2007年12月22日土曜日

豊国廟

高台寺を訪れた翌日、豊国廟に行った。ここには豊臣秀吉が眠る。長い間、私は秀吉の墓はどこにあるのだろうと思っていた。私が秀吉の墓石の写真を初めて見たのは2年ほど前であった。本屋で歴史雑誌を立ち読みしている際に偶然その写真を見つけた。

「なんて小さいのだろう、なんて寂しいのだろう」というのが私の第一印象であった。その日以来、京都を訪れる機会があれば何としてでも秀吉の霊廟を見てみたいと思うようになった。

秀吉の墓は小高い山の頂上にあった。階段はちょうど500段。ぽつんと秀吉の墓石だけが建っていた。ただし、墓石は写真から想像していたよりもかなり大きかった。私が墓石のまわりをうろついているともう一人の訪問者が坂を登ってきた。しかしここを訪れる人は少ない。帰りに階段を下りる際にもうひとりの訪問客とすれちがっただけであった。

階段を下りきった山のすそ野には女子大がある。華やかである。その華やかな喧騒からほんの少ししか離れていない場所にひっそりと秀吉は眠っている。その女子大に通っている学生すら、すぐ側に秀吉の墓があるとは知らないのだろう。

地元の人に尋ねると、秀吉の霊廟である豊国廟の他に、豊国寺と豊国神社とがあるという。秀吉の死後、徳川家康は豊臣家の財力を削ぐために神社仏閣への機寄進を盛んに勧めた。豊国寺も豊臣家からの寄進によって建てられた。この豊国寺の釣鐘に「国家安康」の文字が刻まれていたことをめぐって豊臣家と徳川家との間でいざこざが生じた。「国家安康」のなかの「家」と「康」とが裂かれていると徳川家康が豊臣家に因縁をつけたのだ。まさに因縁そのものである。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

秀吉の有名な辞世の句である。