2019年1月12日土曜日

無題

私も姉もともに私立の高校で学んだ。姉は中学校は地元の公立高校に通ったのに対して私は中学校から私立であったが。

私は、姉がどういういきさつでその私立高校に入ったのかを全く知らなかった。姉がその高校を受験する際に姉の受験のことが家族のなかで話題にのぼることはなかった。私は姉がいつ入学試験を受けたのか、いつ合格通知をもらったのかも知らなかった。姉がその入学試験に合格したときに家族でお祝いをすることもなかった。当時、私はまだ小学6年生であった。まだ幼い私の前で姉の受験の話を持ち出すことを両親は避けたのであろうか。

父親が生前、懇意にしていた老婦人から、つい最近、こんな話を聞いた。私と姉とは3歳違い。姉の高校の受験の時期は私の中学校受験の時期と重なった。私は私立中学校を受験するつもりであった。「弟を私立中学校に通わせるならば、姉弟間に差をつけないよう、姉も私学に通わせてあげなくてはいけない。」老婦人によると、父親はこう考えて姉を私立高校に進学させたという。

姉が入学した私立高校は決して進学校ではなかった。しかし父親は、私の姉の頭は決して悪くないとずっと言っていた。姉は単に野暮なだけだと父親は言った。「野暮」とは、土佐弁で「引っ込み思案で人前に出ることを嫌がる」という意味である。実家の隣には姉より1歳年下の女の子がいた。彼女は何事にも積極的で目立った。利発そうに見えた。父親は、彼女は「りこそうに(賢そうに)見えるが」、頭の出来は彼女よりも姉の方がいいと私と私の母親に言った。

事実、姉の4人の子は、いずれも学力優秀であった。そして全員が国立大学に進学した。長男は東京大学に合格した。他の3人(いずれも女)も、姉の家が裕福でありさえすれば旧帝国大学に進学できるだけの能力を有していたが、経済的な理由で地元の国立大学に進学した。「4人の子を国立大学に入学させた親は高知県のなかにそんなに数多くいるはずがない。」そう言って父親は姉を賞賛した。4人が大学に入学し卒業するまでには、私の両親が多額の経済援助をした。そうだとしても、姉の家族が贅沢な生活ができるようになったわけではなかった。姉も努力したに違いない。父親は姉の陰の努力を褒めた。

しかし、姉は、昔から、他人の好意を喜び感謝するアンテナが殊の外低い。口を開けば、父親を口汚く罵った。「ジジイは早う死ね」という言葉も度々口にした。両親の最晩年は、私と姉に対する両親の愛情を肌で感じる貴重な期間であったと思う。東京と高知とを往復しながら帰省のたびに弱っていく両親を介護するのは辛かったが、私にとっては得ることが多かった。この貴重な機会を、姉は自ら放棄した。

2019年1月11日金曜日

WASHINTON HOTEL

昨日の午後、神田に出かけた。その帰り道、秋葉原に立ち寄った。駅の中央改札口を出て右を見ると、白い大きなビルディングが目に入った。その建物を仰ぎ見ると、「WASHINTON HOTEL」と書かれていた。私が家内の実家に住んでいた頃、この建物の外壁は焦げ茶色の煉瓦で覆われていた。真っ白く生まれ変わったビルディングからは当時の野暮ったさが消えていた。

私は留学から戻った後、数年間、家内の実家に住まわせてもらっていた。この時期に私の両親が東京に出かけてきた際には、必ずこのホテルに宿泊した。家内の実家は、秋葉原から歩いて10分ほどのところである。WASHINTON HOTELからも近かった。

私の長男が生まれた際にも、上京してきた両親はWASHINTON HOTEL宿泊した。このときには家内の両親がホテルに来てくれ、私を加えた5人で会食した。会食中、父親は実に嬉しそうであった。母親も嬉しかったに違いないが、昔から母親はどんなときでも感情をあまり表情に出さなかった。このときもそうであった。話題は長男の名前。生まれたばかりの長男の名前を何にするかということで話が盛り上があった。既に長男が生まれる前に、私の家内は名前をふたつに絞っていた。そして最終的に選んだ名前にすることをほぼ決心していた。しかし私の父親は、もう一方の名前の方がいいと言った。多分、その名前の方が発音しやすかったからだろうと思う。家内がその名前を選ばなかったのは、その名前には「征」という感じが含まれていたからであった。「征」は「出征」を連想させるから嫌だと言った。

この会食の際の写真が今も残っている。両親にとって最も幸せなひとときであったと思う。

2019年1月6日日曜日

無題

両親を姉が褒めたり両親に感謝する言葉を口にするのを聞いたことが私はこれまで一度たりとない。姉は口を開けば両親の悪口を言った。そして両親の前では私のことをさんざん悪く言っていたようである。私はこれまで姉が人を褒める言葉は一度しか耳にしたことがない。
 
しかし、私が両親と話すとき、私は姉を批判したことはただの一度もなかった。姉が一方的に絶縁してきたあとも、このことについては母親と一言も話さなかった。父親は出血性脳梗塞のためほとんど意識がなくなっていたので、父親とは当然、姉が縁を切ってきたことを話す機会はなかったが。
 
姉の長女も姉と同じであった。彼女の祖父母である私の両親を侮蔑し私を憎んだ。私は姉を名誉棄損で訴えたが、裁判の過程で姉が私を憎むに足りる原因は何一つ出てこなかった。
 
両親を介護するために東京と高知とを往復した2年あまりは辛いことが多かった。私の家内は、顔が真っ白になって高知から帰宅する私の健康を心配した。
 
両親とも亡くなった今、私は両親を介護するために全力を尽くした自分を誇らしく思っている。姉はどうか。介護することがいやだというだけで一方的に自分の両親と私との縁を切った。一方的に絶縁しても遺産相続においてはハンディーとならないということも十分調べた上でのことであったようだ。
 
しかし、心は正直である。姉も姉の長女も、生涯罪悪感にさいなまれ続けるであろう。母親の死去直後から姉の病状が悪化したと人づてに聞いた。両親とも亡くなった今、彼らを救う方途はない。

あるとき、姉が親戚の老婦人に電話をかけて、両親が全く援助してくれないとさんざん愚痴を言ったという。その老婦人は私の父親と親しく、平素から私の父親にいろいろの話を聞かされていた。当然、その老婦人は、私の父親がどれほど姉の家族を経済的にサポートしているかも知っていた。電話で、姉が両親を批判やめないので、老婦人は姉にこう言った。「そんなことを言うけんど、あんた、お父さんに車をもらったじゃない。何ももらったことがないことはないんじゃない?」姉はこの言葉を聞くやいなや、がちゃっと一方的に電話を切った。そして、以来、その老婦人には電話をかけてこなくなったという。
 
この老婦人は、母親の臨終に立ち会ってくれ、母親が死んだ直後に病院に駆けつけてきた姉に対して「ちっくと遅かったねえ」と言った人であった。
 
姉はいろいろの人に電話しては他の人の悪口を言うのが癖であった。そして電話をかけた相手が姉が言う悪口に賛同しない場合には、更に別の人に電話をかけ、今度は姉の考えに賛同しなかった人の悪口を言った。姉は悪口を介してしか人と交流を持つことができない。。
 

告別式でのスピーチ 2

私は姉がどのような診断のもとで治療を受けているのかは知らない。しかし姉の症状の一部は承知している。どんな症状があるのかは姉自身の口からも聞かされたことがある。母親の葬儀の際には、姉が服薬している薬を姉本人から見せられた。数種類の薬を姉は服用していたが、薬剤名までは覚えていない。ただ、私は、それらの薬を服用するのはやめなければならないと姉に言った。
 
姉は自分の苦しみが何に起因しているのかに気づいてない。姉がかかっている病院名も診療科も私は知らないが、おそらく主治医も姉の症状がなぜ改善しないかを知らないであろう。私はずっと、姉の病は薬では治らないと思っていた。
 
幼い頃から、私は姉の口からは愚痴と他人の悪口しか聞かされたことがない。小学校入学前には近所の幼友だちの悪口。小学校に入ればクラスメートと担任の先生の悪口。とにかく他人の悪口、悪口、悪口であった。姉にはまた、軽い強迫神経症の症状が認められた。水道の蛇口を閉めたのに何度も何度も確認に戻るといった症状である。土佐弁ではこのような性癖を「かんしょうやみ」という。両親は、姉はかんしょうやみであると思っていたようだ。
 
姉の他人を批判する傾向は、結婚した後も治らなかった。私と話す機会があれば、夫の悪口、舅の悪口、姑の悪口、兄嫁の悪口。終わることがなかった。姉の嫁ぎ先の経営する会社が倒産し、姉の一家が借家住まいをするようになってからば、これらの人たちばかりでなく自分の子らに対する悪口もやめなくなった。私は、多感な時期を迎えていた姉の4人の子に与える悪影響を心配していた。
 
私の予想はあたった。
 
母親の告別式の席で,私は喪主として挨拶した。その際に、母親は死ぬ間際までずっと姉と会いたがっていたということを話した。ただ、親族席に座ることを拒否し一般席の最後部に座った姉は難聴もあり、私の挨拶が聞き取れなかったという。そのため長女に私の挨拶の内容を尋ねた。なんと姉の長女(私の姪)は、私がさんざん私の姉(彼女の母親)の悪口を言っていたと告げたという(裁判での姉自身の証言)。
 
その告別式の晩、姉が私の従姉の家に電話をかけてきた。そして私と私の家内、私の一人息子が母親の財産を全て自分たちの名義に書き換えたと従姉に告げた。たまたま翌日、その従姉の家を訪問した私たち夫婦は、その話を従姉から直接聞かされ驚いた。私の家内について、姉は、私の家内は現金が好きだから、とまで言ったということであった。私の家内は深く傷ついた。
 
裁判の場で、姉は、告別式の席で私が姉を批判したから腹いせにそのような電話をかけたと述べた。
 
姉の長女がどれほど社会常識がないかはこれまで何回か書いてきたが、私は彼女の愚かさに激しい怒りを覚えた。
 
私は告別式の挨拶のなかで、一言も姉を批判する言葉は吐いていない。このことは告別式に参列してくれていた複数の人たちが裁判の場で証言してくれた。なぜ、姪はそのような嘘をついたのか。百歩譲って私が本当に姉を批判していたとしても、彼女の母親の病状を考えれば、そのようなことは言うべきではなかった。伏せておくべきであった。愚かにも程がある。

2019年1月5日土曜日

告別式でのスピーチ 1

母親の告別式。私は喪主として挨拶を述べた。その際に、亡くなった母親は入院中ずっと姉に会いたがっていたと話した。娘から何の理由もなく一方的に縁を切られても、なお娘には会いたい。母親は私の姉と会いたいとずっと願っていた。私が帰省し母親の病室を訪れた際の第一声は、いつも、姉はどうしているかという問いかけであった。私が知ろうはずはない。母親を慰める言葉が思いつかない私はただ頭を横に振るだけであった。母親は寂しそうに病室の天井をじっとみつめた。
 
告別式場で一般席の最後部に座った姉に対して、私は、母親は姉にどんな仕打ちを受けても死ぬまで姉に会いたがっていたと話した。しかし、姉が一方的に縁を切ったことや一度も見舞いに来なかったこと、電話にも出なかったことなどは一切話さなかった。告別式のスピーチのなかで話すべきことではないと判断したからである。母親が死ぬ間際まで姉に会いたがっていたと私が話したのは、姉に対する母親の愛情には変わりがなかったことを伝えたかったからにほかならない。
 
母親の入院中、一度も見舞いに来ず電話もとらなかった姉であったが、母親の死期が間近に迫っているとの連絡を親戚から受け、病院に駆けつけてきた。しかし姉が病院に着いたときには既に母親は亡くなっていた。母親の遺体にすがりついて泣きじゃくる姉に対して、ある一人の親類の老人が姉にぽつりと言ったという。「ちっくと遅かったねえ。」これは、親族やご近所の方々の姉に対する侮蔑を端的に表現した言葉であった。
 
私が高知に帰ったのは、母親が亡くなった日の翌日の夜であった。既に母親の遺体は親戚が葬儀場に移しておいてくれた。葬儀場の広い和室に横たえられている母親の遺体を見た途端、私は涙が止まらなくなった。
 
父親の葬儀には来なかった姉が葬儀場に来ていた。姉は泣きじゃくる私に近づき、母親の看病を私一人にさせたことを詫びた。しかしその理由には納得がいかなかった。姉は、弁護士から、係争している母親と会ってはいけないと止められたから母親の面会に来なかったと言った。しかし姉は、まだ父親が生きている時期、つまり父親の遺産相続で係争が持ち上がる前から父親の面会にも母親の面会にも来なかった。電話にも出なかった。
 
姉が一度でも母親の面会に来ていれば、母親の死後、姉の病状が更に悪化することはなかったはずである。私は、母親の生前から、姉がもし母親の面会に来ないまま母親が亡くなったならば、姉の病状は生涯よくならないであろうと予想していた。そのとおりになった。心は正直である。

2019年1月4日金曜日

留守番電話

姉がぞっとするような声で留守番メッセージを残したのは、父親が入院した約1か月後であった。その留守番メッセージの冒頭の文言は先日書いた。「あなたたち三人がしていることは全部知っちょります。」この『三人」が私と私の家内と私の一人息子のことであることを私が知ったのは2015年に亡くなった母親の告別式の翌日であったことも書いた。それまで「三人」は私と私の両親のことであろうと思っていた。私の家内とまだ中学生であった私の一人息子に対してあれほどまで激しい憎しみを姉が抱いているとは夢にも思わなかったからだ。
 
父親が出血性脳梗塞で入院した当初は、簡単な会話はできた。しかし込み入った話は全くできなかった。父親は自分がどの病院に入院しているのかすら知らなかった。病状はどんどん悪化していった。私は父親を東京の施設に移さなければならなくなる可能性を考え、家内に施設を探してもらった、その一方で、私は父親の後見人申請を裁判所にする手続きを急いだ。その2年前に父親が初回発作で倒れたとき、もしものときには私が父親の任意後見人を務める契約を父親と私は結んでいた。
 
私が家庭裁判所から任意後見人として認めてもらうにあたっては、父親の財産一式の目録を提出しなければならない。私は高知に帰省するたびに雑然とした書類をひとつひとつ整理し、父親の預金通帳や登記簿を揃える作業を続けた。わが家ではずっと父親が家計を握っていた。母親は自分名義の預金通帳すら持たしてもらえなかった。したがって何を母親に尋ねても母親にはわからなかった。唯一、母親が役に立ったのは、金庫の開け方を教えてくれたときだけであった。その母親も父親を追いかけるように1か月後に入院し、わが家は空き家となった。
 
誰も住まなくなった実家で、一人でどこにあるのかもわからない書類を探し、雑然と積み上げられた書類にひとつひとつ目を通して必要な書類と不要な書類を分けた。そしてたびたび市役所に足を運んでは父親が所有していた不動産の目録をコピーさせてもらった。不動産は土佐市内だけではなかった。他の市町村にもあった。それらの市町村から必要書類をもらうには多大な時間がかかった。手間もかかった。
 
私がこんな作業をしていたときのことを、姉は「幸伸が父親の財産をコピーして自分の名義に書き換えている」と解釈したのだ。そのようなことを姉に告げたのは一人の従姉であると姉は裁判の場で証言した。
 
私はこの従姉に電話をかけ、姉の主張の真偽を確認した。この従姉は、そんなことは言っていないと言った。しかし、私に有利になる証言は一切するなと(その従姉の)妹から言われているので、そのことは裁判では話さないと私に告げた。私は弁護士を通じて証言を依頼したが、従姉は拒否した。
 
「幸伸に有利になる証言はするな」と言ったのが誰であるかは、ここに書くまでもないであろう。