2010年8月3日火曜日

おもちゃ

息子がまだ幼稚園に通っていた頃、息子のおもちゃを全部取り上げて倉庫にしまってしまったことをこのブログに書いたことがある。あれから7~8年が過ぎた。それらのおもちゃは、今も我が家の倉庫に眠っている。結局、一度も取り出すことがなかった。

先日、自宅のリビングを眺めてみて驚いた。息子はほとんど何もおもちゃを持っていないのだ。あるのは本と将棋盤だけ。当然、テレビゲームはない。本も最近までは図書館で借りたものばかりであった。

息子がおもちゃを買ってくれとねだったことはない。友達の家にはこんなおもちゃがあったといった話を家内には時折するようであるが。「親が子に一方的に与えるおもちゃは子の創造性を高めない」というのが私と家内の考えである。

幼稚園の頃、おもちゃを私に全て取り上げられた息子のおもちゃは、新聞の折込広告と鋏、そして色鉛筆だけになった。息子は家の中では折込広告の裏に絵を書いたり、折込広告で切り絵をしたり、折り紙をして遊んでいた。息子がつくった折り紙の一部はまだ残っているが、私には到底つくれないような作品がある。誰に習うのでもなく、どのようにして作ったのか、私にはわからない。折り紙に限らず、息子の「形」の認識力には舌を巻く。

息子が小学校に入ってからは近くの図書館に毎日のように通い、山のように本を借りてきてはむさぼるように読んだ。息子がこれまでに読んだ本の刷数は膨大である。いつの間にか、漢字検定2級に挑戦するまでになった。最近、ノートパソコンのキーボードを盛んに叩いているので、何をしているのかと尋ねたら、ミステリー小説のコンクールに応募する作品を書いているのだという。小学生に1万字近い文章が書けるのかどうかわからないが、息子は黙々とコンピュータのディスプレイを睨んでいる。

運動も好きだ。息子は小学校に入る直前に自宅近くの水泳教室に入った。4年生になってから教室をかえたが、6年近く水泳を続けていることになる。速さはたいしたことはないのであろうが、教室をかえてからは泳ぎのスタイルがよくなったようだ。スタイルが重視される学校の水泳学級で先日、1級の認定を受けたという。その直後に行われた水泳合宿で行われた、海での2キロメートルの遠泳も楽にこなせたという。息子にはスポーツで身を立てるほどの運動能力はないと私は思っているが、体を動かすことは子供にとって大切なことである。

スキー合宿にも息子が幼稚園に通い始めた頃から毎冬参加させた。2~3泊の合宿であった。息子ひとりでである。知った友だちもいなかった。私は、息子は一度だけでその合宿に行くのをやめるものだと思っていた。当時、息子はとても内気で、知らない人とはなかなか話せなかったからだ。しかし、合宿から帰宅すると、毎回、楽しかったと答えた。そして、また翌年も行くと言った。結局、息子は昨年の冬まで、毎年、知らない人たちに混じってスキー合宿に参加した。今年の年末にもまた出かけるに違いない。

週1回であるが、サッカー教室にも通っている。どこでもサッカーは大人気。息子も入会申し込みから1年ほど待ってやっと近所のサッカークラブに入会することができた。

息子は何かを始めると決して中途でやめない。この点には感心する。塾通いもそうである。小学校1年生のときから通っている塾は自宅から遠い。近くの塾にすればどうかと何度か息子に話したが、息子はやめると言わない。学校の行事などで出席できない場合を除き、欠席することはない。今年の初めからは将棋教室にも通っている。場所は千葉県の柏。自宅からは1時間かかる。それも苦にならないらしい。

私自身は、小学生の頃、学校から帰宅すると、ランドセルを家に放り込むやいなや近所の幼友達と遊びに出かけた。遊び場所は、夏は川。冬は神社の境内であった。夏は上半身素っ裸になって田んぼで走りまわり、体が熱くなるとそのまま川に飛び込んだ。1日に4回も5回も川で泳いだ。全身が真っ黒になり、皮膚の皮がむけた。冬の神社の境内ではもっぱら野球。私が自転車に乗る練習をしたのも神社の境内であった。自宅の裏山もかけずり回った。帰宅するのは、いつも日が沈み、あたりが真っ暗になってからであった。帰宅した私に、「勉強しなさい」とか、「宿題はすんだのか」といった言葉が私の両親から出たことは一度もなかった。私は、翌日は何をして遊ぼうかということ以外には考えていなかった。

当時は、確かに物質的には貧しかった。私自身もおもちゃといえるおもちゃはほとんど持っていなかった。近所に住む幼友達の家におもちゃが山のように積み上げられていたのとは対照的であった。ひとりの幼友達の家には顕微鏡があった。もちろん子供用であったが。私はその顕微鏡で花粉を見てみたくなったことがあった。しかし、その遊び友達の母親は、私にその顕微鏡を触らせることを認めなかった。当時の私が、自分の親に向かって、たとえおもちゃのものであろうと顕微鏡を買ってくれなどと言えるはずはなかった。私は自分の家が貧乏であると親から頭に叩き込まれていた。この他にも貧乏故に惨めな思いをしたことも何度かあった。それでも私はいじけることもなく、近所の幼友達と元気よく遊んだ。楽しくて仕方がなかった。ちゃんばらがしたくなったら、木を切って自分で刀を作った。竹馬も自分で作った。吹き矢はストローと釘。釘をストローの中に入れて思いっきり吹いた。思い切り息を吸い込んだときに誤って釘を飲み込んでしまったこともあった。釘を飲み込んだなどと親に話すこともできず、私は長い間不安であった。

死にそうになったことも3回ほどある。

台風が過ぎ去った直後、私は増水した川に泳ぎに行った。当然、まだ濁流であった。足元は見えない。ふっと深くなった場所で私の体は流され、滝から下へ流され落ちそうになった。私は必死でコンクリートに捕まった。助けてもらうまでどれほどの時間があったのだろうか。水の流れが強いので私はいっそ手を放そうかと思った。もし、あのとき、手を放していたら、私はおそらく死んでいたであろう。滝の下は大きな岩だらけであった。

木登りをしていて、高い木の上から大きな石の上に転落したこともあった。幸い、その石の角に体が当たらなかった。鉄棒で回転飛び降りをした際に、バランスを崩し、砂に背中を強く打ったこともあった。もし角度がわるかったならば、頚部の骨を折っていたに違いない。

鬼ごっこをしても、駆けまわるのは地面ではなかった。2年間通った自宅近くの保育園の外塀の上であった。そのコンクリートの外塀の上をピョンピョンと跳び回って逃げたり追いかけたり。転落したならば大怪我をしたであろう。

私の前頭部には今も傷が残っている。断崖から川に頭から飛び込んだ際に川底の岩に前頭部をぶつけた際にできた傷である。怪我をしたとき噴き出るように出血したのを今も鮮明に覚えている。幸い、この傷は髪に隠されていて見えないが。

どれもぞっとするような記憶である。

私の息子の遊びは鳥かごの中での遊びのように見える。常に護られている環境での遊びである。しかし、私自身の子供の頃の遊び方を真似るようにと息子に言う勇気はない。

2010年6月5日土曜日

恩師:植田和男先生の訃報

昨夜、職場からの帰宅途中、一通のメールが届いた。差出人欄には「匿名」と書かれていた。私が前回書いたブログ「うげる」に対するコメントとして私に送信されていた。しかしそのメールは「うげる」に対するコメントではなく、昨年11月に書いた私のブログ「熊本」に対するコメントであった。そのメールを読み、私は強い衝撃を受けた。「熊本」の中に書いた恩師、植田和男先生の死を知らせるメールであった。

以下は、原文のとおり。
「突然失礼いたします。私は熊本で科学展という事業のお手伝いをしている者です。科学展が今年70回を迎えることから、この10年の功労者の足跡を調べていましたら、あなたのブログに行き当たりました。
 2009年の11月、熊本にいらっしゃった時のブログを見てコメントしました。
 話題に上がっていましたU先生は、昨年お亡くなりになっています。最後の勤務校は大津高校という学校で、亡くなられた経緯は良く存じませんが、誰に対しても威張らず、いつでも子どものように好奇心一杯で、学究肌の先生でした。先生がフィールドワークされたデータはウェブでも公開されて(今は閉鎖していますが)大学の先生方も参考にされる程でした。先生は、学校が嫌いだったり、勉強が苦手な生徒達を連れてよく岩石採集のフィールドワークに連れて行くなどされていました。生徒とそういう関わり方をずっとされてきた方でした。先生の教職生活の中で、あなたのような感じ方をしていただいた方がいらっしゃったということだけでも救われる思いがいたしました。 」

昨年11月、私は、熊本市に行ったついでに阿蘇にある高森町を訪れた。30年余り前、私が大学生だった頃、植田和男先生はこの高森町に住んでいた。当時、先生はまだ独身であり、一人暮らしをしていた。

私は高森町駅に車を止め、しばし駅の周りを歩いた。しかし30年前の高森町駅舎がどうであったのか、当時の光景を思い出すことはできなかった。私が思い出すことができたのは、植田先生私に向かって見せた、恥ずかしそうな笑顔だけであった。

上に紹介したメールを読むと、植田先生は最晩年まで職場の同僚からはうとんじられていたのではないかと思われる。植田先生はロマンチストであった。常に弱いものの味方であった。きっと孤独であっただろうと思う。しかし植田先生が支えようとした子供たちの心のなかで植田先生は生き続けるに違いない。

私の中学高校時代の恩師はこれで皆亡くなられた。

2010年5月11日火曜日

うげる

「うげる」は土佐弁である。「うげる」を東京で使われる言葉ひとつで置き換えることはできない。「久しく会わなかった知人や肉親の帰り・訪問を喜び、その喜びを言葉や態度で表す」ということであるが、こんな表現はなんともまどろこしい。東京では、単に「喜ぶ」という表現を用いるのであろうが、「喜ぶ」では「うげる」が持つニュアンスを伝えることができない。

言葉は文化である。生活を反映する。「うげる」ことも「うげてもらう」ことも、土佐に生れ育った者にとっては生活の一部である。

「もんたかえ」も同様。「もんたかえ」という土佐の表現は、直訳すると「戻りましたか」という意味である。しかし、この言葉は、自分の子や知人の帰省(や帰宅)に対する喜びを表す土佐の挨拶である。

何年か前のこと。交通事故で母親をなくした中学・高校時代の友人からメールが届いた。高知空港からであった。そのメールには「『もんたかえ』と言って自分を出迎えてくれる母親の姿がないことが悲しい」と書かれていた。

私の実家は高知県の土佐市にある。山村である。ここにはまだ両親が住んでいる。私がこの土地を離れ、当時通っていた高校の寮に住むようになったのは私が高校2年生のときであった。しかし中学校から高知市内の私立に通っていた私は、小学校を卒業した直後から既にこの生まれ故郷とは縁が薄くなっていた。

しかし、私が年末年始に帰省すると今でも近所の人たちが私をうげてくれる。そして「もんたかえ、幸伸」と言ってくれる。ありがたいことである。

2010年4月25日日曜日

医療はサービス業か 3

2~3年前のことである。

30歳代の患者が私の外来を受診した。その患者が私の外来を受診するのははじめてであった。

カルテを読み、その患者が数ヶ月前に私の科に入院していたことを知った。その患者の担当医はすでに他の病院に転勤していた。

私がその患者の名を呼ぶと、患者といっしょにその患者の両親も診察室に入ってきた。診察室に入ってくると同時に、その患者の母親が「私の主人は〇〇大学の××学部の△△です。息子も〇〇大学の□□をしております」と私に告げた。

私は一通りの診察を終えたあと、患者の現在の病状とその後の見通しについて話した。しかし私が話したことについて患者も家族もほとんど関心を示さなかった。なぜこんなに無関心なのだろうと私が不思議に思っていると、患者の母親が突然一方的にしゃべり始めた。入院当時に受けた検査結果について説明してもらいたいということであったが、私には合点がいかなかった。上で述べたように入院からは既に数カ月経過していた。その間、担当医から何の説明も受けなかったのであろうかと思ったのだ。

患者が受けたといういくつかの検査の結果を探してみた。しかし、いずれの結果についてもカルテには何の記録も残っていなかった。診療用のコンピュータにも、検査結果ばかりでなく担当医が検査をオーダーした記録も見当たらなかった。

私はそのことを患者に告げた。

すると、その患者と家族が大声で怒りだした。しかしいくら調べても検査結果がないばかりでなく担当医が検査をオーダーしたという記録もなかった。私はそのことを再度患者に告げた。

しかし患者も家族もさらに声を荒立てて怒り出すばかりであった。「採血を入院日に2度受けた。2度目の検査の結果はどうなんだ! 退院後にMRIとCTも受けた。△△検査も受けた。検査室まで私が息子に付き添って行ったから間違いない!」と母親がまくしてた。

私は担当医ではなかった。その患者を診察するのも初めてであった。しかも外来カルテにも入院カルテにもコンピュータにも検査をオーダーした記録がない。検査結果もない。

診療が数十分間にわたってストップした。もう少し調べてみるので、一旦、診察室を出て待合室で待ってくれるように患者とその家族に告げた。3人は診察室の外に出て行った。

しかし患者の大声は止むことがなかった。

「医療費の過剰請求をしやがって! 訴えてやる」と患者が叫ぶ声も何度か聞こえてきた。

やはり検査結果は見つからなかった。

患者と患者の家族にもう一度診察室の中に入ってもらった。そしてその旨を告げた。

患者から出てくる言葉は更にエスカレートしていった。「大学の理事と知り合いなので、その人に言いつけてやる」という言葉も私に投げつけた。

私の外来を受診する患者は重症患者が多い。そのような患者であっても診察を受ける前に数時間待たなければならない。この患者にそれ以上時間を割いている余裕はなかった。もう一度調べてご自宅に電話しますと患者とその家族に告げて帰宅してもらった。

診察が終わった後、検査室の台帳を調べてもらった。しかし台帳にその患者の名前はなかった。私はその晩、患者の家に電話をかけた。電話に出たのは母親であった。検査が行われた記録はないと私が何度説明しても母親は頑として受け入れなかった。そして悪口雑言の限りをつくした。

電話で話した時間は2時間。

翌日、医事課に頼んで、その患者のレセプトを出してもらった。しかしレセプトには検査の請求記録はなかった。

私は再度、患者の自宅に電話をかけた。そして、「病院側が過剰請求していると主張するならば領収書を見せてください。病院のレセプトと照合しますから」と母親に告げた。

「あらっ、私の勘違いだったのかしら」

母親は一言だけこうつぶやいて電話を切った。顔は見えなくとも、その母親がうろたえていたのは声からはっきりとわかった。私が費やした時間と心労、他の患者が失った時間、私の病院の職員が費やした時間に対するねぎらい、感謝、謝罪の言葉は全くなかった。

この両親は、息子の病気のことは心配でないのだろうか。息子の病気よりもお金のことが大切なのであろうか。電話を切ったあと、私はこの「エリート家族」の不幸な親子関係を憐れんだ。

大崎瀬都 「朱い実」 その1

何週間か前、私が書いているブログに対するコメント・メールが届いた。差出人は「せつ」となっていた。「せつ」とは一体誰であろうかと思いつつそのメールを開いてみた。

そのメールは私のブログに対するコメントではなかった。高校時代の同期生である大崎瀬都からの、私の現住所を知らせてもらいたいという内容であった。

大崎瀬都については以前にも書いたことがある。彼女は高校生の頃から短歌を詠んでいた。いや、もっとずっと前から詠んでいたのかも知れない。

高校時代、彼女の短歌は毎月のように高校生向けの月刊誌に入選作品として掲載されていた。クラスが異なったこともあり、高校在学中に私は彼女を会話を交わしたことがなかったが、彼女と廊下ですれ違う度に私は彼女のみずみずしい感性を心のなかで讃えていた。

高校卒業後も彼女と話す機会はなかった。彼女がどこの大学に進学したのかも知らなかった。彼女の話題が高校の同期との間で出ることもなかった。

彼女が千葉県に住んでいること、彼女が歌集を出したことを聞いたのは10年ほど前。東京で開かれた同窓会の席であった。そのことを聞いた私はその場で彼女に電話をかけた。そしてその歌集を送ってくれないかと頼んだ。彼女と会話を交わしたのはこのときが最初であった。(その後も彼女と話す機会はない。)

彼女からは間もなく1冊の歌集が届いた。その歌集の表表紙には「海に向かへば」と書かれていた。「海」とは太平洋のことである。私の生まれ故郷である高知県には雄大な太平洋が広がる。彼女も私と同じくその雄大な太平洋と向かい合いながら青春時代を過ごしたのだ。

この歌集に掲載されていたいくつかの歌は以前すでに紹介した。私自身の思い出と重なる場面が綴られている作品がいくつか掲載されていた。それらの歌に目を通すたびに、私の頭には高知で過ごした青春時代の光景が浮かんでは消え浮かんでは消え、知らぬ間にその記憶の糸をだどる作業に心を奪われた。「海に向かへば」はいまも私の書斎の書棚に立っている。

この歌集の末尾には、ふたつ目の歌集をまとめるのは定年退職後になるだろうと書かれていた。したがって、彼女がこんなにも早くふたつ目の歌集を出したことに驚いた。そのことを彼女への返事のなかに書いた。

しばらくして彼女からまたメールが届いた。退職したため早くふたつ目の歌集をまとめることができたと書かれていた。しかし彼女がなぜ早期退職したのかについては何も記されていなかった。

彼女が送ってくれたふたつ目の歌集「朱い実」(ながらみ書房)は、今、私の自宅のリビングのテーブルの上に置いている。1日に1~2回、パラパラとページをめくる。末尾には「あとがき」として次のような記述がある。

「本歌集には、最近の作品は含めず330首を収めた。この時期、今は特別支援学校と名前を変えた養護学校に勤務し、重い疾患を持つ子どもたちの教育に携わっていた。少しは人の役に立っているという満足感よりも、自らの無力さや子どもたちを襲う運命の過酷さを思い知ることのほうが多かった。また体力精神的に仕事をすることが辛くなり、自分で自分を励ましつつ日々を凌いでいた。そのような朝夕のなかにもささやかな愉しみや喜びがあり、短歌を作り続けることができたことを幸いに思っている。」

この「朱い実」はまだ流し読みしかしていない。しかし彼女は重い疾患を持つ子どもたちの人生の意味や価値、そして自分自身の人生の意味について希望を持ち得ないまま退職したのではないかと私は危惧した。

確かに、誰であろうと自分が生きていくことの意義を明確に認識することは難しい。生の意義については、誰もが毎日、自問自答しながら生きているのが実情であろう。ましてや重度の障害を持つ教え子たちの過酷な運命を意義あるものと感じることはもっと困難かもしれない。しかし誰であろうと自分の死を受け入れることも難しい。重度の障害があってもなくても・・・。生あるうちは生きることに意義を見いだし、死を迎えても平常心を失わずその死を受け入れる。生も死も自分自身で決定することができない以上、私たちにはこれ以上のことはできない。しかし、自らの生も死もともに積極的に肯定することはほとんどの人にとって不可能なことである。

「朱い実」に掲載されている短歌のいくつかについては改めて紹介する機会があると思う。その際、もう一度、彼女の人生観について言及する機会があるであろう。もし彼女が三つ目の歌集を出すことがあれば、その歌集のなかでは、彼女自身のそれまでの人生を讃えるとともに、重度の障害を持つかつての教え子たちが生きていく意義についても高らかに詠ってもらいたいと願う。

2010年4月11日日曜日

医療はサービス業か 2

もう数年前のことになるであろうか。12月30日(晦日)。その日、私は院長代理当直を務めていた。病院は年末年始の休診期間に入っていた。

午後4時過ぎに病院から電話がかかってきた。電話をかけてきたのは救急外来のナースであった。その日の朝8時頃に救急外来を受診した30歳代の耳鼻科の患者がずっと大騒ぎを続けていて大変困っているが、どのように対応すればいいのか、指示を仰ぎたいという内容であった。

その患者は、「喧嘩をして頭を殴られた。年末年始は病院に入院させくれ」と言ってきかないという。耳鼻科の当直医ばかりでなく皮膚科医や脳神経外科医などもその患者を診察し入院の必要はないと診断したのにもかかわらず帰宅しようとはせず、入院させろと大騒ぎをしていて、他の救急患者の診療に多大な支障が生じていると、電話をかけてきたナースは困惑していた。

その患者は私と知り合いであるとも言っているということであった。確かに私はその患者を知っていた。その数カ月前に私の手術を受けることになっていた。しかし手術前の検査日に受診しなかった。こちらから患者の自宅に電話をしたら連絡はつかなかった。その後もその患者からは何の連絡もなかった。当然、手術も受けなかった。

私は、その患者を知っているが私と特別な関係ではないと説明し、ガードマンを呼ぶようにと言った。しかし既にガードマンは呼んだという。ガードマンでは対応ができないと言われた。ならば警察署に通報するようにと私は指示をした。そして電話を切った。

その後、1時間ほどして、再度、電話がかかってきた。まだ警察には通報していないということであった。しかし、警察を呼ぶようにと私が指示したということは患者に言ったらしい。患者は「じゃあ、帰ってやる」と言い始めたということであった。

ところが、その患者は、今度は「帰宅してやるから救急車を呼べ」と救急外来で騒ぎ始めた。ナースが拒否すると「じゃあ、自分で呼ぶ」と言って救急隊を呼んだという。

午後6時過ぎになってまた救急外来から電話がかかってきた。その患者が救急外来で騒ぎまわっている姿を見て、呼び出しを受けた救急隊員が怒ってしまった。そしてその救急隊員が警察署に通報した。

警官が救急外来にやってきてやっとその患者は静かになった。結局、その患者の自宅に電話をかけ、母親を呼んだ。そして母親がその患者を連れに救急外来を訪れた。患者は母親と一緒に帰宅していった。

ところが、その患者は帰宅時、その日の診療費を一切支払わなかった。「第三者行為による怪我であるから支払う必要はない」と言ったという。逆である。第三者行為による怪我の場合には、患者は病院に対して医療費の全額を支払わなければならないのだ。つまり保険は効かない。そしてその医療費は被害者が加害者に請求しなければならない。

この患者はその日の朝から夕方までずっと救急外来での診療行為を妨害した。そのうえに、診察も受けている。このような不条理が許されていいものであろうか。

調べたところ、その患者は私の外来ばかりでなく他の診療科も過去に何度か受診していた。しかし一度も医療費を支払っていなかった。

こんな出来事は、今の病院では日常茶飯事である。これも医療崩壊のひとつであろう。

2010年4月5日月曜日

女性のおしゃれ

私は髪を染めた女性が好きではない。いや、髪を黄色く染めた女性を見ると嫌悪感を催すと表現した方が、より適切かもしれない。以前と比べると最近は髪を真黄色に染めた女性は減った。しかし茶色く髪を染めている女性はむしろ増えているかもしれない。

私には若い女性が髪を茶色く染める心理がよく理解できない。なぜ美しい黒髪をわざわざ染めて艶のない髪にしてしまうのであろうか。なぜ白髪のない美しい黒髪の艶をもっと出そうとしないのか。

かつて、ある先輩が、「あれは毛唐に対する劣等感だ!」と吐き捨てるように言ったのを今でも時折思い出す。

女性が時間とお金をかけてわざわざ髪を茶色く染める最も大きな理由は、髪を茶色く染めた方がより美しくなると彼女たち自身が思っているからであろう。自分の髪が黒いことに劣等感を感じていることが一番大きな理由ではないであろう。

しかし、髪を染めた女性を美しいと私は感じたことがない。髪を染めた女性のなかにも顔立ちの整った美人がいないわけではないが、それらの女性ももし髪を染めていなければもっと美しいだろうと思う。

話がとぶ。

私は1993年から1995年まで2年間、ドイツのミュンヘンに留学した。その2年間、私が精神的に最も必要としたのは自分自身のアイデンティティーを失わないことであった。

私は男であるから、自分の髪を茶色に染めることはないが、もし私が女性であったとしたらどうであったであろう。ドイツ人の金髪に近い色に自分の髪を染めたであろうか。考えられないことである。自分の黒い髪を失うことは自分の日本人としてのアイデンティティーを失うことである。アイデンティティーを失うことは自分の精神の芯を失うことである。

「ユダヤ教を信じるものがユダヤ人である」という表現はよく耳にする。この逆説的な表現を私は長い間理解することができなかった。この表現の意味を自分なりに理解できるようになったのは留学から戻ったあとであった。ユダヤ人は長きにわたって自分の国を持たなかった。自分の国を失ったユダヤ人にとって、ユダヤ教を信じ護ることが自らのアイデンティティーを失わないための唯一の選択肢であったのだ。

話を戻す。

日本で生まれ日本で暮す日本人であれば「アイデンティティー」などといった大げさなことに悩む必要はないであろう。しかし、自分の個性は何なのかとか自分の美しさはどこにあるのかといったことは考えることがあるのではないだろうか。

もしこれらの事柄についてひとりひとりの女性が真剣に考えているならば、これほど多くの若い女性が髪を茶色く染めることになるはずがないと私は思う。日本女性として身につけるべき美しさは髪を染めることによって得られるものではない。

この頃、私は化粧を落とした女性の顔を見るのが怖くなった。素顔はあまりにも醜い。眉毛もないことが多い。

若い女性が美しくなる秘訣は心を磨くことではないだろうか。外見だけをいくら飾り立てても美しく見えるわけではない。化粧では小皺や小さなシミを隠せても心の醜さは隠せない。電車の中で化粧をしている女性を見ればそれがよくわかるであろう。

2010年3月27日土曜日

医療はサービス業か 1

このテーマはこのブログに書くべきではないかもしれない。私のもうひとつのブログである「医療と私」に書くべき内容であるように思う。

私は毎週金曜日の午前、私の勤務する病院の初診を担当している。その外来をある患者が受診した。2~3か月ぶりであった。症状が軽快したため終診としていた患者であった。

その患者を呼ぼうとしてカルテを開いたとき、私ははっとした。その患者は症状が再発したため、すでに数日前に当科を受診していた。時間外受診であった。その際には若い医師が診察していた。しかし、その患者はその若い医師の診察内容に不満があると苦情を申し立て、結局、医療費を払わないまま帰宅したことがカルテに記載されていた。その患者が請求されていた医療費は再診料だけであった。その患者は時間外に私の病院を受診して、担当医の診察に満足できないからという理由で再診料の支払いすら拒んだのだ。

私は暗澹とした気持ちに囚われた。私はその患者を診察室に呼び込む前に数十秒間瞑想した。その後、勇気を振り絞ってその患者の名を呼んだ。以前その患者が通院してきていた頃、私は常にその患者の治療に熱意を持って臨んだ。しかしその日はどうしても気分が乗らなかった。

なぜあのように暗澹とした気分に陥ったのであろうか。私は、診療が終わった後、その理由を考えた。

私が不愉快に思った最大の理由は、その患者が医療従事者であったということであった。その患者が勤務する職場も保険診療を行っている。つまりその患者は自分の職場では保険診療を提供する側にいるのだ。

保険診療では診療行為のひとつひとつに対して細かくコストが定められている。診療を提供する側が医療費を設定する自由は認められていない。経験豊富な医師が診察しても研修医が診察してもその診察行為に対する医療費に差はない。患者は担当医が誰であろうと、またその医師がどのような医療を行おうと、その結果や満足度がどうであっても定められた医療費を支払わなければならない。国民皆保険とはそのようなものである。

その患者は、私が勤務する病院では保険診療を行っていることを知っている。しかも自分自身が保険診療を行っている医療従事者である。しかるに自分が患者として受診した病院では国民皆保険の原則を踏みにじった。しかも緊急性のない疾患で診療時間外に病院を受診した上に。

ナースの話によると、数日前にその患者を診察した若い医師は、その患者のために私の外来の診察予約をとることに強く抵抗したという。しかしナースの強い説得に応じて、やむをえず私の外来に予約を入れた。

その若い医師は生真面目である。彼の診療態度が悪かったとは思えない。事実、患者自身も診療態度が悪かったとは言っていない。診療内容に不満があると訴えたのだ。しかし、その患者の症状は「不定愁訴」としか言いようのないものばかりであった。経験豊富な医師であってもその患者の診察には難渋するであろう。

自分自身が医療従事者であり、かつ自分の病状が緊急の治療を必要とするものではないということを知っているのにもかかわらずその患者は診療時間外に私の病院を受診した。そして当直医の診療内容に不満があると言って再診料すら支払わなかった。

その患者は、私の診療に対しても納得いかないと主張して、再度、医療費を支払わずに帰っていくのであろうか。その患者の診察に携わったナースや検査技師などの労力に対する対価を自分が勝手に決めるのであろうか。診察中、その患者に目を向けながらも、私はその患者に対する不信感を隠せない自分自身の心をじっと見つめていた。

2010年3月20日土曜日

卒業式

きょうは土曜日であるが、息子は朝早く、学校に出かけていった。きょうの午前中、息子が通う小学校の卒業式があるということであった。5年生になった息子の同級生全員がこの卒業式に出席して卒業生を見送る。

私は、自分自身が小学校を卒業するときの卒業式のことをほとんど憶えていない。ただ、「仰げば尊し」を歌わなかったということだけは鮮明に記憶している。この歌は、当時、卒業式で歌われる定番ともいえる曲であった。この曲のなかの「わが師の恩」という部分を教員が嫌ったのが、私たちが「仰げば尊し」が選ばれない理由であった。このことは担任の先生から直接聞いたように思う。

私は地元の中学校には通わなかった。中学校受験をして高知市内にある私立に進学した。そこで6年間一貫教育を受けた。

小学校の卒業式と中学校への入学試験のどちらが先であったのか記憶がないが、小学校を卒業するにあたってさほどの感慨はなかった。だから、卒業式の日には、すでに入学試験に合格していたのかもしれない。

小学校を卒業したあと、私は小学校の同級生とは全く交流がなくなった。私ばかりではない。私と同じ中学校に進学した他の2名も同じであった。そして別の私立の中学校に進学した2名も。つまり、地元の中学校に進学しなかった私を含む5名全員が、小学校の同期生との接触が中学校進学後とだえてしまった。

「私立の中学校に進学した同期生は同窓会に招かない」というのは地元の中学校の不文律であったらしい。私の姉は地元の中学校に通ったが、やはり私立の中学校に進学した同期生は同窓会に招かないということであった。

私と同じ中学校に進学したひとりの同期生(女性)は私の又従兄弟にあたった。彼女は、小学校の同期生のひとりに、なぜ私たちを同窓会に招いてくれないのかを尋ねたという。帰ってきた返事は、「だって、生意気じゃない」というものであったと、彼女から聞かされた。

ところが、「だって、生意気じゃない」と答えた小学校の同期生も、自分の子は私立の中学校に進学させようと必死になっていた。そして私と同じ中学校に進学させた。その子は一流の国立大学を卒業した。その同期生は自分の子を近所に自慢して回った。

話を戻す。

私の息子が通う小学校では、1クラスが40人編成である。この40人のうち、7人が中学校への進学を拒否されるという。もちろん、このなかにはもっとレベルの高い中学校に進学する子供も含まれるので、7人全員が不幸というわけではない。しかし、自ら希望して他の中学校を希望する子供が少なかった場合には、成績下位のものから順番に落とされていく。

きょうの朝、息子が卒業式に出席することを聞いた際に私の頭をよぎったのは、それらの切り捨てられていく6年生たちのことであった。彼らは小学校に入学したときは「勝ち組」であった。しかし、6年後のきょう、彼らは「負け組」として母校を去っていく。

彼らの人生は長い。彼らのこれからの長い人生を思えば、この挫折はほんの小さな出来事にしかすぎない。私はそう思う。でも、この挫折が小さなものであったと彼らが自ら納得できるようになるまでは、きっと数十年を要するに違いない。

2010年2月12日金曜日

修学旅行



昨日、祐人から4枚の白黒写真がメールで送られてきた。うち2枚は修学旅行ででかけてきた東京(一枚は日比谷公園で、もう一枚は靖国神社で撮影)で撮影したものであった。その2枚には写真を送ってきた友人も写っている。

私が高校生だった頃、私の高校では修学旅行先が3つあった。九州、信州、そして関東であった。旅行先は各人が自由に決められた。私は関東を選択した。修学旅行は高校1年が終わった春休みに行くことになっていた。

自分自身がこんなにも長く東京を中心とする関東に住むことになるとは、当時、夢にも思わなかった。その後、私がこの修学旅行のことを思い出すたびに悔やんだのは関東を修学旅行先に選んだことであった。

旅行のルートは正確に憶えていない。ただ、小田原辺りから北に向かって上ったことは確かである。軽井沢で一泊した後、私たちは最後の訪問地として東京を訪れた。片田舎から出てきた私は、東京の喧噪と排気ガスのすごさには驚かされた。私たちはお茶の水の学生会館に宿泊した。この建物はもうない。今の順天堂医院が建っているあたりにあったように記憶している。丸一日の自由行動が許された日に撮影したのが上述した2枚の写真であった。

自由行動は許されたものの、東京の中をどうやって移動すればいいのか、私たちにはわからなかった。地下鉄の乗り方すら知らなかった。私たちは最も安全な移動方法を選択した。歩くことにしたのだ。私たちは、いろいろなところに立ち寄りながら、お茶の水から日比谷公園まで歩いた。帰りも歩きであった。

途中、洗面所を使うために一度地下鉄の乗り口まで降りていったことがある。違う出口から出たところ、その出口が入り口とは道路を隔てて反対側にあることに私たちは気づかなかった。そのため、また元の方向に向かって歩いていた。そのことに気づいたのは、数分以上、経ってからのことであった。

ナイフとフォークを初めて握ったのもこの修学旅行が初めてであった。そのときまで私は箸以外のものを使ったことがなかった。どうやってご飯(ライス)をすくって食べればいいのか、肉はどのようにして切るのかといったことも全くわからず、私は途方に暮れた。いっしょに食事をしたほとんどの者が緊張でこちんこちんになっていた。私のそばに座っていた一人がナイフとフォークの持ち方扱い方を教えてくれた。

修学旅行から帰った後、世界史を教えてくれていた恩師から、食事は楽しんで食べるものであると何度か指導された。しかし、私たちにそのような心の余裕があろうはずはなかった。

この修学旅行からすでに35年が経過した。東京に住んだ期間も、生まれ故郷である高知に住んだ期間よりも長くなった。しかし私は今も変わらず田舎者のままである。友人たちも変わらない。