2018年8月19日日曜日

父親は2013年6月下旬に入院した。しかしその2年ほど前に父親は1回目の発作で入院したことがあった。その際には高知市内のもみの木病院で急性期の治療を受けた後、リハビリテーションのために「すこやかな森」に転院した。父親が「すこやかな森」に入院して何日も経過しないときに、ひとつの事件が起きた。

父親が看護師から清拭してもらっている最中にその看護師に対して「気持ちがいいので局部をもっと触ってくれ」という意味のことを言ったというのだ。父親がどのように言ったのか、正確な表現は知らないが。

私はこのことを姉から知らされた。姉はこのことをすごく恥じていた。姪もこのことで父親に激しく腹を立てており、もう「すこやかな森」には恥ずかしくて行けないと言っているということであった。

この話を聞いて私も恥ずかしくなかったわけではない。しかし、転院前、もみの木病院で主治医から見せられた父親の脳梗塞の範囲は広く、側頭葉から前頭葉に及んでいた。父親の言動がおかしくなるのは当然であった。私はこの件で父親を責めても仕方がないと考えた。

その後、わたしが「すこやかな森」に父親を見舞った際、主治医からこの件について尋ねられた。「お父様は普段からこのようにエロチックな方だったのですか」と。私ははっきりとは答えなかったように記憶している。

この時期のことであろうが、私が姪に対して「おじいちゃんの夜の伽をしろ」と言ったと姪は裁判の際に証言した。ここまで作り話をするのかと、私は愕然とした。

姪が恥ずかしがっているということを姉から聞かされたとき、私は姪に対して申し訳ないと思っていた。ただ、どうしようもないと考えていた。父親は脳の病気を患っているのだ。父親には責任はない。父親の子である私にも姉にも責任はない。看護師に対しては一言謝罪すべきだと思ったが、私と姉と姪との間で責任のなすりつけあいをすることではなかった。

いずれにしろ、もし父親が私が勤務する病院に入院していたならば、私の病院の看護師はこのようなことを大げさには扱わなかったであろう。私は高知県内の医療レベルが低いことに失望した。

私の姉が父親のことを「エロじじい」と盛んに言い出したのはこの事件の後であったように思う。

エロじじい

私が父親について「エロじじいは早う死ね」と言っていたと裁判の場で姪は証言した。私は唖然とした。この言葉はまさに私の姉が私に繰り返し言った言葉であった。そもそも、私は自分の父親を「エロじじい」と呼んだことはない。私が父親のことを姪に話すときには、必ず「おじいちゃん」と言った。また、父親が1日も早く死ぬことを願っていたのも私ではなく姉であった。姉は姪に対しても「エロじじいは早く死ね」と繰り返し喋っていたのであろう。なんと姪は、姉のこの言葉を私が言っていたと嘘の証言をしたのだ。姪の根性は根っこから腐っている。

もし姪のこの証言が判決文のなかで事実として取り上げられたならば、私は姪を偽証または名誉毀損で訴えるつもりであった。私の代理人を務めてくれた弁護士にもそのことを伝えておいた。しかし裁判官は姪の証言には一切言及しなかった。姪は救われた。

2018年8月18日土曜日

2013年7月15日 姪

私の姉と姉の長女(私の姪)が私の母親との絶縁を私に告げたのはその2週間前の7月1日のことであった。このことは既に書いた。絶縁の理由は、私の姉(つまり姪の母親)よりも私に多く遺産相続させたいと母親が言ったからだということも述べた。

7月15日の晩、姪は悪口雑言の限りを尽くして私の両親を批判した。自分たちが私の両親から受けてきた愛情と多額の金銭援助に対する感謝の言葉は一言もなかった。それどころか、「外孫と内孫を区別することは許さん!」とまで言った。姪と名の弟妹が私の両親から受けていた金銭援助は私の息子がもらった金銭の数百倍に昇るというのに・・・。私は唖然とした。

姪の発言があまりにも酷いので、私は姪に対して次のように言った。「お爺ちゃんの財産は私のものではないが、お爺ちゃんの財産がもし私のものであったならば、私は〇〇(姪の名)には1円もやりたくない。」当時、まだ父親は生きていた。私は慎重に言葉を選んだつもりであった。

私のこの発言について、後に姪は裁判の場で次のように証言した。私の父親の遺産を1円もやらないと私が言ったというのだ。

何というすり替えであろうか。表現は似ていても意味は全く異なるではないか。

36歳(当時)にもなって、まだ母親方の祖父母の財産をアテにしていたのか。私の両親の孫にあたる私の姪は、私の両親の遺産の法定相続人ではない。

2018年8月17日金曜日

2014年1月19日 日曜市

父親が入院した後、私は1ヶ月に1回〜3回の頻度で帰省した。土曜日、日曜日、月曜日と2泊3日で帰省することが多かった。平日に高知にいなければ、さまざまな雑用をこなすことができなかったからである。月曜日には朝食も昼食もとる時間の余裕はなかった。夕方、高知龍馬空港のレストランでうどんをかけこんだ。孤独であった。

そんな私の唯一の楽しみは、日曜市で芋の天ぷらを食べることであった。天ぷらを朝食代わりに食べた後は、両親を見舞い、天気がいい日には実家を掃除した。窓を開け、布団を干した。草むしりもした。両親が実家にいなくとも実家をきれいに保つことは、長男である私の責務であると考えていた。








2013年12月23日 閉眼供養

2013年6月下旬に出血性脳梗塞のため入院した父親の容体は、私が帰省するたびに悪化していった。母親も腰椎骨折のため入院。実家は空き家になった。父親にもしものことがあっても父親を埋葬するスペースは我が家の墓地にはなかった。私は改葬が必要だと考えた。

しかし改葬には家庭裁判所の許可がいる。後見監督人を引き受けてくれた私の友人に相談したところ、彼が私の親戚を回っていろいろと話を聞き、家庭裁判所に提出する改葬許可依頼書を書いてくれた。

当初、私は土佐市内か高知市内の墓地を探した。しかし、ひとりの従姉が、思い切って東京に墓地を移してはどうかと言ってきた。私の一人息子は東京生まれ東京育ちである。墓地が高知県にあれば墓参もままならないであろう。墓地の場所すらわからなくなってしまうかもしれない。私は従姉の進言にしたがって東京に墓地を移すことにした。墓地探しは家内に頼んだ。家内は沢山の霊園からパンフレットを取り寄せるとともに、時間を割いてそれらの霊園を実際に下見に行ってくれた。時間があるときには私も同伴した。

写真は、併願供養の際の写真である。家内と息子も私と一緒に帰省し、菩提寺の住職とともに併願供養を行った。2013年12月23日のことであった。












2013年7月15日 3枚の写真

手元に2枚の写真がある。撮影日は2013年7月15日。高知の実家の写真で撮影したものである。この年の6月下旬に父親が2度目の出血性脳梗塞で倒れて入院した。これらの写真は私が家内と息子を連れて帰省したときに撮影した写真である。母親は実に嬉しそうにしている。母親は一人暮らしになったが、人生で初めて夫(私の父親)からの圧迫がなくなって幸せであると語った。娘(私の姉)と孫(私の姉の長女)から絶縁されたことをこの時期にはまだ母親は知らなかった。対照的に私は目にはクマができ今にも泣き出しそうである。私の当時の心境を如実に表した写真である。この4週間後に母親は自宅で転倒して入院。父親も母親も退院することはなく、還らぬ人となった。実家で撮影した母親の最後の写真となった。






2018年8月14日火曜日

2013年7月1日

この日のことも私は生涯忘れないと思う。姉と姉の長女(私の姪)が、私に対して、私の母親との絶縁を宣言した日である。

二人が母親との絶縁を決めた理由を私が知ったのはその2週間後の2013年7月15日の晩であった。私の母親が、私の姉よりも私に多めに遺産を残したいと言ったことが許せないと姪は私に告げた。

私は両親の遺産相続について両親と話したことは一度もなかった。親の財産は親が築いたものであり私のものではないのであるから、両親は自分の財産は好きなようにつかってもらいたいと私は考えていた。しかし姉は両親の財産を1日も早く手にしたいということを度々私に告げた。私はその度に姉を窘めた。両親の晩年、姉の関心は両親の財産にしかないように私には思えた。姪は、実家のご近所の人たちに対して、私の両親の財産がどれほどあるかを吹聴していたらしい。実家のご近所の方からそのことを私は直接聞かされた。私の両親は、東京に住む者にとっては大した財産を残したわけではない。しかし姪の話を聞かされた実家のご近所の方はその日の暮らしにも困窮していた。姪の分別のなさに私は呆れた。

話を戻す。私の姉よりも私に多くの財産を残したいと私の母親が考えていたことは7月15日に姪から聞かされるまで知らなかった。しかし、その話を姪から聞かされたとき、私は母親の気持ちがよくわかった。姉と姉の家族に対して、私の母親がどれほど多額の援助をしてきていたかを私は知っていたからである。姉の嫁ぎ先が経営していた会社が倒産した後、私の父親も姉の家族に対して多額の援助をしていた。母親はそれとは別に、父親に内緒で援助を続けた。母親が姉に渡した現金は1千万円どころではない。しかし、姉は、母親からの援助をひた隠しにした。自分の夫は当然、自分の4人の子たちにも告げなかった。それどころか、「両親は一円たりと援助してくれない」と家族や親戚に言い続けた。

姉の4人の子たちは全員大学を卒業して社会人になっていた。実家である私の家からの援助なくしては誰一人として大学には進めなかった。姉の長女は私の母親が倒れたとき36歳になっていた。結婚し子もいた。それに対して私の一人息子はまだ中学生であり、両親から私の息子は金銭的な援助は受けたことがなかった。ほどなく死んでいく私の母親が、嫡男である私と私の一人息子のために姉よりも多めに遺産を譲りたいと考えるのは当然のことであった。私には國弘家の墓守も頼まなくてはいけない、実家の建物や田畑の処分も頼まなければならない。(ただし、私自身は、当時はまだ、姉と私とは等しく遺産相続すればいいと考えていた。)

私は母親と遺産相続について話したことはないということを姪に告げた上で、なぜ母親がそのように思ったのかについて私の考えを述べた。すると、姪は「外孫と内孫を区別するのは許さん!」と怒り出した。

驚いた。どれほど多くの援助を姉の4人の子たちは受けてきたのかを忘れたのであろうか。姪は、私が何を言っても「外孫と内孫を区別することは許さん!」という言葉を繰り返すだけであった。

堪忍袋の緒が切れた私が次のように言った。「ならば、私の一人息子が両親から百万円もらったら、お前たち4人の孫たちには四百万円渡せということかえ!?」この問いに、姪は黙った。

それにしても、両親の遺産の法定相続人でもない姪がこの段階でここまでしゃしゃり出るとは・・・。非常識な親子である。

8月12日

一昨日(8月12日)、御巣鷹山に家内とふたりで慰霊登山した。御巣鷹山に慰霊登山するのは今年で5回目。5年連続となった。今年は午前中に軽井沢を発ったため、事故現場でご遺族や報道陣を多数見かけた。事故から33年発ったが、今もご遺族の哀しみは消えていないように見えた。事故当時、私の家内は日本航空に勤めていた。家内の友人も何人かこの事故で亡くなった。

母親が自宅で倒れ腰椎骨折を起こして緊急入院したのも8月12日であった。2013年8月12日。あれから5年が経った。その日、私は家族と軽井沢に出かけてきていた。実家の近くに住む女性から母親の緊急を知らせる電話を受けたのはその晩であった。彼女は早口で次のように私に告げた。「みっちゃん(私の母親の呼称)が倒れた。救急車で病院に運ぶ。私たちも救急車の後ろに付いて病院に行く。友子ちゃん(私の姉)に電話をかけて病院に駆けつけてくれるようにと頼んだけんど(頼んだが)、『國弘家とは縁を切った。家族会議を開き、池家の全員が國弘家とは縁を切ることに決めた。病院には行かん。葬式にも行かん』と友子ちゃんは言いゆう(言っている)。

彼女は、「実の親なのだから病院に駆けつけないといけない」と繰り返し私の姉を説得してくれたという。しかし姉は頑として拒否した。私の姉に何を言っても無駄だと思った彼女は一方的に電話を切り、私の母親の着替えを手伝い、救急車が実家に着くのを待ったという。失禁してびしょびしょになっていた母親の衣類を取り替えてくれたのは彼女と彼女の妹であった。彼女が救急車の後を追って病院に向かっている途中で何度か私の姉から電話がかかってきたが、運転中であったこともあり、彼女は私の姉からの電話を受けなかったという。

彼女から連絡を受けたとき、私はハンマーで頭を殴られるような衝撃を受けた。私ばかりではなかった。側にいた私の息子も動揺し始めた。

8月12日といえばお盆の真っ最中。身動きがとれなかった。私が高知に帰省したのはその週の週末であった。結局、母親はそれから2年の闘病生活を経て一度も退院することなく亡くなった。

日航機事故と母親の入院。8月12日は私の家族にとって生涯忘れることのできない日となった。

2018年8月13日月曜日

姉 2

姉は両親が私に贔屓していると思っていた。このことが姉が私や私の家内に対して激しい憎しみを抱く大きな原因となっていた。

しかし私は、両親が姉よりも私を可愛がってくれていると感じたことはない。両親は姉も私も同じように可愛いと思ってくれていると私は感じていた。(ただ、姉は他家に嫁いだ身であるのに対して私は國弘家の嫡男であり、私には両親が亡くなったあと、墓を護り家を護ってもらわなくてはいけないとは考えていたと思う。)姉の4人の子たち(父親の孫)に対しても私の一人息子に対してと同等の愛情を父親が抱いていることが私には言葉の端々や表情からわかった。

姉の3番目の子(長男:私の甥)が大学に入学した後は、長男が必要とする金はいつでもいくらでも出してやると父親は繰り返し私に話した。そのことに対して私が不平を言ったことは一度もない。しかし甥は大学入学後一度だけ感謝の手紙を父親に寄こしてきた後、連絡を断った。父親はさびしそうであった。私はなぜ甥が父親に連絡をとらないのかを知っていた。甥の母親である私の姉が、実家には絶対に連絡を取るなと甥に強制していたのだ。私は、姉がこのようなことを甥に言っていることを父親には話さなかった。父親が可哀想に思えたからである。しかし今振り返ると、父親にはこのことをきちんと話しておくべきであった。後悔している。

姉は、自分が家族に内緒で受け取れる金は貪欲に要求した。そしてその援助を家族にひた隠しに隠した。その一方で家族に知られる援助は絶対に受け取るなと家族に厳命した。姉は甥に対して両親に連絡をとるなと厳命しただけではない。甥と同じ東京に住む私に対しても決して連絡をとってはいけないと言ったという。これは姉自身の口から私が直接聞かされた。

甥は一浪して東京大学に入学した。甥の浪人中、私は甥を励ますため何度も甥に電話をかけた。姉はそれを喜んでくれ、時間があるときには電話で甥を励ましてくれと言った。浪人中、入学試験が迫った年末には甥が弱気になって受験する大学のランクを下げようかと迷い始めた。そのときにも私は、大学に受かるかどうかはその大学に縁があるかどうかで決まる、ランクを下げたからといって受かる保証はない、最後は気迫の勝負だと話して甥を励ました。結局、甥は当初の目標大学であった東京大学の入学試験を受け、合格した。

入学試験を受けるために上京してくる際の交通費は私が負担した。しかし、甥は姉からのこのことを知らされていなかった。姉は私が送った金をさも自分が用意した金であるかのように何も告げずに甥に渡していた。甥が予備校に通うための学費も私が負担した。しかしそのことも姉は甥に告げていなかった。

ところが姉は、私の父親に多額の援助をもらうことによって甥が東京大学に入学できたと同時に、実家の者(私の両親と私)には絶対に連絡をとるなと甥に命令したのだ。

もし甥が私の両親(彼の祖父母)または私と連絡を取り合うことができていたならば、甥はきっと大学院に進学したと思う。多額の教育ローンを申し込む必要もなかった。甥は今立派に仕事をしているが、甥が不憫んでならない。

姉は、自分の子と両親の人生に対して責任を取れるのであろうか。どこまでも無責任な姉である。姉のこれまでの人生を象徴する出来事であった。

2018年8月12日日曜日

姉 1

おそらく、私は生涯、姉の言葉は何一つ信じないだろうと思う。もちろん、私が姉に会うことも姉と話をすることも、もうないであろうが。

2018年8月5日日曜日

腕時計

今朝、冷房を入れようとしてリビングのガラス窓を閉めたところ、ガラス窓と障子との間に置きっぱなしにしていた腕時計を見つけた。この腕時計は私が父親にプレゼントしたものであった。父親が亡くなったとき、実家から持ち帰った。持ち帰ってきたとき、その時計は止まっていた。リビングのなかの明るい場所に置いておいたところ、いつの間にか時を刻み始めた。しかし時刻は不正確であった。おそらくまだバッテリーの充電が不十分なのであろうと思い窓際に置いておいた。以来、なんと4年もの間,窓際に置きっぱなしになっていた。