2008年12月2日火曜日

小さき者へ 有島武郎

高校時代、私は多くの小説を読んだ。ほとんどは明治から昭和初期にかけての作家の作品であった。しかし有島武郎の作品はほとんど読んだことがない。その理由が最近になってやっとわかった。要するに読みづらいのだ。文体が翻訳調であるからである。

ただ、有島武郎の作品を全く読んだことがないわけではない。短編ではあるが、「小さき者へ」と「生まれいづる悩み」の2編は私の愛読書である。これらの作品は青空文庫としてネット上から手に入る。無料で読めるのだ。

今日の夕方、帰宅途中、青空文庫の中の「小さき者へ」を読み直してみた。次の一節は実に迫力があった。ここに引用する。

「お前たちの母親の遺言書の中で一番崇高な部分はお前たちに与えられた一節だった。若しこの書き物を読む時があったら、同時に母上の遺書も読んでみるがいい。母上は血の涙を泣きながら、賃でもお前たちに会わない決心を翻さなかった。それは病菌をお前たちに伝えるのを恐れたばかりではない。又お前たちを見る事によって自分の心の破れるのを恐れたばかりではない。お前たちの清い心に残酷な死の姿を見せて、お前たちの一生をいやが上にも暗くする事を恐れ、お前たちの伸び伸びて行かねばならぬ霊魂に少しでも大きな傷を残す事を恐れたのだ。幼児に死を知らせる事は無益であるばかりでなく有害だ。葬式の時は女中をお前たちにつけて楽しく一日を過ごさして貰いたい。そうお前たちの母親は書いている。」

この一節がなぜ今の私の心を捕えたのであろうか。繰り返しこの一節を読むと、さまざまな想いが私の心の中を駆け巡る。

私のふたりの知人も幼子を遺して死んだ。彼女たちが生前繰り返し叫んだ無念さがこの一節の中からも溢れ出てくる。

2008年11月25日火曜日

祖母

寒くなると訃報を聞くことが多くなる。私の祖父母も冬に亡くなった。祖父の命日は1月21日。88歳。老衰であった。

一方、祖母は祖父よりもずっと早く、63歳で亡くなった。私が小学校2年生のときの12月30日のこと。やはり寒い時期であった。

当時のことは今でも鮮明に思い出すことができる。祖母が倒れた日。その日の朝、祖母は近所の農作業を手伝いに朝早くから出かけた。金柑採りであった。木枯らしの吹く寒い日であった。祖母は自宅を出る際に珍しく興奮していた。

祖母が倒れたという知らせが届いたのは日没前。一緒に農作業をしていた近所の人たちが意識のなくなった祖母を背中におぶって私の自宅まで運んでくれた。一目で中風だとわかった。祖母は血圧が高かった。高血圧にいいからと言って、長い間、野菜の汁と柿の葉の汁を飲んでいた。

祖母は囲炉裏端に寝かされた。母は献身的に看病をした。祖母が亡くなるまでの間にかかりつけの医師が3回か4回往診に来てくれたように思う。臨終の際にも立ち会ってくれた。しかし治療らしき治療は一切施さなかった。当時の医療水準からすれば術はなかったのであろう。

祖母が息を引き取ったのは早朝であった。父は祖父の死を確認すると突然あわただしく動き始めた。あらかじめ準備していたらしく、てきぱきと葬儀の準備を進めた。翌日は大晦日、その翌日は元旦。父は祖母の死の翌日の大晦日に葬儀を行うことに決めたようであった。

まだ当時は電話が普及していない。父は親族に対して次々と電報を打ち始めた。「ハハ、シス。・・・・」と電話で父親は何度も繰り返してしゃべっていた。あっという間に親族一同が集まった。祖母は実家の裏山にある墓地に埋葬された。土葬であった。

葬儀の後の会食が終わると親族は次々と帰宅し始めた。翌日は元旦であった。叔父夫婦もその日のうちに帰宅するという。

何を思ったのか私はその叔父に対して「おんちゃんの家に一緒に行く!」と言って、実家からバスと汽車を乗り継いで2時間ほどかかる叔父の家までついていった。そして叔父の家で3泊した。祖母の葬儀のあとひっそりとなるにちがいない実家にじっとしているのが当時の私には寂しくて我慢ができなかったのであろう。叔父の家では従兄弟たちと楽しい時間を過ごすことができた。気分は晴れなかったが、祖母の死の悲しみからわずかでも気を紛らすことができた。

叔父の家は中土佐町久礼にあった。「土佐の一本釣り」で有名になった海辺の小さな漁港だ。叔父の家は海に面していた。堤防の向こうに雄大な土佐湾が見渡せた。私の実家は山村にあったから、海を見ることはめったになかった。海に慣れない私は激しく打ち寄せる波が怖かった。

堤防の上に上ると風が強い。そばに立っている叔父に向かって私はふっと次のような質問をぶつけた。「風はなぜ吹くが?」

間をおいて叔父はゆっくりとしゃべり始めた。「地球上のあるところに空気がない場所ができて、そこに空気が流れ込むと風になる。」

幼い私は不思議に思った。空気がない場所ができたならばそこで暮らしている人たちは窒息してしまうのではないだろうかという素朴な疑問を持ったのだ。しかしこの疑問を私は叔父にぶつけることはしなかった。怖い答えが返ってくるのではないかというおぼろげな不安感のためであったように思う。「そうなんだよ。だから地球上のあちこちで、窒息のためにどんどん人が死んでいるんだよ。」こんな答えが叔父から返ってくるような気がしたのだ。

祖母が倒れた日の朝に祖母が興奮していた理由を私が知ったのは、祖母の死から3か月ほどしてからのことであった。祖母が倒れた日の朝、家を建て替えると父は祖母に告げたらしかった。祖母の生前、祖母と父とはたびたび口論をしていた。気性の激しい父は怒ると祖母に暴力を振るうこともあった。父は貧乏から這い上がろうと無我夢中であったのだろうと今の私は当時の父の気持ちを擁護することもできるが、その頃の私は父をただ恐れ憎んだ。祖母が亡くなると、祖母と激しく口論してばかりで親孝行できなかったことを父はひとり悔やんでいるようであった。家を建て替えることを祖母に知らせることができたことだけでもよかったと繰り返し父は家族に話した。

当時の私の実家はわらぶき屋根のおんぼろ屋敷であった。四角い柱はほとんどなかった。虫に喰われ、どの柱も円くなっていた。それに暗かった。台風や地震のときには家全体が大きく揺れた。家が揺れるたびに祖母は大声で「ほー、ほー」と叫んだ。何かのお呪いであろうと私は思った。蛇やムカデが家の中に入ってくることもよくあった。ムカデに噛まれたことも一度や二度ではなかった。

新しい家が落成したのは祖母の死の翌年の8月。その晩、私の姉と私のふたりは新居の床の間で寝かされた。当時、その地域ではひとつの儀式であったらしい。夏ではあったが、まだ畳も敷かれておらず、すきま風も入ってくる。このように開けっぴろげの場所で子供をふたりきりで寝かせるということは今の東京では信じられないことであろう。少し寂しかったが、私は心地よい檜の匂いに包まれていつしかぐっすり眠ってしまった。翌日は朝から快晴であった。

祖母が亡くなって44年経った。祖母の死はまだ昨日のことのように思い出される。祖母は私の記憶の中で今も生き続けている。

2008年11月16日日曜日

軽井沢

私は、毎年、夏休みを家族と一緒に軽井沢で過ごす。そして軽井沢から一泊か二泊であちこちに出かける。今年は白馬の八方池まで足を伸ばした。

白馬山麓駅からケーブルカーとリフトを乗り継いで山を登る途中に長野オリンピックでの大滑降の競技場があった。長野オリンピックが開催されたのは1998年。ちょうどこの直前に長野新幹線が開通した。そしてその数か月後に息子が生まれた。

八方池に行くにはケーブルカーとリフトを乗り継いだあと更に1時間ほど歩かなければならない。私たちは山の裾野に広がる白馬の町や遠くかすむ北アルプスを眺めながらゆっくり山を登った。田園の中に広がる白馬の町は私たちが2年間住んだことのあるドイツを思い出させた。その光景は南ドイツにあるNeuschwanstein城から眺めたドイツの小さな町にそっくりであった。私はときおり足を止め高山植物をカメラに収めた。写真を撮り終わると先を行っている家内と息子に追いつこうと走った。

その晩、私たちは白馬の町にある小さなペンションに宿泊した。昨年も一昨年も白馬に一泊した。入浴をすませて宿泊客一同そろって夕食。そのペンションに当日宿泊していたのは家族連ればかりであった。

翌日は雨。私たちはそのペンションを出て鬼無里に向かった。そこには「いろは堂」というおやきの店がある。この店のおやきは東京のデパートでも見かけることがあると家内から聞かされていたが、デパートで買うおやきとこの店で食べるおやきとでは味が全く違うのではなかろうか。いろは堂でおやきを食べて以来、これまでに私たちは何度もこの店を訪れた。和服姿のおかみさんがいつも快く私たちをもてなしてくれる。

おやきを食べ終わってもまだ雨は降り続いていた。私たちはその日、戸隠で歩きながらいくつかの湖めぐりをする予定であったが断念するほかなかった。戸隠ではちびっこ忍者村を訪れたあと車で鏡池に立ち寄った。ちびっこ忍者村にも鏡池にも私たちは何度か来たことがあったので長居することはなく、軽井沢に戻ってきた。

軽井沢では、私たちは雑踏の中にほとんど足を踏み入れない。小諸にある農園でブルーベリー狩りやリンゴ狩りをしたり、その農園にある釣り堀で鱒釣りをしながら時間を過ごすことが多い。釣った鱒はその場で塩焼きにしてもらう。松井農園の職員の方々ともすっかり顔なじみになった。平素お世話になりながら義理を欠いている方々に今年はその農園からぶどうやりんごを送ってもらった。

息子はあっという間に10歳になった。もうすぐ思春期を迎える。私たちが揃って家族旅行にでかけることができるのも、もうそう多くはないであろう。親として自分の子に残せる最大の遺産は家族で過ごした楽しかった思い出であろうと私は思う。

2008年7月31日木曜日

きょう私に一通の手紙が届いた。赤のボールペンで「親展」と書かれていた。宛名書は筆字であった。差出人は私の知人のお母様。黒のボールペンで綴られた2枚の便せんが入っていた。知人の死を私に知らせる内容であった。娘の死の模様が淡々と述べられていた。私は繰り返しその手紙を読み直した。私は深い悲しみに捕らわれた。しかしその知人の死が意味のないこととは感じなかった。これから永遠に続く安らかな眠りは、その知人がこの数年の苦しみにじっと耐えてきた我慢の当然の代償のように思われた。

帰宅途中、週刊誌の中吊り広告が目に入った。「”死にたい人”には重労働を」という文字が私の目を引きつけた。有名な作家の投稿記事であった。

人は必ず死ぬ。どれほど生き続けたくてもいつかは必ず死ぬ。しかも死ぬ時期や死に方を選ぶ自由など誰にも与えられてはいない。死にゆく人にとっても家族にとってもほとんどすべての死は望まざるものであり、死に方もまた望まざる死に方なのだ。せめて残された人たちは、愛する者の死に価値を見いだす努力をしなければならない。たとえその死がいかなる死であったとしても・・・。死に対して意味を与えるのは死んでいく人だけの責務ではなく、死にゆく人と残される人たちとの共同作業であるべきではなかろうか。

その中吊り広告を眺めながら、そんな考えがふっと私の頭をよぎった。

2008年7月29日火曜日

祖父

私は祖父母に育てられた。

喜怒哀楽の激しかった祖母とは対照的に祖父は実に温厚であった。88歳で老衰のため亡くなるまで私は祖父が怒ったり嘆き悲しむ姿を一度たりとも見たことがなかった。私が物心ついた頃、祖父は既に隠居していた。そして小遣い稼ぎに家で竹箒を作ったり畚(ふご)と呼ばれる農作物の入れ物をワラで編んでは近所の雑貨屋に持っていって売っていた。ひとつ50円か100円で買い取ってくれるということであった。竹箒や畚を古い自転車の後部座席に乗せて店に納品するために出かけていく際の祖父のガニ股姿が今でも鮮やかに思い出される。

祖父はまた、近所の人に頼まれ、雑木林の伐採にもよく出かけた。私は保育園から帰ると祖父の仕事場を訪ねてはじっと祖父の作業を見つめていた。そんな私のために祖父は休憩時間を利用して切った雑木を削って刀や剣を作ってくれた。竹とんぼを作ってくれたこともあった。

そんな雇われ仕事をしている期間中も風呂の湯沸かしは祖父の役目であった。当時のわが家の風呂は五右衛門風呂。祖父は薪を炉の中に投げ込んだあと「吹き」と呼ばれる竹製の筒で火を煽った。何かの拍子に火が消えると、私も祖父のまねをして「フー、フー」と思い切り「吹き」を吹いた。過換気症状が出て、時折、頭がぼうっとなった。風呂が沸くまで私はじっと祖父の側に座り火が燃えるのを眺めていた。

私に初めて漢字を教えてくれたのも祖父であった。当時の私の自宅には囲炉裏があった。囲炉裏の側にあぐらをかいて座っている祖父の膝の上に私はよく乗った。私を膝の上に乗せた祖父は「松」という文字と「杉」という文字を火箸を使って囲炉裏の中の灰に書いてくれた。祖父は何度も私に漢字を教えてくれたが、囲炉裏に書く字は毎度毎度「松」と「杉」だけであった。

祖父は酒が大好きであった。特に焼酎を好んだ。焼酎を一口飲み込むたびに舌鼓を打った。祖父はまたよく眠った。昼間から酒を飲んでは眠り、飲んでは眠り、の毎日であった。時折、私には聞き取れないような小さい声で歌を歌っていることもあった。70歳を過ぎてから亡くなるまでの間、祖父はずっとそのような生活を続けた。

ある日、酒とジュースとどちらがおいしいかと私が祖父に尋ねたことがある。そのとき祖父はためらいもせず「酒の方がおいしい」と答えた。まだ小学生であった私にとっては驚きであった。

祖父は1週間に1〜2升飲んだ。戦死した長男(私の父の兄)の恩給がほとんどすべて祖父の酒代に消えた。しかしそんな祖父を父が止めることはなかった。「年寄りは自分の好きなようにすればいい」というのが父の口癖であった。

祖父の晩年は穏やかであったと思う。しかしこんな祖父も大借金を背負って苦労したことがあるということをつい数年前に近所の老婆から聞かされた。親類の借金の保証人になっていたところその親類が死んでしまったのだという。その当時、近所の人たちはこれでわが家はつぶれるだろうとささやきあっていたという。しかしその老婆が言うのには、祖父は律義にその莫大な借金をきちんと返したらしい。いまわが家が栄えているのは私の祖父の積んだ徳のおかげだとその老婆は私に語った。

私はこの話を祖父からも父からも聞かされたことはない。おそらく父が死ねばこの話は永遠にこの世から消え去ってしまうであろう。

話は変わるが、私は、中学校、高校、大学と、ずっと私学に通った。地元の小学校から20キロほど離れた私立の中学校を私が受験しようとしたとき、父は猛反対した。わが家が貧しかったことが大きな理由であったのではなかっただろうか。入学試験の前日の晩も父と私は激しく口論した。そのとき、私の希望を入れて受験させてもらえたのは祖父の後押しのおかげであった。私は泣きはらした顔で受験会場にでかけた。大学に入学するときもそうであった。父は国立大学に進学するようにと私に言った。しかし私は私立大学への進学を希望していた。その歳にも祖父は私の希望を叶えてあげるようにと父に告げるとともに、祖父の財産を全て売ってもいいと言ったという。

私の大学入学試験の合格発表日、私は帰郷せず東京にいた。夕方、私は合格発表の掲示板を見に三田まででかけた。自分の受験番号があるのを確認し、自宅に電話をかけた。そのとき、その朝に祖父が富士山と茄子の夢を見たという話を父から聞かされた。ちょうどその日の午後、行商人が鷹の置物を売りにやってきたのでそれを買ったと言った。「一富士二鷹三茄子」のすべてが揃ったのだ。なんという偶然であったのであろうか。わが家には既に鷹の置物があった。わが家の神棚には古くからあった鷹の置物とその日に買った鷹の置物とが今も並べて置かれている。

祖父が亡くなったのは私が大学を卒業する年の1月21日であった。その前日、東京にいる私に父から電話が入った。しかし父は特に用件を告げることもなく電話を切った。実はそのとき祖父は既に危篤状態になっていた。しかし私の国家試験の妨げにならないようにと父はそのことを私に告げなかったのだ。事情を知らない私は友人宅に泊まりにでかけた。しかし友人宅で勉強していてもなぜか心が落ち着かない。じっと本を読むこともできない。体の置き場所がない。だるい。そんな状態がずっと続いた。当時は携帯電話がなかった。

私はひょっとしたらと思い友人宅から実家に電話をかけた。受話器を取ったのは伯母であった。伯母は私の声を聞くなり「今どこにおるがでえ! おじいちゃんが死んだのに幸伸は何をしゆう! いま葬式の最中でえ!」と大きく叫び電話の向こうで泣き崩れた。

祖父の死を知った途端、私の体のだるさはとれた。不思議な体験であった。あの体調不良は祖父から私への死の知らせであったのであろうか。

祖父の死は私にとっても悲しい出来事であった。私も泣いた。しかし不思議と悲しみは少なかった。むしろ祖父を讃える気持ちが強く私の心の中で湧き上がってきた。88歳、大往生ではないか! 苦労多き88年の人生をひっそりと静かに閉じた祖父を私は讃えた。

私が墓参りのために実家に戻ったのは国家試験が終わったあとの春のことであった。祖父の墓前で私は詫びた。私をことのほか可愛がってくれた祖父の死に目に立ち会うことができないばかりか葬式にすら出席できなかったことは、その後、長く私を苦しめることになった。今週末、私は祖父母の墓参のために帰省する。

2008年7月22日火曜日

生きてありて

高知市のメインストリートは今も路面電車が走っている。このメインストリートを車で走るとひっそりと身を隠しているかのような南病院の建物が目に入る。この小さな病院に私はかつて入院したことがある。小学校2年生のときであった。確か9月。秋の運動会の前であった。病名は自家中毒(周期性嘔吐症)。

入院する2週間ほど前、食欲不振、嘔気、全身倦怠感が出現。私の実家のある土佐市内の小児科を母に連れられて何軒か受診した。しかし、どこでも「寝冷え」と診断された。そして特別の治療を施されることもなく家に帰された。そうこうするうちに病状はどんどん悪化していった。

しかし私は体調の悪さをおして毎朝登校した。自宅から小学校までは1キロ半ほど。その頃はまだバス通学をしていた。午前中はなんとか授業を受けることができた。しかし午後になると全身がだるく立っていることすらままならない。毎日のように自転車の後部座席に乗せられて教頭先生に自宅まで送ってきてもらった。

症状が出てから2週間ほど経った頃、嘔気が強く、とうとう食事がとれなくなった。そして、もう翌日は学校に行くのは無理と思われた。ちょうどその晩、評判がいいという小児科の話を近所の知り合いから父親が聞いてきた。その病院が南病院であった。翌日、私はその近所の知り合いの車に乗せてもらって自宅から30キロほど離れた南病院を受診した。当時、私の家には私が横たわって乗ることができる乗用車はなかった。病院での最初の検査は検尿であった。母親に支えられて尿の採取をしたことまでは憶えていた。しかしその直後に意識がなくなったようだ。洗面所を出たことすら記憶がなかった。

私が病室のベッドの上で目覚めたのは午後2時か3時であったと思う。周囲は明るかった。ふっと振り返ると母親が私のベッドの側にじっと座っていた。母親は私の意識が戻ったのに気づくと主治医や看護師に連絡することもなく、「受診するのがあと3日遅かったら死んでいたと言われた」と淡々と語った。そして3日間意識がなかったと告げた。当時から私の母は喜怒哀楽をほとんど表情に出さない女性であった。その日も同様であった。母の表情からは喜びも悲しみも感じ取ることはできなかった。まだ7歳であった私も自分の死が迫っていたことに大した恐怖も感じなかった。意識が戻った翌日、私はクラスメートから届けられていた見舞いと励ましの手紙をベッドの中で読んだ。

意識が戻ったあとの私はあっという間に元気を取り戻した。体のだるさも嘘のように吹き飛んだ。私は病院の中で片時もじっとしていることができなかった。当時、木造であった病院の階段を走り回っていた記憶が今も鮮明に残っている。意識が回復してから3日後に退院したが、その3日間は当時の私には気が遠くなるほど長い時間であった。

周期性嘔吐症は小児科医であれば誰でも知っている病気である。私の症状も定型的な周期性嘔吐症であったと思う。だから、なぜもっと早く正確な診断が下されなかったのだろうかと思う。しかしその一方で、自宅から遠く離れた南病院を紹介されたことも奇跡だと思う。私自身が医療に携わるようになって以来、私は診療行為はロシアンルーレットのようなものだとずっと思っている。そうはっきりと患者に告げることもある。医療には100%ということはない。逆に0%ということもない。たとえば薬を投与しても必ずしも効果があるとは限らない。副作用が出るだけのこともある。手術に関してもしかり。リスクのない手術はない。「その手術は安全ですか」と私に真剣に問いかける患者に対して私はどのように答えようかといつもとまどう。医療行為のなかに安全なものなどあるはずがないではないか。医療行為の結果はある程度、確率論的なものでしかない。

長い間、医療は精神論で語られてきた。何か問題が起きるたびに医療を提供する側に全責任がかぶせられ、医療提供者の心がけだけで安全な医療が提供できるという神話がまかり通ってきた。患者はこの不毛な神学論争に片足を突っ込んだまま、さびれゆく日本の医療の現状に単に慌てふためいているだけのように私には見える。

男性の平均寿は80歳に近づいている。そんな今、私が生きていることは決して不思議ではない。しかし必然のことでもない。高校時代の同級生もすでに何人かは亡くなった。単なる確率の問題なのだと自分自身は考えている。そんなふうにしか考えない私は生に対して淡泊すぎるのであろうか。

2008年6月16日月曜日

父の日



昨日の日曜日は父の日であった。息子が塾に行っていた昼過ぎに私は自宅を出て大学に向かった。貯まっている雑用を片付けるためである。帰宅は深夜になった。

私が家の前にたどり着いたとき、ふと目に入ったのは、我が家の花壇に新しく植えられていた花であった。薄暗かったのでよくは見えなかったが、美しい花を咲かせていた。

家に入ると家内と息子は既に寝ていた。食卓の椅子に座ってふとテーブルの上を見ると、厚紙を切って作った数センチ四方の厚紙が5枚置かれていた。それには手書きで「マッサージ5分」と書かれていた。多分、その「チケット」1枚で5分マッサージをしてくれるという意味なのであろう。思わず私は微笑んだ。

今朝、息子は私がまだ寝ている間に出かけた。したがって息子には布団の中からマッサージ券のお礼を言っただけであった。

朝食の最中、昨夜息子は私の帰りを待って夜遅くまで起きていたと家内から聞かされた。そして、昨日の昼間、「パパがよろこぶだろうね」と言いながら花壇に花を植えていたという話をした。

昨日の朝、息子が出かけた後、私は家内から父の日にまつわるちょっとした笑い話を聞かされていた。父の日に息子が3枚のマッサージ券を父親にプレゼントした。喜ぶ父親に向かってその息子はこう言った。「パパ、その券の注意書きをよく読んでよね」。そのマッサージ券には「この券4枚でマッサージを1回受けられます」と書かれていたというのだ。私の息子は塾への出がけに家内にこの笑い話をしながら「僕もそうしようかな。4枚目は今度のパパの誕生日にあげようかな」と話していたということであった。

昨年までは父の日のプレゼントも母の日のプレゼントもなかった。父の日と母の日に息子がプレゼントをくれたのは今年が初めてである。息子は昨年から少し成長したのであろう。しかし、息子が思春期を迎えると、また少なくとも父の日の贈り物はなくなるかもしれない。そうなったとしても、それもまた息子のひとつの成長の証なのだろうと思う。

2008年4月12日土曜日

縁遠い女性

つい数日前のことである。昼休みに職場で立ち話をした女性の知人から彼女の友人の縁談のお世話を頼まれた。一人は35歳の女性。以前はスチュワーデスであったが、今は外資系の企業の役員秘書をしているという。もう一人は31歳。現役のスチュワーデス。二人とも仕事の性質上海外経験が多いので、相手の男性も商社マンか医師がいいという。

その晩、私は早速心当たりを探してみた。2人の男性を知人に紹介してもらった。ただ、その2人の男性の性格や社会的ステータスを考えると、まず女性の側から身上書を預かった方が適切だと考えた。私自身もそれらの女性とは面識がないのだ。そこで私に紹介を依頼した女性にその旨を伝えた。

ところが、ところが、である。彼女が返してきた言葉は私をびっくり仰天させるものであった。その男性たちの写真を見せろと彼女は私に言ったのだ。彼女自身も以前はスチュワーデスであったが、彼女の価値も推して知るべし。今の30代女性の異常感覚を垣間みた気がした。

2人の独身女性は社会的に高いステータスの男性を結婚相手として望んでいるという。ならば、自分自身がどれだけ社会的マナーを身につけ教養があるのかをまず示すのが先であろう。そして彼女たちが「ステータスが高い」と思う男性とつりあうだけの価値を持った女性であることをアピールすべきであろう。彼女たちは社会に出て既に10年あるいはそれ以上経っているのだ。その間の人間的な成長を証明するひとつの手段として私は彼女たちに身上書を渡してくれるようにと依頼したのだ。しかし私が知りたいのは、身上書に書かれた彼女たちの学歴でも、家柄でも、職業でも、年収でもない。「今の」彼女たちの真の価値だ。身上書を巡るやりとりのなかで見える彼女たちの人柄や教養、マナー、そして価値観である。加えて、彼女たちに紹介しようと考えている2人の男性から私は独身女性の紹介を頼まれたわけでもない。私の側からその2人の男性にお願いしなければならないのだ。私とすら面識がない縁談を依頼してきた女性側が身上書も提出しないまま、逆に男性の写真をまず見せろという感覚が私には理解できない。いや、そんな非常識を理解しようとも思わない。

世の男性よ、職業や肩書きでしか男の価値を測れない女性を叱れ!

文旦

文旦は土佐の特産品だ。毎年2月か3月になると高知に住む両親からこの文旦が送られてくる。家内も息子もこの文旦が大好きで、私が職場から帰宅するたびに文旦が1個2個と減っており、私はほとんど口にできないままなくなってしまう。

3年前からは中学・高校時代の友人も毎年文旦を送ってくれる。彼が送ってくれる文旦は彼の自宅で栽培している文旦だ。少し皮は厚いが味は最高。それに無農薬。あまりに美味しいので、今年は日頃お世話になっている方々にも送ってもらった。

ただ、彼からこの文旦が届くたびに私は少し寂しい気分に捕われる。彼のお母様が交通事故で急死したとの連絡を受けた晩のことを思い出すからだ。

彼のお母様は3年前に亡くなった。亡くなるその日、お母様はお父様が運転する車の助手席に乗って高知市内に買い物に出かけた。事故が起きたのはその帰り道であった。運転中、お父様の運転する車がセンターラインをオーバーし対向車と正面衝突した。私の実家から3キロほど離れた場所であった。お母様は即死。お父様も重傷を負った。いまも自由には動けない身である。

お母様が亡くなったことを入院中の病院で知った彼のお父様は嘆き悲しみ、「自殺したい」とベッドで泣き叫んだという。彼は1か月間ほどお父様につきっきりであった。彼から電話を受けたのは事故から数日後であった。夜10時頃、暗くなった病院の片隅から電話をかけてきた。

彼は冷静に事故の模様を私に語った。そして、父親は急に目の前が真っ暗になったと言っている。それは嘘ではないと思われるが、そのようなことがなぜ起きたのか医学的に説明できないかと私に尋ねた。彼のお父様は不整脈があった。私は、医師の立場から私の推察を述べた。私が述べたことも少しは役立ったのであろうか。彼のお父様は不起訴処分になった。

お母様が亡くなって以来、彼は2週間に1回、週末を利用して名古屋から高知に帰る。そして身体の不自由なお父様を介護するとともに農作業をする。この週末も彼は高知で農作業をしているというメールを昨日彼から受け取った。

彼からはたびたびメールをもらうが、いつも母親を失った悲しみが溢れている。高知空港に降り立つと彼は母親の死から3年経った今も寂しくて仕方がなくなるという。「もんたかえ」(帰ったかね)と言って出迎えてくれるご両親の姿がないからだ。彼はバスや汽車を乗り継いで空港から一人で自宅に向かう。

私の母親は慢性関節リウマチと骨粗鬆症があり、自宅で転倒してからは腰痛のため歩くことができない。そんな母親を父親が介護している。そうであっても両親が揃っている私がうらやましいと彼は言う。

「俺は一生親孝行をするぞ!」

以前彼からもらったメールにはそう書かれていた。彼の2人のお嬢さんは今年揃って就職した。あと一人ご長男が独立できるめどが立てば、現在勤めている会社を辞めて高知の実家に帰るという。お父様の面倒をみるためである。

彼から私の自宅に文旦が届けられるたびに家内と息子は喜ぶ。それは彼も望んでいることであろう。しかし私の心情はそう単純ではない。ただ、私は私の悲しみを自分の家族に知ってもらいたいとも理解してもらいたいとも思わない。家族にはただ文旦の味覚を楽しんでもらえればいい。

2008年3月23日日曜日

恥ずかしい記憶

誰でもひとつやふたつ二度と思い出したくない恥ずかしい記憶があるであろう。これから私が書こうとしていることもそんな思い出である。

私の医師1年目のことであった。研修医になったばかりの私を大先輩(当時、専任講師)が食事に連れて行ってくれた。場所は記憶にないが居酒屋風の店であった。ただし案内されたのは個室(座敷)であった。

その大先輩と私と2人で食事するわけではないことを席に着いたあと私は初めて聞かされた。私たちが雑談を交わしながらお酒を飲み始めた直後、ふすまがすっと開き、2人の女性が現れた。一人は年齢50歳程度、もう一人はうら若い色白の女性であった。その若い女性は鮮やかなブルーのスーツを着ていた。(彼女はブーツを履いていたので、この出来事は秋頃のことであったのかもしれない。)黒髪の美しい色白の美人であった。当時まだうぶであった私はまばゆいばかりのその美しさにどぎまぎしたのであろう、彼女を顔を正視することができなかった。したがって面長で色白の美人という印象しか残っていない。

その若い女性は私と同じ病院に勤務する薬剤師であるということであった。そして50歳前後と思われた女性は彼女の上司であった。私の大先輩とは親友であるらしかった。

その若い女性と私とはほとんど聞き役であった。彼女を意識したという理由だけではなかったが、緊張して私はほとんど口を開くことがなかった。彼女も同様にじっと大先輩2人の話に耳を傾けていた。私の大先輩と彼女の上司とはずっと前からの知人であったようだ。実に楽しそうに話をしていた。が...。

毎日忙しい研修医生活を送っていた私は少しお酒が入ったこともあって急に睡魔に襲われた。そしていつしか眠ってしまった。

「おい、起きろ! 帰るぞ」

という大先輩の声で私は目覚めた。1時間以上眠っていたのであろうか。

ところがである。私はなんと口角から少し涎を垂らしていたのだ。気づかない振りをしながら手でその涎を拭った。その若い女性は気づいてか気づかずか私の方をじっと見ることはなかった。表情も変えなかった。しかしすでに後の祭りであった。

いま振り返ると、あれはやはり非公式なお見合いであったと思う。

「私の部下にとてもいいお嬢さんがいるんだけど、お婿さんに誰かいい男性はいない?」

「おお、そうか。じゃあ、今度食事するときにうちの若いのをひとり連れて行くよ」

そんな話のなかでセッティングされた場であったに違いない。

上品でスタイルのいいうら若い女性。そして鮮やかなブルーのスーツ。今も鮮明に記憶に残っている。

これらと私の涎とを結びつけるものは単に単に恥ずかしさだけである。懺悔

(この話はすべて事実である。作り話ではない。またこの話に出てくる大先輩は後々まで私をかわいがってくれた。この大先輩は私の留学中に亡くなった。15年前のことである。留学前にこの大先輩の病室を訪れたとき、倒れる直前にこの大先輩が私のことをとても心配してくださっていたことを奥様から聞かされた。その話を聞き、私は病室の前の廊下で泣き崩れた。大粒の涙を流しながら大声で泣いた。奥様もいっしょに泣いていた。生涯忘れることのできない悲しい出来事であった。私がこの大先輩の墓参にでかけたのは3周忌のときであった。私はかけがえのない心の支えを失ったことに気づかされた。大きな支えを失ったのは奥様だけではなかった。)

2008年3月22日土曜日

バレンタインデー

私の年齢の多くの男性ににとってバレンタインデーはもはや興味の対象ではないであろう。私も当事者としてバレンタインデーに興味を持つことはない。しかし第三者としては興味がないことはない。

女性が自分の恋心を男性に告白する日。その恋心と一緒に男性に贈るチョコレートは「ラブチョコ」と呼ばれる。(「ラブチョコ」などという言葉は聞いたことがないとついさっき知人から叱られてしまったが。)

私の高校時代、女性に実によくもてる男が何人かいた。バレンタインデーに彼らはいろいろな女性から籠一杯のラブチョコをもらい、重そうに抱えながら自宅に持って帰っていた。なかには、食べきれないからと、もらったチョコレートをクラスメートに分け与えている者もいた。当の私は、中学・高校の6年間の間に一個たりともラブチョコなるものをもらったことがない。

高校2年生のときであったと思う。バレンタインデーの日の午後のこと。私は校舎と校舎とをつなぐ渡り廊下にぼんやりと立っていた。すると、ある女性が恥ずかしそうに私に近寄ってきた。彼女はしばらくの間もじもじしていた。私は何のことかわからない。彼女はしょうがないと意を決したのか、申し訳なさそうな表情を浮かべながら次のように私に言った。

「あの、ちょこっとこの場所を空けてくれますか。」

ふと左側を振り向くと私に背を向けながひとりの男が立っていた。クラスメートであった。元の方向に視線を戻すと彼女の数メートル後方に別の女性が真っ赤に顔を染めて恥ずかしそうに立っているのが目に入った。私のすぐ目の前に立っている女性は、自分の女友だちのために今回の仲介役を果たそうとしていたのだ。やっと私にも事情が理解できた。

私は「すみませんでした」と言っていそいそとその場を立ち去った。立ち去り際にちらっと後方を振り向くと、赤面し恥ずかしそうにしながら彼女は私のクラスメートにチョコレートの箱を渡していた。彼がその日受け取ったチョコレートは紛れもなくラブチョコであった。しかし彼女とは対照的に彼は全く無表情であった。

私のクラスメートとその女性とのつきあいがそれをきっかけとして始まったという話は私の耳には入らず終いであった。私から誰かにふたりの関係について尋ねることもなかった。そのクラスメートは女性によくもてた。女性はクラスが違ったが、彼女も男子生徒にとても人気があった。したがって私にはふたりが結び合っていかないのが不思議であった。だが、いずれにしろ私からは遠い世界のできごとであった。当時の私にとってはふたりの関係がどうなろうと羨望の対象にも嫉妬の対象にもなりようがなかった。

この出来事は今も鮮明な記憶として残っている。このことを思い出すたびに私は今でもただただ恥ずかしくなるばかりである。たとえ偶然とはいえ、ふたりの「密会」の場所に出くわしてしまったのだ。土足で他人の家に上がり込んだようなものである。

2008年3月1日土曜日

終業式の季節


きょうは土曜日である。しかし息子は昼前に学校にでかけるという。午後1時から開かれる算数の公開授業に参加するらしい。この授業を担当するのは算数を教えてくださっている坪田先生だと聞いた。

坪田先生という名前を私は初めて耳にした。この先生は教育界では算数の教育者として名を知らない人はいないらしい。この坪田先生が今年を最後に定年退職される。きょう開かれるのはその記念授業なのだという。

なぜ息子のクラスが記念授業の対象に選ばれたたのか私は知らない。しかし家内は、息子のクラスは算数がよくできるからだと勝手に思い込んでいるようだ。

確かに息子は算数がよくできる。息子はまだ3年生であるが私は計算能力ではもうかなわない。息子の算数の宿題は私よりも息子の方が早く解ける。

先日、「ジャマイカ」という算数のゲームを息子とやってみたが、私はほとんど勝つことができなかった。先日、8対1で4年生を負かしたと聞いたが、確かにそうだろうと思った。数字が表示されるとたちどころに息子は答えを見つける。私は何分もかかる。

3年間のうちに心身ともに大きく成長した息子の姿は、まだ幼くひ弱だった小学校入学の頃の面影をほとんど残さない。

写真は、息子の小学校入学式の当日撮影したものである。校庭には桜の花びらが舞い散っていた。

2008年2月27日水曜日

ふとしたこと

ずっと昔の何でもない出来事をふと思い出すことがある。これから書こうとしていることも、そんな些細なできごとである。

息子が1歳になるかならないかの頃、国際学会に出席するために家族でイタリアにでかけた。その帰りの飛行機のなかでのできごと。

飛行機の離陸が大幅に遅れた。予定出発時刻から1時間経っても離陸の目処が立たなかった。まだ幼い息子はじっとしていられなくなり、ぐずり始めた。そして「キーッ」という奇声をあげだした。私たちはなんとか息子をあやそうとしたが、完全には静まらない。

そんなとき、機内のチーフパーサーが私たちの座席に寄ってきた。日本人男性であった。そして私たちにこう尋ねた。

「お子様は飛行機への搭乗に慣れていらっしゃらないのですか?」

チーフパーサーとすれば精いっぱいの注意だったのであろう。しかし1歳になるかならないかの子供が飛行機に乗ることに慣れているはずがないではないか。ましてやいつ動き出すともしれない狭い機内で赤子にじっとしていろというのは無理ではないか。

私たちはそのチーフパーサーに対して謝った。しかし謝ってはみたものの、どうすればいいのか、私たちにはわからなかった。

運良くそれから程なく飛行機は動き出した。それとともに息子も静かになり、いつの間にか眠ってしまった。成田空港に着くまでの間、息子はほとんどずっと眠っていた。

「お子様は飛行機への搭乗に慣れていらっしゃらないのですか?」

この言葉をいま思い出しても、どう答えればいいのか私にはわからない。

2008年2月11日月曜日

「海に向かへば」について

以前、「海に向かへば」というタイトルのブログを書いた。このブログを読んでくださった方から「この本が欲しいが絶版になっている。著者に連絡し自宅に在庫があるとの連絡をもらったが、その後、連絡が途絶えた」とのコメントをいただいた。

この方はコメントの中にご自身のメールアドレスを書いてくださっていた。私は教えていただいたメールアドレス宛にこのコメントに対するお返事を出した。しかしこのメールアドレスは間違っていたようだ。私がお送りしたメールは戻ってきてしまった。

ご本人のプライバシーを保護するためにこの方のコメントは公開できないが、もしこのコメントを書いてくださった方がこのブログをお読みになったら、私宛に再度ご連絡をいただきたい。

2008年1月15日火曜日

お年玉

私の息子は9歳であるが、息子が生まれてこの方、私たち夫婦は息子にお年玉をあげたことがない。息子からお年玉をせがまれたことはないし、私たち夫婦の間で息子にお年玉をあげようかどうしようかと話し合ったこともない。

もちろん、私たちからお年玉をもらわなくても、息子にお年玉をくれる人はいる。私の両親、家内の母(義父はすでに他界)、そして私の実家の近所に住む人たちである。私たちは帰省すると必ず実家の近所を挨拶廻りする。田舎のしきたりといえばそうであるが、年老いた両親が平素お世話になっていることへの率直な感謝の気持ちを伝えなくてはならないという思いもある。

例年、私と息子とふたりで手土産を持って挨拶廻りするのである。しかし今年の正月は息子が率先して挨拶に行ってくれた。何軒かにはひとりででかけた。残りの家には私の父がついていった。

どちらかといえば引っ込み思案の息子が挨拶回りに元気よく出かけていくわけはお年玉目当てではないだろうかと私たち夫婦は苦笑いしながら話し合った。息子は何も言わなかったが、確かにそうであったかもしれない。実際、息子が訪れたほとんどの家から息子はお年玉をいただいて帰った。私は、ご近所に申し訳ないと思った。

しかし家内は、それほど気を遣う必要はないのではないかと言った。私たちは息子が生まれるずっと前から年始のご挨拶を欠かしたことがなかったからである。

昨年7月からずっと我が家の食後の皿洗いは息子がしている。1日50円である。今年3月に遠足に行くのに必要な6千円をクラス全員が自宅で手伝いをすることによって貯めることに決まったと聞いた。すでに6千円以上貯まったが、息子はまだ皿洗いを続けている。家内が床についた後、黙々と一人で流し台の前に立って皿洗いをしている息子の姿は微笑ましい。

生まれてこの方、私たち親からお年玉をもらったことのない息子は、お年玉は両親からもらうものではないと思い込んでいるのかもしれない。それならそれで結構なことだ。

2008年1月12日土曜日

「親の心、子知らず」は悪いことか

「親の心、子知らず」、「子を持って初めて親の心を知る」、「後悔先に立たず」といった表現は子の親不孝を諌める言葉である。私自身もこれまで長い間、子である私が自分の両親の私に対する愛情や心配を理解できない「親不孝者」であった。そして常にこのことに対して罪悪感を抱いてきた。しかし自分自身が親の介護をしなくてはいけないようになってからは、「親の心、子知らず」は逆にいいことではないかと思うようになった。

人は死ぬ。ほとんどの場合、親が子よりも先に死ぬ。もし親の死が子の死と同程度あるいは子の死よりも悲しいことであったとしたらどうなるのであろう。ほとんどの人の人生は悲嘆に満ちたものとなるであろう。そればかりではない。子を持ちたいという欲求も衰え、人類は滅亡へと向かうに違いない。

「親の心、子知らず」はある程度、必要悪なのであろう。