2008年7月31日木曜日

きょう私に一通の手紙が届いた。赤のボールペンで「親展」と書かれていた。宛名書は筆字であった。差出人は私の知人のお母様。黒のボールペンで綴られた2枚の便せんが入っていた。知人の死を私に知らせる内容であった。娘の死の模様が淡々と述べられていた。私は繰り返しその手紙を読み直した。私は深い悲しみに捕らわれた。しかしその知人の死が意味のないこととは感じなかった。これから永遠に続く安らかな眠りは、その知人がこの数年の苦しみにじっと耐えてきた我慢の当然の代償のように思われた。

帰宅途中、週刊誌の中吊り広告が目に入った。「”死にたい人”には重労働を」という文字が私の目を引きつけた。有名な作家の投稿記事であった。

人は必ず死ぬ。どれほど生き続けたくてもいつかは必ず死ぬ。しかも死ぬ時期や死に方を選ぶ自由など誰にも与えられてはいない。死にゆく人にとっても家族にとってもほとんどすべての死は望まざるものであり、死に方もまた望まざる死に方なのだ。せめて残された人たちは、愛する者の死に価値を見いだす努力をしなければならない。たとえその死がいかなる死であったとしても・・・。死に対して意味を与えるのは死んでいく人だけの責務ではなく、死にゆく人と残される人たちとの共同作業であるべきではなかろうか。

その中吊り広告を眺めながら、そんな考えがふっと私の頭をよぎった。

2008年7月29日火曜日

祖父

私は祖父母に育てられた。

喜怒哀楽の激しかった祖母とは対照的に祖父は実に温厚であった。88歳で老衰のため亡くなるまで私は祖父が怒ったり嘆き悲しむ姿を一度たりとも見たことがなかった。私が物心ついた頃、祖父は既に隠居していた。そして小遣い稼ぎに家で竹箒を作ったり畚(ふご)と呼ばれる農作物の入れ物をワラで編んでは近所の雑貨屋に持っていって売っていた。ひとつ50円か100円で買い取ってくれるということであった。竹箒や畚を古い自転車の後部座席に乗せて店に納品するために出かけていく際の祖父のガニ股姿が今でも鮮やかに思い出される。

祖父はまた、近所の人に頼まれ、雑木林の伐採にもよく出かけた。私は保育園から帰ると祖父の仕事場を訪ねてはじっと祖父の作業を見つめていた。そんな私のために祖父は休憩時間を利用して切った雑木を削って刀や剣を作ってくれた。竹とんぼを作ってくれたこともあった。

そんな雇われ仕事をしている期間中も風呂の湯沸かしは祖父の役目であった。当時のわが家の風呂は五右衛門風呂。祖父は薪を炉の中に投げ込んだあと「吹き」と呼ばれる竹製の筒で火を煽った。何かの拍子に火が消えると、私も祖父のまねをして「フー、フー」と思い切り「吹き」を吹いた。過換気症状が出て、時折、頭がぼうっとなった。風呂が沸くまで私はじっと祖父の側に座り火が燃えるのを眺めていた。

私に初めて漢字を教えてくれたのも祖父であった。当時の私の自宅には囲炉裏があった。囲炉裏の側にあぐらをかいて座っている祖父の膝の上に私はよく乗った。私を膝の上に乗せた祖父は「松」という文字と「杉」という文字を火箸を使って囲炉裏の中の灰に書いてくれた。祖父は何度も私に漢字を教えてくれたが、囲炉裏に書く字は毎度毎度「松」と「杉」だけであった。

祖父は酒が大好きであった。特に焼酎を好んだ。焼酎を一口飲み込むたびに舌鼓を打った。祖父はまたよく眠った。昼間から酒を飲んでは眠り、飲んでは眠り、の毎日であった。時折、私には聞き取れないような小さい声で歌を歌っていることもあった。70歳を過ぎてから亡くなるまでの間、祖父はずっとそのような生活を続けた。

ある日、酒とジュースとどちらがおいしいかと私が祖父に尋ねたことがある。そのとき祖父はためらいもせず「酒の方がおいしい」と答えた。まだ小学生であった私にとっては驚きであった。

祖父は1週間に1〜2升飲んだ。戦死した長男(私の父の兄)の恩給がほとんどすべて祖父の酒代に消えた。しかしそんな祖父を父が止めることはなかった。「年寄りは自分の好きなようにすればいい」というのが父の口癖であった。

祖父の晩年は穏やかであったと思う。しかしこんな祖父も大借金を背負って苦労したことがあるということをつい数年前に近所の老婆から聞かされた。親類の借金の保証人になっていたところその親類が死んでしまったのだという。その当時、近所の人たちはこれでわが家はつぶれるだろうとささやきあっていたという。しかしその老婆が言うのには、祖父は律義にその莫大な借金をきちんと返したらしい。いまわが家が栄えているのは私の祖父の積んだ徳のおかげだとその老婆は私に語った。

私はこの話を祖父からも父からも聞かされたことはない。おそらく父が死ねばこの話は永遠にこの世から消え去ってしまうであろう。

話は変わるが、私は、中学校、高校、大学と、ずっと私学に通った。地元の小学校から20キロほど離れた私立の中学校を私が受験しようとしたとき、父は猛反対した。わが家が貧しかったことが大きな理由であったのではなかっただろうか。入学試験の前日の晩も父と私は激しく口論した。そのとき、私の希望を入れて受験させてもらえたのは祖父の後押しのおかげであった。私は泣きはらした顔で受験会場にでかけた。大学に入学するときもそうであった。父は国立大学に進学するようにと私に言った。しかし私は私立大学への進学を希望していた。その歳にも祖父は私の希望を叶えてあげるようにと父に告げるとともに、祖父の財産を全て売ってもいいと言ったという。

私の大学入学試験の合格発表日、私は帰郷せず東京にいた。夕方、私は合格発表の掲示板を見に三田まででかけた。自分の受験番号があるのを確認し、自宅に電話をかけた。そのとき、その朝に祖父が富士山と茄子の夢を見たという話を父から聞かされた。ちょうどその日の午後、行商人が鷹の置物を売りにやってきたのでそれを買ったと言った。「一富士二鷹三茄子」のすべてが揃ったのだ。なんという偶然であったのであろうか。わが家には既に鷹の置物があった。わが家の神棚には古くからあった鷹の置物とその日に買った鷹の置物とが今も並べて置かれている。

祖父が亡くなったのは私が大学を卒業する年の1月21日であった。その前日、東京にいる私に父から電話が入った。しかし父は特に用件を告げることもなく電話を切った。実はそのとき祖父は既に危篤状態になっていた。しかし私の国家試験の妨げにならないようにと父はそのことを私に告げなかったのだ。事情を知らない私は友人宅に泊まりにでかけた。しかし友人宅で勉強していてもなぜか心が落ち着かない。じっと本を読むこともできない。体の置き場所がない。だるい。そんな状態がずっと続いた。当時は携帯電話がなかった。

私はひょっとしたらと思い友人宅から実家に電話をかけた。受話器を取ったのは伯母であった。伯母は私の声を聞くなり「今どこにおるがでえ! おじいちゃんが死んだのに幸伸は何をしゆう! いま葬式の最中でえ!」と大きく叫び電話の向こうで泣き崩れた。

祖父の死を知った途端、私の体のだるさはとれた。不思議な体験であった。あの体調不良は祖父から私への死の知らせであったのであろうか。

祖父の死は私にとっても悲しい出来事であった。私も泣いた。しかし不思議と悲しみは少なかった。むしろ祖父を讃える気持ちが強く私の心の中で湧き上がってきた。88歳、大往生ではないか! 苦労多き88年の人生をひっそりと静かに閉じた祖父を私は讃えた。

私が墓参りのために実家に戻ったのは国家試験が終わったあとの春のことであった。祖父の墓前で私は詫びた。私をことのほか可愛がってくれた祖父の死に目に立ち会うことができないばかりか葬式にすら出席できなかったことは、その後、長く私を苦しめることになった。今週末、私は祖父母の墓参のために帰省する。

2008年7月22日火曜日

生きてありて

高知市のメインストリートは今も路面電車が走っている。このメインストリートを車で走るとひっそりと身を隠しているかのような南病院の建物が目に入る。この小さな病院に私はかつて入院したことがある。小学校2年生のときであった。確か9月。秋の運動会の前であった。病名は自家中毒(周期性嘔吐症)。

入院する2週間ほど前、食欲不振、嘔気、全身倦怠感が出現。私の実家のある土佐市内の小児科を母に連れられて何軒か受診した。しかし、どこでも「寝冷え」と診断された。そして特別の治療を施されることもなく家に帰された。そうこうするうちに病状はどんどん悪化していった。

しかし私は体調の悪さをおして毎朝登校した。自宅から小学校までは1キロ半ほど。その頃はまだバス通学をしていた。午前中はなんとか授業を受けることができた。しかし午後になると全身がだるく立っていることすらままならない。毎日のように自転車の後部座席に乗せられて教頭先生に自宅まで送ってきてもらった。

症状が出てから2週間ほど経った頃、嘔気が強く、とうとう食事がとれなくなった。そして、もう翌日は学校に行くのは無理と思われた。ちょうどその晩、評判がいいという小児科の話を近所の知り合いから父親が聞いてきた。その病院が南病院であった。翌日、私はその近所の知り合いの車に乗せてもらって自宅から30キロほど離れた南病院を受診した。当時、私の家には私が横たわって乗ることができる乗用車はなかった。病院での最初の検査は検尿であった。母親に支えられて尿の採取をしたことまでは憶えていた。しかしその直後に意識がなくなったようだ。洗面所を出たことすら記憶がなかった。

私が病室のベッドの上で目覚めたのは午後2時か3時であったと思う。周囲は明るかった。ふっと振り返ると母親が私のベッドの側にじっと座っていた。母親は私の意識が戻ったのに気づくと主治医や看護師に連絡することもなく、「受診するのがあと3日遅かったら死んでいたと言われた」と淡々と語った。そして3日間意識がなかったと告げた。当時から私の母は喜怒哀楽をほとんど表情に出さない女性であった。その日も同様であった。母の表情からは喜びも悲しみも感じ取ることはできなかった。まだ7歳であった私も自分の死が迫っていたことに大した恐怖も感じなかった。意識が戻った翌日、私はクラスメートから届けられていた見舞いと励ましの手紙をベッドの中で読んだ。

意識が戻ったあとの私はあっという間に元気を取り戻した。体のだるさも嘘のように吹き飛んだ。私は病院の中で片時もじっとしていることができなかった。当時、木造であった病院の階段を走り回っていた記憶が今も鮮明に残っている。意識が回復してから3日後に退院したが、その3日間は当時の私には気が遠くなるほど長い時間であった。

周期性嘔吐症は小児科医であれば誰でも知っている病気である。私の症状も定型的な周期性嘔吐症であったと思う。だから、なぜもっと早く正確な診断が下されなかったのだろうかと思う。しかしその一方で、自宅から遠く離れた南病院を紹介されたことも奇跡だと思う。私自身が医療に携わるようになって以来、私は診療行為はロシアンルーレットのようなものだとずっと思っている。そうはっきりと患者に告げることもある。医療には100%ということはない。逆に0%ということもない。たとえば薬を投与しても必ずしも効果があるとは限らない。副作用が出るだけのこともある。手術に関してもしかり。リスクのない手術はない。「その手術は安全ですか」と私に真剣に問いかける患者に対して私はどのように答えようかといつもとまどう。医療行為のなかに安全なものなどあるはずがないではないか。医療行為の結果はある程度、確率論的なものでしかない。

長い間、医療は精神論で語られてきた。何か問題が起きるたびに医療を提供する側に全責任がかぶせられ、医療提供者の心がけだけで安全な医療が提供できるという神話がまかり通ってきた。患者はこの不毛な神学論争に片足を突っ込んだまま、さびれゆく日本の医療の現状に単に慌てふためいているだけのように私には見える。

男性の平均寿は80歳に近づいている。そんな今、私が生きていることは決して不思議ではない。しかし必然のことでもない。高校時代の同級生もすでに何人かは亡くなった。単なる確率の問題なのだと自分自身は考えている。そんなふうにしか考えない私は生に対して淡泊すぎるのであろうか。