2015年6月14日日曜日

大崎瀬都 再び

 私の書斎の棚には3冊の歌集が立っている。「海に向かへば」、「朱い実」、「メロンパン」の3冊である。いずれも大崎瀬都の歌集である。

過去にも書いたとおり、彼女と私は高校の同期生である。クラスがいっしょになったことはなく、在学中に彼女と会話を交わしたこともなかった。しかし彼女の歌は、高校生向けの雑誌に毎月のように掲載されており、当時から彼女の感性に深い感銘を受けていた。

彼女と話したことはこれまで一度しかない。高校の同窓会が毎年秋に東京で開かれる。その二次会の席で同級生と彼女を話題が出て、誰かが同窓会に出席していなかった彼女に電話をかけた。そのとき短時間会話を交わしたのが最初で最後である。

しかし、それ以後、彼女と年賀状のやりとりをするようになった。

下の切り抜きは、昨年9月に彼女が送ってきてくれたものである。消印は平成26年9月9日となっている。昨年3月に私の実父が亡くなり、残された母親の介護のためにたびたび帰省していた当時の私には、彼女が送ってきてくれた歌をじっくりと鑑賞する余裕はなかった。父親が倒れてから2年。この2年間は週末に自宅でのんびりできる日は全くなかった。

きのうは思い切って大切な会合への出席を取りやめて一日中家に籠もり、書類の山の整理をした。彼女が送ってくれた手紙は、リビングのiMacの下に置かれたままになっていた。その封筒の中には彼女の歌の切り抜きに加えて彼女の直筆の手紙が添えられていた。その添え書きには、彼女も2年前に実父を亡くしたと書かれていた。

「かつて父の身体でありし千の風千の分子を行き深く吸ふ」
「ゆっくりと水車の廻る四万十市安並に父と兄の墓あり」
「子どのものとき逝きし兄にはコーヒーを父にはやめてゐし酒を置く」
「ヘルパーさんに鍵を渡して何もかも明け渡したる母の起き臥し」




2015年6月13日土曜日

又従兄弟


私の父親は昨年3月7日に亡くなった。二度目の脳梗塞発作で倒れたのが一昨年の6月末。8ヶ月あまりで亡くなったことになる。

一昨年の6月に父親が倒れて以来、ずっと私を助けてくれている又従姉がいる。彼女は私と同い年。小学校、中学校、高等学校と12年間同じ学校に通った。小学校1年生と2年生のときにはクラスも同じであった。

彼女は大学在学中に結婚した。しかし数年後に離婚し小学校入学前の一人息子を連れて高知に帰ってきた。しかし実家には戻らず、息子と二人暮らしを始めた。彼女が離婚して高知に戻ってきた直後に一二度彼女に会ったことがあった。一人息子のかかとの形が元の夫のかかとにそっくりだと彼女が笑っていたことを思い出す。

彼女は薬剤師であった。したがって生活に困ることはなかった。今は、息子も結婚し、二人の孫がいる。自分自身は息子の家から歩いて5分ほどの場所に家を借りて住んでいる。以前、住んでいた家は売り払ったという。

彼女の家から高知龍馬空港までは車で10分ほど。父親が倒れたとき、彼女の家の駐車場に車を停めてもらってかまわないと彼女の方から申し出てくれた。そればかりではなかった。私が東京から帰省する際には、自宅の駐車場から空港まで車を届けてくれる。私が東京に戻る際にも車を空港の駐車場に乗り捨てておくと彼女が自宅の駐車場まで運んでくれる。もう2年間になる。

彼女がこんなことをしてくれるのは、自分自身の父親が脳出血で倒れたときの思い出があるからである。彼女は自分の父親とは決して仲良くなかった。しかし父親が初回の発作を起こしたあとは献身的に父親の面倒をみた。父親の最後の入院の際には、仕事を終えた後、一日も欠かさず数十キロ離れた病院を訪れた。そして父親のベッドのそばに消灯までいたという。父親に意識がある時期には、母親を説得して父親を車椅子に乗せ、母親、そして彼女の3人で沖縄旅行にでかけたこともあるということであった。

彼女は、私に、少しでも長い時間、両親(今は母親のみであるが)のそばにいてあげてもらいたいと話す。

私は地元の小学校を卒業後、高知市内の私立の中学校に進学した。私といっしょにその私立中学校に進学したのが、彼女ともうひとり。3人が同じ私立中学校に進学した。この二人とは長いつきあいになる。50年を越した。

高知に帰ると、時々、彼女といっしょに食事をする。彼女が地元のレストランを案内してくれる。つい先日帰省したときには、高知市内のホテルのレストランで彼女といっしょに食事しながら3時間ほど語り合った。

重い荷物をさげて一人で帰省し、病院の母親を見舞う。その合間をぬって空き家になった実家の草刈りや布団干し、実家の片付け。母親が元気になってもう一度実家に戻ることはもう期待できない。帰省しても心身の疲れが残るだけである。彼女との接点は、一抹の明かりを私の心に灯してくれる。

2015年6月9日火曜日

墓参

私は、高知に帰省すると、よく叔父の墓に参る。先日、高知に帰省した際にも叔父の墓を訪れた。そして墓の草をむしり墓前に手を合わせて墓地を後にした。

叔父はこの墓地ではなく実家の墓地に葬ってもらいたいと言っていたという。しかしその希望は叶わなかった。叔父にはふたり男の子がいるが、ふたりとも独身である。叔父の妻は、いずれこの墓の守をする人もいなくなるだろうと寂しげにつぶやくことがある。

私は叔父が愚痴を言うのを聞いたことがない。ただ、叔父が死んだ後、叔父の妻からこのようなことを聞いた。「まるで親戚中の不幸を我が家が一身に背負っているようだ」と叔父は嘆いていたという。

もう30年以上昔のことである。私はまだ多感な時期であり悩みも多かった。いつも考え込んでいた。そんなとき私はあることにはっと気がついた。どんなに悩んでも、あと50年すれば自分は死んでしまい、苦しむことすらできなくなると。50年という年月はあっという間ではないかと私は感じた。わずか50年ではないかと。

叔父がどれほどの不幸を背負っていたのか、詳しくは知らない。ただ、叔父がどれほどの不幸を背負っていたとしても、その苦しみは叔父の死とともに消えた。

自分の墓地を私がこれほど度々訪れようとは、生前、叔父は予期していなかったにちがいない。