2015年8月24日月曜日

母親の死去 1

8月7日の午後8時8分に母親が亡くなった。80歳であった。

その日の午前中の外来診療を終えて携帯電話を確認すると、母親の入院先の主治医からメールが入っていた。「容態」という見出しのメールであった。そのメールには次のように書かれていた。

「おつかれさまです。
先日来ていただいて以来、IVH栄養を減少させることで肝機能は改善しましたが、そのぶん淡白質が減少し、アルブミンを投与しました。しかし、尿量も減少し、現在利尿剤等でfollowしておりますが、どこまで反応してくれるかが不明です(HANPやサムスカの追加を考えておりますが)。胸水のため呼吸状態は悪く、血圧も安定しません。大きな声を出す元気もなくなっています。
このまま反応しなかった場合には、厳しい状態になることが予想されます。
現在までの経過や、血小板も低い(DICではないと思いますがガベキサートの投与を開始しました)ことなどを考えますと血液透析は厳しいと思います。

よろしくお願いいたします。」

私は直ちに主治医の携帯電話に電話をかけた。主治医からは、病状が思わしくないこと、早ければ3日ほどで、長くとも1週間ほどで母親が死亡する可能性が高いことを知らされた。そして「亡くなる数日前に知らせてもらいたいと言われていたので、ご連絡を差し上げました」と説明を受けた。

そのとき、私はまだ、母親がその日に亡くなるだろうとは思っていなかった。しかし心配であったので、実家の近所の方に母親の病状をみてきてくれないかと依頼した。家内には「母親の病状がかなり悪いようです。万が一のときのために、喪服を準備しておいてくれますか」とだけメッセージを送っておいた。

その日の午後の手術を終えた直後に携帯電話を再度確認すると、上述した実家の近所の方からメッセージが入っていた。母親の病状がかなり悪いと書かれていた。その方は、ご近所や親戚に連絡をしてくれ、皆が母親の病室に集まってくれているという。従兄とも電話で話したが、病状は刻一刻と悪化しているとのことであった。

「もう駄目です」というメッセージが従兄から入ったのは午後7時58分であった。その10分後に、母親の死亡が確認された。

私は自宅に電話をかけ、家内に母親の死亡を伝えた。なんと、家内は、私が昼間送っておいたメッセージを読んでおらず、母親の死に驚いた。私は帰省する飛行機の手配を頼んだ。しかし、翌日(8月8)の午前中の飛行機に空席はなかった。大阪まで新幹線で行って大阪から高知龍馬空港に向かおうとも考えたが、大阪高知便はのチケットは8月8日の分は全て売り切れていた。幸いなことに、午後5時5分羽田発高知龍馬空港行きのJAL便が数席空いていた。

母親の遺体は、その日のうちに親族によって葬儀場に運ばれた。そしてその晩は親族が母親の遺体に付き添ってくれた。

私と家内は翌日(8月8日)、前日の晩に手配した午後5時5分発の飛行機に乗って高知に向かった。息子は塾があるため、1日遅れて高知に来てもらうことにした。予定時刻に私たちは飛行機に搭乗したが、お盆のため空港は混雑しており、離陸が遅れた。前日の晩、ほとんど寝付けなかったため、飛行機に搭乗した後、私は短時間うとうとした。ふっと目を覚ましたときに飛行機のエンジン音が静かだったので、高知龍馬空港に到着したのかと一瞬思いシートベルトをはずそうとした。しかし、飛行機はまだ離陸さえしていなかった。飛行機の高知空港への到着は20分ほど遅れた。

車は、又従妹が既に高知龍馬空港に届けてくれていた。その車を運転して私と家内は土佐市高岡町の葬儀場に向かった。ところが、途中、土佐市宇佐町で花火大会が開かれており、交通渋滞に巻き込まれた。葬儀場に着いたのは午後10時過ぎであった。

葬儀場には、前日、頻繁に母親の病状を伝えてくれた従兄ともう一人の従姉、そしてご近所のご夫婦が私たちの到着を待ってくれていた。驚いたことに、私の姉も葬儀場に来ていた。

私は、広い畳の間に寝かされている母親の遺体をみると同時に急に涙がこぼれてきて、数分間、母親の遺体の側で泣き崩れた、

2015年8月22日土曜日

「悲しみを抱きしめて 御巣鷹・日航機事故の30年」 西村匡史 講談社新書

昨夜、偶然、この本を書店で見つけた。そして、一気に最後まで読み終えた。読み進める途中、何度も涙がこぼれてきた。しかし私の涙は日航機事故で亡くなった犠牲者たちに対するものというより、むしろ残された家族や関係者に対するものであった。

特に、三人のお嬢さんを事故で亡くした田淵夫妻について書かれている第1章と第2章には心を打たれた。事故前には全くアルコールを口にしなかった母親の輝子さんは、事故後25年間、アルコールが手放せなかったという。

この本を書店で見つけた直前の8月15日に、偶然、私たちは田淵夫妻が亡くした三姉妹の墓標にお参りしていた。この本に載せられている3人の写真が墓標に飾られていた。

事故から30年経った今も遺族が苦しみ続けているのはなぜかと私は考えた。若くして命をなくした犠牲者が多かったからなのか。それとも病気ではなく予期せぬ事故で亡くなったからなのか。あるいは、事故は防げたはずだという思いが今も遺族の心に強く残っているからか。遺族にすら今も自分たちを苦しめているものが何であるのかがはっきりとはわからないかもしれない。

ただし、上野村の皆様や、その他、大勢の皆様の励ましが遺族の方々の心の支えになったということは確かだと思う。本書では、遺族の悲しみを綴ったばかりでなく、事故以来ずっと遺族を支え続けてきた上野村の方々や関係者の皆様の心の温かさも生き生きと描かれている。

2015年8月17日月曜日

御巣鷹山

一昨日(2015年8月15日)に家内とふたりで御巣鷹山に登った。昨年に引き続いて二度目の登山となった。

日航機が御巣鷹山に墜落してから30年。事故が起きた当時、家内は日本航空に勤務していた。私たちが結婚したのは事故の3年後であった。結婚と同時に家内は退職した。

ごく最近まで、この事故が夫婦の間で話題にのぼることはほとんどなかった。私も家内も意識してこの話題を避けていたのかもしれない。この事故では、家内の知人も何人か亡くなった。

事故から29年経った昨年の夏、軽井沢に滞在中、初めて御巣鷹山に登ってみようかという話になった。そして車を運転し佐久・十石峠経由で御巣鷹山に向かった。しかし途中、雨のために崖崩れがおきた場所が通行止めになっており、上野村に抜けるのに難渋した。今年は下仁田経由で上野村に向かった。

駐車場はいっぱいであった。私たちは道路脇に車を停めて事故現場に向かった。すれ違う人たちは皆、「こんにちは」と私たちに声をかけた。私たちも挨拶した。この山に登る人たちは犠牲者の肉親や親族ではなくとも、共通の悲しみを抱いている仲間だと感じた。

坂を登りながら、家内は事故で亡くなった同僚の思い出を語った。

ひとりの客室乗務員の同僚は、子どもを産むために国際線から国内線に移った。その直後にこの事故のために亡くなった。別の同僚は、事故当日、出勤するのをいやがっていたという。事故の予感でもあったのであろうか。

30年経っても思い出は風化しない。親でも子でも親族でもない家内の思い出のなかで同僚はまだ生きていた。

この事故は誰の責任でもない。少なくとも私はそう思う。しかし、人が死ねばどれだけ多くの人に悲しみをもたらすのか、そしてそれらの人びとのその後の人生にどれほど大きな影響を与えるのか、これらのことについては息子にも伝えておきたいと思う。

おそらく私たちは来年も御巣鷹山を訪れるであろう。次回は息子も同伴したい。



2015年8月13日木曜日

息子が幼かりし頃 父の日

物置になっていた自宅の一部屋を最近、家内が必死に片付けている。高校2年生になった息子の勉強部屋をつくるためだ。息子はこれまで、リビングに敷いた万年床の上で寝、そして勉強していた。下の写真は、部屋の片付けをしている最中に出てきた。私が父の日を記念して書いた懐かしい記事が残っていた。下の段が、私が書いた文章である。


2015年8月8日土曜日

8月7日

母親(滿子)が亡くなった。

2015年8月6日木曜日

母親から聞いたこと

一昨年の6月に父親が脳梗塞で倒れた。その後、間もなく、8月には母親が脊椎の圧迫骨折で入院した。ごく短かかったが、父親が入院して母親自身も入院するまでの期間、母親は実家で一人暮らしをしていた。

母親とゆっくり話すことができたのは、私の人生のなかでこの時が最初で最後となった。母親が父親と離婚しなかった理由を聞かされたのもこのときであった。「この男に付いていれば金に困らないと思った」というのが母親の答えであった。

父親と母親とは夫婦げんかが絶えなかった。このことがどれほど大きな心の傷を私に残したことか。私には両親が離婚しない理由がどうしても理解できなかった。しかし母親からこの言葉を聞いたとき、私はほっとした。母親が父親と離婚しなかった理由がひとつでもあったことを知って。このことについては既に書いたのでここではこれ以上書かない。

この時期に母親から聞かされたことのなかで、もうひとつ記憶に残っているのは、私の父方の祖母のことである。祖母は感情の起伏が激しい女性であった。喜怒哀楽が激しかった。息子である私の父親とは年中激しいけんかをしていた。けんかになると父親は祖母によく暴力を振るった。祖父母は父親の暴力から逃れるため、当時、我が家で「とりごや(鶏小屋)」と呼んでいた小さな離れでたびたび寝た。その「とりごや」は風が吹き抜ける、畳三畳ほどの小さな小屋であった。私は祖父母と一緒に鶏小屋で寝た。冬はとても寒かった。

私は祖父母に可愛がられて育ったが、祖母に関しては「怖かった」という記憶の方が強い。この激しい感情を持っていた祖母が、私の母親のことを近所に褒めてまわってくれたと母親は私に語った。「うちの嫁は働き者だ」と。このことは母親が父親と離婚しなかったもうひとつの理由となっていたのかもしれない。二人の間には、他の者にはわからない感情の交流があったに違いない。(我が家は、祖父母、両親、そして私と私の姉の6人が同居していた。)

この祖母は、寒い冬の日に近所の農家に手伝いに行った。その農作業中に脳卒中で倒れた。祖母が亡くなるまでの2週間、母親は献身的に祖母の介護をした。祖母は、囲炉裏のある部屋に寝かされていた。当時、私の家はいつ倒壊するともわからない藁葺き屋根のあばら家であった。私はまだ小学校2年生であったが、その献身的な母親の介護ぶりに驚かされた。

若い頃は両親とも実によく働いた。両親がいつ寝ていつ起きているのか、私にはわからなかった。

何年か前から、母は身体を全く動かせない。病院で寝たままである。食事すら自分一人ではできない。単に、病院のベッドで一人横になり、死を待つだけである。

この母親が死ねば、また父親の死と同じように、私の記憶から消えることのない悲しみが新たに加わる。私の悲しみが消えるのは、私が死んだときである。


死について

死について考えることがめっきり増えた。直接のきっかけは私の父親の死であった。私の父親が死んで1年5か月経ったが、まだ悲しみは消えない。和らぐこともない。多分、この悲しみは生涯消えることがないだろうと最近思うようになった。と同時に、父親の死を心から悲しんでくれる人はせいぜい数人しかいないだろうとしか思えないことに人生のはかなさを感じるようにもなった。

私が死んだあともそうであろう。私の死を心から悲しく思ってくれる人は家族を含めても数人しかいないだろう。他の人びとの記憶からは、私が生きていたという記憶すら一日ごとに消え去っていくことであろう。

ただ、私はこのことを寂しいと思っているわけではない。心から私を慕ってくれている人を大切にしなければいけないと強く感じるようになっただけである。

私は今も最低月に1回は帰省する。40年以上故郷を離れていた私を何かにつけて助けてくれる親戚や近隣の人たちもいれば、逆に私の悪口を言ったり罵ったり怒鳴りつけたりと、私の足を引っ張るだけの親戚もいる。この体験は、私に血縁というものを全く信じなくさせた。

父親が倒れて以来、思いもかけなかった人たちが私を助けてくれている。母親が生きている限りこの人たちにはお世話になり続けなくてはならない。今はその人たちの好意に甘える以外にない。しかし、母親が亡くなった暁には、その人たちに対しては心からお礼をしようと思う。逆に、私が困っているときに私の足を引っ張り続けた人たちの顔は、私の記憶の中で、鬼のような顔貌へと変っていくに違いない。

2015年8月5日水曜日

心に残ること

昨年の3月7日に父親が亡くなった。母親は身体が不自由なため葬儀には参列しなかった。幸い、父親は母親と同じ病院に入院していた。だから母親は父親の最期を看取ることができた。

父親の訃報が主治医から届いたのは3月7日の午後5時過ぎであった。そのとき、私はある学校で講義をしていた。電話を切ったとき、私の頭の中は真っ白であった。ある学生が、授業を途中で切り上げて帰宅してはどうかと言ってくれたが、私は終了のベルがなるまで授業を続けた。

その日は帰省しようにも飛行機便がない。私は翌日の始発の飛行機で高知に帰った。高知龍馬空港から病院に駆けつけた。しかしそのとき、既に父親の亡骸は葬儀場に運ばれていた。父親の病室はもぬけの殻になっていた。しかし、まだ部屋の入り口には父親の名前が書かれた名札がかけられていた。

母親の病室を訪ね、母親には葬儀に参列する意志がないことを確認した。母は「お父さん、ここでお別れしょうぜよと最期の挨拶ができたからたから、もうえい」と答えた。母は涙を流していなかった。母の気丈さに驚かされた。私は葬儀場に急いだ。葬儀場に着くと葬儀場の担当者が父親の亡骸が寝かされている部屋に私を案内してくれた。父親は広くて清潔な和室に寝かされていた。顔には白いハンカチがかけられていた。私はそのハンカチをそっと取り除き、指先で父親の顔に触れた。ドライアイスのためか、父親の顔は氷のように冷たかった。