2006年12月31日日曜日

2006年最後の日




今日の昼、アップルストア銀座に行った。iPodをコンピュータに接続してもマウントされなくなってしまったからだ。第2世代のiPodであるから重い。しかも液晶は白黒だ。iPhotoのライブラリと同期させたり動画を保存したりといった用途にはもう使えない。修理して外付けのハードディスク代わりに使おうと考えていた。

iPodは故障していなかった。単にバッテリーがなくなっていただけであった。昨日大分充電してもマウントされなかったのに・・・。ちょっと時間を損したような気がした。でも、ついでにiWebの講習会を聴くことができた。

大晦日のきょうは沢山の人出で賑わっていた。天気も良く、すがすがしい1日であった。

来年こそはいい年となりますように。

スキー旅行


きのうの夕方に息子がスキー旅行から帰ってきた。黒姫高原への三泊四日のスキーツアーであった。スキーツアーに参加させるのは今年初めに続いて2度目だ。

振り返ると、私たちは息子が3歳の頃から泊まりがけでいろいろのツアーに参加させていた。見知らぬ人たちと一緒に寝るということは息子にとっては多少のストレスであったかもしれない。最初のころはツアーから帰ると無性に甘えん坊になったような気がする。しかしツアーへの参加をいやがったことはなかった。いつも「また行く」と答えた。

あと5年も経てば、息子は親とではなく友達とあちこちにでかけるようになるだろう。もうそんなに遠い先ではない。それまでの間、1年に何回かは家族3人で一緒に旅行に出かける機会をつくりたいと思っている。

本庄篤子さんのコンサート





今回も本庄篤子さんのコンサートに招待していただいた。本庄さんは私たち夫婦の仲人である。毎年4月と12月のコンサートに招待してくださる。気分転換が下手な私にとってコンサートは貴重だ。心の疲れが癒される。息子も3年前から招待してくださるようになった。3人揃って出かける貴重な時間でもある。

私たちが招待されるコンサートはいつも王子ホールで開かれる。素晴らしい演奏に吸い寄せられていく。聴衆も素晴らしい方ばかりだ。

2006年12月30日土曜日

タケノコ掘り




写真の日付は2004年4月5日となっている。息子が5歳の頃の写真だ。

私たち夫婦は息子に対して生の環境を体験させようと努めてきた。実際の物を見、触る・・・。ヴァーチャルな体験はなるべくさせないよう心がけた。

小学校2年生になった今年、学校のクラスメートたちとグループでディズニーシーとディズニーランドに行かせてあげた。ディズニーシーもディズニーランドも息子にとっては初めてであった。ただしキッザアには3回行かせた。そこには子供の創造性や社会性を育む環境が感じられたからだ。

息子は今流行のテレビゲームも持っていない。テレビも1週間に2時間だけと決めている。息子が観るのは、木曜日の「志村動物園」と日曜日の「動物奇想天外」だけだ。あとは、勉強と水泳、そして体操教室。暇さえあれば、本を読んでいる。いつの間にか高校3年生用の国語の教科書もすらすら読めるようになっている。

折り紙


私には8歳になる一人息子がいるが、この4年間ほどはおもちゃとよべるおもちゃを買ってあげたことはない。

これは息子が作った折り紙だ。1年ほど前に作ったものであるからだいぶ形が崩れてきた。私も子供の頃はずいぶんと折り紙をして遊んだが、このボールの作り方は知らない。息子はどこで覚えたのか。

子供にとっては目に映るもの手に触れるもの全てがおもちゃとなる。子供の強い好奇心をかきたてるもの。それは親が子供に買い与えるおもちゃではないようだ。

幼き頃


私は四国の農村で育った。中学校に入るまでは、学校から帰ると鞄を放り出して近所の子供たちと裏山を駆けずり回った。家の前には畑や田んぼが広がっていた。季節の移り変わりを日々感じながら過ごした少年時代。

今年もあとわずかとなった。毎年、年末年始は両親の住む実家に帰る。生まれ故郷を離れてから30年以上経った。しかし今でも近所の人たちは昔と変わらず私を温かく迎えてくれる。

2006年12月17日日曜日

おもちゃ

私には一人息子がいる。8歳。小学校2年生である。一人っ子であるから大切に育てられ、おもちゃもたくさん買ってもらっているだろうと思っている人もいるかもしらない。確かに大切に育ててはいる。しかしおもちゃといえるようなものはわが家にはほとんどない。

ごく稀ではあるが、近所のRinger Hatに家族で食事にでかけることがある。そこでは子供に小さな景品をくれる。息子はその景品をもらうのが楽しみのようだ。

息子が4歳になるまでは、私たちも世間の親たちと同様に、息子に対していろいろな玩具を買い与えていた。しかし日ごとに増えゆく玩具に囲まれた息子はどんどん落ち着きをなくしていった。食事中も一口食事を口に入れると食卓を離れて玩具で遊ぶようになった。家内がいくら注意しても改まらない。私は雷を落とした。

息子のまえで息子の全てのおもちゃを段ボールに詰めて地下の倉庫に持っていった。息子は泣きながら抵抗した。私は息子に対してタオルを投げつけ、「うるさい」とどなりつけた。息子は一言「わかった」と答えた。そして私のなすがままに任せた。

息子には何のおもちゃもなくなった。私はしばらくしたら倉庫からおもちゃを出してくるつもりでいた。しかし息子は、その後、おもちゃのことは一切口にしなかった。私が自宅にいないときを見計らってこっそり倉庫からおもちゃを持ち出してくることもなかった。それらの玩具はいまも倉庫に積まれたままである。

息子のおもちゃは新聞の折り込み広告と不要になった段ボール箱にかわった。息子は折り込み広告の裏に絵を描いたり、折り込み広告で折り紙をするようになった。また段ボールを切り刻んではセロテープでくっつけていろいろのものを作った。息子は動物をつくるのが得意であった。どれもそれぞれの動物の特徴がよく捉えられていた。一目で何なのかがわかった。私は息子の隠された才能に舌を巻いた。牛乳の紙パックも息子の大切なおもちゃであった。

玩具をとりあげたのはむごい仕打ちであっただろうか。当時は内心いろいろと迷った。しかし結果的にはあれでよかったと思う。子供というのは何でもかんでもおもちゃにする。その旺盛な好奇心には驚嘆させられる。親から与えられた玩具の山のなかではきっと息子の好奇心がかき立てられることはなかったにちがいない。


2006年12月12日火曜日

三輪車

私の家には2台の三輪車があった。1台は家内がバーゲンで買ってきた年代物、もう1台は親戚から貰い受けたものであった。

息子が5歳になったとき私はバーゲンで買った年代物の三輪車をオークションにかけた。息子は成長し、その小さな三輪車には乗れなくなっていた。

高松に住む老婦人が落札してくれた。孫にぜひ譲ってもらいたい。素朴なデザインが気に入っていると言われた。私はただでその自転車を譲ることにした。

2日ほど経って宅配業者が三輪車をとりにきた。そのとき息子が自宅から走り出てきた。そして何ヶ月も乗ることのなかったその三輪車に乗り始めた。自宅前の狭い道路を勢いよく3周4周した。その後、その自転車を私に返し、何も言わないまま家の中に戻った。

私が発送手続きを済ませて自宅の中に入ると、息子はリビングに立ちすくんで一人涙を流していた。私の顔を見、あわてて涙をぬぐった。そのとき、私は、あの古ぼけた三輪車に息子は愛着を持っており手放したくなかったのだということに気づいた。私にとってはガラクタであっても息子にとっては宝物だったのだろう。私は息子に無断で息子の三輪車をオークションにかけたことをすまなく思った。

数日後、落札者である高松の老婦人から小包が届いた。小包の中には感謝状と一緒に手作りのかわいいぬいぐるみが入っていた。

2006年12月10日日曜日

また「お受験」の時期が・・・

小学校の「お受験」の時期も終わりに近づいた。息子の通う小学校の入学試験が東京ではおそらく最後。もうすぐ小学校受験シーズンは終わる。

2年前のちょうど今頃、私たち夫婦は一人息子の進路についてよく語り合った。このように毎晩のように夫婦で真剣に話しあうのは結婚して初めてのことであった。

私は2年前の夏まで、家内が息子を受験させるつもりであることを知らなかった。2年前の夏休みの始めに息子に何かしらの試験を受けさせたことは知っていたが、その詳細については聞かされていなかった。あまりに息子の試験の出来がわるかったことに家内は一人で悩んでいたようだ。後で聞いたところ、27人中23番だったということであった。

どんな試験問題であったのかは今も知らない。しかし私は、そのことを家内から聞かされたとき、息子は大物だと思った。そして自分たちのそれまでの子育ては間違っていなかったと確信した。細かな受験の技術を息子が身につけていないことにほっとした。

私自身は息子に受験させるつもりはしていなかった。しかし家内が受けさせたいのであればそれもいいだろうと考えた。縁がなければ受かりはしないのだ。たとえ受かったとしてもその学校に行くことにはならないだろう。縁があれば多少実力は足りなくても試験には受かるだろう。そのように思った。

息子が3歳になった頃から、家内は週1回、代官山にある塾に息子を通わせていた。そこで何を習っているのかはほとんど聞いたことがなかっった。家内はその当時から息子の小学校受験を考えていたのかもしれない。しかしそのことを口に出すことはなかった。

受験すると決めてからの3か月間、家内は問題集を買ってきては息子に解かせていた。また面談の教室や日本語の教室にも通わせた。あちこちの模擬試験も受けさせに出かけた。

救いだったのは、息子が勉強を楽しんでいたこと、それから息子が勉強している内容が息子の将来にとって決して無駄にはならないだろうと私自身が思えたことだ。どれも息子が生きていく上で将来必要となることばかりであった。私は息子の運動能力を高めるため、夜、自宅近くの公園にときどき遊びにつれていった。息子はこの公園で私と遊んだことを今でも憶えているという。息子にとって父親といっしょに過ごした数少ない思い出になるかもしれない。

息子は運良く第一志望の小学校に入学することができた。今年4月から家内はクラスの役員として走り回っている。

母校

毎年11月に私が卒業した高校の同窓会が東京で開かれる。 この同窓会が始まったのは20年ほど前であった。私の母校の後輩が修学旅行の途中で事故のため多数亡くなった。中国の上海での列車事故であった。この事故をきっかけとして母校支援のため同窓会の関東支部が発足した。

あの事故は当時、マスコミでも大々的に取り上げられた。将来ある20数名の若者たちの命が一瞬のうちに奪われた。

私の友人の坂田は、最近、その事故現場を訪れたという。

彼には3人の子供がいる。その中の一人の娘さんは、中学3年になったとき、突然、名古屋の親元を離れて高知にある坂田の母校を受験すると自分から言い出した。入学試験には無事合格。そして、坂田の実家から3年間私たちが通った高校に通学した。

私の高校時代からのもう一人の友人である徳永。彼はいま岡山に住んでいる。彼にも3人の子供がいるが、その中の1人も私たちの母校に入学したという。

これらは偶然ではないであろう。坂田にとっても徳永にとっても自分が卒業した高校にこの上ない愛着を抱いている。私もそうだ。私たちは最も多感な思春期をこの学校で共に送った。私たちの共通の価値観もこの時期に築かれた。私たちの人間としての基礎を築いてくれた母校に対する熱い思いが彼らの子供たちに伝わらないはずはない。

2006年12月8日金曜日

職場の忘年会


きょうの午後7時から職場の忘年会がある。きょうの会の準備は随分大変だったようだ。幹事の方、ご苦労様。

都営荒川線

私の自宅から歩いて5分ほどのところを都営荒川線が走っている。都営荒川線は都内で唯一の路面電車だ。最寄りの停車場は滝野川一丁目である。私はこの停車場のすぐ線路脇の下宿で1年間の浪人生活を送った。

その下宿には私も加えて6人の学生が住んでいた。全部男子学生であった。うち3人は東京外国語大学の学生、1人は中央大学の夜間学生、そして残りが私ともうひとりの浪人生であった。

全室3畳一間。それに小さな押し入れがひとつだけ付いていた。日当たりも決していいとはいえなかった。家賃は1か月6千円。トイレは共同。風呂もなかった。洗面器とタオルを抱えて近くの銭湯に通った。私はこの下宿からお茶の水にある予備校に毎朝でかけた。

何年間浪人生活を送れば希望の大学に入れるのかわからない。私も他の浪人生と同じ不安感を抱えていた。初めての都会生活。傍に誰も知る人がいない孤独な生活であった。

そんなさびしい生活の中での唯一の慰めは、予備校の先生方の明るさであった。浪人生は誰もが傷ついたプライドに苦しんでいる。先生方はそんな私たちの気持ちをいつも気づかってくれながら授業を進めてくれた。

クラスメートも皆、貧乏暮らしをしていた。昼食はいつも近くにある中央大学か明治大学の学食。そこにクラスメートと一緒に紛れ込んで安い定食を食べた。みそ汁は1杯10円であった。

浪人時代の思い出は尽きない。

あれから30年近く経ってこの思い出の土地に再び住むことになった。今回はおそらく生涯ここに住むことになるだろう。都営荒川線の電車が走る音が聞こえるたびに私の記憶は今でも浪人の頃へと引き戻される。

2006年12月7日木曜日

サーバ管理

私は3台のインターネット・サーバを管理している。1台は私のプライベートなサーバ、もう1台は日本顔面神経研究会のサーバ、そして慶耳会のサーバだ。

このところサーバは安定しておりメインテナンスにはほとんど時間をかける必要がない。しかし絶えず目を光らせている必要がある。ログを見るとすざましいアタックが来ている。よく耐えているものだと感心する。

ウェブサイトの更新もしている。きょうは久しぶりに慶耳会のウェブサイトを更新した。しかし今回は凝るのはやめた。短いアナウンスだけを掲載した。5分ほどで仕上げた。ウェブサイトは同窓会会員に対して情報提供しさえすればいいと割り切ることにした。

坂田広道

坂田は中学時代からの友人だ。彼が東京に単身赴任してきている時期には彼とよく会ったが、彼が名古屋に戻ってからは1年に2〜3回会う程度になった。

きのうの昼、彼から短いメールが届いた。急に東京に出てくることになった。東京で一泊するのでいっしょに食事をしようという内容であった。

仕事が終った後、私は待ち合わせ場所である神田の讃岐うどんの店にでかけた。既に坂田は到着しており、ひとりテーブルに座って酒を飲んでいた。

ふたりの間の話題は、この頃はもっぱら自分たちの親のこと、そして自分たちが歳をとったという話である。偶然であったが、きのうは坂田の誕生日。彼も50歳になった。

彼の母親は一昨年の10月に交通事故で亡くなった。即死であった。悲劇的であったのは、助手席に乗っていた彼の母親の車を運転していたのは、彼の父親であったということだ。彼の父親も大けがを負い大手術を受けた。今も松葉杖の生活である。

事故から2か月近く、彼は仕事を休み、父親の病室で寝泊まりしていた。父親が自殺してしまうのではないかと心配だと彼は言っていた。彼は今も1か月に2度、高知の実家に帰っている。

私たちは人生の3分の2を終えた。残るは3分の1だ。

坂田は残る3分の1の人生を親孝行に費やしたいという。そのために子供たちが全員大学を卒業する再来年の3月に退職し実家に戻ることを真剣に考えているということだ。

私も自分の人生をどう締めくくるのかをそろそろ真剣に考えなければならない。

へんしも

今朝、家内が笑いながら左の記事を私に見せた。(記事をクリックすると拡大表示。)きょうの産経新聞朝刊に載っていた「hensssimo」というロックバンドの記事であった。

「へんしも」というのは土佐弁である。「大急ぎで」という意味であるが、「大急ぎで」よりも更に意味が強い。

生まれ故郷である高知を私が離れてから32年が経った。しかし今でも土佐弁を使わないと自分の意図することを表現できないことがある。そんなときはもどかしくてしかたがない。「へんしも」もそんな言葉のひとつである。

上京して間もない頃、私はもっぱら土佐弁を使っていた。しかし途中でやめた。それは土佐弁が東京では全く通じなかったからだ。関西弁は東京でも通じる。しかし土佐という僻地の方言を理解できる人などいない。

私と家内とが結婚してからも10年ほどは、家内は私の両親の言葉がほとんど理解できなかったそうだ。両親の話す言葉をひとつひとつ吟味してみると確かに土佐独特の単語ばかりが並んでいる。高知で生まれ育った私には東京の言葉も高知の言葉も全く違和感なく伝わってくるが、東京で生まれ育った家内には外国語を聴くように感じられるのであろう。私の息子は私の両親からかかってくる電話をとろうとしない。私の両親が話しかける言葉が理解できないからのようだ。

2006年12月6日水曜日

市川浩司のこと

昨日、市川から下のようなメールをもらった。

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國弘様
予定が決まりましたのでお知らせします。
12月29日羽田発高知行き。1月4日土佐久礼発岡山経由東京着。
両親はなんとか元気です。まだボケてはいません。
12月15、20日以外なら空いております。農水省の地下に安い居酒屋がありますので、よろしければご案内します。
月、水、金なら新橋烏森口に新橋ならではの美人ママのいる居酒屋バーがありますので、よろしければ。
ふるさとの 芋送られて 芋ごはん  それにつけても 金の欲しさよ
 
時期尚早の宗匠・市川より
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市川は、私の高校2年から3年にかけての寮の同僚だ。同僚というよりも同室の後輩といったほうが適当かもしれない。彼は私よりも確か3歳ほど年下だからだ。寮は二人部屋だった。市川と私とは2年間同室だった。

私が大学を卒業し就職してから10年近く市川とは音信不通になっていた。私が留学から今の職場に戻ってきて何年か経った頃、突然彼から手紙をもらった。私の記事がある雑誌に載っているのをみて驚いたという手紙であった。確か「通販生活」であったように思う。

その手紙をもらった直後に渋谷で彼と会った。彼は昔と全く同じであった。私は相変わらず先輩面をして「おい、市川」と彼を呼ぶ。彼は彼で「國弘さんは・・・」ともじもじしながら私に語りかける。番頭と丁稚のような関係だ。こういった関係は終生変わらないもののようだ。

彼と渋谷であったとき、彼はまだ独身であった。彼の私生活の詳細はわからないが、おそらくまだ好きな連歌三昧の生活を送っているのであろう。

彼は独特のユーモアを持っている。近いうちに彼と会って「宗匠」にどれほど近づいたのかを確かめてみなくては。

2006年12月3日日曜日

観劇



一昨日(12月1日)の夜、銀座に芝居を観に行った。「カントカークト」という劇団の第五回公演があった。芝居のタイトルは「人生お笑い劇場」。

開始間際に着いたので慌てた。その建物の前に行ったのに入り口が見つからないのだ。客の出入りもない。その建物の前は閑散としている。しかたなくその建物の地下1階にあるギャラリーの人に場所を尋ねた。入り口はその建物の裏側にあった。

このような劇を観るのは30年ぶりであった。大学時代に知りあい、今もたまに会うことのある女友達(吉川範子)に誘われて「人参(にんじん)」というタイトルの劇を観に行って以来のことである。

今回観た劇は基本的には喜劇であった。しかしペーソスに溢れ、人生の意味や真の生き甲斐を考えさせる感動深いものであった。

お台場





荒木康智先生を増上寺にたずねると眼科の大出尚郎先生も学会に出席していた。3人で記念撮影。そのあとお台場にでかけた。晴れ渡った空。30階の高さから望む東京湾の美しさにしばし心を奪われた。

記念撮影





きのうは午前11時30分に山王病院脳外科の美馬達夫教授を訪問した。美馬先生と私とが診察している何名かの患者に関して意見を交換した。そのあと一旦病院に戻り、増上寺に出向いた。荒木康智といっしょに記念撮影をするためだ。いま芝の増上寺で開かれている国際神経眼科学会で彼がポスター賞を受賞した。

2006年12月2日土曜日

ポスター賞を受賞

昨晩、帰宅と同時に携帯電話が鳴った。うちの研究室の荒木康智からの電話であった。いま東京で開かれている国際神経眼科学会で最優秀ポスター賞をもらったとのこと。すばらしい。

彼と一緒に記念撮影するためにこれから会場である東京芝の増上寺にでかける。