2018年4月29日日曜日

軽井沢 佐久市 蓼科

きょうは格好のドライブ日和であった。












軽井沢 雲場池

昨夜、軽井沢に出かけてきた。今月、4回目である。きょうは清々しい天気である。改修作業が終わり、つい先日、一般に再開放された雲場池を訪れた。





2018年4月26日木曜日

高知市 もみのき病院

2013年6月下旬に2度目の出血性脳梗塞で倒れた父親は、高知市内のもみのき病院に入院した。急性期の治療を終えたあとは、「すこやかな森」というリハビリテーション施設に転院することになっていた。

もみのき病院に入院して2ヶ月ほど経過した2013年8月下旬に、父親が入院している病棟の看護師から電話がかかってきた。その週の金曜日に父親がすこやかな森に転院するという知らせであった。転院にあたっては病棟の看護師が私の父親に付き添うが、家族も来院してもらいたいと依頼された。しかし毎週金曜日は私の外来診療日。しかもその日の午後には手術も予定されていた。そのため、父親の転院を1日遅らせて土曜日にしてくれないかと私は頼んだ。しかし、どうしても金曜日にもみの木病院を退院してすこやかな森に転院してもらいたいと、その看護師は言い、私の願いは聞き入れられなかった。しかも、すこやかな森に転院しても、最長3ヶ月しかその施設にはいられないとのことであった。

東京と高知とは遠い。大学病院に勤務する医師である私が、東京と高知とを往復しながら父親と母親二人の介護をすることは容易ではなった。私は長期にわたって父親を受け入れてくれる施設を探した。知人が長く勤めていた土佐市内の「白菊園」という施設に電話をかけ、直接院長に入院を依頼した。院長は穏やかな口調で快く父親の長期入院を認めてくれた。ただし、白菊園では、一旦、父親がすこやかな森に入院したならば、永久的に父親を引き取れないと言われた。

当時、母親も別の病院に入院していた。3ヶ月後に父親の転院先を再度探すのは無理であった。白菊園に父親を入院させる以外の選択肢は、当時の私にはなかった。

私はもみの木病院に電話し、父親はすこやかな森ではなく白菊園に転院させたい旨を伝えた。すると、電話に出た看護師は、「すこやかな森に転院しないのであれば、お父さんにうちの病院の看護師は付き添わず、一人でタクシーに乗せ白菊園に一人で行ってもらいますよ」と言った。

その頃、父親はほとんど意識がなくなっていた。左半身も完全麻痺の状態であった。こんな父親が一人でタクシーに乗って転院などできるはずがないではないか。

白菊園では院長を交えていろいろと討議してくれたようだ。白菊園の病棟の看護師長がもみのき病院まで足を運んでくれ、父親の病状を観察してくれた。到底、一人では転院できないと判断した白菊園側が、その週の金曜日に父親をもみの木病院まで迎えに行ってくれることになった。

ありがたかった。

ただ、高知県内には「系列」という患者には見えないバリアがあることを、父親の転院騒ぎを通じて知った。患者にはうかがい知ることのできないこのバリアにその後も何度か翻弄されることになるとは、このとき、私はまだ気づいていなかった。

80歳まで、あれほどまで懸命に働き続けた父親が受けたぞんざいな扱いに、私は一人泣いた。

2018年4月24日火曜日

母の思い出 2

国立高知病院に緊急入院した母親を数日後に見舞ったとき、母親はナースステーションの隣の部屋に寝かされていた。ナースステーションと母親のベッドとの間には扉がなく、母親の状態はナースステーションから常に観察できるようになっていた。

母親はまだ激しい痛みを訴えていた。鎮痛剤を頻回投与しても痛みが取れないようであった。苦しそうであった。母親は激しい痛みに苦しみながら、私にあることで強い怒りをぶつけた。

母親が緊急入院した当初、母親はたびたびナースコールボタンを押したらしい。度重なるナースコールに耐えかねたのが原因だったのかもしれないが、母親は何日間か、真っ暗でナースコールボタンもない部屋にひとり閉じ込められていたというのだ。母親は病院に対して激しく怒っていた。いずれ、このことを病院に訴え出ると言った。

私は、機会があれば、このことについて国立高知病院の管理者に事情を訪ねようと思っていた。しかし、結局、その機会が訪れることはなかった。

母の思い出 1

忘れぬうちに書き綴っておこうと思う。

2013年6月下旬に父親が二度目の出血性脳梗塞で倒れ、緊急入院した。そして身体が不自由な母親は実家で一人暮らしをすることになった。母親は50歳代から慢性関節リウマチに侵され、歩くことすらままならなかった。手は大きく変形し、箸を持つこともできなかった。

こんな母親が一人暮らしすることになったことを見かねたご近所の方が、私の実家で私の母親と一緒に暮らし母親の介護をしてあげようかと申し出てくれた。私にとっては嬉しい申し出であったので、このことを母親に告げた。母親はきっと喜んでくれるだろうと思った。

ところが私の予想に反して、母は強くその申し出を拒んだ。拒む理由も私に告げた。私は何度か、その申し出を受けてはどうかと母親に話した。しかし母親が頭を縦にふることはなかった。そしてこんなことを言った。「幸伸、私は寂しくないで。これまでずっと、お父さんに圧迫され続けてきた。我慢の連続だった。やっと、人生で初めて自由が得られた。」

このことを母親から聞かされても、私は母親が心配でならなかった。実家から東京に戻っても母親のことが心配で、たびたび電話をかけた。しかし手の不自由な母親が携帯電話を操作することは難しく、母親が電話に出ることは稀であった。

母親が倒れたという連絡を受けたのは、2013年8月中旬であった。その日、高知県では日本での最高気温を記録していた。母親は暑さのために熱中症様の症状が起き、自分で救急車を呼んだ。そして、その救急車が実家に着く前に寝室に置いてあったオマルで用を足そうとして立ち上がった際に転倒し、脊椎の圧迫骨折を起こしたのだ。

ご近所の方たちが駆けつけてきてくれたとき、母親の衣類は尿でびしょびしょになっていたという。駆けつけてくれたご近所の方たちは、その汚れた母親の衣類を脱がし、洗濯してあった衣類を着せてくれた。そして救急車に母親を乗せ、救急車の後を追って病院にまで駆けつけてくれた。なんとありがたいことであろうか。

その日、私は、家族で軽井沢に出かけていた。お盆の帰省ラッシュの時期であり、すぐには高知に帰れそうもなかった。母親の介護をご近所の方たちに頼む以外に選択肢はなかった。母親が入院した病院に行けたのは母親が倒れてから3〜4日後のことであった。

2018年4月7日土曜日

義兄の死

義兄が3月23日に亡くなった。つい数日前に叔母に電話をかけた際に叔母から義兄の死を聞かされた。h叔母も私の姉に電話をかけた際に初めてそのことを姉から知らされたという。おそらく姉は、私の親族のごく一部にしか夫の死を知らせなかったのであろう。ただ、姉夫婦には4人の子と少なくとも4人の孫がいる。家族葬ではあっても決して寂しい葬儀ではなかったであろう。

2013年6月下旬に私の父親が出血性脳梗塞で緊急入院した。そのとき、私は数日間帰省した。姉と姉の長女から國弘家との絶縁を一方的に告げられたのはその時であった。2013年7月1日。この日のことは生涯忘れられない。

その日の夕方、私は姉の家を訪ね、姉が住む集合住宅の敷地内で姉と雑談を交わしていた。私がさあホテルに戻ろうとしたとき、姉と姉の長女がかしこっまって私の前に立ち、「幸伸、話がある」と真剣な表情で話し始めた。「何?」と私が尋ねると、「私たちはお母ちゃんと縁を切るから」と姉は言った。その時、私は、またいつもの親子喧嘩でもしたのか、程度にしか受け取らなかった。しかしその3週間ほどあとに姉は両親宛に絶縁状を送ってきた。その絶縁状の末尾には「さようなら」と書かれていたらしい。「らしい」と表現したのは、私は、その絶縁状を母親の死後まで手に取って読まなかったからである。3回目に私が帰省したとき、母親は姉から送られてきた絶縁状の文面を何度も私に繰り返し話しては悲しんだ。このときの母親の嘆き様を私は生涯忘れないであろう。

姉が両親宛に絶縁状を送りつけてきた直後の2013年8月13日、母親は自宅で転倒し、救急車で国立高知病院に搬送された。救急車が実家に着く前にご近所の人たちが病院に駆けつけてくれ、姉に電話連絡し、母親の搬送先が決まったら病院に来てくれるよう繰り返し頼んだ。しかし姉は、「國弘家とはすで縁を切った。絶縁状も送ったので母親を見舞いにはいかない、葬式にもいかない。これは家族会議で決めた。ご近所の人たちに迷惑をかけるわけにはいかないから、母親はおいたまま帰って」と言ったという。

父親は翌年の2014年3月に亡くなった。姉の言葉どおり、父親が亡くなるまで、姉も姉の子供たちも誰一人として両親の見舞いに来ることはなかった。実家も放りっぱなしであった。父親の葬儀にも、姉も姉の子供たちも誰一人として出席しなかった。病院で一人残された母親を見舞ってくれることもなかった。2015年8月に母親が危篤に陥ったとき、病院に駆けつけてくれていた実家のご近所の方が姉にそのことを電話で伝えてくれた。しかし姉が病院に着いたときには、母親は既に息絶えていた。姉は母親の遺体にしがみついて大泣きに泣いたという。泣きじゃくっている姉に対して、母親の死を看取ってくれたご近所の方の一人は、「友子ちゃん、ちっくと遅かったね」と言ったらしい。

姉が國弘家と縁を切った理由は、両親の看病や介護をしたくないことが理由であった。ただそれだけであった。



残酷な一家である。

父が亡くなってから4年

父親が亡くなってからもうすぐ4年になる。父親は2013年6月下旬に出血性脳梗塞で入院。容体は回復することなく、翌年の3月7日に亡くなった。父親死亡の連絡を従姉から受けたときの衝撃は今も忘れられない。

私が現在住んでいる東京の家の仏壇には父親と母親の遺影を飾っている。その遺影を見るたびに両親への感謝の気持ちが湧いてくる。

先日、中学・高校時代の友人が私の実家の写真を送ってきてくれた。冬なので実家の庭の草は枯れているが、暖かくなるとまた草が鬱蒼と生い茂るに違いない。実家には誰も住んでいない。

その友人は、今、車で四国八十八ケ所巡りをしている最中だという。四国が広いのに驚かされたと彼からのメールには書かれていた。彼の父親が心身深かったので親孝行をしようと思って八十八ケ所巡りをしているとのこと。私には彼の気持ちがよくわかる。ひとつひとつ寺を回りながら、彼は亡くなった自分の父親の生前の姿を思い出しているにちがいない。

私の父親の生前、私と父親とは喧嘩ばかりしていた。加えて、私は高校に入学して間もなく実家を出たこともあり父親とはあまり話す機会がなかった。だから父親の平素の生活ぶりを私はほとんど知らなかった。父親の生活の様子を知ったのは、父親の介護をするためにしばしば帰省するようになってからであった。ご近所の方々が私にいろいろと話してくれた。それらのひとつひとつが私の胸を打った。貴重な思い出となった。

2013年11月に父親を見舞ったとき、もう意識はないものと思っていた父親が、「よう来てくれるね。嬉しい」と突然2回しゃべった。私は驚いた。その翌月、私が家内と息子を連れて父親を見舞った際には、父親は麻痺のない右腕を伸ばして私の手を握った。それにも驚かされた。帰り際、父親は目を閉じたまま「気をつけて帰りなさいよ」と二度と繰り返した。聞こえるか聞こえないかのごく小さな声であった。それが父親の声を聞く最後となった。

父親と母親の介護を東京と高知とを往復しながら行うのは実に大変であった。この期間はほとんど仕事が手につかなかった。夜も寝つけないことが多かった。父親に次いで2015年8月に母親が亡くなくなった。私は心身ともにへとへとに疲れた。しかし悔いはなかった。