2009年1月14日水曜日

昨年12月の初めに私は高知で司法書士事務所を営む友人に電話をかけた。私の父親が所有する山林の管理を彼に頼みたかったからだ。二束三文の価値しかないだろうが東京に住む私には管理ができない、父にもしものことがあったときに備えて山林の境界を確認し管理を頼めないかと私は彼に話した。

彼から帰ってきた第一声は「それは、親父さんの思いじゃねえ」であった。彼が言いたかったのは、父親が私に遺す山林の金銭的な価値は低くてもその山林には私の父親の思いがこもっている。相続するのは金ではなく父親の心なのだということであった。

彼とはその3週間後の昨年12月30日に開いた高校時代の仲間との忘年会の席で顔を合わせた。その席で立ち入った話はできなかったが、忙しいのですぐには無理だが時間を見つけて父親の所有する山林を見にいってくれると彼は言ってくれた。今回の年末年始、私は父親と一緒にそれらの山林を巡ることになっていたが、私には山林の境界を憶える自信がなかったので、彼の言葉に安堵した。

12月31日から1月3日まで4日続けて私は父親といっしょに山にでかけた。しかし父親が所有する山林は高知県内のあちこちに散在しており、4日間では回りきれなかった。父親は76歳になる今でもチェーンソーを抱えて急な斜面を力強く登っていく。その後ろをのこぎりを下げた私がのこのことついていく。初日は息子も一緒であったが、都会に生まれ育った息子はそれきり私たちと一緒に行くとは言わなくなった。それでも1月3日には無理に息子を誘ってまた父親と3人で山林巡りをした。

父親は成長した杉や檜の木を見上げては感慨深そうにそれぞれの山林に関する思い出話をした。日が暮れて真っ暗になるまでまだ小さかった杉や檜の枝打ちをしたこと。あと1日出かけてくれば枝打ちが終わるという日に肺がんのために入院しなくてはならなくなり、枝打ちをしていない木が残ったことが残念だったという話。他人に無断で木を切られてしまって悔しかったことなど。父親の話が途切れることはなかった。

車での移動の間にも父親とはさまざまな会話を交わした。祖母の生前、なぜ父親と祖母とがあれほどまで激しくけんかをしたのかについても、その理由を初めて聞くことができた。

まだ幼かった私は、当時、祖母と父親とのけんかを見るたびに怖くて震えた。父親は私にとって単に怖い存在でしかなかった。時には父親を激しく憎むこともあった。

祖母が他界すると、今度は私の父と母との間の夫婦げんかが絶えなくなった。父親は一生家族とけんかし続けて死ぬのだろうかと私は真剣に思った。

鬼のようにしか見えなかった父親に対する印象が変化したのは、母親がリュウマチによる関節の変形のために歩行すらままならない体になってからであった。ごく最近まで、父親は自分で身の回りのことをすることはほとんどなかった。お茶を飲みたくれば「おい、茶っ」と言う。そう言えば母親は台所に足を運んでお茶を入れて持ってくる。「おい、水っ」といえばすぐに母親がコップに水を入れて父親に渡す。父親は天皇であった。

こんな父親が、母親が病気になると急に優しくなった。母親の下の世話までまめにするようになった。母親の入浴も父親がさせた。

母親が東京の病院で治療を受けることになってからは、母親を連れて20回近くも夜行バスで東京まででかけてきた。片道11時間の長旅であった。途中、2時間ごとに母親は夜行バスの中のトイレに立った。その度に父親が介助した。父親は「俺が元気なうちはお前の介護は俺がしてやる」と母親に話すという。数か月前、電話で父親はぼそっと、母親がかわいそうでならないと私に言ったことがある。

昨年8月、家で母親が転倒し、四肢麻痺になった。それでも短期間の入院すらさせてもらえなかった。ぐにゃぐにゃになった母を抱きかかえて風呂に入れることが76歳の父親一人にできようはずがない。

結局、頸椎骨折の疑いがあるということが判明し、やっと1か月後に入院させてもらうことができ、緊急手術の運びとなったが。呼吸停止のためにあやうく母親は命を落とすところであった。まさに田舎の医療は崩壊である。

3か月の闘病を終えて母親は昨年12月28日に退院し帰宅した。母親は自力で体を起こし、ベッドのそばに据えてあるポータブルトイレで何とか用を足せるまでに回復していた。しかし首には固いカラーが巻かれている。それに首を絞められて苦しくて仕方がないと言って母親は一日に何度もうめき声をあげた。母親は何事につけても実に辛抱強い女性であった。気が遠くなるほどに我慢強い。その母親がうめき声をあげるというのはかなりつらいのだろうと私は思った。しかし何もしてあげる術はない。

私は1月4日に東京に帰った。その翌々日、母親はまた入院することになっていた。父親の肺に異常が見つかったためだ。父親は1月13日に病院で再度診察を受けるという。もし父親が入院しなければならなくなったら母親の介護をする者が誰もいなくなる。

さきほど父親から電話が入った。昨年9月に撮影した胸部レントゲン所見とほぼ同じであるのでもうしばらく様子をみようと主治医から言われたとのことであった。家族一同、胸をなでおろした。私はもう一度、父親と一緒に山林を見て歩くことができることにも一人安堵した。暖かくなる前にもう一度帰省しよう。暖かくなれば山に蝮が出、山歩きは危険になる。

私に父親が残そうとしているものは遺産ではない。父親が生きてきた軌跡であり父親の思いなのだ。友人の言葉を改めて噛みしめている。

2009年1月10日土曜日

iBlogger

さきほど「iBlogger」というソフトウェアを購入した。これはiPhone用のソフトである。私はいまこのソフトを使って文章を綴っている。布団に横たわりながら。

ここ数日、体調がすぐれない。身体がだるく、少し節々が痛む。微熱も続いている。加えて、無性に眠い。年末年始の疲れが出たのだろうか。

きょうは夕方から出かける用事が入っていたが、自宅で身体を休めることにした。外は寒さが厳しい。

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