2010年4月25日日曜日

医療はサービス業か 3

2~3年前のことである。

30歳代の患者が私の外来を受診した。その患者が私の外来を受診するのははじめてであった。

カルテを読み、その患者が数ヶ月前に私の科に入院していたことを知った。その患者の担当医はすでに他の病院に転勤していた。

私がその患者の名を呼ぶと、患者といっしょにその患者の両親も診察室に入ってきた。診察室に入ってくると同時に、その患者の母親が「私の主人は〇〇大学の××学部の△△です。息子も〇〇大学の□□をしております」と私に告げた。

私は一通りの診察を終えたあと、患者の現在の病状とその後の見通しについて話した。しかし私が話したことについて患者も家族もほとんど関心を示さなかった。なぜこんなに無関心なのだろうと私が不思議に思っていると、患者の母親が突然一方的にしゃべり始めた。入院当時に受けた検査結果について説明してもらいたいということであったが、私には合点がいかなかった。上で述べたように入院からは既に数カ月経過していた。その間、担当医から何の説明も受けなかったのであろうかと思ったのだ。

患者が受けたといういくつかの検査の結果を探してみた。しかし、いずれの結果についてもカルテには何の記録も残っていなかった。診療用のコンピュータにも、検査結果ばかりでなく担当医が検査をオーダーした記録も見当たらなかった。

私はそのことを患者に告げた。

すると、その患者と家族が大声で怒りだした。しかしいくら調べても検査結果がないばかりでなく担当医が検査をオーダーしたという記録もなかった。私はそのことを再度患者に告げた。

しかし患者も家族もさらに声を荒立てて怒り出すばかりであった。「採血を入院日に2度受けた。2度目の検査の結果はどうなんだ! 退院後にMRIとCTも受けた。△△検査も受けた。検査室まで私が息子に付き添って行ったから間違いない!」と母親がまくしてた。

私は担当医ではなかった。その患者を診察するのも初めてであった。しかも外来カルテにも入院カルテにもコンピュータにも検査をオーダーした記録がない。検査結果もない。

診療が数十分間にわたってストップした。もう少し調べてみるので、一旦、診察室を出て待合室で待ってくれるように患者とその家族に告げた。3人は診察室の外に出て行った。

しかし患者の大声は止むことがなかった。

「医療費の過剰請求をしやがって! 訴えてやる」と患者が叫ぶ声も何度か聞こえてきた。

やはり検査結果は見つからなかった。

患者と患者の家族にもう一度診察室の中に入ってもらった。そしてその旨を告げた。

患者から出てくる言葉は更にエスカレートしていった。「大学の理事と知り合いなので、その人に言いつけてやる」という言葉も私に投げつけた。

私の外来を受診する患者は重症患者が多い。そのような患者であっても診察を受ける前に数時間待たなければならない。この患者にそれ以上時間を割いている余裕はなかった。もう一度調べてご自宅に電話しますと患者とその家族に告げて帰宅してもらった。

診察が終わった後、検査室の台帳を調べてもらった。しかし台帳にその患者の名前はなかった。私はその晩、患者の家に電話をかけた。電話に出たのは母親であった。検査が行われた記録はないと私が何度説明しても母親は頑として受け入れなかった。そして悪口雑言の限りをつくした。

電話で話した時間は2時間。

翌日、医事課に頼んで、その患者のレセプトを出してもらった。しかしレセプトには検査の請求記録はなかった。

私は再度、患者の自宅に電話をかけた。そして、「病院側が過剰請求していると主張するならば領収書を見せてください。病院のレセプトと照合しますから」と母親に告げた。

「あらっ、私の勘違いだったのかしら」

母親は一言だけこうつぶやいて電話を切った。顔は見えなくとも、その母親がうろたえていたのは声からはっきりとわかった。私が費やした時間と心労、他の患者が失った時間、私の病院の職員が費やした時間に対するねぎらい、感謝、謝罪の言葉は全くなかった。

この両親は、息子の病気のことは心配でないのだろうか。息子の病気よりもお金のことが大切なのであろうか。電話を切ったあと、私はこの「エリート家族」の不幸な親子関係を憐れんだ。

大崎瀬都 「朱い実」 その1

何週間か前、私が書いているブログに対するコメント・メールが届いた。差出人は「せつ」となっていた。「せつ」とは一体誰であろうかと思いつつそのメールを開いてみた。

そのメールは私のブログに対するコメントではなかった。高校時代の同期生である大崎瀬都からの、私の現住所を知らせてもらいたいという内容であった。

大崎瀬都については以前にも書いたことがある。彼女は高校生の頃から短歌を詠んでいた。いや、もっとずっと前から詠んでいたのかも知れない。

高校時代、彼女の短歌は毎月のように高校生向けの月刊誌に入選作品として掲載されていた。クラスが異なったこともあり、高校在学中に私は彼女を会話を交わしたことがなかったが、彼女と廊下ですれ違う度に私は彼女のみずみずしい感性を心のなかで讃えていた。

高校卒業後も彼女と話す機会はなかった。彼女がどこの大学に進学したのかも知らなかった。彼女の話題が高校の同期との間で出ることもなかった。

彼女が千葉県に住んでいること、彼女が歌集を出したことを聞いたのは10年ほど前。東京で開かれた同窓会の席であった。そのことを聞いた私はその場で彼女に電話をかけた。そしてその歌集を送ってくれないかと頼んだ。彼女と会話を交わしたのはこのときが最初であった。(その後も彼女と話す機会はない。)

彼女からは間もなく1冊の歌集が届いた。その歌集の表表紙には「海に向かへば」と書かれていた。「海」とは太平洋のことである。私の生まれ故郷である高知県には雄大な太平洋が広がる。彼女も私と同じくその雄大な太平洋と向かい合いながら青春時代を過ごしたのだ。

この歌集に掲載されていたいくつかの歌は以前すでに紹介した。私自身の思い出と重なる場面が綴られている作品がいくつか掲載されていた。それらの歌に目を通すたびに、私の頭には高知で過ごした青春時代の光景が浮かんでは消え浮かんでは消え、知らぬ間にその記憶の糸をだどる作業に心を奪われた。「海に向かへば」はいまも私の書斎の書棚に立っている。

この歌集の末尾には、ふたつ目の歌集をまとめるのは定年退職後になるだろうと書かれていた。したがって、彼女がこんなにも早くふたつ目の歌集を出したことに驚いた。そのことを彼女への返事のなかに書いた。

しばらくして彼女からまたメールが届いた。退職したため早くふたつ目の歌集をまとめることができたと書かれていた。しかし彼女がなぜ早期退職したのかについては何も記されていなかった。

彼女が送ってくれたふたつ目の歌集「朱い実」(ながらみ書房)は、今、私の自宅のリビングのテーブルの上に置いている。1日に1~2回、パラパラとページをめくる。末尾には「あとがき」として次のような記述がある。

「本歌集には、最近の作品は含めず330首を収めた。この時期、今は特別支援学校と名前を変えた養護学校に勤務し、重い疾患を持つ子どもたちの教育に携わっていた。少しは人の役に立っているという満足感よりも、自らの無力さや子どもたちを襲う運命の過酷さを思い知ることのほうが多かった。また体力精神的に仕事をすることが辛くなり、自分で自分を励ましつつ日々を凌いでいた。そのような朝夕のなかにもささやかな愉しみや喜びがあり、短歌を作り続けることができたことを幸いに思っている。」

この「朱い実」はまだ流し読みしかしていない。しかし彼女は重い疾患を持つ子どもたちの人生の意味や価値、そして自分自身の人生の意味について希望を持ち得ないまま退職したのではないかと私は危惧した。

確かに、誰であろうと自分が生きていくことの意義を明確に認識することは難しい。生の意義については、誰もが毎日、自問自答しながら生きているのが実情であろう。ましてや重度の障害を持つ教え子たちの過酷な運命を意義あるものと感じることはもっと困難かもしれない。しかし誰であろうと自分の死を受け入れることも難しい。重度の障害があってもなくても・・・。生あるうちは生きることに意義を見いだし、死を迎えても平常心を失わずその死を受け入れる。生も死も自分自身で決定することができない以上、私たちにはこれ以上のことはできない。しかし、自らの生も死もともに積極的に肯定することはほとんどの人にとって不可能なことである。

「朱い実」に掲載されている短歌のいくつかについては改めて紹介する機会があると思う。その際、もう一度、彼女の人生観について言及する機会があるであろう。もし彼女が三つ目の歌集を出すことがあれば、その歌集のなかでは、彼女自身のそれまでの人生を讃えるとともに、重度の障害を持つかつての教え子たちが生きていく意義についても高らかに詠ってもらいたいと願う。

2010年4月11日日曜日

医療はサービス業か 2

もう数年前のことになるであろうか。12月30日(晦日)。その日、私は院長代理当直を務めていた。病院は年末年始の休診期間に入っていた。

午後4時過ぎに病院から電話がかかってきた。電話をかけてきたのは救急外来のナースであった。その日の朝8時頃に救急外来を受診した30歳代の耳鼻科の患者がずっと大騒ぎを続けていて大変困っているが、どのように対応すればいいのか、指示を仰ぎたいという内容であった。

その患者は、「喧嘩をして頭を殴られた。年末年始は病院に入院させくれ」と言ってきかないという。耳鼻科の当直医ばかりでなく皮膚科医や脳神経外科医などもその患者を診察し入院の必要はないと診断したのにもかかわらず帰宅しようとはせず、入院させろと大騒ぎをしていて、他の救急患者の診療に多大な支障が生じていると、電話をかけてきたナースは困惑していた。

その患者は私と知り合いであるとも言っているということであった。確かに私はその患者を知っていた。その数カ月前に私の手術を受けることになっていた。しかし手術前の検査日に受診しなかった。こちらから患者の自宅に電話をしたら連絡はつかなかった。その後もその患者からは何の連絡もなかった。当然、手術も受けなかった。

私は、その患者を知っているが私と特別な関係ではないと説明し、ガードマンを呼ぶようにと言った。しかし既にガードマンは呼んだという。ガードマンでは対応ができないと言われた。ならば警察署に通報するようにと私は指示をした。そして電話を切った。

その後、1時間ほどして、再度、電話がかかってきた。まだ警察には通報していないということであった。しかし、警察を呼ぶようにと私が指示したということは患者に言ったらしい。患者は「じゃあ、帰ってやる」と言い始めたということであった。

ところが、その患者は、今度は「帰宅してやるから救急車を呼べ」と救急外来で騒ぎ始めた。ナースが拒否すると「じゃあ、自分で呼ぶ」と言って救急隊を呼んだという。

午後6時過ぎになってまた救急外来から電話がかかってきた。その患者が救急外来で騒ぎまわっている姿を見て、呼び出しを受けた救急隊員が怒ってしまった。そしてその救急隊員が警察署に通報した。

警官が救急外来にやってきてやっとその患者は静かになった。結局、その患者の自宅に電話をかけ、母親を呼んだ。そして母親がその患者を連れに救急外来を訪れた。患者は母親と一緒に帰宅していった。

ところが、その患者は帰宅時、その日の診療費を一切支払わなかった。「第三者行為による怪我であるから支払う必要はない」と言ったという。逆である。第三者行為による怪我の場合には、患者は病院に対して医療費の全額を支払わなければならないのだ。つまり保険は効かない。そしてその医療費は被害者が加害者に請求しなければならない。

この患者はその日の朝から夕方までずっと救急外来での診療行為を妨害した。そのうえに、診察も受けている。このような不条理が許されていいものであろうか。

調べたところ、その患者は私の外来ばかりでなく他の診療科も過去に何度か受診していた。しかし一度も医療費を支払っていなかった。

こんな出来事は、今の病院では日常茶飯事である。これも医療崩壊のひとつであろう。

2010年4月5日月曜日

女性のおしゃれ

私は髪を染めた女性が好きではない。いや、髪を黄色く染めた女性を見ると嫌悪感を催すと表現した方が、より適切かもしれない。以前と比べると最近は髪を真黄色に染めた女性は減った。しかし茶色く髪を染めている女性はむしろ増えているかもしれない。

私には若い女性が髪を茶色く染める心理がよく理解できない。なぜ美しい黒髪をわざわざ染めて艶のない髪にしてしまうのであろうか。なぜ白髪のない美しい黒髪の艶をもっと出そうとしないのか。

かつて、ある先輩が、「あれは毛唐に対する劣等感だ!」と吐き捨てるように言ったのを今でも時折思い出す。

女性が時間とお金をかけてわざわざ髪を茶色く染める最も大きな理由は、髪を茶色く染めた方がより美しくなると彼女たち自身が思っているからであろう。自分の髪が黒いことに劣等感を感じていることが一番大きな理由ではないであろう。

しかし、髪を染めた女性を美しいと私は感じたことがない。髪を染めた女性のなかにも顔立ちの整った美人がいないわけではないが、それらの女性ももし髪を染めていなければもっと美しいだろうと思う。

話がとぶ。

私は1993年から1995年まで2年間、ドイツのミュンヘンに留学した。その2年間、私が精神的に最も必要としたのは自分自身のアイデンティティーを失わないことであった。

私は男であるから、自分の髪を茶色に染めることはないが、もし私が女性であったとしたらどうであったであろう。ドイツ人の金髪に近い色に自分の髪を染めたであろうか。考えられないことである。自分の黒い髪を失うことは自分の日本人としてのアイデンティティーを失うことである。アイデンティティーを失うことは自分の精神の芯を失うことである。

「ユダヤ教を信じるものがユダヤ人である」という表現はよく耳にする。この逆説的な表現を私は長い間理解することができなかった。この表現の意味を自分なりに理解できるようになったのは留学から戻ったあとであった。ユダヤ人は長きにわたって自分の国を持たなかった。自分の国を失ったユダヤ人にとって、ユダヤ教を信じ護ることが自らのアイデンティティーを失わないための唯一の選択肢であったのだ。

話を戻す。

日本で生まれ日本で暮す日本人であれば「アイデンティティー」などといった大げさなことに悩む必要はないであろう。しかし、自分の個性は何なのかとか自分の美しさはどこにあるのかといったことは考えることがあるのではないだろうか。

もしこれらの事柄についてひとりひとりの女性が真剣に考えているならば、これほど多くの若い女性が髪を茶色く染めることになるはずがないと私は思う。日本女性として身につけるべき美しさは髪を染めることによって得られるものではない。

この頃、私は化粧を落とした女性の顔を見るのが怖くなった。素顔はあまりにも醜い。眉毛もないことが多い。

若い女性が美しくなる秘訣は心を磨くことではないだろうか。外見だけをいくら飾り立てても美しく見えるわけではない。化粧では小皺や小さなシミを隠せても心の醜さは隠せない。電車の中で化粧をしている女性を見ればそれがよくわかるであろう。