2016年8月20日土曜日

母親の命日

8月7日は母親の命日であった。母親が亡くなってちょうど1年経った。きょうの午後、家内と息子を連れ、墓参りに行ってきた。一周忌の法要は行わなかった。3人で墓掃除をし、花を供え、墓前で祈っただけであった。

私は無神論者ではない。大した根拠はないが、死後の世界は存在すると信じている。ただ、私の母親とは全く面識もない僧侶のお経によって母親の魂が救われると私には思えないのだ。私と私の家内と私の息子の祈りによってのみ母親の魂は清められると私は思っている。

私は、父親が亡くなる直前に先祖代々の墓を東京に移した。わが家の代々の墓は、実家の裏山にあった。50年前に亡くなった祖母も30年前に亡くなった祖父も土葬であった。改葬にあたって江戸時代からの墓をひとつひとつ掘り起こしたが、遺骨が残っていたのは祖父と祖母の遺骨だけであった。他の先祖は、遺骨代わり墓石の下の土だけを丸めて東京に運んだ。

母親の生前、我が家の墓地を東京に移したいことを母親に話すと、母親は喜んでくれた。母親は生前は頑として東京に住むことに応じなかったが、自分の死後は息子たちの傍にいたいと願っていたのであろうと思う。父親も母親も懸命に生きた。あっぱれであったと讃えようと思う。



御巣鷹山 3度目の登山

一昨日、家内と一緒に御巣鷹山に登った。軽井沢から御巣鷹山の中腹にある駐車場までは車で2時間弱。途中で土砂降りになったが、駐車場についたときには幸い、小降りになった。御巣鷹山に登るのは3度目であった。



駐車場で車から降りたときには肌寒いと感じたが、事故現場に建てられている鎮魂の碑に辿り着いたときには汗びっしょりになっていた。天候が悪かったためか、今年は、途中ですれ違う登山客は少なかった。

飛行機が衝突した岩には大きくバツ「X」の文字が書かれている。そのすぐ側に機長、副操縦士、そして機関士の小さな石塔が並んで建てられている。事故後、彼らの家族は「加害者」として乗客たちの遺族から責められたという。しかし彼らもその家族もまた事故の被害者であった。



家内と私は3つの石塔の前で手を合せた。機長の娘さんは後に客室乗務員に、そして副操縦士と機関士の息子さんはパイロットになったという。


事故当時、家内も日本航空に勤めていた。この事故で、家内の知人や同僚も何人か亡くなった。事故のあったこの山を護り続けている黒沢完一氏に案内されながら、それらの犠牲者の発見現場も見て廻った。遺族が全く訪れないと黒沢氏が語った家内の同僚の発見現場には、名前が書かれただけの粗末な木塔がぽつねんと建てられていた。

御巣鷹山に来ると、私は死とは何かといつも考えさせられる。私の両親が亡くなったあと、殊更、死の意味について考えるようになった。この事故により事故の犠牲者の家族の人生は大きく狂ったに違いない。悲しみは今も癒えてはいまい。しかし彼らもやがては死ぬ。そして、事故の犠牲者がこの世に生きた証も消えてしまう。事故の記憶は誰からも失われ、単なる事故の「記録」だけが残る。

家内と私が山を下っている途中で黒沢さんが私たちに追いついた。雨天のためか、木の生い茂る山の中は既に随分暗くなっていた。「きょうはもう誰も来ないと思うから私も帰宅することにした」と黒沢さんは言った。私たちは駐車場まで一緒に下った。そして駐車場で別れた。



つい3年ほど前まで、家内と私の間で日航機墜落事故のことが話題に昇ることはなかった。家内も私も、長い間、無意識にこの話題を避けていたのだと思う。

行き帰りの車の中で、家内は亡くなった知人や同僚の思い出話を語った。事故から31年経った今も、家内の頭の中には彼らの思い出が新鮮なまま残っていた。「死んだらお終いよ。」家内がぽつりと放ったこの言葉は家内のどのような気持ちを表しているのであろうかと思いながら、私は車を運転し、軽井沢に戻ってきた。

軽井沢に一人で残っていた息子は、私たちの帰りが遅いので心配になったらしい。私たちが軽井沢町に入ったちょうどそのときに、「今、どこにいるの。警察に捜索願を出すよ」というLINEのメッセージが家内の携帯電話に届いた。

2016年8月13日土曜日

母親の一周忌

母親が亡くなったのは昨年の8月7日。その日のことは今も鮮明に憶えている。

金曜日であった。午前中の外来診療中に主治医からメールが届いた。母親の病状が思わしくないとのことであった。外来診療が終わると直ぐに私は主治医に電話した。場合によっては2~3日の命になるかもしれないと告げられた。

しかし私は、その日の午後、手術があった。すぐに帰省することはできなかった。実家のご近所の人や従兄弟に電話し病院に駆けつけてくれるように頼んで手術室に入った。夕方、手術を終えて携帯電話を確認すると、従兄から何通かのメッセージが届いていた。ご近所の人からのメッセージもあった。刻一刻と悪化してゆく母親の病状を告げる内容であった。

私は大急ぎで着替え、自分の部屋に戻りその従兄に電話をかけた。既に母親は亡くなっていた。ご近所の多くの人たちが母親の最期を看取ってくれたということであった。

その日はもう飛行機便はなかった。翌日の午後の飛行機のチケットがやっととれた。高知空港の近くに住んでいる再従妹が私の父親の車を空港まで運んでくれた。その車を運転して家内と一緒に葬儀場に急いだ。いつもは空いているルートを選んだ。ところが途中から大渋滞となった。花火大会とぶつかったのだ。

葬儀場に着いたときには既に暗くなっていた。2人の従兄弟とご近所の人たちが私たちを迎えてくれた。母親の遺体が横たえられていた部屋は、1年5か月前に亡くなっていた父親が安置されていた部屋と同じであった。驚いたことに2年間連絡の途絶えていた姉が葬儀場に来ていた。

私は既に冷たくなった母親の遺体の傍で泣きくずれた。母親の死に対する悲しみはさほどなかった。自分の娘(私の姉)の顔を見ることなく死んでいった母親の無念さを思い、悲しくて仕方なくなったのだ。

私の姉は母親が亡くなる2年前、つまり父親が2度目の脳梗塞発作で倒れた直後に、両親に対して絶縁状を送りつけてきた。そして私とも一方的に縁を切った。理由は全くわからなかった。2年余りの間、私は東京と高知とを往復しながら一人で懸命に両親の介護を続けた。孤独であった。