2015年4月11日土曜日

沈まぬ太陽

「沈まぬ太陽」は山崎豊子の小説である。このことは以前から知っていた。しかしこの小説が1985年に起きたJAL123便の墜落事故を取り扱ったものであるということを、つい最近、家内から聞かされるまで、私はこの小説のテーマを知らなかった。

いま、テレビで「沈まぬ太陽」のドラマが放映されている。家内はこのドラマをじっと観ている。

事故が起きた当時、家内は日本航空に勤務していた。私が家内と知り合ったのは、その2〜3年後であった。この事故では、家内の会社の知人も何人か亡くなっていた。私は、時折、家内からこの事故のことを聞かされた。事故機に乗っていた乗員の家族の苦しみも聞いた。

長い間、組合問題で日本航空の社内が荒れていることを私は知っていた。したがって、漠然とではあったが、その事故も職員の規律の乱れが主たる原因ではなかったのかと私は思っていた。しかしこの事故の原因を巡っては今でも様々な説が流れている。単純な事故ではなかったようだ。

昨年の夏、家族と軽井沢に滞在しているときに家内とふたりで事故現場を訪れた。ここを訪れたいと家内は長い間思っていたようだ。ただ、家内からそのことを聞かされたのは昨年が初めてであった。私もこの事故のことを家内に話すのは意図的に避けていた。

日航機は群馬県上野村の御巣鷹山に墜落したと思われている。これは正確ではない。日航機が墜落したのは群馬県上野村の高天原山の尾根である。今はこの山の中腹まで車で登れる。私たちは、軽井沢から佐久市経由でこの山を目指した。しかし佐久から上野村に抜ける山道は狭い上に曲がりくねり道路標識もなかった。果たして無事、峠を越せるかどうかを不安に思いながら私は運転した。案の定、崖崩れのため、当初通るつもりであった道は閉鎖されていた。しかたなく別の道を進んだが、すれ違う車もほとんどなく、ずっと不安であった。

上野村に着いたあとも高天原山へのルートを見つけるのは容易ではなかった。車を停めては地元の人やすれ違う人たちに何度も道を尋ねた。

事故現場に向かう高天原山の中腹にある駐車場には多くの車が停められていた。雨模様の天気のなか、そこに車を停め、私たちは山を登った。かなりきつい坂道であった。事故当時はずっと下から登ってこなければならなかった。遺族はさぞかし大変であったことであろう。

事故現場は、A、B、・・と区画されていた。そしてご遺体が見つかった場所には犠牲者の名前を記した立て札が立てられていた。

私たちはひとつひとつの区画を回り、家内の知人の名前を探した。そして知人の立て札を見つける度にその前で手を合わせた。険しい山道を歩き回りながら、家内は、事故機の乗員の家族がどれほど辛い思いをしたのかをぽつりぽつりと喋った。事故現場には犠牲者全員の名前が石碑に刻まれていた。乗客の名前はあいうえお順であった。しかし乗員の名前は犠牲となった乗客の最後尾にまとめて刻まれていた。

亡くなった家内の同僚のひとりの立て札の前で、家内は「死んだらおしまいよ」と吐き捨てるようにつぶやいた。この言葉は、妙に私の胸に突き刺さった。

事故現場には2時間ほど滞在したように思う。この間、当然のことながら私の心は沈んでいた。しかし不快感はなかった。犠牲者の魂が関係者や犠牲者の遺族によって慰められているのがその理由であろうと私は思った。浅間山荘に立った際に襲われためまいや吐き気に悩まされることはなかった。

今度は、息子も連れて3人で来ようと家内と話しながら私たちは事故現場を後にした。痛ましいあの事故が起きた当時、息子はまだ生まれていなかった。しかし、私たちがその事故から受けた衝撃を息子に伝えておきたいと思った。

ソフトデンチャー

きょうは朝から神奈川県の小田原市にでかけてきた。ある高齢の歯科医師にお会いすることが目的であった。

その歯科医師は昭和7年生まれ。83歳。私が時々訪れる銀座のエステサロンの経営者のお父様である。

この歯科医師は自分自身が日本に導入したソフトデンチャーの技術を後進に伝えようと数年前から後継者を探していた。そのことをその歯科医師のお嬢様であるエステサロンの経営者から聞かされ、ある歯科医師をご紹介したことがきっかけとなって繋がりができた。残念ながら私がご紹介した歯科医師とのご縁は結ばれなかったが、ご家族の皆様からとても感謝された。私に一度会いたいと何度も繰り返しおっしゃられ、本日の訪問となった。

ご自宅の一部が歯科のクリニックとなっていた。私がクリニックに着いたとき、ちょうど午前中の診療が終わった。その歯科医師はソフトデンチャーの実物やその素材の原料、関連する書類などを待合室に持ってきて私に対して熱心にソフトデンチャーについて熱く語った。そして、数年前、小田原中の歯科医院を回り、無償でソフトデンチャーを作製する技術を教えようとしたが、ひとりとしてソフトデンチャーに興味を示してくれなかったと嘆いた。

私はインプラント治療を手がけている歯科医師の知り合いが多い。しかしインプラント治療は危険が大きい。インプラント治療が適さない患者に対してはソフトデンチャーは有力な治療の選択肢ではないかと私は感じた。その歯科医師の説明を聞きながら、若い歯科医師の誰かがその歯科医師からソフトデンチャーの技術を学んでくれないだろうかと強く思うようになった。もし私が歯科医師であったならば、ぜひ教えを乞いたいと思った。

ソフトデンチャーの話が一段落したあと、その歯科医師とお嬢様(エステサロンの経営者)と私の3名で食事に出た。カウンターで寿司をご馳走になりながら、引き続きソフトデンチャーの話を聞いた。日本ではソフトデンチャーを作製できる技工士がいないことも聞かされた。中国の技工所に依頼しているとのことであった。その技工所に1年に3回以上出かけた時期もあったという。「ソフトデンチャー」という名称は商標登録されている。さまざまな書類手続きを進める上での苦労話も聞かせていただいた。

寿司屋を出た後、小田原駅のすぐそばにあるコーヒーショップに連れていってもらい、そこで更に話を続けた。ここでの話題の中心は、今の若い歯科医師に対する嘆きであった。そして今の若い人たちのモラルのなさやマナーの悪さについても語り合った。私も日頃から同じ印象を抱いていたので、その歯科医師の言葉のひとつひとつが胸に響いた。

その歯科医師を一言で表現すれば「堅物」である。私は全く正反対の性格であるので、逆にこのような一本筋の通った正義漢に共感を抱く。

その歯科医師は近日中にソフトデンチャーの見本を私の自宅に送ってくださるという。冒頭で述べたようにその歯科医師は83歳。時間の余裕がないと本人もご家族も感じていらっしゃる。ソフトデンチャーの技術をその歯科医師から学び、日本で普及させようと考える歯科医師はいないものか。

2015年4月7日火曜日

叔父


母親の兄のことについては先日、このブログに書いた。きょうは母親のもうひとりの男兄弟について書こうと思う。母親のすぐ年下の弟である。

私が、私の親族のなかで最も頼りにしていたのはこの叔父であった。この叔父は、家族と徳島県に山登りにでかけ、そこで急死した。2012年9月23日のことであった。家族と別れて単独行動をしていた途中で叔父に何らかの体調異常が生じたと推測されるが、詳細は不明である。待ち合わせ場所に伯父がいないことが高知の親戚に知らされ親戚中が大騒ぎになった。私の父親は親族一同で叔父を探そうと皆に提案した。警察の手助けもあり叔父は家族と待ち合わせることになっていた場所から遠く離れたところで発見された。当然のことではあったが、家族は警察から事情聴取を受けた。取り調べはかなり厳しかったらしい。叔父の妻は、山で夫(私の叔父)と別れたことを悔いた。夫を亡くした悲しみに加え、そのことに対する罪悪感に苛まれてガリガリに痩せた。叔父が亡くなった日の山登りには長男は同伴していなかった。叔父、伯母、次男の3人での山登りであった。長男は「もし僕もいっしょに山に行っていたら父親はこんなことにならなかった」といって叔父の死を嘆いた。叔父の死は、今もなお叔父の家族に深い悲しみを与え続けている。

この叔父の死は、私にも大きな衝撃を与えた。上述したとおり、私が最も尊敬し頼りにしていたのはこの叔父であったからである。ただ、私は、叔父の生前、このことを口に出して感謝の言葉を叔父に直接述べたことはなかった。

私は中高一貫の私立校に通った。6年間、私の保証人となってくれたのはこの叔父であった。幸い、在学中に叔父が学校から呼び出されることはなかった。大学浪人中、心の支えとなってくれたのも叔父であった。叔父から励ましの手紙をもらったわけではない。電話ももらったわけではなかった。ただ、親元を離れ東京で一人暮らしをしながら浪人生活を送っていた私の頭に浮かんだのは、父親とこの叔父の姿であった。

私の家族や親族に問題が生じたとき、とりまとめ役を務めるのはいつもこの叔父の役目であった。叔父の墓石にも刻まれているように、叔父は文字通り「誠」を尊ぶ人であった。叔父の判断には親族の誰もがうなずかざるを得ないところがあった。

叔父の墓は、高知龍馬空港から車で15分ほどの小高い山の中腹にある。私は帰省すると、この山の下を抜けるトンネルを必ず車で走る。ここを走るときには、私はいつも叔父が眠る霊園を見上げる。そして時間が許せば叔父の墓に参る。つい先日も墓参した。霊園のなかの桜の花はすでに少し散りかけていた。私は叔父の墓にお参りした後、墓石の上の落ち葉を拾ってその場を去った。

叔父の人生は決して順風満帆ではなかった。高校では当時の県知事から成績優秀者として表彰されたということであったから頭はよかったと思う。しかし家庭が貧しかったため大学進学は断念し就職した。そして船の設計を始めた。しかし高校卒では二級のライセンスしか取得できなかった。

就職と同時に叔父は実家を出た。そして高知市の浦戸湾にある造船所の近くの種崎というところに移り住んだ。我が家で私の父親が叔父の家族の話をするときには名字ではなく地名で「種崎」と呼んでいた。つまり「種崎」と叔父一家とは、我が家では同義語であった。子どものころ、1回か2回、叔父の家を訪ねたことがある。決して大きな家ではなかったが、その小さな家の棚には書籍がぎっしり並べられていた。

つづく

帰省

4月4日から6日まで帰省した。高知の病院に入院している母親を見舞うためである。私は1か月に1回〜3回帰省する。一昨年の6月に父親が倒れて以来、ずっと私はこの生活を続けている。帰省にはお金がかかるばだけでなく私の仕事も疎かになる。しかし昨年3月に父親は亡くなり今は母親しか生きていないが、母親が生きている限り私はこの生活を続けるつもりだ。

帰省すれば毎日病院に足を運ぶ。母親は寝たっきりであるし言葉も自由にしゃべれない。しかし意識ははっきりしており、ぼけてもいない。だから一層、私は母親を不憫に思う。

東京に行かないかと私は何度も母親に尋ねたが、母親は東京に行くことには頑として応じない。母親がまだ若かった頃から、私と二人きりになると、父親も母親も高知で生涯を終えるつもりであると母親は私に告げた。父親か母親のどちらか一方が亡くなっても自分たちは東京には出て行かないと母親ははっきりと私に言った。

今も親戚が時々、母親に向かって「東京へ行ったらどうでえ」と東京に行くことを進めてくれるらしいが、「行く」という返事は返ってこないという。

もし母親が先に亡くなって父親が残ったらどうであっただろう。おそらく、身体が動く限り東京半分・高知半分の生活を送ったことであろう。身体が動かなくなったら東京と高知のどちらを選んだであろうか。確率は半々だと私は思っている。

母親を見舞っても私がしてあげられることは多くない。母親が食べたいというものをスーパーで買っていってあげ、少しずつ口に運んであげる程度のことである。

ただ、それだけで十分であろうと思っている。大切なことは私が側にいることである。それだけで母親の孤独感は和らげられる。母親の苦しみのほとんどは孤独感から来ていると思う。

母親が亡くなったならば私と高知との縁は切れる。母親や私のために尽くしてくれた人に対しては相応の御礼をして高知を去るつもりである。お世話になった人たちだけを招待して高知から完全に引き上げる前に宴席も持とうと思っている。反対に、私や私の家族に対してあらん限りの憎しみを向けてきた人たちには一言も告げず姿を隠すことになろう。


2015年4月4日土曜日

伯父と伯母

私には母方の叔父が3人いた。正確には、伯父一人と叔父二人と書くべきである。

母親の兄つまり私の伯父は昭和34年に若くして亡くなった。私が3歳のときであった。幼い頃、私は母親に連れられてよく母親の実家を訪れた。生前、その伯父は、実家の茶の間の隣で病床に臥していた。ふたつの部屋は障子で仕切られていたが、その障子が開けられたことはなかった。だから私は伯父の顔を見たことがない。伯父は静かに寝ていた。だから伯父の声を聞いたこともない。

つい先日、その伯父の写真が私の実家の押し入れの中から出てきた。伯父がまだ20歳代の頃の写真と思われた。(伯父は30歳代前半で亡くなった。)私はその顔が伯父の長男つまり私の従兄弟とそっくりであることに驚かされた。うり二つであった。

伯父が亡くなったときのことを私は今でも憶えている。両親と一緒に私も葬儀に参列した。当時はほとんどの家が土葬であったが、伯父は火葬に付されたようだ。そして伯父の遺骨は伯父の自宅(母親の実家)から数百メートル離れた小高い山の頂近くにある墓地に埋葬された。今は四十九日の法要が終わるまでは遺骨は自宅に祭られるが、伯父は火葬直後に埋葬されたようだ。その葬儀のとき、私も急な山の斜面を墓地まで登った記憶が今も残っている。

伯父の妻は私の父親の姉であった。つまり伯父の家と私の家とは女が入れ替わっているのだ。だから最も近い親戚といえる。

しかし伯父の死後、私の母親の実家(私の父親の姉(私の伯母)の嫁ぎ先でもある)は傾いた。未亡人となった伯母は、農作業の傍ら日雇い労務者としても働いた。そして二人の男の子(つまり私の従兄弟)を懸命に育てた。

伯父の死後は、きっと貧しかったに違いない。しかし伯母が私の家(つまり伯母の実家)を訪ねてきた折りには、まだ幼かった私に時々お金をくれた。いつも50円玉一個であった。しかしその50円玉を私に差し出すとき、伯母は私に満面の笑みと愛情を示してくれた。50円といえど、当時の伯母にとっては決して少ない金額ではなかったのではないかと思う。

後に伯母は老人施設の介護士として住み込みで働いた。その施設に私はよく訪ねていった。そこにはほとんど口もきけない老人がすし詰めにされて横たわっていた。伯母はその老人たちが眠るベッドの間の床に布団を敷いて寝ていた。そしてひとりひとりの老人にやさしい声をかけていた。それらの老人から反応が返ることはなかったが。

その後、伯母は乳がんに罹患。乳がんは完治したが、新たに卵巣癌を患った。そして10年後に再発した卵巣癌のために亡くなった。

振り返ると、伯母の人生は苦労の連続であった。私の父親はその伯母をいつも不憫に思っていた。そして甥(伯母の長男)を何かにつけて手助けした。

生涯質素な生活を続けた伯母が残した財産は少なくはなかった。その財産は伯母の長男が全て相続した。しかし残念なことに、その財産が伯母の子孫のために有効に使われることはなかった。その甥とその妻とが無意味なことに使い果たしてしまったということであった。このことをその甥の長男(伯母の孫)から最近しみじみと聞かされた。

私にとっては、伯母が私に向けてくれた笑顔と愛情とが私の心のなかの生涯の宝物である。