2015年3月29日日曜日

届いたコメント

きょうの昼、このブログ「私と家族」に対するコメントが2つ届いた。差出人は「匿名」となっていたが、誰からのコメントであるかは一目瞭然であった。

ひとつは、「人のことをここまで詳しく出してあなたは世間をしらなすぎる。人間として間違っています」

もうひとつは、「あなたは医者として最低。世間知らずですね」

というものであった。

ひとつのブログは、私がその人に親愛の気持ちを抱き「今はどんな生活を送っているのだろう」と長い間思い続けていたことが一読すれば読者に通じるはずのものであった。私は、何十年ぶりかでその人の声を聞き心が躍った。その感動を伝えようと思っただけである。確かに、その人のこれまでの人生を思い起こし、抽象的にではあったがその一部に同情を誘う内容を書いたことは事実である。しかし、その人を侮辱した文面ではない。私は、その人に対して「ご苦労様でした。お疲れさま。大変でしたね」という思いを込めてその文章を書いた。

「引っ込めてくれ」と一言言ってくれればすぐに引っ込める。すでにその投稿は引っ込めた。

もうひとつのブログに対するコメントは全く理解ができない。どういう意図なのであろうか。そのブログは医療について私が綴ったものではない。どこが「医者として最低」の箇所なのか何度読み直してもわからない。強いてここかと思われる部分をあげるとすれば、以下の一節であろうか(http://tkunihiro2.blogspot.jp/2011/01/blog-post.html)。

「我が国では最近、結婚しない人が急増している。結婚年齢も上昇している。しかし私の同期生(約360名:男女ほぼ同数)はほとんどが結婚している。ずっと独身を通している同期生の数は数名以下であろう。(男子生徒も女子生徒も社会人になれば結婚し家庭を持つこと。これを前提とした、ごく「普通の教育」を私たちは6年間受けた。)」

その人からは時折、直接または人を通して私に連絡が入るが、ことごとく私に対する批判であり憎しみに満ちた文言である。(幸い、私の方からその人に対してこのような憎しみをぶつけたことはない。)

私はFacebookなどでも時折自分の意見を述べる。私の投稿やコメントに対して激しい批判を受けることもある。しかし、自分自身が批判を受ける立場に身を置くとわかることがひとつある。それは、批判する対象に対してレッテルを貼ったり品位に欠ける言葉を使えば、批判する人の主張がどれだけ正しくとも、その人の評価を下げるということである。

「生きることは、すなわち無様なかっこうを人に曝すことである」と私は思っている。このブログ(「私と家族」)のなかでは、私自身や私の家族の「みっともないこと」も随分述べた。それらを読んで私や私の家族を侮辱する人はいるだろう。それはそれでよい。ただ、私の年齢に達しているならば、多くの人は自分自身が辿ってきた人生を重ね合わせ、何らかの共感を抱いてくれるであろうと思っている。

ある意味、生前、私の父親は家族に対してはちゃめちゃであった。しかし、父親が死んだ今、私は心の底から父親を慕っている。私の父に対するその思いを理解してくれている人は少ないであろうが。

全ての人から共感される人生などあろうはずがない。百人中一人でも私の生き方に賛同してくれればいいと私は思っている。

私のブログに対して上のコメントを寄こしてきた人にも、私は同情以外の感情は湧かない。その人は私よりも年上である。いつになったらその人は自分の半生を笑いながら振り返り自分自身が辿ってきた人生と「今」を肯定することができるようになるのであろうか。その日が一日も早く来ることを私は願っている。その人から私は批判され続けてきているが、その人がこれまで懸命に生き、きちんと子育てもしてきたことを立派だと思っている。そろそろ被害者意識や劣等感を克服してもらいたい。