2018年7月17日火曜日

遺産相続 12 無言電話

2013年7月28日の姉の留守番電話のことは既に書いた。その留守番電話に私が気づいたのは7月28日から30日までの間であったのではないかと推測していたが、正確な日ははっきりと記憶していなかった。しかし、記憶をつなぎ合わせた結果、姉からの留守番電話に気づいたのが7月29日の夕方であったことが判明した。姉はまず私に留守番メッセージを残し、その日の深夜(正確には翌日の早朝)に私に無言電話をかけてきたのだ。ところが私が留守番電話に気づかなかったため、私は姉からの無言電話の後で留守番メッセージを聞くことになった。

姉からの無言電話は7月29日の午前1時30分から1時48分までの間に7回かかってきた。すでに私は眠っていたが、けたたましく鳴る呼び出し音で目が覚めた。(あとで確認すると、私は3回目にかかってきた電話で目を覚ましていた。)姉は私が職場から貸与されていたPHSに電話をかけてきたのだ。業務用のPHSであっため、夜間でもマナーモードに切り替えていなかった。

私は階段を駆け下りて1階のリビングに行きPHSを手にとった。しかし私が「もしもし」と言うと同時に電話が切れた。電話は姉の夫の電話機からであった。父親の容態が急変したのであろうかと私が心配していたところ、すぐにまた着信音が鳴った。私は直ちに応答した。しかしそのとき聞こえてきたのは、姉の息遣いだけであった。姉は何か喋ろうとしていたようであったが、結局、何も喋らないまま電話を切った。私はPHSを手に持ったままその場に立っていた。すると程なくまた電話がかかってきた。私はすぐ応答したが、また電話は切れた。そのときになって、やっと私は単なる嫌がらせの電話であることに気づいた。私はPHSをマナーモードに切り替えて2階の寝室に戻り眠った。朝、PHSを見ると、その後も2回、姉から電話がかかってきていた。

実の弟に対して真夜中にこのようにしつこい無言電話をかけてくるとは・・・。狂気でなくて何であろう。

この電話は単なる「不在着信」であったと後に姉は主張した。嘘である。写真から明らかなように、私は受話器をとっている。姉はこれまで都合が悪くなるといつも平気で嘘をついた。この件でもこのように荒唐無稽な嘘をつき続けるつもりなのであろうか。

2018年7月16日月曜日

遺産相続 11 母親の葬儀

私は母親よりも父親との出来事を思い浮かべることが多い。父親のことは懐かしく思い出せるが、生前の母親のことを思い出すと今も胸が締め付けられる。

母親の葬儀は、姉と姉の長女と次女に汚された。

その前の年に亡くなった私の父親の葬儀に彼らは参列しなかった。ところが、母親の告別式の直前、突然、葬儀場に姿を現した。

告別式。

驚いたことに、彼らは誰も親族席には座らなかった。一般参列客席のしかも最後列に座った。姉は再度立ち上がり、私のところに歩み寄ってきた。そして、焼香しないと告げた。私は「そんな宗教があるか!」と姉を怒鳴りつけた。私の側に座っていた親族は姉に対して親族席に座るようにと説得した。しかし姉はそれに従うことなく一般参列席に戻っていった。後に姉の長女(私の姪)が語ったところによると、姉や姉の子どもたちが親族席に座らなかったのは、私が怖かったからということであった。あれほど可愛がってくれた私の母親に対して何ら感謝の気持ちを抱かなかったばかりか、単に母親の介護をするのが嫌だという理由だけで母親に一方的に絶縁を告げた彼らが私に顔向けできなかったのは当然である。しかし彼らが私を恐れる原因は私にはない。さも私に責任があるかのように言うのは非常識である。しかも葬儀は厳粛な儀式である。 喪主である私が怖いからといって最も近い親族が一般参列客のしかも最後列に座ることは許されない。非常識極まりない一家である。

さて、喪主である私の挨拶と読経が終わった後、親族や参列者の焼香が始まった。ところが姉と姉の子供たちは一般参列客の焼香が終わろうとしたときになっても席を立たなかった。参列客たちの視線が姉たちに注がれた。参列者たちから焼香するようにと促され、やっと重い腰を上げた。姉はよろめき娘たちに支えられよろよろしながら祭壇へと歩いていった。姉の子どもたちは焼香した。しかし姉は焼香しなかった。参列者の一人が姉に近づいて焼香するようにと促すと、姉は自分の代わりに焼香してくれるようにと彼女に頼んだ。焼香席から戻る途中、姉は母親の柩の前で立ち止まり、何度か母親の顔に手で触れた。そして元の一般参列者席に戻っていった。

耳が遠い姉には、読経の前の私の喪主挨拶が聞こえなかったという。その姉に対して、姉の長女は、私が姉の悪口を話したと告げたらしい。告別式の晩、姉が従姉に電話をかけ、私と私の家内と私の息子が母親の財産をすべて自分たちの名義に書き換えたと告げたのは、姉の娘から告げられた私の挨拶に腹を立てたからと後に姉は語った。

非常識な姪である。他の参列者が証言してくれたとおり、私は何一つ姉の悪口など言っていない。私は単に、「母親は死ぬ間際まで実の娘である姉に会いたがっておりました。娘に会えないまま死んでいった母親はさぞかし寂しかっただろうと思います」と話しただけであった。私は、母親は最期まで姉に愛情を抱き姉の身を案じていたということを私は告げたに過ぎない。姉がどれほど母親を憎んでいようと母親は死ぬ間際まで姉を気遣っていた。これは「事実」であり「悪口」ではない。

告別式のあと従姉のひとりから聞かされたことであるが、この姪は「裁判をすれば私たちが勝つと私の知人は知っている」といったことを葬儀場で従姉たちに話していたという。私は、一体何の裁判なのだろうかと思うと同時に、葬儀の場でこのような話をした姪に呆れた。

子を4人持ち、孫もたくさんいる姉が、なぜ子に対する母親の気持ちを理解することができないのであろうか。両親の晩年、姉は両親の財産にしか関心がなかったことが、人としてあたりまえの感情すら失わせてしまったのであろうか。

2018年7月14日土曜日

遺産相続 10 留守番電話

私の手元に3つの音声ファルがある。2013日7月28日午後3時過ぎに姉が残した留守番メッセージである。私がこの留守番メッセージに気づいた日がいつであったのかは記憶が定かでない。7月28日から30日までの間であったと思う。夕方、池袋駅から大塚駅に向かって人混みの中を歩いていたときであった。

留守番メッセージを再生すると、いきなりおどろおどろしい声が流れてきた。周囲が騒がしかったため、最初は何と言っているかは聞き取れなかったが、その声のトーンから背筋が寒くなった。私は携帯電話に耳を近づけてそのメッセージを注意深く聞いた。何度か聞き直して、その声が姉であることに気づいた。

憎しみに満ちたメッセージであった。「あなたたち3人がしたことを全部知っちょります・・・」からメッセージは始まった。音声メッセージは3回残されていたが、メッセージを残しているうちに姉の感情が激してきたらしく、最後は叫び声で終わっていた。

私たち3人がした悪事は全て知っている
姉の家族、親族、知り合い、知り合いの知り合いの誰にも連絡をとるな
連絡をとった場合には力の強い弁護士に言う

という内容であった。

私は長い間、姉が言った「あなたたち3人」とは、私の両親と私のことであると思っていた。この「3人」が私と私の家内と私の一人息子(当時、中学生)のことであったことを知ったのは、母親の告別式の翌日であった。つまり、私は2年あまり、勘違いしていたことになる。

「あなたたち3人」が私と私の家内と私の一人息子を指していたことを知ったきっかけは、母親の告別式の晩に姉が従姉の家に電話をかけてきて、私と私の家内と私のひとり息子が亡くなった母親の財産を全て自分たちの名義に書き換えたと告げたことからであった。私は、母親の告別式の翌日、遺骨を持って親戚の挨拶回りをした。その際に、偶然、姉からの電話を受けた従姉本人からそのことを聞かされた。姉は、私の家内は現金が好きだからとも言ったということであった。その話を従姉から聞かされた私と私の家内はその場で絶句した。

母親の告別式の晩に親戚に電話をかけてきて、何の根拠もなく事実でもないこのようなことを告げる姉の非常識は許されるものではない。

弁護士にもこのことを話した。たとえ私が母親の財産をすべて私の名義に書き換えていたとしてもそれは犯罪ではない。なぜなら私は公正証書を母親と交わし母親の代理人となっていたから、と弁護士は答えた。もちろん、もし私が母親の財産を私の名義に書き換えたならば贈与税は支払う必要が出てこようが。

それにしても、当時まだ中学生でしかなかった私の息子にまであれほど激しい憎しみを姉が抱いていたことは、狂気としか表現のしようがない。








2018年7月13日金曜日

遺産相続 9 母親から姉への援助

昨日、私の母親の銀行口座の取引情報が届いた。この取引情報は、私が情報開示請求に対する回答であった。予想通りであった。こお回答書には、毎月26日か27日に、決まった額が引き落とされていた。途中からその額が増えていた。ある生命保険の保険料であった。

私の母親は、嫁いだ娘(私の姉)の夫の生命保険の保険料を長い間、支払っていたのだ。私の姉の夫(私の義兄)の生命保険の保険料を私の母親が支払っていることを、私は母親から直接聞かされていた。こればかりでなく、私の母親は、生前、夫(私の父親)に内密で多額の援助をし続けた。私が帰省した際にはそのことを自慢げに私に語った。

母親は、姉の嫁ぎ先が経営する会社が倒産してからは、毎日のように食材を姉の家に届けた。実家から姉の家までは車で片道40分かかった。姉の家に行けないときには、宅配便で野菜や果物を送った。姉の家族のために、母親は実家の近くに畑を借りていたということも実家のご近所の方から聞かされた。

姉の長女と次女が成人式を迎えたときには、母親は、振袖を買う金を姉に渡した。姉の家の冷蔵庫が故障したと聞くや、新しく冷蔵庫を買うための金も渡した。母親は姉と会うたびに、姉に生活費を手渡していた。この光景は、実家のご近所の人たちも見ていた。母親の姉への援助額は莫大な金額にのぼった。

私はそのことで母親を批判したことも姉を批判したこともなかった。私は生活に困っていなかった。もし私が生活に困ることがあれば、そのときには私の両親は私を助けてくれるだろうと暗黙のうちに思っていた。

母親ばかりでなく父親も姉や姉の4人の子どもたちに多額の援助を与えた。ただし、父親は母親と異なり、こっそりと援助することはなかった。父親は姉の家族が全員いる前で姉に金を渡した。このことが実家からの援助を家族の誰にも知られなかった姉のプライドを傷つけたらしい。ことあるたびに姉は口汚く父親を罵った。「孫から領収書を取った」と言って。姉の子供たちの大学入学という大切なときに多額の援助をしてくれた父親への感謝の言葉は、姉からは一言も出なかった。そればかりではない。父親が与えた金は姉の子どもたちがもらったものであり、姉自身は金をもらっていないと言い張った。何という恥知らずであろうか。

姉の姿勢は両親が亡くなった今も変わらない。家族に知られた両親からの援助に関して両親を詰り、家族から知られずこっそり受けた援助は家族にひた隠しにしている。

上述した銀行の取引情報は、何かの折に姉の主張(嘘)を覆す証拠とするため取り寄せたものである。

両親の生前、姉が莫大な援助を両親から受けたことを私は何も気にしていない。むしろ、生活が苦しい時期の姉を陰から助けてくれた両親に私は心から感謝している。

両親が亡くなった今、姉は、両親がどれほど懸命に自分の家族を陰で支えてくれたかを正直に自分の子どもたちに語らねばならない。それなくして、姉の病気が治ることはない。

2018年7月11日水曜日

家族という病 下重 暁子

今、下重暁子氏の「家族という病」を読んでいる。まだ半分ほどしか読んでいないが、家族というものに関する私の考えと彼女の考えとはだいぶ異なる。しかし、自分の興味や関心事に正直に生きていこうとしている人たちに対する彼女の共感には交換が持てる。

 第2章まで読んだ私は、彼女は単純に家族否定者であろうと思っていた。しかし第3章に入り、トーンがガラッと変化した。第3章のタイトルは「家族を知る」。「介護で親子は互いを理解する」、「親は要介護になってはじめて弱い姿をわが子に見せられる」といった見出しが続く。まだ第3章を読んでいる途中であるが、第4章のタイトルは、「旅立った家族に手紙を書くこと」。

どうやら、彼女は全面的に家族というものを否定しているわけではないようである。単に、血の繋がりだけで束縛し合う家族というものを否定しているのかもしれない。

2013年6月に父親が倒れて緊急入院した直後に姉と姉の長女は両親との絶縁を私に告げた。以来、父親と母親の生前、姉と姉の家族は、一度も両親の見舞いには来なかった。父親の葬儀にも参列しなかった。

私は2年間、東京と高知とを行き来しながら懸命に両親を介護した。肉体的にばかりでなく精神的にも衰弱した両親を間近で見ることは辛いことであったが貴重な体験であった。両親の最期を看取った満足感は、生涯、私の精神の糧になると思う。

姉は両親の最期を切り捨てた。生涯、悔やみきれないであろう。両親は亡くなった。姉が自ら放棄した貴重な時間を取り戻すことはもうできない。

2018年7月7日土曜日

服装

私は自分の服装には無頓着である。家内も然り。そのため、これまでに何度か「事件」を起きた。

もう十数年前のことになるが、車を買おうと思い立ってあちこちのディーラーを回ったことがある。品川にあるヤナセに行ったときのこと。ヤナセの営業マンにまず勧められた車はベンツのA180であった。試乗させてもらったが、内装があまりにもお粗末なのに驚かされた。椅子を固定するネジがそのまま露出していたのだ。まるで貨物車であった。ベンツを買おうとする客はおそらく見栄っ張りなのだろうと思い込んでいた私は非常に驚いた。

その店で次に勧められたのはオペルであった。しかし私達が試乗させてもらった車は戦後間もなくつくられたのではないかと思えるような中古車であった。エンジンはブルンブルンと大きな音を立て、車体も大きく振動した。

当日の私たち夫婦の服装があまりにもみすぼらしかったため、ヤナセの営業マンは、私たちには車など買う金などあるはずがないと思ったのであろう。応対も粗雑であった。

その翌週、わたし達はフォルクスワーゲンのビートルに試乗させてもらおうと芝公園に出かけた。その日、試乗会が開かれていたのだ。

わたし達は、担当者に試乗させてもらいたいと頼んだ。すると、その担当者は「買う所で乗ってください」とつれなく言った。私たちの姿を見て、その担当者もヤナセの担当者と同じように感じたのであろう。わたし達はその担当者の勧めに従って芝公園から池袋にバスで移動した。池袋近くのバス停からディーラーに電話すると、ディーラーの担当者が車でバス停まで迎えに来てくれた。そして道すがら、「帰りには池袋駅まで車でお送りします」と言ってくれた。ところが、わたし達が帰ろうとしたとき、その担当者は、そっけなく「すぐそこにバス停があります」と言って出口のドアを開けた。

店を出たわたし達は顔を見合わせて笑った。

みすぼらしい服装をしていると人の本性がよく見える。