2012年3月29日木曜日

宗教と戦争

今、世界で起こっている戦争の多くは宗教戦争だと思う。キリスト教徒とイスラム教徒との諍いが特に目立つ。キリスト教もイスラム教も一神教である。これらの宗教には白と黒しかない。グレーといったものはない。また、同様に正義と悪しかない。「盗人にも三分の理」とか「乞食にも三つの理屈」といった世界はないようだ。

日本ではイスラムは悪でありキリスト教徒の多い西欧は正義であると漠然と思われているように私は感じる。しかし果たしてどちらが正義だと決めつけることはできるであろうか。キリスト教徒が「正義」の名のもとにどれだけ多くの命を奪ってきたのかを振り返ってみればよい。

おそらく私は、生涯、キリスト教徒にもイスラム教徒にもならないだろうと思う。八百万の神々を奉る日本人のあいまいさが私は好きだ。日本人の持つグレーさを私は愛する。

2012年3月21日水曜日

「メール」雑感

メールが使われるようになって久しい。私も今は、仕事上も私生活の中でもメールなしでは生活ができない。確かにメールは情報を交換するには便利である。送信記録も受信記録も長期間にわたって保存できる。検索も容易である。さらに時間を問わず送ることができる。

しかし、私信の代用としてメールを使用するのは危険である。メールで自分の感情を的確に表現することはきわめて難しい。メールで「馬鹿!」と書けば、このメールを受け取った当人は批判されたと思う。しかし直接会って話している際に発する「馬鹿!」は必ずしも相手を批判する言葉とはならない。逆に相手に対する親しみや愛情を表現する言葉になることもある。

メールをやりとりするにあたって若者が絵文字を多用するのは、このメールの弱点に彼らも気づいているからかも知れない。絵文字を添えることによって自分の気持ちをできるかぎり誤解なく相手に伝えようとしているのであろう。

しかし若者たちは若いうちに絵文字ではなく文字だけで自分の考えや感情を正確に伝える訓練を自らに課さねばならないのではないか。絵文字に過度に頼るのは日本語による表現力を乏しくすることにつながりはしないだろうか。

私は絵文字がうまく使えない。また自分の持つ表現力を駆使してもメールでは自分の感情を的確に表現することができない。手紙や直接会って話すほうが遥かに自分の感情を相手に正確に伝えることができると考えている。今の若い人たちから見れば私は明らかに「旧人類」に属する時代遅れの人間なのかもしれない。

私が十代の頃は若者の長電話が問題になった。しかし今振り返れば、若者同士が電話で話すことは必ずしも悪いことではなかった。電話では直接相手と顔を合わせるわけではないが、ほぼそれに近い環境が得られる。大きさや抑揚によって相手の言葉を誤りなく受け取ることができる。逆に自分の意見や感情も伝えることができる。

若い人たちにはできるかぎり直筆の手紙を書いてもらいたいと思う。葉書1枚でもかまわない。手紙を書いているときには時間はゆっくりと流れる。文章を何度も読み返しては便箋を破り捨てて書き直すこともある。手紙を書くということはゆったりと自分の心の中を見つめる格好の場を持つということである。文章による表現力も磨かれるであろう。手紙をポストに投函してもその手紙がいつ相手に届きいつ相手が自分の手紙を読んでくれるのかは正確にはわからない。だから最低でも数日間は相手のことが頭の片隅から離れない。

話がとんでしまうが、私は1年間の浪人生活を経て大学に入学した。その浪人時代に国語の教えていただいた先生が授業中の雑談のなかで次のようなことを話した。

その先生は都内の女子大の教授であったが、字の下手な女子学生がいるとその学生に向かって「君はラブレターを書いたことがないだろう!?」と話すという。学生が「どうしてそう思うのですか?」と尋ねてきたら、そのときに「字が下手だからさ」と言うという話であった。

最近は恋人同士が手紙のやりとりをするということは全く聞かなくなった。おそらく、彼らはメールで連絡を取り合っているのであろう。彼らには1か月に1回でもいいから直筆の手紙のやりとりをしてもらいたい。自分が最も大切に思う相手に書く手紙には自ずと心がこもるであろう。きれいな字で書きたいとも思うであろう。文章による表現力も磨かれるはずである。

2012年3月14日水曜日

ホワイトデー

きょうはホワイトデーである。ホワイトデーは1年に1回しかないのでホワイトデーに関する雑感をきょうのうちに綴っておこうと思ったが気分が乗らない。

この年齢に達すると、ホワイトデーというのは義理チョコに対する返礼の日でしかない。決して心が踊る日ではない。むしろ憂鬱である。数年前からは、ホワイトデー用のチョコレートは家内に頼んで買ってきてもらっている。私の自宅の近くに芥川製菓(株)というチョコレート工場がある。ここでは売れ残ったバレンタインデー用のチョコレートのバーゲンセールを開く。このバーゲンセールのために朝早くから列をつくって並ぶのが、私たちが今の家に引っ越してからずっと家内の楽しみになっている。家内はたくさんのチョコレートが入った大きな袋を両手に抱え、うんうんうなりながらチョコレート工場から帰ってくる。私がホワイトデーにお返しするチョコレートは全て、こうして家内が買ってきた売れ残りなのだ。しかし、それでも私がバレンタインデーにもらうものよりずっと立派なチョコレートである。

バレンタインデーの日、私にチョコをくれたある女性は、「義理チョコ」ではなく日ごろお世話になっていることへの「感謝チョコ」だと言った。確かにそれは彼女の本心だと思ったが、「来年はもうバレンタインデーのチョコはいらないから」と私は彼女に告げた。

ただし、今年はホワイトデーの日に少しだけ気持ちが晴れることがあった。その日、職場の廊下でよく知っている20歳代前半の女性職員にたまたますれ違った。彼女からバレンタインデーにチョコレートをもらっていたわけではなかったが、1箱余っていたのでそれを彼女にあげたところ、彼女はびっくりするとともに屈託のない笑顔を見せて喜んでくれた。残り物のチョコレートをもらっただけなのにそんなに嬉しいものなのだろうか。私は不思議に思った。しかし彼女は心から喜んでくれているように見えた。私はホワイトデーというものに対する割り切れぬ思いに心が暗くなっていたが、彼女のその爽やかな笑顔に心が洗われた。

バレンタインデーとホワイトデーのチョコレートの交換は、未婚の若い男女の間だけの楽しみでいいのではないだろうか。バレンタインデーやホワイトデーに微笑みを交わしながら若いカップルが食事をしている姿を見るだけで私は十分幸せである。

2012年3月11日日曜日

東日本大震災から1年

東日本大震災からちょうど1年になる。あの日のことは生涯忘れないだろうと思う。

地震が起きた日は金曜日であった。私は午前中の外来が長引き、まだ耳鼻科外来で診療を続けていた。縦揺れのすざましい揺れであった。私は患者を私の机の下に退避させ、私自身は隣の部屋の机の下に潜った。私の診察についていた看護師は動転し、ただただ耳鼻科外来をどたばた走り回っていた。

どうも私は根が不真面目らしい。こんなときでも、あたふたしているその看護師に向かって「○○さんは太っているから机の下に潜れないの?」と笑ながら大声で何度か叫んだ。そして机の下で笑い転げた。

しかしその一方で、私自身は、「この地震のために自分が死ぬかも知れないし死んでもかまわない」と思った。天井が崩れ落ちてきたら、それは私の寿命なのだと思っていた。それまでの自分の人生に関して後悔の念も湧いてこなかった。

揺れは一旦収まった。そのため私は外来診療を再開した。そのとき再度大きな揺れがやってきた。揺れは長く続いた。

ちょうどその頃、家内は山手線に乗っていたという。秋葉原駅から御徒町駅の間で電車の揺れが始まった。電車は御徒町で一時停止することなく上野駅まで行った。しかし御徒町から上野駅までの間で揺れは更に大きくなった。そして上野駅で電車は停まった。家内は上野駅で電車から降りると大急ぎでタクシーに乗り帰宅した。帰宅すると、息子が通っていた小学校から、迎えに来るようにというメールが届いた。家内はタクシーを拾い、茗荷谷にある息子の小学校に向かった。そしてそのタクシーを待たせたまま校門をくぐった。

地震が起きたとき、息子は講堂で卒業式の練習をしていたという。幸い、息子も含めて子供たちは誰もけがをしなかった。(しかしその講堂は大きく傷み、10日あまり後の息子の卒業式は場所を変更せざるをえなくなった。)

息子が無事であったことは家内からのメールで知った。私も自分の無事を伝えた。

その晩、私は病院に泊まった。床の上でそのまま雑魚寝であった。肌寒かった。

地震が起きた後の病院の職員の対応と帰宅できなくなった患者さんたちの冷静な行動は忘れられない。

生きていくことは常に危険と背中合わせである。それらの危険を確実に防止することはできない。交通事故に遭うのがいやなら家に閉じこもっているしかないであろう。いや、たとえ家に閉じこもっていたとしてもトラックが家に衝突することがあるかもしれない。地震で家が崩れ落ちることがあるかもしれない。交通事故や天災には見舞われなくても病気なるかもしれない。仮に病気になることがなかったとしても、全ての人が老い、そして死んでいく。

それを百も承知であったとしても、親を亡くした幼子(おさなご)の話を聞くと、言葉を失う。

2012年3月3日土曜日

二人の天使

きょうは土曜日である。息子は私が目を覚ます前に学校に出かけた。私はいま、リビングのテーブルに座り、家内と二人でのんびりとコーヒーを飲んでいる。ステレオから「二人の天使」が流れてくる。

「二人の天使」を聴くたびに私はある女性を思い出す。私が通った中学校・高校の同期生である。彼女と同じクラスになることは一度もなかった。

彼女と初めて話したのは、私が大学2年生の頃ではなかったかと思う。彼女は都内にある某女子大学に通っていた。彼女を私に紹介したのは私と同じ大学の経済学部に通っていた彼女の友人であった。女性二人は高校のクラスメートであった。

今、友達に異性を紹介するということは、交際を前提としたものになるのかもしれない。しかし当時はそうではなかった。私たち3人は、単に懐かしい同級生として何回かいっしょに食事をする程度であった。

しかし何がきっかけであったのかは記憶にないが、女子大に通うその女性と二人きりで会ったことがあった。場所は彼女の下宿先に近い上野公園であったように思う。彼女は私のためにお弁当を作ってきてくれた。いま振り返れば立派な「デート」であった。しかし当時の私にはそのような意識はなかった。彼女も東大生とつきあっていると私に話した。

彼女と二人きりで会ったことがそのあとあったかどうかは記憶にない。一度か二度はあったかもしれない。ただ、私が彼女の下宿に何度か電話したことはあった。

いつごろであったであろうか。突然、彼女と連絡がとれなくなった。電話をかけても出ない。そのうち、私は彼女のことをすっかり忘れてしまった。

それから何年か経って私が大学を卒業し、研修医として国立栃木病院に勤め始めたころ、突然、一通の手紙が届いた。差出人はその女性であった。どのようにして私の所在を突き止めたのかはその手紙に書かれていたのかもしれないが、記憶にない。

彼女は高知の実家に戻り、交際を続けていた東大生が大学を卒業して別の大学の医学部に入り直すのを待っていると書かれていた。

彼女からは1〜2か月に1回程度、手紙が届いた。手紙に書かれている内容はほとんど、その恋人の医学部入学をひたすら願う彼女の心情と彼女自身の近況であった。

そんな手紙のなかの一通に次のようなことが書かれていた。「私が、國弘さんではなく、○○さんを選んだのは、彼の方が國弘さんよりも頭がいいと思ったからです。」

(合点がいった。彼女と連絡がとれなくなったとき、彼女は彼と同棲を始めたのだ。)

「○○さん」という男性は、予備校に通っていたころの私を知っていたらしい。そして折に触れて、彼の方が私よりも予備校での成績がよかったと彼女に話していたようだ。

私は彼を知らないから彼の言っていたことが正しかったのか誤っていたのかはわからない。そんなことはどうでもよかった。ただ、彼の心は手に取るようにわかった。

今ならば、「彼女は私に気があるのではないか」と考えたであろう。しかし当時の私はそんなことは全く考えもしなかった。「彼女というのは試験の点数で人間の価値を判断する女性なのだ」と感じ、単に不愉快に思っただけであった。

彼女と最後に会ったのは、28歳の頃ではなかったかと思う。私が帰省したときであった。彼女はそのときもまた同じ言葉を繰り返した。

彼女を車に乗せ、彼女の自宅に送り届ける途中、私は彼女に厳しい言葉を吐いた。「君は女性として幸せになれないんじゃない?」

車の中での二人の会話はそれで途絶えた。

彼女を自宅のそばで降ろすと、彼女は後ろを振り返って私に挨拶することもなく自宅に向かって坂道を上っていった。

彼女はそれから間もなく結婚した。しかし、その男性とではなかった。

彼女の所在は同級生も知らない。同窓会に出席してくることもないらしい。

この彼女が一番好きな曲だと私に話したのが、さっきまで流れていた「二人の天使」であった。