桜が満開である。今朝、通りすがりに見た日比谷公園の染井吉野も見事な花を咲かせていた。思わずカメラを取り出しシャッターを切った。
写真を撮りおわってカメラをしまおうとしたとき、私の頭に妙な歌が思い浮かんだ。「同期の桜」である。「きさまと俺とは同期の桜」で始まる戦中の歌である。
私は戦後生まれであるが、私が子供の頃にはよくこの曲が流れていた。最近、この歌を耳にすることはない。放送禁止歌にでもなっているのであろうか。
私はこの曲を小声で口ずさんだ。そして、その歌詞をゆっくり頭の中で辿りながら、戦争で死んでいった多くの若者の思いを想像した。終戦の1か月前にフィリピンのレイテ島で戦死した伯父のことも脳裏に浮かんだ。伯父は、生まれて数か月にしかならない一人息子を残して戦地に飛び立った。その息子は私の従兄になる。その従兄も既に亡い。10年ほど前、膀胱癌で亡くなった。私はその従兄から、生前、小児期の寂しかった思い出を聞かされたことがあった。その従兄には4人の娘があった。娘全員を連れてその従兄が私の実家を訪れたとき、しみじみと私に語った言葉は今も忘れることができない。「貧乏じゃきに娘にはなんちゃあしちゃれん。けんど、親の愛情は伝えることができるけんのう。」
そんなことを思い浮かべているとき、私の頭に、ふと、コタキナバルの光景が浮かんだ。私は、ドキッとした。
コタキナバルはマレーシアの小さな町である。スマトラ島の北端に近いところに位置している。私は、家族とともに、この島を昨年の春と今年の春、2年続けて訪れた。
いうまでもなくマレーシアはイスラム教社会である。「イスラム教」という言葉を耳にして、私たち日本人が思い浮かべるのは、まず、テロ、そして男尊女卑の世界、といったイメージであろう。
今の日本は、キリスト教社会の価値観が社会を席巻している。一神教はイスラム教であれキリスト教であれ、非常に厳しい宗教である。世界では今もキリスト教とイスラム教との争いが絶えない。イラクでの戦闘も、アフガニスタンでの戦闘もキリスト教とイスラム教との間の宗教戦争である。日本人では古くから仏教という多神教が心の基盤となってきた。多神教を奉じてきた日本人には宗教戦争という観念はない。そして、日本は無批判にキリスト教国に荷担する。
しかし果たして、ほんとうにイスラム教社会は悪なのであろうか、男尊女卑だけの遅れた社会なのであろうか。ヘジャブは女性蔑視の象徴なのであろうか。大胆に肌を露出し路を闊歩する日本の若い女性。しかし肌をさらす自由と引き替えに日本の女性は自らの神秘性を放棄した。
コタキナバルで出会った多くの現地の人々の屈託のない笑顔を思い浮かべるたびに、私は、日本人は戦後、生きていく上で最も大切なものを失ってしまったのではないかと思わざるを得なくなる。それは、「信じること」と「信じられること」である。何が正義であり、何が善であり、何が価値のあることなのか、美とは何か、そういったことに関する心の拠り所を日本人は見失ってしまった。社会が共有する美意識や価値観は、日本にはもうない。
日本社会はどこに行っても「個性、個性」のオンパレードである。しかし、電車の中で化粧をするのは個性ではないであろう。成人式の最中に騒ぎ立てるのも個性ではないであろう。イスラム教の世界では祈りの儀式の最中に騒ぎ立てる者はいない。祈りは侵すべからぬ神聖なものである。そこには価値観の共有がある。今の日本社会には、もはや「神聖なもの」など存在しない。日本人が古くから培ってきた、世界に誇るべき、かけがえのない美意識も失われた。
信じるものを見失った日本社会。日本人の心は路頭に迷っている。誰もが慢性的な不幸感にさいなまれている。現在の日本は「総不幸社会」である。
2009年4月7日
2009年3月23日
父 その2
私はこのブログをマレーシアのコタキナバルに向かう飛行機の中で書いている。今朝、成田空港では、着陸時に貨物機が火災を起こし炎上した。その影響で欠航が相次いだが、運良く私たちの瓶はほぼ定刻に成田空港を発つことができた。
飛行機に搭乗する直前、私は父親に電話をかけた。父は成田空港での飛行機の炎上を既に知っており心配していたので、私の声を聞いてほっとしたようであった。
つい数年前まで、私は父親とも母親とも話すことはめったになかった。数か月以上、一度も話さないことも珍しくなかった。私にとって両親は関心の対象ではなかったのだ。両親はいつまでも若く健在であると無意識に思い込んでいたのだ。
しかし父はつい数日前に77歳になった。母親は74歳。両親に残された時間は、もうそれほど長くはない。
私が幼い頃、私は父親に遊んでもらったことがない。おそらくこれは私の記憶違いではないであろう。父親自身も私の幼少時の記憶は全くないと言っているからである。家族揃って食事をする際にも父親が私や私の姉に話しかけることはなかった。父親はいつも祖父母や母と仕事の話をしていた。一家が食卓を囲むこともほとんどなかった。両親とも土間に立ったまま漬け物だけをおかずとして茶漬けをかけこんだ。そしてあっという間にまた家から出て行った。当時の私にとって、父親は、いつも何かに苛立っており気むずかしく恐ろしい存在でしかなかった。父親が帰ってくるバイクの音に私は怯えた。
それでも、私が中学生になると、父親は山や海に何度か私を連れて行ってくれた。山に行く目的はメジロを捕まえることであった。当時家で飼っていたメジロを小さな鳥籠に入れて持って行く。そのメジロの鳴き声でほかのメジロを呼び寄せるのだ。鳥籠のそばに鳥モチを巻いた止まり木を用意しておく。鳥籠に近寄ってきたメジロがその止まり木にとまると足が鳥モチにくっつく。そうやってメジロを捕まえるのである。木陰に隠れて声を潜めながらじっとメジロが捕まるまで待つのだ。私にとっては単なる苦痛でしかなかった。
このようなことをして野鳥を捕まえることは、今は違法であるかもしれない。しかし当時、私の生まれた田舎では最も任期のある娯楽のひとつであった。
父はまた気分転換のためにひとりでもよく海釣りに出かけた。車のトランクの中には常に釣り竿が入れられていた。私も何度か父親と一緒に海釣りにでかけた。
ただ、残念なことに、私はどうしても魚釣りが好きになれなかった。いや、むしろ魚釣りは嫌いであった。船酔いのせいである。船に乗らず海岸で釣り座をを垂れているだけでも海の波のために気分がわるくなる。今でも当時のことを思い出すと頭痛がする。私は映画館に足を運んだことが20年以上ない。スクリーンを見ているだけも気分が悪くなるからである。
最近、私は、両親が辿ってきた人生をよく振り返る。仕事に全身全霊を傾けていた若かりし頃の父親はそれなりに満足感を得ていたのであろう。しかし、母親が病み、父親が母親の介護をしなくてはならなくなった数年前からの人生は、父親にとって最も心豊かに過ごせた時期ではなかろうかと私自身は思っている。老いること、病むこと、そして身近になった死。父親がこれらのことを考えない日はないであろう。そんな中で、父親は残り少なくなった母との人生を精一杯前向きに生きようとしているように見える。また、迫り来る自らの死をすら素直に受け入れている。
昨年、父親の膵臓に腫瘍が見つかった。また肺にも2か所に異常陰影が見つかった。検査を受けたが良性なのか悪性なのかすらまだわからない。父親は平然としている。むしろ動揺しているのは母親の方である。父親の介護なしには生活ができない母親にとっては当然のことであろうが。
父親は最近、信じられないほど気が長くなった。これは母親の言葉である。母親は歩行器なしでは歩けない。昨年8月に頸椎骨折を起こした歳にはほぼ完全な四肢麻痺に陥っていたのであるから、これでも見違えるほどに元気になったのであるが。のろのろと歩行器で歩く母親に細かな指示を与えながら父親はゆっくりと母親に付き添って歩く。自分の身体が思うように動かないことを母親は悔しがる。もどかしくて仕方がないという。しかしやっと歩いている自分に付き添う父親の姿といつも苛立っていた昔の父親の姿とを重ね合わせながら、わずかといえども母親が幸福感を味わっているのも事実であろう。夫婦の間の心のアヤに息子の私は立ち入れない。
飛行機に搭乗する直前、私は父親に電話をかけた。父は成田空港での飛行機の炎上を既に知っており心配していたので、私の声を聞いてほっとしたようであった。
つい数年前まで、私は父親とも母親とも話すことはめったになかった。数か月以上、一度も話さないことも珍しくなかった。私にとって両親は関心の対象ではなかったのだ。両親はいつまでも若く健在であると無意識に思い込んでいたのだ。
しかし父はつい数日前に77歳になった。母親は74歳。両親に残された時間は、もうそれほど長くはない。
私が幼い頃、私は父親に遊んでもらったことがない。おそらくこれは私の記憶違いではないであろう。父親自身も私の幼少時の記憶は全くないと言っているからである。家族揃って食事をする際にも父親が私や私の姉に話しかけることはなかった。父親はいつも祖父母や母と仕事の話をしていた。一家が食卓を囲むこともほとんどなかった。両親とも土間に立ったまま漬け物だけをおかずとして茶漬けをかけこんだ。そしてあっという間にまた家から出て行った。当時の私にとって、父親は、いつも何かに苛立っており気むずかしく恐ろしい存在でしかなかった。父親が帰ってくるバイクの音に私は怯えた。
それでも、私が中学生になると、父親は山や海に何度か私を連れて行ってくれた。山に行く目的はメジロを捕まえることであった。当時家で飼っていたメジロを小さな鳥籠に入れて持って行く。そのメジロの鳴き声でほかのメジロを呼び寄せるのだ。鳥籠のそばに鳥モチを巻いた止まり木を用意しておく。鳥籠に近寄ってきたメジロがその止まり木にとまると足が鳥モチにくっつく。そうやってメジロを捕まえるのである。木陰に隠れて声を潜めながらじっとメジロが捕まるまで待つのだ。私にとっては単なる苦痛でしかなかった。
このようなことをして野鳥を捕まえることは、今は違法であるかもしれない。しかし当時、私の生まれた田舎では最も任期のある娯楽のひとつであった。
父はまた気分転換のためにひとりでもよく海釣りに出かけた。車のトランクの中には常に釣り竿が入れられていた。私も何度か父親と一緒に海釣りにでかけた。
ただ、残念なことに、私はどうしても魚釣りが好きになれなかった。いや、むしろ魚釣りは嫌いであった。船酔いのせいである。船に乗らず海岸で釣り座をを垂れているだけでも海の波のために気分がわるくなる。今でも当時のことを思い出すと頭痛がする。私は映画館に足を運んだことが20年以上ない。スクリーンを見ているだけも気分が悪くなるからである。
最近、私は、両親が辿ってきた人生をよく振り返る。仕事に全身全霊を傾けていた若かりし頃の父親はそれなりに満足感を得ていたのであろう。しかし、母親が病み、父親が母親の介護をしなくてはならなくなった数年前からの人生は、父親にとって最も心豊かに過ごせた時期ではなかろうかと私自身は思っている。老いること、病むこと、そして身近になった死。父親がこれらのことを考えない日はないであろう。そんな中で、父親は残り少なくなった母との人生を精一杯前向きに生きようとしているように見える。また、迫り来る自らの死をすら素直に受け入れている。
昨年、父親の膵臓に腫瘍が見つかった。また肺にも2か所に異常陰影が見つかった。検査を受けたが良性なのか悪性なのかすらまだわからない。父親は平然としている。むしろ動揺しているのは母親の方である。父親の介護なしには生活ができない母親にとっては当然のことであろうが。
父親は最近、信じられないほど気が長くなった。これは母親の言葉である。母親は歩行器なしでは歩けない。昨年8月に頸椎骨折を起こした歳にはほぼ完全な四肢麻痺に陥っていたのであるから、これでも見違えるほどに元気になったのであるが。のろのろと歩行器で歩く母親に細かな指示を与えながら父親はゆっくりと母親に付き添って歩く。自分の身体が思うように動かないことを母親は悔しがる。もどかしくて仕方がないという。しかしやっと歩いている自分に付き添う父親の姿といつも苛立っていた昔の父親の姿とを重ね合わせながら、わずかといえども母親が幸福感を味わっているのも事実であろう。夫婦の間の心のアヤに息子の私は立ち入れない。
Gmail
私は長い間、メールサーバを自宅に設置し、そのサーバを自分で管理してきた。独自ドメインを利用したかったからだ。メールボックスの容量にも余裕がほしかった。
しかし最近、メールサーバをGoogleが提供しているものに移管した。もちろん、これまで利用してきた独自ドメインもこれまでどおり利用可能である。それに7GB以上の容量が無料で得られる。私が自宅のサーバで利用していた機能はほとんど全て提供されている。
メールサーバは片時も稼働を停めることができない。一年中電源を入れておかねばならない。サーバにかかる負担は大きい。ログを見ると、外部からのたゆみないアタックにさらされているのがわかる。いつサーバがクラッシュするのかといつも気が気ではなかった。
Googleのサービスを利用すれば、ひとつのドメインに対して50までのアカウントを無料で作成することができる。POP3だけでなくIMAP4にも対応している。当然、SSLを利用した通信も可能である。ほかのメールサーバからメールを読み込むことも可能である。1メールの最大容量は20MB。これも十分であろう。これ以上大きなファイルを送りたければほかの方法はいくらでもある。ボイスチャットやビデオチャットも可能である。
唯一残念なのは、ブラウザを利用した場合には、一種類の署名しか使えないこと。
このブログでは、これから時々、Gmailの利用方法について書いてみようかと思う。
しかし最近、メールサーバをGoogleが提供しているものに移管した。もちろん、これまで利用してきた独自ドメインもこれまでどおり利用可能である。それに7GB以上の容量が無料で得られる。私が自宅のサーバで利用していた機能はほとんど全て提供されている。
メールサーバは片時も稼働を停めることができない。一年中電源を入れておかねばならない。サーバにかかる負担は大きい。ログを見ると、外部からのたゆみないアタックにさらされているのがわかる。いつサーバがクラッシュするのかといつも気が気ではなかった。
Googleのサービスを利用すれば、ひとつのドメインに対して50までのアカウントを無料で作成することができる。POP3だけでなくIMAP4にも対応している。当然、SSLを利用した通信も可能である。ほかのメールサーバからメールを読み込むことも可能である。1メールの最大容量は20MB。これも十分であろう。これ以上大きなファイルを送りたければほかの方法はいくらでもある。ボイスチャットやビデオチャットも可能である。
唯一残念なのは、ブラウザを利用した場合には、一種類の署名しか使えないこと。
このブログでは、これから時々、Gmailの利用方法について書いてみようかと思う。
2009年3月17日
土佐の森・救援隊

中学高校時代の3年後輩が吉祥寺に住んでいる。彼とは寮で1年間同室であった。彼は「土佐の一本釣り」で有名な高知県中土佐町久礼の出身。しかし漁師の持つ荒々しさは彼にはなかった。いつも控えめで笑みをたたえていた。彼が怒った顔を私は見たことがない。
彼と私とは私が高校を卒業してからは疎遠になった。時折、彼のことを思い出すことはあったが彼の所在も知ることはなかった。そんな彼から10年あまり前に思いもかけず連絡をもらった。ある雑誌で私の顔を見たのでびっくりして連絡を寄こしたということであった。私たちは渋谷のレストランで20年ぶりに顔を合わせた。
彼は多少髪が薄くなっていたが、そのほかは高校時代と変わりがなかった。彼は昔と同じように私の前に座るとどぎまぎしながらぽつりぽつりと近況を話した。
彼はまだ独身であった。社員は社長と彼だけというごくごく小さな業界紙の出版社に勤めているということであった。ただ私は彼の踏み込んだプライバシーについてはほとんど何も尋ねなかった。彼も積極的に自分の生活をしゃべろうとはしなかった。
彼と2度目に会ったのは新宿西口のインドネシア料理の店。私の他の知人も同席していた。そこでの話はほとんど何も憶えていない。
彼の趣味は連句。この世界では「市川千年」と名乗っているらしい。名刺ももらった。
私には連句というものがどのようなものであるかすらわからない。しかし彼から送られてくる歌にはいつもユーモアに溢れていた。「楽しそうだね」と私が話すと、連句の集まりを見学に来てくれと私に言う。1か月に1回、西荻窪に仲間が集まるそうだ。
文章には書く人の全てが表れる。このユーモアこそ彼の持ち味である。彼は決して経済的に裕福な生活をしているわけではないように感じる。しかしその貧しい生活を心から楽しんでいた。
そんな彼がつい数日前、私の自宅にやってきた。私の高校時代の友人が3月一杯で四国の丸亀に転勤になる。そのお別れの食事会に彼も誘ったのだ。
彼は今年3月いっぱいで出版社を辞め、あるボランティア活動に従事すると話した。彼が退職するということは昨年12月に電話で聞いて知っていた。しかし詳しい話は聞いていなかった。彼が私の家にやってきた日の午後、ボランティアの仲間を集めるための面接があったということであった。
この日は彼のこの活動で話が盛り上がった。
彼はこの活動からほとんど何の報酬も得られないことをつい最近まで知らなかったという。今月いっぱいで退職した後は6か月間、失業手当で暮らすという。彼らしい。
まさに「三つ子の魂百までも」。彼はいまも愛すべき好青年である。
2009年2月25日
少子化
日本の国民の最大の関心事は失業問題、年金、医療であろう。失業は国際的な不況が最大の原因である。しかし外需依存の日本の産業構造が先進国で最悪のGDPの低下を招いた誘因となっていることも事実であろう。
内需が伸びない理由は何であろうか。私は経済については全くの素人であるが、最も大きな原因は少子化だと思っている。年金問題も医療問題も少子化によってもたらされたものだと私は考えている。就労、年金、医療などといった国民の基本的生存権に関わる問題の根本的解決法は子供を増やすこと以外にない。
私には一人息子がいる。いま10歳。これまでは親である私が期待するとおりの成長をしてくれた。このことには大きな喜びを感じる。しかし、子はこの息子一人。子に対しても社会に対しても罪悪感を抱いている。だから息子には早く結婚し沢山の子をもうけてもらいたいと願う。子沢山は幸福の代名詞である。
私は、独身の男女と話す機会があれば、いつも早く結婚すべきだと話す。幸い、彼らの中に生涯独身主義者はいない。「いい人」がいれば結婚しようと思っている。
いい人・・・。この言葉を聞くといつも私は考え込んでしまう。私がいい人と思っても彼らもいい人と感じる保証はない。先ず彼らが直接相手と会ってみる以外には確かめる手立てはないではないか。
彼らは相手の家系、出身校、勤め先、背の高さなどを指定する。それらが自分の希望に添わないときには会おうともしない。私は悲しくなる。その本人に会ってみなければわからないことがたくさんあるではないか。なぜ最初から全ての可能性を否定するのか。
作家の曾野綾子氏は次のように語る(「夫婦、この不思議な関係」 WAC BUNKO)。
「・・・つまり、これは、人間というものが説明しきれないような複雑な理由で惹かれ合うことがあるという可能性に対する最初からの拒絶である。いかに毎日1時間ずつトイレの掃除をしなければなかろうと、私がもっと相手に惚れていたら、それも致し方ないと思っただろう。外国に住むのはいやだと思っていても、「この人に引っぱられていやいや30年、ついに地球の反対側に住んでしまいました」などという科白を、人間はにこにこしながら言える場合もある。
夫婦というものは、当然、出会いから始まるのだが、その場合、条件を優先させる人を見ると、私はどうも不思議な気がしてならない。・・・・こういう人は、どうも自己本位で、それだけ自分に目をかけているわりには自分が見えていないのではないだろうか、という気がする。」
同感である。
数年前、ある女性に、高知に住む男性を紹介しようとした。彼女は話にならないという口調でその男性に会うのを断った。彼女はこう言った。「だって、高知には台風が来るじゃないですか。」
その1年後、彼女より15歳年上の男性を紹介したときには、「想像すらできない」と言われた。その男性に関する説明すら聞いてもらえなかった。
彼女はいまも独身である。そして生涯独身率を上げる一人となった。
Mobile Blogging from here.
内需が伸びない理由は何であろうか。私は経済については全くの素人であるが、最も大きな原因は少子化だと思っている。年金問題も医療問題も少子化によってもたらされたものだと私は考えている。就労、年金、医療などといった国民の基本的生存権に関わる問題の根本的解決法は子供を増やすこと以外にない。
私には一人息子がいる。いま10歳。これまでは親である私が期待するとおりの成長をしてくれた。このことには大きな喜びを感じる。しかし、子はこの息子一人。子に対しても社会に対しても罪悪感を抱いている。だから息子には早く結婚し沢山の子をもうけてもらいたいと願う。子沢山は幸福の代名詞である。
私は、独身の男女と話す機会があれば、いつも早く結婚すべきだと話す。幸い、彼らの中に生涯独身主義者はいない。「いい人」がいれば結婚しようと思っている。
いい人・・・。この言葉を聞くといつも私は考え込んでしまう。私がいい人と思っても彼らもいい人と感じる保証はない。先ず彼らが直接相手と会ってみる以外には確かめる手立てはないではないか。
彼らは相手の家系、出身校、勤め先、背の高さなどを指定する。それらが自分の希望に添わないときには会おうともしない。私は悲しくなる。その本人に会ってみなければわからないことがたくさんあるではないか。なぜ最初から全ての可能性を否定するのか。
作家の曾野綾子氏は次のように語る(「夫婦、この不思議な関係」 WAC BUNKO)。
「・・・つまり、これは、人間というものが説明しきれないような複雑な理由で惹かれ合うことがあるという可能性に対する最初からの拒絶である。いかに毎日1時間ずつトイレの掃除をしなければなかろうと、私がもっと相手に惚れていたら、それも致し方ないと思っただろう。外国に住むのはいやだと思っていても、「この人に引っぱられていやいや30年、ついに地球の反対側に住んでしまいました」などという科白を、人間はにこにこしながら言える場合もある。
夫婦というものは、当然、出会いから始まるのだが、その場合、条件を優先させる人を見ると、私はどうも不思議な気がしてならない。・・・・こういう人は、どうも自己本位で、それだけ自分に目をかけているわりには自分が見えていないのではないだろうか、という気がする。」
同感である。
数年前、ある女性に、高知に住む男性を紹介しようとした。彼女は話にならないという口調でその男性に会うのを断った。彼女はこう言った。「だって、高知には台風が来るじゃないですか。」
その1年後、彼女より15歳年上の男性を紹介したときには、「想像すらできない」と言われた。その男性に関する説明すら聞いてもらえなかった。
彼女はいまも独身である。そして生涯独身率を上げる一人となった。
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2009年2月24日
辿りきて
昨日の午前中、名古屋に住む友人から電話がかかってきた。東京に出てきたので会わないかという誘いであった。彼からは上京する旨のメールを1週間ほど前にもらっていたが、雑事に追われて返事を書かないままになっていた。
彼とは昨年暮れにも高知で顔を合わせたばかりだった。高校時代の友人との同窓会の席であった。
東京で彼と会うのはいつも神田の讃岐うどんの店。彼は香川大学出身だということもあって讃岐うどんが大好物だ。彼が帰りの新幹線に乗るまでの2時間ほどこの店で讃岐うどんを食べながら語り合った。
彼がいつも話すのは自分の親のこと。彼の母は数年前に交通事故で亡くなった。即死であった。彼の父親が運転する車が交通事故を起こしたのだ。当時の出来事は既にこのブログに書いた。
彼は一人暮らしとなった父の世話をするため1か月に2回ほど高知に帰る。しかし高知空港に降り立ったときの寂しさは今もこたえるという。事故の前はいつも、彼が飛行機で帰省するときには、彼のお父さんが出迎えにきてくれた。そして「もんたかよ」と言って喜んでくれたという。「もんたかよ」というのは土佐弁である。「帰った?」という意味であるが、この言葉には独特のぬくもりがある。このぬくもりは高知で育った人にしかわからない。
こんな彼も別の友人には羨ましがられるという。親が1人生きているだけでもいいではないかと。
親が死ぬというのは心の拠り所を失うことだと彼は言う。「この世の中で無条件に自分を支持し支えてくれるのは親しかいない。たった2人だけだ。」彼は言葉を噛みしめるように私にそう言った。私の両親はまだ健在である。しかし遠からず私も彼らと同じ寂しさを味わうことになろう。
10年前までは親のことが私たちの間で話題に上ることはなかった。親は私たちの関心事ではなかったのだ。親が元気でいることは私たちにとって当たり前のことであった。
彼と私が出会ってから40年経つ。中学校1年生のときであった。何回かクラス替えはあったが、私たちは6年間一緒に過ごした。最も多感な思春期を共にした。この6年間が私たちの友情を育て、その後の私たちの人生を決定づけたと彼は言う。そして中学高校一貫教育を受けたことを人生のなかで最も幸運なことであったと言う。
私たちが6年間通ったのは高知市内にある私立の学校であった。高知県内では進学校と考えられているが、全国的には全く無名である。
しかしこの学校は今も私たちのアイデンティティそのものである。誇りの源である。
私たちは夜9時過ぎに店を出た。そしてJR神田駅の改札口で別れた。
別れた後、新幹線のなかからメールが届いた。
「今日はすみません。ありがとうございました。今、新幹線に乗りました。勝手に呼び出して勘定まで払わせる、こんなこと、出来る人は少ないですよね。そんなことが嬉しく思います。その意味では学芸のおかげかも。また、宜しく。ありがとうございました。」
「学芸」とは、私が卒業した高知学芸中学・高等学校のことである。
彼とは昨年暮れにも高知で顔を合わせたばかりだった。高校時代の友人との同窓会の席であった。
東京で彼と会うのはいつも神田の讃岐うどんの店。彼は香川大学出身だということもあって讃岐うどんが大好物だ。彼が帰りの新幹線に乗るまでの2時間ほどこの店で讃岐うどんを食べながら語り合った。
彼がいつも話すのは自分の親のこと。彼の母は数年前に交通事故で亡くなった。即死であった。彼の父親が運転する車が交通事故を起こしたのだ。当時の出来事は既にこのブログに書いた。
彼は一人暮らしとなった父の世話をするため1か月に2回ほど高知に帰る。しかし高知空港に降り立ったときの寂しさは今もこたえるという。事故の前はいつも、彼が飛行機で帰省するときには、彼のお父さんが出迎えにきてくれた。そして「もんたかよ」と言って喜んでくれたという。「もんたかよ」というのは土佐弁である。「帰った?」という意味であるが、この言葉には独特のぬくもりがある。このぬくもりは高知で育った人にしかわからない。
こんな彼も別の友人には羨ましがられるという。親が1人生きているだけでもいいではないかと。
親が死ぬというのは心の拠り所を失うことだと彼は言う。「この世の中で無条件に自分を支持し支えてくれるのは親しかいない。たった2人だけだ。」彼は言葉を噛みしめるように私にそう言った。私の両親はまだ健在である。しかし遠からず私も彼らと同じ寂しさを味わうことになろう。
10年前までは親のことが私たちの間で話題に上ることはなかった。親は私たちの関心事ではなかったのだ。親が元気でいることは私たちにとって当たり前のことであった。
彼と私が出会ってから40年経つ。中学校1年生のときであった。何回かクラス替えはあったが、私たちは6年間一緒に過ごした。最も多感な思春期を共にした。この6年間が私たちの友情を育て、その後の私たちの人生を決定づけたと彼は言う。そして中学高校一貫教育を受けたことを人生のなかで最も幸運なことであったと言う。
私たちが6年間通ったのは高知市内にある私立の学校であった。高知県内では進学校と考えられているが、全国的には全く無名である。
しかしこの学校は今も私たちのアイデンティティそのものである。誇りの源である。
私たちは夜9時過ぎに店を出た。そしてJR神田駅の改札口で別れた。
別れた後、新幹線のなかからメールが届いた。
「今日はすみません。ありがとうございました。今、新幹線に乗りました。勝手に呼び出して勘定まで払わせる、こんなこと、出来る人は少ないですよね。そんなことが嬉しく思います。その意味では学芸のおかげかも。また、宜しく。ありがとうございました。」
「学芸」とは、私が卒業した高知学芸中学・高等学校のことである。
2009年2月23日
鞄の中身
一日の仕事が一段落して自分の席に戻る。溜まっている残業を片付けようと思う。しかしどっと疲れが出る。帰宅に帰って続きの仕事をしようと思う。重い書類を抱えて帰宅する。通勤時間は片道45分。電車のなかでもほとんど立ちっぱなしである。帰宅すると同時にもっと強い疲労感が襲ってくる。家族もいる。そして翌朝。何も手がつかなかった書類をまた職場に持ち帰る。残るのは虚しさだけである。
こんな経験をしているのは私だけであろうか。そうかもしれない。私は人一倍ぐうたらである。ずぼらである。そして三日坊主である。
こんな悪循環の解決策はないものか。ひとつの解決方法は時差出勤。もうひとつは車での出勤。
しかし電車のなかで座るためには朝6時過ぎには家を出なければならない。これは家族の生活のリズムを狂わせる。車での出勤も精神的に疲れる。つい数日前にも通勤途中、スクールゾーンに進入して警察に捕まってしまった。その通りはこれまで7年間、幾度となく車で走ったところだ。それなのに時間によって車の進入が禁止になることを知らなかった。その日は、職場について駐車場に車を停める際にも電柱に車をぶつけてしまった。挙げ句の果てに、さあ帰宅しようと思って駐車場に来たまではよかったが、エンジンがかからない。バッテリーがあがってしまっていたのだ。泣きっ面に蜂である。家内のアドバイスもあり、当分、車の運転はしないことにした。
結局、通勤・移動の疲れを少なくするために私が始めたのは手荷物を軽くすること。そのために軽いノートパソコンを購入した。このことだけでも荷物が1キロ以上軽くなった。パソコンの電源は切らない。したがってパソコンを開けばいつでも作業を再開することができる。パソコンの付属品も必要最小限のものだけを鞄に入れておけば重さが苦になることもない。この他、鞄の中に入れるのは、携帯電話、メモ帳、ボールペン、そしてわずかの書類だけである。
確かに通勤の疲れは少なくなった。
こんな経験をしているのは私だけであろうか。そうかもしれない。私は人一倍ぐうたらである。ずぼらである。そして三日坊主である。
こんな悪循環の解決策はないものか。ひとつの解決方法は時差出勤。もうひとつは車での出勤。
しかし電車のなかで座るためには朝6時過ぎには家を出なければならない。これは家族の生活のリズムを狂わせる。車での出勤も精神的に疲れる。つい数日前にも通勤途中、スクールゾーンに進入して警察に捕まってしまった。その通りはこれまで7年間、幾度となく車で走ったところだ。それなのに時間によって車の進入が禁止になることを知らなかった。その日は、職場について駐車場に車を停める際にも電柱に車をぶつけてしまった。挙げ句の果てに、さあ帰宅しようと思って駐車場に来たまではよかったが、エンジンがかからない。バッテリーがあがってしまっていたのだ。泣きっ面に蜂である。家内のアドバイスもあり、当分、車の運転はしないことにした。
結局、通勤・移動の疲れを少なくするために私が始めたのは手荷物を軽くすること。そのために軽いノートパソコンを購入した。このことだけでも荷物が1キロ以上軽くなった。パソコンの電源は切らない。したがってパソコンを開けばいつでも作業を再開することができる。パソコンの付属品も必要最小限のものだけを鞄に入れておけば重さが苦になることもない。この他、鞄の中に入れるのは、携帯電話、メモ帳、ボールペン、そしてわずかの書類だけである。
確かに通勤の疲れは少なくなった。
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