2021年8月27日金曜日

紙芝居

昨日、あるエッセイを読んでいたところ、「紙芝居」という言葉が出てきた。紙芝居。永く忘れていた。

思い出は私が小学校一年生の頃に遡る。保育園に通っていたときには、保母さんがよく紙芝居を観せてくれた。観せてもらった紙芝居の内容は何も憶えていない。ただ、とても楽しかったことだけは記憶に残っている。紙芝居が終わるたびに、いつも「次はいつまた紙芝居を観せてくれるだろうか」と思った。

小学校に入学しても紙芝居が観られるものと無意識に思っていた。ところが待てども待てども紙芝居の時間はなかった。物足りなく感じた。小学校一年生の頃はずっと紙芝居を観せてもらうのを心待ちにしていたように思う。

今の子供たちは紙芝居という言葉すら知らないかもしれない。

2021年8月11日水曜日

無葬社会

2日かけて「無葬社会」(鵜飼秀徳著、日経BP社)を読み終えた。この本は2年ほど前に自宅近くの書店で買ったが、冒頭の部分だけを読んだ後、書斎の本棚の中で眠っていた。軽井沢で時間があれば読もうと思って持ってきておいた。

東京と高知とを往復しながら両親を介護していたとき、私が願っていたことは、両親には尊厳ある死を迎えさせたいということであった。この世に生まれてきてよかったと思って死んでもらいたいと強く願った。

しかし私のその願いは、私に姉と姉の長女によって破壊された。

亡くなった両親が生き返ることはない。姉と姉の長女に対する私の憎しみは生涯消えないだろうと思う。

2021年8月9日月曜日

軽井沢において

4日前の8月5日に軽井沢に出かけてきた。今年は8月16日まで軽井沢に滞在する予定である。8月7日は母親の命日。8月12日は日航機墜落事故が起きた日。母親が自宅で倒れ救急車で病院に救急搬送されたのも8月12日であった。母親は結局、一度も退院できぬまま2年後に亡くなった。

両親とも亡くなった今、私がいつも考えるのは、両親は生前、幸せだっただろうかということである。両親は夫婦喧嘩が絶えなかった。すざまじい喧嘩であった。父親はすぐに暴力を振るった。母親の顔がアザだらけになったこともたびたびあった。

既に書いたことがあるが、母親が救急車で搬送される2週間ほど前に母親に尋ねたことがある。なぜ離婚しなかったのかと。母親は2つ理由を挙げた。この2つの理由も既に書いた。

私が死んだ後、私の一人息子が考えることもほぼ同じであろう。父親である私は幸せな人生を送ったであろうかと。


2021年7月6日火曜日

筒美京平

昨年、筒美京平氏が亡くなった。10月7日であったという。80歳であった。

私が初めて筒美京平氏の曲を聴いたのはヴィレッジシンガースのバラ色の雲であった。しかしつい最近まで、この曲が筒美京平氏の作曲だとは知らなかった。中学校1年生の時の夏合宿で私のクラスメートがブルーライトヨコハマを歌ったことを今も鮮明に憶えている。男である彼が女性の歌を歌うことが当時の私にはとても奇妙に感じられたからである。この曲も筒美京平氏が作曲したものであった。このこともつい最近知った。ブルーライトヨコハマを歌った同級生の名前は井上隆夫。

彼はおませであった。おませという表現は適切ではないかもしれない。中学1年といえば、既に思春期を迎えていてもおかしくない時期である。

井上とは親しかったわけではないが、次々と当時の彼の思い出が蘇ってくる。

2021年6月29日火曜日

みずほ銀行

内幸町にあるみずほ銀行健康開発センターが閉鎖されることになった。きょうはみずほ銀行を訪問する最後の日であった。みずほ銀行にお世話になるようになったのは平成16年7月のことであった。ちょうど17年になる。

みずほ銀行では楽しく仕事をさせていただいた。患者さんは皆、みずほ銀行員と関連企業の社員ばかりであった。私がここに勤めるようになった当初は、受診する患者さんは例外なく疲れ果てていた。銀行員の激務や心労がひしひしと伝わってきた。日本では、優秀な者は大企業就職を目指す。大企業の社員は勝者でありエリートであると思われている。しかしみずほ銀行の社員の方々から話を聞かされるにつれて、大企業に対する幻想は次第に失せていった。

私が勤務している間、みずほ銀行では不祥事が相次いで起きた。みずほ銀行は三大メガバンクの落ちこぼれであった。トラブルが起きるたびに社員には多大な負担がかかっていたのではなかろうか。ただ、私は、勤める期間が長くなるに比例して、みずほ銀行の社員に対する愛着は深まっていった。

全ての事柄には終わりがある。どんな長寿番組であろうといずれは終わるように。きょうは健康開発センターの人たちに笑顔で別れを告げることができた。17年間、皆、私に親切に接してくれた。楽しかった17年間の思い出をしっかり胸にしまっておこうと思う。




2021年6月27日日曜日

寺内タケシ 死去

6月18日に寺内タケシさんが82歳で亡くなったという。

私が小学校5年生か6年生のとき、クラスメートに誘われて、高知県民ホールで開かれた寺内タケシとブルージーンズのコンサートに行ったことがあった。私はそのときまで寺内タケシというエレキギター奏者のことを全く知らなかった。コンサートの最中、彼は非常に興奮していた。私はエレキギターの澄んだ音色に感動した。生演奏の素晴らしさを知ったのもそのときであった。

コンサートのあと、友人は、親戚の家に行くと言って私と別れた。ひとりになった私は心細かったが、高知市内でバスに乗ってなんとか帰宅することができた。

以来、寺内タケシというエレキギター演奏の名手の名前を忘れたことはなかった。しかし寺内氏の演奏を耳にすることはなかった。寺内氏の訃報に接し、YouTubeで寺内タケシとブルージーンズの演奏を何曲か聴いてみた。確かに寺内タケシ氏の演奏は素晴らしかった。しかしYouTubeでは、氏の人間的な魅力に触れることはできなかった。

2021年5月5日水曜日

御巣鷹山 慰霊登山

一昨日の午前、御巣鷹山に慰霊登山した。今回も私と家内だけであった。息子を連れてきたいと思っているが、なかなか機会がない。

軽井沢に出かけてくると、毎年、私たちは引き寄せられるように御巣鷹山に登る。山を登っていく途中で私が想いを馳せるのは、いつも残された遺族のことである。この飛行機事故では520名の尊い命が奪われた。そしてその何倍もの人たちの人生を大きく変えた。登山途中で一組のご夫婦とすれ違った。ご遺族であった。毎年、最低3回は御巣鷹山を訪れるという。親しい肉親を失った悲しみは生涯消えないのであろう。事故が起きたのは1985年であった。今年の8月には37回忌の式典が盛大に執り行われるはずである。

人は皆、必ず死ぬ。私も20年後には生きていないであろう。私の祖父は88歳で亡くなった。祖父の死を知らされたとき、私はわっと涙が噴き出した。しかしその一方、心の中で祖父の88年の人生を誉め称えた。

私が死んだとき、家族から「あっぱれだった」と言ってもらうことができるであろうか。












2021年4月21日水曜日

「医療崩壊」(小松秀樹 著)のはしがきより抜粋一部改編

医療が進歩するにしたがって医療に対する社会の要求が強くなった。患者は医療にはすべてのことが可能であり、生命は永遠であると思うようになった。患者が死亡すれば医療過誤があったのではないかと猜疑の目でみるようになった。医療が進歩するほど紛争が増えるという皮肉な状況になっている。 特に小児科や産科では、 医療の結果が期待通りでないとき、死や障害が受け入れられない。悲しみが医療への恨み、さらに、ときとして攻撃につながる。患者側からの攻撃の強い小児救急や紛争の多い産科診療など脆弱な部分から医療が崩壊し始めた。 更に2002年前後より医療事故を警察が取り締まることが多くなり、善意の看護師、医師が犯罪の被疑者として扱われ、運が悪いと犯罪者の烙印を捺されるようになった。刑事事件と民事事件の境界がなくなり、これまで民事事件として扱われてきた事件が刑事事件として扱われるようになった。 こうした中、医療従事者の勤労意欲が低下し、彼らは病院勤務、特に業務の過酷な急性期病院から離れ始めた。現状はきわめて深刻である。医療機関の外から思われているよりはるかに危機的である。

2021年3月28日日曜日

軽井沢で

3月25日から2泊3日で軽井沢に出かけた。昨夜遅く東京の自宅に帰り着いた。軽井沢は暖かく天候にも恵まれ、家族でゆっくりと過ごすことができた。別荘にも変化はなかった。

ただ、私たちが別荘に着いたとき、見慣れぬ車が数台隣家の駐車場に停まっていた。隣家は喫茶店であったが営業しているようには見えなかった。軽井沢では冬場は営業していない店が多い。まだ営業を始めていないのかもしれないと思っていた。ただ、夜になっても隣家の駐車場に停まっているのは軽自動車1台だけであった。いつも2台の車を停めていた。

謎が解けたのは翌日の昼であった。見知らぬ壮年の男性が別荘を訪ねてきた。隣家で新しくレストランを営業することになったとの挨拶であった。隣家で喫茶店を経営していたご夫婦が離婚して喫茶店をたたみ、東京に帰っていったとのことであった。そこを買い取ったのだという。

喫茶店は20年近く営業していた。東京でガソリンスタンドを経営していたが、軽井沢が気に入ってガソリンスタンドを売り払い、軽井沢に移住したと聞かされていた。開店当時は連日、溢れんばかりの客で賑わっていた。当時、別荘と隣家との間には柵はなく、喫茶店を訪れる客は我が家の別荘の敷地にも車を停めていた。客ばかりでなく隣家の夫婦も我が家の別荘の敷地を我が物顔で使っていたらしい。軽井沢の住人からそう聞かされた。我が家の別荘の庭には深い轍ができており、地中に埋められている下水管を覆う鉄板は大きく曲がっていた。私たちが別荘に滞在している時ですら、車で出かけて戻ってくると客の車が別荘の敷地に停められていた。しかし喫茶店の経営者である隣家の夫婦は客に注意しなかった。それどころか、私たちが別荘に戻って客の自動車を別荘の敷地の外に出してくれうように依頼しても、「客が勝手に停めているのだから私たちは注意できない」と言い返してくる有り様であった。

隣家と我が家の別荘との間に柵を設置することになったのはこのような事情からであった。この話し合いをするにあたっては、当時、別荘の所有者であった義母(家内の母親)と隣家の夫婦との間にはいざこざがあったらしい。以来、義母はこの別荘を訪れることがなくなった。私たちも隣家の夫婦とはほとんど言葉を交わさなくなった。今、別荘は私の息子の名義になっている。

隣家の夫婦が軽井沢に引っ越してきた当時、夫婦はまだ30歳そこそこであったのではなかったか。開店当初、喫茶店は大繁盛。夏場には猫の手も借りたかったようで、この時期にはパートの従業員を雇っていた。またご主人の実母も応援に駆けつけた。この実母から、夫婦はわずか1年で借金を返済したと聞かされた。しかし歳を追うごとに客足は遠ざかり、我が家の別荘と隣家との間に柵を設けてから喫茶店を訪れる客が激減した。

迷信と笑われるかもしれないが、喫茶店の客が急減したのも隣家の夫婦の仲が悪くなったのも、風水と関係があるのであろうか。柵の設置と客の急減とは同時であった。










2021年3月27日土曜日

House of Karuizawa

一昨日、家族で軽井沢に出かけてきた。こんなに早く軽井沢に出かけてくるのは初めてである。軽井沢で過ごすようになるのは、例年、ゴールデンウィーク。毎年3月には家族で海外旅行に出かけるが、今年はコロナウイルスのために海外に出かけられなかった。

今年、軽井沢は暖かい。

きょうのランチは「House of Karuizawa」で。このレストランは南原の静かな森林の中にある。私も私の家族も軽井沢で最も好きなレストランである。上品な奥様がいつも私たちを笑顔で迎えてくれる。店内は広く、ゆったりと食事をとることができる





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2021年3月25日木曜日

懇意にしている臨床心理士(心理カウンセラー)がいる。彼女は70歳代前半。前の職場で大変お世話になった。彼女は優れた技術を持っている。私は心理治療が必要と判断した患者は今でも全員彼女に治療を依頼する。

何年か彼女のご主人が東北地方のある県に単身赴任していた。ふたりのお嬢さんは既に嫁ぎ、ご主人の単身赴任中、彼女は自宅で東京で一人暮らしをしていた。彼女のご主人が東京に戻ってくることになったとき、彼女は急に落ち着きを失くした。一緒に暮らしたくないと彼女は言った。別に、特に夫婦仲が悪いからというわけではないと思った私は、誰であっても長期間一人暮らしすると人と共同生活できなくなるものだろうと、彼女の話を聞き流していた。

ところが彼女のご主人が東京に戻りふたりで暮らすようになってからも彼女はご主人と向かい合って食事ができないと私に話した。向かい合ってご主人と一緒に食事ができない彼女はどうしているのか。彼女はご主人と向かい合わないためにご主人の横に座って食事をしているということであった。面白いことにこのことを彼女は自分の患者や知人にも勧めていた。

私は、臨床心理士としての彼女の素晴らしさはここにあると思い、いたく感心した。そう、大きなストレス源と正面から向かい合ってはいけないのだ。逆にストレス源から目を背けてもいけない。

私の友人の4人が鬱に陥った。うち3人は仕事を辞めた。残りのひとりは子会社に転籍することによって鬱から脱した。

LINE

先日の夜、散歩中、LINEにメッセージが届いた。高校時代の友人からであった。彼は私が最も信頼する友人のひとりである。しかしこの数年、彼とは会っていなかった。電話で話したこともなかった。昨年7月に私が転勤した直後にメッセージをやりとりしただけであった。今年私が出した年賀状にも返信はなかった。(喪中であったためであろう。後で気づいた。)

彼のご両親は数年前から土佐市内の養老施設に入っていらっしゃったが、お父様は昨年亡くなった。彼の中土佐町久礼の実家が空き家になっている。私が高知に帰省するときにはそこに泊まってくれと彼は言ってくれる。

半世紀昔のことになったが、高校時代、彼の家に何度か遊びに行った。泊めてもらったこともある。彼の家は材木商であった。彼の顔はお父様似。面長で下顎が張り出していた。お母様は対照的に丸顔。いつも笑みを浮かべていた。3人の息子を育ててきた母親としての自信に満ち溢れていた。(友人は三人兄弟の長男。)彼の家に行ったときには、いつも近くの広場で彼の家の原付に乗って遊んだ。当然、無免許であった。彼のお母様は家でアイスクリームを売っていた。いつも高価なレディーボーデンを冷凍庫から取り出して振る舞ってくれた。笑いが絶えない朗らかな一家であった。一方、私はその頃、両親の不和に苦しんでいた。子にとって自分の親の仲が悪いことほど辛いことはない。笑いの絶えない彼の家族を羨ましく思った。

ところが、いつ頃であったのかは定かでないが、彼がご両親と絶縁状態になっているとある友人から聞かされた。確かに彼は毎年暮れに高校時代の友人と開く同窓会の後、自分の実家には帰らず、奥様の実家に戻っていった。理由は友人の誰も知らなかった。彼もその理由を語ろうとはしなかった。私は、自分の体験から、どんな事情があろうと血を分けた肉親は許し合って生きていくべきだと思っていた。しかしそんな説教じみたことを彼に言う気にはならなかった。私は、彼は私の何倍も生きる達人だと思っていた。他の友人も彼に何も言えなかった。

私が彼のお父様に最後にお目にかかったのは、2013年ではなかったかと思う。私が両親の介護のためによく高知に帰省している時期のことであった。誰もいなくなった実家の窓を開け、掃除し、庭の草をむしり、布団を干す。介護は孤独な作業であった。入院して いる両親を見舞っても、病状は悪化する一方。数少ない気分転換方法は高知市での日曜市と中土佐町久礼の大正市場を訪れることであった。両親が入院していた病院から大正市場までは車を飛ばせば30分ほどで行けた。友人の実家を訪れたのは大正市場からの帰路であった。彼の実家を最後に訪れてから40数年が経っていた。彼の実家にたどり着くまで、多くの人たちに道を尋ねねばならなかった。玄関のチャイムを鳴らすと、程なく背の高い老人が玄関に出てきた。彼のお父様であった。腰も曲がっておらずかくしゃくとされていた。短時間話を交わしただけで私は彼の実家を立ち去った。彼と彼の両親とが絶縁状態であることを知っていたからである。ただ、彼のご両親が養老施設に入られた頃には、彼とご両親との間の絶縁状態は解消されていたようである。

先日、彼から届いたLINEのメッセージの冒頭は以下の通りである。

「元気にしているか?会社辞めて自分の考えを言うようにます。
孤立しています。いと
くにひ国広と井戸もとよし
御免なさい」

誤字脱字だらけである。「いと」といのは友人の「井戸」のことであろうか。「もとよし」というのはもうひとりの友人である「元吉」のことであろう。

彼とはこの後、メッセージのやりとりをしたが、最後まで要領を得なかった。単に泥酔されていたためだけならいいが。詳しく語ろうとはしなかったが、彼は大きな悩み事を抱えているようであった。今、彼と交わしたLINEのメッセージを読み返してみると、冒頭の「孤立しています」という文言が気になって仕方がない。社交的で人懐っこい彼が孤立するような事態が起きるとは想像できない。

2021年3月20日土曜日

懐メロ

いつからかはっきり記憶にないが、私はほとんどテレビを観なくなった。たまに観るのはNHKの将棋トーナメントぐらいである。ニュースも観ない。私だけでなく家内も息子もほとんどテレビを観ない。家内が観るのは水曜日の夜に放映している「刑事コロンボ」のみ。息子に至っては、今年に入ってテレビを観ている姿が記憶にない。
 
ただ、私は、夜の散歩の最中によくYouTubeを観る。YouTubeで音楽を聴くこともある。クラシックか懐メロ。
 
昔は、流行した歌を聴くとその当時の思い出が蘇ってくることが多かった。ひとつひとつの歌が私の人生と結びついていた。しかし最近はYouTubeで懐メロを聴いても、それらの曲が流行った当時の出来事が全く頭に浮かばなくなった。歳である。
 
今、どのような局が流行っているのか全く知らない。また、今流行っている曲を聴いても歌詞はよく聞き取れない。
 
ただ、私がYouTubeで聴く懐メロは、恋を題材にしたものが多い。きっと今もそうなのではないだろうか。
 
恋は情熱である。自己陶酔である。今、熱い恋愛の真っ最中の若者は、現在の流行歌を聴くたびに胸が高鳴ることであろう。恋愛とは自分が描いた異性のイメージに盲目的に酔うことなのだと思う。陶酔。そう、恋愛は文字どおり陶酔である。
 
「秘め事」という言葉が死語となった今、若者は異性に陶酔しにくくなった。SNSも陶酔の妨げとなる。饒舌は情熱を殺す。他人にはバカなこととしか思えなくとも、人生の一時期において、理性を失うような陶酔に浸らなかったならば不幸ではないだろうか。
 
今の私は、恋愛を「自己が作り上げた異性のイメージへの陶酔」つまり独り相撲としか考えられない。懐メロを聴くたびに自分が年老いたことをひしひしと感じる。

水仙

我が家には猫の額ほどの小さい花壇がある。夏になると雑草が鬱蒼と生い茂る。草刈りは滅多にしない。草を刈ると猫が糞をするからである。

ほとんど手入れをしないままになっているが、毎年3月になると花壇の端に水仙が花を咲かせる。今年も白色と黄色の花が咲いた。

例年、私は家族とこの時期に海外旅行に出かける。家を出るときにはまだ花が咲き始めたばかりであることが多かった。花は私たちが留守の間に満開となり、私たちが帰国するときには花びらが落ち始めていた。今年はこの過程を自宅で毎日観察することができる。コロナウイルスのため、今年は海外に出かけることができない。






花の咲き始める季節

暖かくなってきた。私の自宅の周りでも色々な花が咲き始めた。








2021年3月7日日曜日

墓参り

きょうは父親の命日である。父親が亡くなって7年経った。朝から出かけていた息子を途中でピックアップして家族3人で墓参りに出かけた。墓は文京区小石川にある。地下鉄丸の内線の茗荷谷駅の近くである。ここには息子が12年間通った筑波大学附属小学校・中学校・高等学校がある。息子は1日も休むことなく12年間、学校に通った。この地域にはきっと縁があったのであろう。
 
墓参りを終えた後、静かなレストランに立ち寄ってランチをとった。ここは私たち夫婦のお気に入りのレストランである。このレストランには息子も何度か来たことがあるものと思っていたが、きょうが初めてであるという。いつも私と家内だけで来ていたらしい。
 
レストランからの帰宅途中、駒込駅前で息子は車から降りた。喫茶店で勉強するという。息子は私よりも遥かに努力家である。






2021年2月11日木曜日

恩師 5

やんしゅう先生の奥様が私の勤務先にいらしてくださった。私も奥様も随分と白髪が増えた。奥様は75歳。やんしゅう先生とは20歳前後年齢が離れていらっしゃったので、もしやんしゅう先生がまだ生きていらっしゃったならば、90歳代ということになる。

やんしゅう先生ご夫妻と知り合ったのは私の20歳代半ば。もう40年近くになる。

やんしゅう先生ご夫妻に懇意にしていただいたのは私だけではない。私の両親もたいそうよくしてもらった。私の両親がまだ元気だった頃、群馬県太田市のやんしゅう先生の奥様のご実家を両親と一緒に訪ねたこともあった。やんしゅう先生の奥様のご両親もその頃はお元気であった。奥様のご実家でのこと。隣の部屋から私の両親と奥様のご両親の賑やかな笑い声が聞こえてきた。何だろうと思って覗いてみると、なんと4人がお互いにお灸をすえあっていた。

やんしゅう先生は、私と二人だけのときは実に朗らかであった。しかし奥様のご実家ではいつも物静かであった。「物静か」というよりも無言であった。私に対しても何も話しかけなかった。私は何度か奥様の実家にうかがったが、奥様のご実家ではやんしゅう先生の話し声を耳にしたことがなかった。年末に奥様のご実家にうかがったとき、うつむいて黙々と年賀状を書いていらっしゃったやんしゅう先生の姿が今も目に浮かぶ。

やんしゅう先生は奥様とふたりで自宅にいらっしゃったときも寡黙であったのではないかと思われる。「仕事をキチンとやり社会的地位もあるのにねえ」と奥様が私に何回かおっしゃったのはそのことを指していたのではないだろうか。やんしゅう先生は奥様のことを私にはよく自慢した。しかし、その分、奥様に気後れしていたようだ。

奥様のお父様も書道の師範であった。姿勢がよく、かくしゃくとしていらっしゃった。目を細めながら時折見せる笑顔が魅力的であった。奥様も書道の師範であり、ご実家では絶えず筆を握って練習していらっしゃった。

奥様のお母様は対照的に温厚で心優しい方であった。私と二人きりになると、「ふたりに子がないことが気がかりで」と小声でおっしゃったことが何度かあった。奥様は一人っ子であった。奥様に子がないと家が絶える。このことをお母様はいつも気に病んでいらっしゃった。

30数年前の思い出である。奥様の両親は既に亡い。私の両親も亡くなった。

下は奥様が昨日お送りくださったご自宅の近くの写真である。川は隅田川。隅田川花火の日には何度かご自宅に招待していただき、ご自宅から花火を楽しませていただいた。






2021年1月22日金曜日

墓参り 2

先日、「墓参り」というタイトルでブログを書き、改葬について述べた。しかし話があちこちに跳んでしまって読みづらい。整理して書き直したい。
 
  1. 改葬の理由
    1. 我が家の先祖は全て土葬であった
    2. 土葬してある先祖の墓を掘り起こして遺骨を回収しなければ、両親の遺骨を埋葬するスペースがなかった
    3. かつ、その墓地は我が家の所有地ではなかった
    4. 親族の遺骨を納めるために父親が建てていた納骨堂は畑の中にあり、土佐市から移設を求められた
    5. 東京から墓掃除や墓参りに訪れることはどんどん困難になると予想された
  2. 改葬許可
    1. 裁判所からの許可の取得
    2. 市役所からの許可の取得
  3. 改葬先の準備
    1. 墓地の決定
    2. 納骨堂の注文
    3. 開眼供養
    4. 納骨
  4.  遺骨の回収
    1. 閉眼供養
    2. 遺骨の回収
    3. 東京への遺骨の運搬

2021年1月18日月曜日

宗教

我が家の宗教は真言宗豊山派である。空海(弘法大師)は四国の香川県に生まれ主に四国で布教活動を行ったためなのか、高知県では真言宗の寺を菩提寺として持つ家が多いように思う。

しかし私は信心深いとはいえない。そうかといって無神論者でもない。また、信教の自由は保障されなければならないとも考えている。

私にとって宗教とは何か、どのような意味を持つかといったことについてこれまで考えたことはない。宗教書もほとんど読んだことがない。高校時代、作家・野間宏の「歎異抄」という作品を読んだことがあるぐらいのものである。その本は友人が貸してくれというので貸したが、戻ってこなかった。

ただ、死後の魂とか霊魂といったことについては時折考える。私には霊は見えない。しかし不思議な経験をしたことがある。科学では説明できない事象であった。それ以来、生きている人の念もしくは死者の霊のようなものが離れた場所にいる人に影響を及ぼすことがあることを信じるようになった。

私が不思議な体験をしたのは大学6年生(医学部は6年)の時であった。卒業を間近に控えた1月中旬のこと。父親から夜に電話がかかってきた。元気でやっているかと父親は尋ねた。私は通り一遍の返事を返した。それほど長話はせず、父親は電話を切った。今、思い返すと、父親の声には力がなかった。

その翌日、私は友人の家に出かけた。そこで医師国家試験の勉強をするつもりであった。しかし、友人宅で勉強を始めても集中できない。それまで体験したことのない体調に陥った。熱があるわけではない。どこかが痛むわけでもない。表現のしようがない感覚であった。友人宅で一晩すごした。しかし翌日も体調はおなじであった。もしかして、と思って実家に電話をかけた。電話に出たのは伯母であった。叔母は私の声を聞くと、「どこにおるが!?お爺ちゃんが死んだで!今、お葬式の最中!」と叫んだ。祖父が亡くなったのを知って私は驚いた。深い悲しみが襲ってきた。しかし祖父の死を知った瞬間、体調が元に戻った。不思議な体験であった。

亡くなった祖父が自分の死を私に伝えようとしていたのであろうか。それとも両親や親族の強い思いがあのような体調を引き起こしたのであろうか。

以後、あのような体調に陥ったことはない。祖父が亡くなる直前の晩に父親が私に電話をかけてきたのは、祖父が危篤状態になっていることを伝えるためであった。しかし、国家試験を目前に控えて勉強に励んでいる私に、祖父の病状を伝えることができなかったという。祖父の死後、しばらく経って、父親は私にそう話した。



2021年1月14日木曜日

手紙

以前から、メッセージや電子メールでのやりとりは味気ないと思っていた。できれば手紙に切り替えたいと思っていた。昨年暮れからやっと手紙(葉書)を書くようになった。そのきっかけは昨年末にいただいた喪中葉書であった。
 
昨年暮れに喪中の連絡をくださった方の一部に、思い切って葉書でお返事を書いたのだ。主たる理由は私の転勤通知をまだ出していなかったことであった。だから葉書の文面はどれも同じであった。それでも手紙(葉書)を書くことによって心が洗われる気がした。
 
ここに掲載した葉書は、いただいた喪中葉書への返事として私が出した転勤通知に対して再度いただいた返事の葉書である。(本人の了解を得ず掲載する。)なんと、私がこれまで送った葉書を全て保管してくれていると書かれている。ほとんどは年賀状であろうが、23通あると書かれている。この方とは私が30代半ばのときに知り合った。生きるのが非常に辛い時期であったが、私の愚痴に耳を傾けてくれた。
 
年をとると若い頃のことを時々思い出すようになる。いろいろな方に助けられてここまで生きてこられたことをしみじみと感じる。
 
 
 

2021年1月7日木曜日

電子メールとメッセージ

電子メールは手軽である。メッセージはもっと手軽に送受信ができる。私は、メッセージ用のソフトウエアとしてはアップルのメッセージ、Facebookのメッセージ、そしてLINEを使用している。本当はアップルのメッセージだけを使いたいが、アップルのメッセージではAndroidのユーザーとの連絡が取りにくい。
 
セキュリティの面からはアップルのメールが最も安全であると思う。FacebookとLINEにはセキュリティ面で問題がある。
 
ただセキュリティのこととは関係なく、今後、メッセージを使うのは最小限にしようと思っている。
 
昨年の暮れから私は電子メールやメッセージの代わりに葉書を出すように努めている。葉書のやりとりは時間の流れが緩やかである。
 
私は、これまでいただいた手紙のなかで印象に残ったものを大切に保管している。それらを時々読み直すが、読むたびに心が洗われるような気がする。残念でたまらないのは、私がまだ独身であったころに父親からもらった手紙が見つからないことだ。十年ほど前に古い書類の山の中からその手紙を偶然見つけ、その文面に心を打たれた。どうもその手紙を大事に仕舞いすぎたようだ。見つからない。
 
私の人生もそう長くない。平均寿命まで生きたとしてもあと20年足らずである。私が最近出している葉書を長く保管してくれる人はいるであろうか。
 

2021年1月6日水曜日

墓参り

1月2日、天気が良かったので家内とふたりで墓参りにいってきた。自宅からは車で15分ほど。住宅に囲まれた小さな寺の一角に墓はある。閑静で日当たりもいい。今年の正月は、私たち以外に参拝人はいなかった。
 
墓石の背面には「高知県土佐市鷹ノ巣より改葬」と刻まれている。我が家のルーツを知っているのは私の息子までであり、私の息子の子らは、自分たちの先祖が高知県出身であったことすら知ることはないであろう。そう思い、「高知県土佐市鷹ノ巣より改葬」と記した。
 
 
父親が亡くなったのは2014年3月7日。この墓石は父親の四十九日の法要の直前に完成した。私は父親の遺骨をしばらく自宅の仏壇に置いておきたかった。しかし家内は、納骨しないと成仏できないと言った。私は家内の言葉に従って父親の四十九日の法要の日に納骨した。法要に同席したのは、一人の僧侶と私、私の家内、そして私の一人息子だけであった。
 
祖父母まで、私の先祖は全て土葬であった。実家の裏山の斜面にあったわが家の墓地には30柱ほどの墓石が並んでいた。江戸時代からの墓石もあった。墓石の表面には苔が生え、名前が読めないものが少なくなかった。名前が刻まれていない墓石もあった。
 
改葬するにあたって遺骨は専門業者に依頼し、2日かけて掘り起こしてもらった。どの墓からも骨のかけらぐらいは見つけられるだろうと思っていた。しかし遺骨や遺品が出てきたのは祖母と祖父の墓だけであった。他の墓には遺品も遺骨も何も残っていなかった。驚いたのは、祖父の遺骨よりも祖父の遺骨が傷まずに残っていたことであった。祖母は祖父より20年前に亡くなっていた。しかし祖父より25歳若くして亡くなったので、まだ骨がしっかりしていたのかもしれない。祖母の遺骨はビニールの袋に包まれ、櫛などの遺品も出てきた。
 
遺品も遺骨も残っていなかった墓からは一握りの土だけを取り出しそれを丸めて遺骨代わりとした。
 
わが家では、親族のものと思われる墓も管理していた。子供の頃、私はその墓の掃除に何度か母親と行ったことがある。その墓は実家から数百メートル離れた小高い山の上にあった。雑木が生い茂り日当たりが悪く、湿っぽかった。途中の山道は狭く、坂は急峻で、滑りやすかった。当時はまだ母親の足腰はしっかりしており、どのように地面を踏みしめれば足を滑らさないかを私に教えてくれた。その墓地は昼間でも薄暗く気味がわるかった。私は一刻も早くその墓地から立ち去りたいといつも思ったが、母親は自宅から持ってきた竹箒で落ち葉を丁寧に掃き、ひとつひとつの墓に水を注いだ。いくつかあった墓石には「広瀬」と刻まれていた。しかし國弘家と広瀬家との関係について母親も父親も私に話したことはなかった。
 
私の実家の裏山の畑に後に父親が設けた納骨堂は、この「広瀬家」の人たちの遺骨が納められているようであった。それらの遺骨も父親や先祖の遺骨と一緒に東京に送った。納骨堂を開ける際に、納められていた遺骨の俗名を確認したが、忘れてしまった。遺骨はほとんど傷んでいなかった。國弘家の先祖のものとは大違いであった。おそらく「広瀬何某」であったのではなかろうか。
 
これだけ多くの遺骨を新しく完成した墓に納められるられるかどうか心配であったが、無事、納まった。
 
改葬は大変な作業である。多くの時間と労力を要する。経費もかかる。改葬に要した経費の大半は父親の通帳から出した。しかし出血性脳梗塞で入院していた父親は自分の意見を述べられる状態ではなかった。父親の通帳から通帳から改葬費用を引き落とすには裁判所の許可が必要であった。裁判所への嘆願書は司法書士の友人が書いてくれた。嘆願書には、父親が元気であった頃に改葬を希望していたことを証明する文書を添付しなければならなかった。この証明書を作成するために友人は私の親戚や隣人の家を訪れ、父親が改葬についてどう考えていたのかを聞いてくれた。父親がまだ元気であった頃、改葬のための経費の見積もりをある業者に要求していたことはその際に知った。
 
友人が書いてくれた裁判所への改葬嘆願書は長文であった。彼はその嘆願書の文面をファックスで私に送ってきた。私は彼の書いたものを推敲し送り返した。何度かファックスでやり取りした。裁判所からは、無事、改葬許可が下りた。
 
友人の名は土方昭。中学校時代からの友人である。私が両親の介護をするようになってからは、彼がいろいろとサポートしてくれた。彼は非常に真面目な男であった。手を抜かない。あまりにも熱心に働きすぎて燃え尽きてしまったようだ。数年前に仕事をやめ、今は悠々自適の生活を送っている。
 
話が前後するが、両親が元気だった頃、私は実家に帰るたびに実家の裏山にある先祖の墓地に参拝した。父親と一緒であることが多かった。墓地の草をむしった後、ひとつひとつの墓の前で祈った。祖父母の墓で祈る際には、父親はいつも「幸伸が来たぜよ」と祖父母の墓石に向かって話しかけた。そして「自分が元気なうちは自分が墓守をするが、ゆくゆくは幸伸、頼むぜよ」と言った。
 
その墓地にはもう両親を埋葬するスペースがなかった。漠然としてではあったが、私は、両親はどこに埋葬しようかと考えていた。父親が倒れた直後は、実家の裏に父親が設けていた親族の納骨堂に両親の遺骨を納めるつもりであった。しかしその納骨堂は畑の一角にあった。市役所に勤務しているた中学高校時代の同期生に相談すると、畑に納骨堂を設けるのは違法であると言われた。納骨堂も撤去しなければならなかった。
 
墓地を探さねばならなくなったのにはもう一つ訳があった。なんと、先祖代々の墓がある土地は我が家の所有地ではなかったのだ。実家の隣の家が所有していた。江戸時代からの墓石があったので、まさかそのようなことがあろうとは。私は驚いた。既に二百年以上我が家で使用していた。したがって我が家の所有地とする手続きをすることができないわけではなかったが、隣家と揉め事を起こしたくなかった。
 
当初は実家があった土佐市内で墓地を探した。しかし土佐市は高知龍馬空港から離れている。そのため、空港に近い高知市内の墓地を探した。高知市の市街を臨める小高い山の中腹にある墓地が私は気に入った。そこは日当たりもよかった。
 
その墓地に改装しよう、両親が亡くなったら両親の遺骨もそこに納めようとほぼ決めたとき、墓地は東京に移すのがいいと従姉から言われた。その従姉はある宗教に入信しており、信心深かった。彼女は「供養することが大事だから」と私に言った。確かに、墓参りのために高知を年に何度も訪れることは難しい。ましてや私の息子の代になれば一層困難になるであろう。
 
私は、父親と同じ病院に入院していた母親に、東京に改装しようと考えていると話した。それを聞いた母親は笑顔を浮かべながら賛成してくれた。母親はどんなことがあっても東京には行かない、高知で一生を終える、と若い頃から私に言っていた。しかし死後は私たちの家の近くに埋葬されるのが寂しくなくてよかったのであろう。父親も東京に移住する意志はないと母親から聞かされていた。しかし、実家の隣人には「いずれは東京に連れていかれるだろう」と父親は話していたという。「連れていかれる」というのは土佐の表現である。意味するのは、埋葬されるということである。
 
改葬するには市役所の許可が要る。この許可申請も手続きが煩雑であった。改葬許可を受けるには、まず過去70年ほどの先祖の一覧が必要であった。家系図のようなものである。市役所でもらったその書類を見ると、亡くなった先祖の名前は一本の横線で消されていた。こんなにも沢山の先祖がいたのかと驚かされた。しかし私が知っている名前はほとんどなかった。
 
もうひとつ大きな問題があった。改葬するには改葬先も決めなければ改装許可をもらえない。父親の病状はどんどん悪化していった。時間との競争になった。
 
改葬先探しは私の家内がやってくれた。家内はあちこちからカタログを取り寄せ、現地にも足を運んでくれた。私も何箇所か見て回った。
 
私たちの夫婦は宗派にはこだわらない。しかし母親は宗派を変えることを嫌がった。我が家の宗教は真言宗豊山派であった。自宅近くに真言宗の寺がなかったわけではなかった。しかしそれらの寺を私たち夫婦は好きになれなかった。住職が傲慢であった。宗派によって僧侶の性格が異なることに私たちは気づいた。
 
あちこちを下見した結果、私たちは文京区にある曹洞宗の寺を改装先に選んだ。その寺には信仰宗教不問の一角があった。寺に支払う権利費、業者に支払う墓石製作費は父親の銀行口座から引き落としたが、諸雑費もかなりかかった。私たち夫婦が費やした時間膨大であった。また息子も含めて家族全員が何度か高知に帰らねばならなかった。
 
改葬にあたって私たち夫婦は先祖のために全力を尽くした。しかし埋葬される先祖たちは自分たちの希望を私たちに告げることはできない。死人に口なしなのである。

2021年1月4日月曜日

従姉

母親が亡くなった後、書類の山の中に一通の手紙を見つけた。差出人を見ると兵庫県に住む従姉であった。開封されていたので私はその手紙を既に読んでいたのだろうと思う。ただ全く記憶になかった。
 
読み直してみると、その従姉の実家の改修に必要なお金を私の母親に無心したと言われたがそんなことはないという内容であった。

その従姉の実家には彼女の母親が一人で暮らしていた。従姉はなんとかしてその家の外壁を改修してやりたいがお金がないと私に言ったことがあった。改修には二百万円だか三百万円だかがかかると従姉は話した。しかし彼女が私に金を無心したわけではなかった。私にそれほど多額の金を出す余裕などあるはずがない。改修費を負担すべき立場にもない。私は彼女の話を単に聞くだけであった。

この従姉は、彼女が私の実家に改修費用を無心したと私の母親が私に言ったものと思い込んでいたようである。そして私の誤解を解きたくてこの手紙を寄越してきたように思われる。しかし母親が私にそのような話をしたことはなかった。私の母親と私の間でこの従姉の実家の改修費のことが話題にのぼったことはなかった。
 
ただ、私の姉からは次のような話を聞いたことがあった。姉は、その従姉からお金を無心されるのでいやになってその従姉には電話をかけなくなったと私に言った。正確には、「従姉から電話で話すたびに金がない金がないと言われる。改修費を無心されているようでいやなので最近はその従姉に電話しなくなった」と姉は私に語った。姉が私にこの話をした直前に私も従姉から改修費のことを聞いていたので、姉の話は理解できた。しかし私は姉の話も聞き流した。
 
そんな時期に父親に続いて母親も入院。退院して実家に戻ることは二人ともできそうもなくなった。空き家になった私の実家をゆくゆくは従姉に譲渡することにし、彼女の母親が住む家の改修はせず彼女の母親に私の実家に住んでもらうのがいいのではないかと思った。私は従姉に電話をしてそのことを話した。しかしその従姉は「いらんわ、あんな田舎には住めん」といって私の申し出を断った。従姉の母親は結局、その従姉の実姉の嫁ぎ先の近くに住むようになった。そしてそこで亡くなった。
 
思い返してみると、従姉から金を無心されると私の母親に告げたのは私の姉であったと思われる。私の母親がその従姉と家の改修について直接話したことはなかったのではないかと私は推測している。姉から改修費の話を聞いやとしても、母親が従姉に抗議の電話を入れるといったことは、母親の性格からは考えにくい。
 
理由がわからないが、私はその従姉に恨まれることになった。
 
私の姉は、全く理由なく他人の悪口を言っては他人同士の人間関係を壊す。他人の人間関係を破壊することが姉の生き甲斐のようだ。姉が何か事実無根の話を従姉にしたのであろう。

嫉妬

この世を動かしているエネルギーは嫉妬と憎しみであると私の知人が言ったことがある。そのことを聞いたとき、私はそのようなこともあるだろうしそうでないこともあるのではないかと思った。また、そういう人もいるかもしれないがそうでない人もいるのではないかとも思った。
 
しかし最近、嫉妬と憎しみがどれほど恐ろしいものであるのかを知った。
 
両親の最晩年に私の姉がとった行動はまさに嫉妬と憎しみそして猜疑心以外では説明がつかない。姉は元々、猜疑心が強かった。姉が人を褒めるのを聞いたことはこれまで一回しかない。それは姉の三女について話したときであった。姉の三女だけが心優しいと姉は言った。姉には4人の子がいた。その4人のうち3人は女の子であった。しかし姉はそれら3人の子の誰も褒めたことがなかった。姉が自分の子を批判するときに用いる言葉は今思い出してもへどが出そうになる。
 
姉は亡くなった父親と母親も褒めたことが一度たりとなかった。感謝の言葉を口にしたことすらなかった。私の妻の悪口を言い始めたときも際限がなかった。1時間も2時間も延々と私の家内を批判し続けた。自分(姉)の夫の批判もひどかった。あんな酷い男はいない、と夫の批判を続けた。特に、姉の夫が兄嫁を褒めることが気に入らなかったらしい。兄嫁のことも散々罵った。「会社が潰れたのに着飾ってのうのうと何一つ不自由のない生活をしている」、「カラオケに毎日のように通っている」といったような調子であった。
 
姉の夫が姉を批判したときのことも姉の口から聞かされた。姉から話を聞くと、姉の夫(つまり私の義兄)は酷い人だと思えた。しかし、義兄が時折姉に対して声を荒立てたのも当たり前でなかったかと思う。繰り返しになるが、姉は誰も褒めなかった。姉から出る言葉は悪口と愚痴だけであった。毎日他人の悪口ばかり聞かされれば、誰でもうんざりするであろう。
 
私が姉に意見すると、突然、攻撃の矛先が私に向かった。
 
父親が倒れる1〜2年前、私が年末年始に帰省した際に、父親が私と私の姉とが不仲なのを心配して「お姉(おねえ)とは仲よう(なかよく)やりゆうかえ。なかようなりよ」と何度か言った。私はそのとき、父親の意図がわからなかった。私は私と姉の関係に特段変化はないと思っていたからである。しかし、姉は両親に対してさんざん私の批判をしていたらしい。
 
姉はある人に電話をかけると他の人の悪口を言う。それの繰り返しであった。悪口のねずみ講である。
 
姉は父親と母親が相次いで入院したとき、國弘家から絶縁すると宣言した。私は両親が亡くなるまでの2年あまり、東京と高知とを往復しながら両親を介護した。仕事に多大な支障が出た。しかしこの2年間は私にとって無駄ではなかった。両親の私に対する愛情を身近に感じることができたからである。両親は間違いなく姉にも私に対すると同じように深い愛情を持ってくれていた。私はそれをひしひしと感じた。姉は両親の愛情を身をもって感じる貴重な機会を自ら閉ざした。
 
両親とも亡くなった今、姉の心は生涯救われないであろう。
 

2021年1月3日日曜日

再従従妹

私には同じ小学校、中学校、高校に通った再従従妹(はとこ)がいる。彼女には私の姉と同い年の姉がいたが、物静かな兄とは対照的に非常に活動的で気が強かった。小学校1〜2年生のときには私は一人のクラスメートによく泣かされた。その際に私をかばってそのクラスメートを叱りつけてくれたのはいつも彼女であった。小学校1年、2年の担任であった先生(中野とし先生)私が小学校卒業卒業式の日、「あんなに泣き虫だったのに逞しくなったね」と私に微笑みながら話しかけてくれたのを今でも思い出す。
 
私は小学校1年、2年の頃はあまり成績がよくなかった。小学校3年になって突然、成績がクラスのトップクラスになった。両親の介護のために東京と高知の実家とを往復しているときに箪笥の中かから当時の通知簿が出てきた。良心は私の思いでの品をしっかりと箪笥のなかにしまっておいてくれていた。成績は私が思っていたとおりであった。小学校1年と2年のときにも算数は非常によくできたらしいが、他の教科のできは大したことはなかった。ところが小学校3年生の通知簿からは別人のように成績が上がっていた。成績が上がった理由はわからない。
 
話を戻す。
 
その従妹は、私と同じ高校を卒業した後、徳島県にある大学の薬学部に進学した。そして薬剤師になった。今も薬剤師として働いている。この再従兄弟とは年一回、年賀状をやりとりする程度のつきあいでしかなかった。
 
彼女とよく連絡を取り合うようになったのは私の両親が入院し、私が東京と高知とを往復するようになったときからであった。私は2週間に1回高知に帰った。土曜日,日曜日、月曜日と三日間高知に滞在することが多かった。土曜日には朝5時に起床し、始発の飛行機で高知に向った。高知からの帰りはいつも月曜日の最終便であった。月曜日には銀行、市役所、郵便局などを回るとともに病院に見舞いにも行かなければならなかった。月曜日は朝食も昼食もとれないことが多かった。夕食は空港内の食事でさぬきうどんをかけこんだ。
 
そんな私を見かねたのか、私が高知に行くときには空港まで私の車(私の父親所有であった)を運んでくれた。私が高知龍馬空港に着いたときには毎回、私の車が駐車場に停められていた。そして私が東京に帰る歳には空港に乗り捨てた車を駐車場まで運んでくれた。「少しでも長くおんちゃんとおばちゃんの側におっちゃりや」と彼女は言ってくれた。
 
私の母親は尿管結石の手術を受けた後、尿管にカテーテルが入っていた。そのカテーテルは2か月に一回交換しなければならなかった。そのため、入院先の病院から高知大学医学部附属病院を受診せねばならなかった。その歳には付添がいる。親戚が付き添ってくれたこともあったが、私の家内も何度か高知に帰省した。台風が高知県を直撃したときに家内が高知に行かなければならないときもあった。そんなときでもその再従兄弟は私の家内を自分の栗間に乗せて母親の入院している病院まで連れていってくれた。途中、通る仁淀川は大きく増水し、箪笥も流れてきていたらしい。このような気管な非にも再従兄弟は助けてくれた。
 
その日、私の家内は、母親が入院している近くに住んでいる私の従姉に挨拶に立寄ったというが、その従姉は私の家内の輻湊を見て「みすぼらしい。もっときちんとした身なりをしなさい」と叱ったという。私もその従姉には幾度となく同じ叱責を受けたことがある。
 
しかし私が帰省したときには、私は泥だらけになりながら父親が所有する山林や田畑を回らねばならなかった。家内とて似たようなものである。着飾って行く必要などないではないか。それに私たちは金には不自由していない。見栄を張る必要はない。
 
両親が亡くなるまで、私は実に多くの人たちに助けてもらった。その一方で、最も近くに住んでいる娘である姉は何もしなかった。見舞にも来なかった。姉にはいずれ天罰が下るであろう。

2021年1月2日土曜日

恩師 4

浅野先生が亡くなったのは16〜17年前のことであった。淺野先生の年齢を本人に尋ねたことはなかったが、私より10歳以上年上だろうと私は思っていた。
 
淺野先生とはウマが合った。彼女は独身であったが、二十歳代のころにイギリス人の俳優にあこがれてその俳優と結婚しようと思い、イギリスにあるその俳優の家の前で寝泊まりするためにテントを買い野宿の準備をしたことがあったという。ところがその俳優は浅野先生が日本を発つ直前に亡くなった。
 
そのイギリス人の俳優が浅野先生を知っていたはずはない。その俳優が生きていたとしても浅野先生がその俳優と結婚できたとは到底思えない。
 
しかし「人生」というものを大局的に考えると、浅野先生が実行しようとしていたその無鉄砲な行動は、浅野先生がその後の人生を生きていく上で必須の経験であったのではなかろうか。
 
到底かなえられないとわかっていてもその希望や目標を達成するために全力で努力した経験。これは誰にとってもその後の人生の糧となる。イギリス人の俳優を追いかけた思い出は、浅野先生にとっては人生で一番懐かしい思い出であったようだ。何度もその話を聞かされた。いつも笑いながら。
 

2021年1月1日金曜日

恩師 3

やんしゅう先生の奥様と性格がよく似た知人がいる。彼女は45歳。二人の子持ちである。結婚後、ずっと東京に住んでいたが子育てのために家族で静岡県に引っ越した。二人の子供は少し障害を抱えているという。ご主人は東京の会社に新幹線で通勤している。
 
彼女の性格を一言で表現すると、前向き。このことは彼女自身も自覚している。活動的である。これとは対照的にご主人は物静か。東大を出ているのにもかかわらず控えめ。目立つことが嫌いだという。時間があれば家事も手伝うらしい。2か月ほど前に久しぶりにご夫婦にお目にかかった。ご主人は少し白髪が目立つようになっていたが雰囲気は以前と同じであった。ご主人にその前にお目にかかったのは栃木県でであった。盆栽の家元のご自宅でお会いした。そのときは上のお子様の乳母車をご主人が押しておられたのを覚えている。
 
彼女とどういうきっかで知り合ったのかは説明のしようがない。というのは、私が懇意にしていた職場の心理治療師が私の診察室に彼女を連れてきたのだ。彼女は私の患者でもなんでもなかった。なぜその心理治療師が彼女を私に紹介したのかは今もわからない。彼女は当時、20歳代半ばであった。ひょっとしたら、その心理治療師は彼女の結婚相手を私に紹介させようとでも考えたのであろうか。
 
その心理治療師の名前は浅野恭子(以下、浅野先生)。浅野先生にはとてもお世話になった。彼女のカウンセリングの技術を私は高く評価していた。仕事を離れて、浅野先生が生きてきた人生を聞くのも楽しかった。
 
彼女は急性膵炎で急死した。
 
浅野先生本人から電話をもらったのは木曜日であった。年は覚えていないが、6月ではなかったかと思う。急に強い腹痛が起きた。これから病院に行くという連絡であった。浅野先生にはその数日後に私の研究班での講演を依頼していた。浅野先生は、講演ができなくなったと言った。
 
浅野先生危篤の連絡が入ったのはその数日後。勉強会が終わり散会した直後であった。私は仲間に電話をかけ、再度集まり、浅野先生が入院している病院に車に相乗りして駆けつけた。その際、上で話した女性にも連絡し、一緒に病院に向かった。
 
病院に着いたのは深夜であったが、病院の職員は私たちを全員病室に案内してくれた。浅野先生は集中治療に入っていた。人工呼吸器が付けられていた。当然、意識は落とされており、会話はできなかった。一緒に行った一人の後輩は浅野先生の浮腫んだ脚をなでながら涙を流した。
 
浅野先生の訃報が届いたのはその数日後であった。浅野先生は独身であった。私たちは葬儀の後に彼女のお姉さまが開いた偲ぶ会に招待された。ささやかな会であった。
 
人の死は身近な人には深い悲しみを与える。しかし私のように単なる職場の同僚にすぎなかった者が20年近く経っても浅野先生の死を悲しんでいることを誰が想像できようか。
 
上述した女性とは最近、めったに会う機会はないが、彼女はFacebookに時々、自身の近況をアップロードしている。昨年、私はFacebookに投稿することをやめた。他の方達の投稿にも「いいね」はつけない。彼女の投稿にもレスポンスしないが、変わりなく元気に過ごしているようだ。彼女は浅野先生の形見のような存在である。