

最強の手相"M"

さきほどYouTubeを観ていて「最強の手相”M”の真実」という投稿を見つけた。私の手のひらを見ると、なんと両手にしっかりとした”M”があるではないか。
 
 
 
 

2020年5月24日日曜日

薬師丸ひろ子さん

最近、YouTubeをよく観る。音楽を聴くことも多い。YouTubeでは懐かしい懐メロがたくさん聴ける。私が若い頃の歌手の歌唱力に驚かされる。クラシック音楽の名演奏にも感動する。
 
私は歌謡曲を聴いてもほとんど歌詞には注意を払わなかった。メロディーにしか興味がなかった。しかし今注意しながら歌詞を追っていくと味わい深いものが少なくない。
 
どの歌手が特に好きということはない。ただ高音が伸びる歌手の歌声は素敵である。数年前に亡くなった尾崎紀世彦さんの歌唱力にも感動した。
 
ここでは薬師丸ひろ子さんの歌を紹介する。私は彼女が出演した映画もドラマも一切観たことがないが、彼女の澄んだ歌声は素晴らしい。多くのコメントにも書かれているが、彼女からは気品が伝わってくる。
 
 
 

西川史子さん

西川史子さんは医師・兼・毒舌タレントとして有名である。しかし、テレビで毒舌を吐いているときの高慢ちきな彼女の顔が私はとても嫌いであった。なぜあのような発言がマスコミでもてはやされるのか、私には理解できなかった。

私は数年前からテレビをほとんど観なくなった。だから、彼女のここ数年間の発言を聞いたことがなかった。彼女の高慢な毒舌がマスコミを騒がせること自体がなかったのかもしれない。

コロナ騒動以来、自宅で過ごすことが多くなった私はYouTubeを観ることが多くなった。昨晩、布団のなかで、偶然、最近の彼女のスピーチ動画をYouTubeで見つけた。以前ならスルーしていたであろう。しかしカバー画像の彼女の表情が以前と全く違っているのに驚き、その動画を観てみた。確かに彼女の表情は以前と全く異なっていた。口調も穏やかであった。スピーチの内容も素晴らしかった。結局、布団のなかでそのスピーチを3回聴いた。

何一つ不自由のない環境の中で育てられた西川史子さんの半生は、貧しい家庭に生まれ育った私とは対照的である。しかしたどり着いた心境はよく似ている。

「背伸びして生きるのは止めよう。」「シンプルに生きよう。」「会いたくない人と会うのはやめよう。」

身体と心が求めている生き方をしてこなかった自分に彼女は自分自身の病気を通じて気がついたのだ。

もう十数年前の話になるが、私の友人が「これからはやりたいことだけをやって生きる。やりたくないことはやらない」と言った。彼の母親の突然の交通事故死の直後に彼が言った言葉であった。彼のこの言葉はその後の私の人生を大きく変えた。

YouTube 動画
「キャラに食い殺された私」

2020年5月10日日曜日

コロナウイルス騒動

コロナウイルス騒動も少し落ち着いてきたか。それにしてもPCR検査を国民に幅広く受けさせるべきだというマスコミの論調にはうんざりさせられた。純粋に医学的に考えれば、国民全員がPCR検査を受けることにはメリットよりもはるかにデメリットが大きい。なぜこれほどまでにマスコミは誤った意見を主張し政府を批判し続けるのであろうか。まるでマスコミは正義であり政府は悪魔であるかのごとき勢いである。私はめったにテレビを観ないが、今後はますますテレビから遠ざかるであろう。
 
臨床の場で行なわれる検査では、常に感受性と特異性が問題となる。PCR検査の感受性は高く見積もってもせいぜい70%だという。ということは、10000人の患者にPCR検査を行なえば、3000人が陰性と判定されることになる。特異性がどれほど高いといっても100%ではない。99%だと仮定しても、健常な日本人10000人が検査を受ければ100人が誤って陽性と判定される。1億人が検査を受けた場合には、なんと100万人が誤ってPCR検査陽性と判定され、隔離されることになる。
 
こんなことが許されようか。もう一度、計算してみる。
 
日本では1000人に1人が感染していると仮定すると、日本の人口が1億人として、感染者数は10万人、非感染者数は9990万人ということになる。そして感染者10万人のなかで3万人は感染なしと判断され、逆に非感染者9990万人のうちの99万9千人が誤って感染者として判定される。つまり7万人の感染者を見つけるために、健常な日本人の100万人近くが隔離されることになる。しかも3万人の感染者が見落とされる。
 
医学は万能ではない。いかなる検査にも限界がある。政府が設けたPCR検査を行なう基準はあながち的外れではない。マスコミの論調には辟易させられる。

2020年5月2日土曜日

文旦

私は毎年春、高知に住む知人に頼んで、お世話になっている方々に文旦を送る。今年も20数箱送った。この方々からはお礼のメールをもらうことが多いが、中には手書きで丁寧な文面の礼状を送ってくれる家族もある。私は、こうしてわざわざ礼状を送ってくれるご夫妻を尊敬している。生き方に気品があると思う。これらの礼状のなかに思わず吹き出してしまう面白い葉書が毎年1通混じっている。今年もそうであった。文旦を送って1ヶ月以上経過していたので、帰宅してその葉書を見た瞬間には何なのかがわからなかった。よく見ると私が3月上旬に送った文旦に対する礼状であった。礼状の表面(おもてめん)には、奥様手書きの丁寧なお礼の文面もしたためられていた。この家族は一家で生きることを心から楽しんでいるのだろうと感じ、毎回、礼状をもらうたびに心が和む。「品格」とはこのような生き方を指すのであろう。
 
 
 

母親

私はこのブログの中で母親の最晩年のことをほとんど書いてこなかった。理由は、書きたくないからである。母親が自宅で転倒して脊椎を骨折して入院し、そして亡くなるまでの2年間をつぶさに見た私は、母親の最晩年を思い出すたびに胸が苦しくなる。
 
私は、生涯、姉(池友子)と姉の長女を許さないであろう。

人の死

今週、ふたりの同窓会員が亡くなった。ひとりは私よりも2歳ほど若い。早すぎる死であった。
 
人の生は小さな石ころのようなものである。そして死も小石が水面にポトンと落ちるような小さな出来事である。最近そう思うようになった。彼らの親しかった友人や知人、そして深い悲しみに包まれた家族もいつかは死ぬ。これらの人たちの死とともに、ふたりの同窓会員の記憶もこの世から消し去られていく。

2020年4月26日日曜日

岡江久美子さんの死

岡江久美子さんが亡くなった。
 
私にとって岡江久美子さんといえばNHKの「連想ゲーム」。テレビをほとんど観ない私にはこの番組のことしか頭に浮かばない。彼女が17年間司会役を務めた「はなまるマーケット」という番組もあったようであるが、私はその番組を一度も観たことがない。彼女の死もYouTubeで知った。
 
彼女の死は多くの国民に悲しみを齎した。
 
しかし私は、彼女の死そのものよりも彼女の遺骨を受け取るために自宅の正門まで出てきた夫の大和田獏さんのやつれた顔に悲しみを覚えた。私の父と母が亡くなったときの私の悲しみが大和田獏さんの悲しみと重なったのだ。大和田獏さんは報道陣に対して「残念で悲しくて悔しい」と話した。簡単なコメントを残した後、報道陣に一礼し、静かに家の中に消えた。
 
高知の病院に入院していた両親の見舞と介護のために東京と高知とを往復した2年半の記憶が次々と頭に浮かんでくる。父が倒れたのは2013年6月末。8ヶ月後の翌年の3月に亡くなった。母は父親を追うように2013年8月に入院し、2015年8月に亡くなった。父親の臨終にも母親の臨終にも立ち会えなかった。両親の死を知らせる親戚からの電話をもらったときの衝撃は今も忘れない。本人にとって本当に辛かったことや嬉しかったことの記憶は時間を超越していつまでも頭の中に残るのであろう。
 
 

2020年4月18日土曜日

帽子

「わが家は貧しい」ということを私は幼児期に父親から繰り返し聞かされていた。事実、貧しかった。実家の家は強い台風が来ればすぐにでも倒壊しそうな古いわらぶき屋根であった。台風が高知県に上陸すると、家はゆっさゆっさと揺れた。そのとき祖母は「ほう、ほう」と大きな声をあげた。実家の柱には虫に食われて無数の穴が空いていた。どれひとつとして四角い柱はなかった。どれも角が丸くなっていた。隙間だらけの家には蛇が入ってきた。ムカデに噛まれたこともあった
 
しかし、まだ幼かった私は、そんな家に住むことを苦痛には感じていなかった。どんなにあばら屋であっても、それは私が生まれて育った家であった。
 
私は「わが家は貧しい」と大学を卒業するまで思い込んでいた。「貧乏人の息子」であるという思いに私の行動は長年にわたって縛られていた。
 
私の幼児期、夏になると毎年、野球帽を買いに自宅近くの雑貨屋に母親とでかけた。その時期には頭部も大きくなっていくため、前の年の帽子はかぶれなかった。店で帽子を選んでいるとき、私は母親に向って「うちは貧乏だから、安い帽子でいい」と言ったという。数十年後に母親からこのことを聞かされた。当然、私には記憶がなかった。私にこの話をしたとき母親はじっと私の顔を見ながら微笑んでいた。この頃には、既にわが家は貧乏のどん底から抜け出していたのかもしれない。母親が私に見せた笑みは生活の余裕に裏付けされたものだったのであろう。まだ幼い私が我が家が貧しいことを自覚していることを母親は不憫に思い、忘れられない記憶として残っていたのにちがいない。

卓球台

私が小学校の頃、実家の隣の家の庭に卓球台が置かれていた。その家の幼友達の父親が自作した卓球台であった。ラケットも自作。私はその幼友達とその卓球台で時々卓球を遊んだ。
 
しかし私たちが卓球をしているときに彼の父親が帰宅することがあると、毎回、彼の父親から私はラケットを取り上げられた。そして彼の父親は息子である私の幼友達と卓球を始めた。私は傍に立ったまま親子が卓球を楽しんでいるのを眺めた。しかし、幼友達親子の卓球はなかなか終わらなかった。いつも30分以上続いた。親子の卓球を存分に楽しむと、彼の父親はラケットを卓球台に置き、私には何も言わずに立ち去っていった。こんなことが何度もあった。
 
私には、この幼友達の父親に関して何ひとついい思い出がない。子供の頃、何かにつけて陰湿な嫌がらせをさせられた記憶しかない。
 
私の父親なら、子供同士が楽しく遊んでいるところに割り込むことは決してしなかったであろうと思う。私の父親は仕事にしか関心がなかった。幼い私が父親に遊んでもらった記憶は全くない。しかし私の父親には、このような卑しいところはなかった。

2020年4月12日日曜日

ヒデ坊ちゃん

私が幼い頃、同じ村に私より数歳年上の少年が住んでいた。私は彼を「ヒデ坊ちゃん」と呼んでいた。村民は「ヒデ坊」と呼んでいたように記憶している。彼には姉が2人いた。つまり彼は末っ子の長男であった。年齢が少し離れていたこともあり、私は彼と遊んだことがほとんどなかった。台風来襲の日に彼の家の納屋の屋根裏部屋に登り、紙鉄砲で遊んだことが唯一の記憶である。
 
彼は大人しかった。
 
彼は中学校を卒業すると働きに出た。何の仕事についたのか私は知らなかったが、毎朝、自宅から歩いて働きに出る彼の姿をよく見かけた。
 
彼が就職してどれほど経った頃だったであろうか。1年後であったか2年後であったか。ある日、同じ村に住むひとりの老人が血相を変えて私の家に駆け込んできた。そして顔を硬らせながら側にいた私の父親に向かって大声で次のように喚いた。「ヒデ坊が首を吊って死んだ!」私の父親は大慌てでその老人と一緒に彼の家に向かった。
 
数日後、彼の遺体は彼の自宅の裏山に埋葬された。彼の自殺の原因を詮索する村民はいなかった。彼のことは一日ごとに村民の記憶から消え去っていくように思われた。
 
しかし残された彼の家族の悲しみはさぞかし深かったに違いない。特に彼の両親にとっては生涯消えない深い心の傷として残ったであろう。彼の死後、彼の母親の頭髪はあっと言う間に真っ白くなった。
 
彼の家は彼の2番目の姉が家を継いだ。
 
彼の自殺の原因は今もわからない。若さがあればどんな苦難であっても乗り越えられるはずである。還暦を過ぎ残りの人生が短くなった私は強くそう思う。
 
あれから50数年が経った。
 

2020年4月11日土曜日

少年忍者 風のフジ丸

私が幼い時期、我が家は貧しかった。私は高知県内の寒村で育ったが、父親の言葉を借りれば「村で一番貧しかった」そうである。なぜそれほどまでに我が家が貧しかったのか、正確な理由は知らない。私が生まれたのは1956年(昭和31年)。まだ終戦から10年余りしか経過していなかった。どの家庭も生活が苦しい時期であったと思う。

Wikipedia によると、日本でテレビ放送が始まったのは1953年2月1日。私が生まれる3年あまり前のことであった。保育園児だったころ、私は祖母に連れられて、毎週火曜日の夜、3軒隣りにテレビを観せてもらいに行った。「事件記者」という番組が午後8時から1時間放映されていた。記憶に誤りがなければ火曜日であったと思う。その一家からはいつも歓待してもらった。雑談しながら番組を楽しんだ。当時まだ街灯はなく、月の出ていない夜の帰り道は真っ暗であった。姉が一緒だった記憶はない。姉はいつも母親と一緒であったような印象が残っている。対照的に私はいつも祖父母の側にいた。夜も、祖父母の布団の中に入り祖父母に挟まれて寝た。時折、おねしょをしたが、叱られたことはなかった。

話が逸れた。

我が家にテレビが入ったのはいつであったろうか。私が小学生の頃であったことは確かであるが、正確な時期が思い出せない。ただ、「少年忍者 風のフジ丸」というテレビアニメが放映されていた時期には、我が家にはまだテレビがなかった。Wikipedia には、この番組が放映されたのは1964年6月7日から1965年8月1日までであったと記載されている。この番組を自宅で観た記憶はない。したがって、我が家にテレビが入ったのは、早くとも1965年だったということになる。

「少年忍者 風のフジ丸」のことを今も鮮明に覚えているのは、この番組と生涯忘れることのできない嫌な記憶とが結びついているからである。私はこの番組を隣りの家で観せてもらった。日曜日の夕方に1歳歳下の幼友達と一緒にこの番組を観ることが楽しみであった。ところがテレビが置かれていた彼の家の茶の間に彼の父親が入ってくることがあると、番組の途中であってもいつもテレビを消された。彼の父親は息子の傍らに私がいるのを見るとヘラヘラと笑い、少し間を置いて私の方を見ながらテレビの電源を切った。そしてニタニタ笑いながら何も言わずに茶の間から出ていった。一回や二回ではなかった。

大の大人が、まだ小学生であった私に対してこのような嫌がらせをしたのである。

私の父親も何かにつけて彼の父親から嫌がらせをされたらしい。村の会合から帰るたびに父親は悔しさを母親にぶちまけていた。今も私が鮮明に記憶しているのは、村の農道の改修工事の打ち合わせを村民の間で繰り返し行なっている時期の出来事である。その打ち合わせの場で、彼の父親が、我が家の前の部分だけは改修する必要がないと主張しているという。会合から帰ってくる度にこのことを私の母親にす父親の唇は怒りで震えていた。

隣りの家から受けた数々の嫌がらせについて、後年、父親は、母親と私が傍らにいるときに次のように言った。「貧乏のどん底から這い上がってきている「うち」(つまり私の家)に対するしょのみがあったんだろう」と。「しょのみ」とは土佐弁で、「嫉妬」を意味する。

小遣い

私が幼い頃、姉と私の小遣いは一日五円であった。隣りの家に住んでいた姉弟の小遣いは一日十円。倍であった。このことに私の姉は愚痴をこぼしていた。母親に対して、小遣いを増やしてくれるよう、しょっちゅう要求した。時期は定かではないが、それから何年かして姉と私の小遣いは一日十円に増えた。しかしその時には既に隣家の姉弟の小遣いは一日二十円になっていた。

私は、小遣いが隣家の姉弟よりも少ないことで愚痴をこぼしたことはなかった。私がよく一緒に遊んだその姉弟の弟の方は、私よりも小遣いが多いことをほとんど自慢しなかったからかもしれない。姉が一緒によく遊んでいたその姉弟の姉の方は、弟とは対照的に、自分の小遣いが多いことを姉に自慢したらしい。少なくとも私の姉はそう言った。

私と私の姉の大きな違いは、私は自分の置かれた境遇と他人の境遇とをほとんど比較しようと思わないのに対して姉は何事につけても他人と自分とを比較することであろう。子供の頃から、姉の口から出るのは、愚痴と他人の悪口ばかりであった。この姉の性癖は生涯変わらないだろうと思う。私の目には、姉はこれまで平均以上に幸せな人生を送ってきた。何年か前に夫は亡くなり寡婦となったが4人の子供は皆立派に育ち、既に多くの孫もいる。誰の目にも、少なくとも姉の晩年は恵まれた人生に見えているはずである。

のりたま

最近、自宅の食卓には、常にふりかけの「のりたま」が置かれている。この「のりたま」の袋を見るたびに子供の頃の思い出が蘇ってくる。
 
実家の隣りには1歳年下の幼友達が住んでいた。私はその幼友達と毎日のように遊んだ。当然、彼の家も度々訪れた。私の目を引いたのは彼の家の食卓に置かれていた丸美屋の「のりたま」であった。現在と同じ袋に入っていた。中身は当時も少なかった。高価なふりかけであった。私は大人になるまで一度も「のりたま」を口にしたことがなかった。
 
我が家でも当然ふりかけを食べた。しかし我が家で食べるふりかけは非常に大きな袋に入っており、しかも袋が破けそうになるほどぎっしりと詰められていた。鰹節をすり潰したようなふりかけであった。少し生臭かった。中身がスカスカで薄っぺらい「のりたま」の袋とは対照的であった。それでも「のりたま」よりはるかに安価であり、数十円で買えた。そのふりかけの名前は覚えていない。当時、名前を確認したことすらなかった。「ノーブランド」のふりかけであった。
 
私にとって、ふりかけの違いはその幼友達の家と我が家の財力の差の象徴であった。「我が家は貧しい」ということを何かにつけて感じさせられる幼児期を私は送った。我が家が貧しいことを幼かった私も自覚しており、常に引け目を感じていた。貧困生活から抜け出すために無我夢中で働いていた当時の私の両親の思いを理解できたのは、数十年後であった。

2020年4月5日日曜日

墓参り

昨日の昼、急に思い立って家族で墓参りに行った。自宅から墓地までは車で約20分。

父親の命日は3月7日であったが、コロナウイルス騒ぎのために墓参りが遅くなった。昨日は快晴であった。墓掃除を済ませたあと、家族で墓前に手を合わせて帰ってきた。帰り際に「私たちが死んだら年に1回は墓参りに来てよ」と笑いながら家内が息子に告げた。息子はボソッと小声で「うん」と答えた。

父親の生前、私が実家に帰省すると、父親と私は実家の裏山にある先祖の墓を一緒に訪れた。先祖代々の墓は全て土葬であり、29柱もの墓石が建っていた。しかし私が生前の姿を知っているのは祖父母だけであった。墓石に刻まれている俗名をほとんど知らなかった。知っていたのは、父親の姉である米尾と兄の才京だけであった。祖父母の墓石は墓地の最後列に並んで建っていた。祖父母の墓石の前に立つと、父親は「幸伸が帰ってきたぜよ」と祖父母に語りかけるように話しながら墓石に水をかけた。そして墓参りが終わり山を下ってくる途中で「私が元気なうちは私が墓守をするが、私が死んだら墓守を頼むぜよ」と私に言った。

父親の入院中に私は先祖の墓を全て東京に移した。改葬には多大な労力と時間、そして資金を要した。しかし改装しなければ父親を埋葬するスペースがなかった。父親の病状は帰省するたびに悪化しており、時間との競争であった。東京の墓が完成したのは父親の死後になった。納骨の日の数日前であった。先祖の遺骨と父親の遺骨を同じ日に、完成したばかりの墓に納めた。納骨式に立ち会ったのは、私と私の家内と息子の3人だけであった。それでも父親はきっと喜んでいてくれるだろうと私は固く信じ、墓前に手を合わせた。