2011年3月26日土曜日

家族旅行

いま、羽田空港のロビーにいる。家内と息子も一緒だ。明日、午前1時20分発の飛行機でマレーシアのコタキナバルに向かう。コタキナバルに行くのは4年続けてとなった。

今年の家族旅行が例年と違うのは、今年は息子のクラスメートの一家と一緒であるということだ。一緒に行こうと相談してそうしたわけではない。偶然であった。その上、行きの飛行機まで同じであるとは。びっくりした。どうも、私の家内が、「コタキナバルはいい、コタキナバルはいい」と息子のクラスメートの母親たちにいつも話していたらしい。

驚いたことに、実は、コタキナバルにこの春休みに行くのは、いま一緒になった一家と私たちだけではない。もう一家族もほぼ同じ時期にコタキナバルに行くのだ。もちろん息子のクラスメート一家が。ただし、その家族は成田発のクアラルンプール経由だということだ。だから、現地では3家族がいっしょになる。

2011年3月23日水曜日

震災の後の卒業式

きょうの午前、息子の通う小学校で卒業式が開かれた。息子は今年卒業する。

卒業式は講堂で開かれるはずであった。しかし3月11日の午後、息子たちが卒業式の練習をしている最中に例の地震に見舞われて講堂は一部損壊した。そのため、急遽、第二体育館で卒業式を行うことになった。

会場となった第二体育館のなかに入るのは、私は初めてであった。古い建物であった。講堂と比べると狭い。当然、暖房はない。しんしんと冷えた。前方には卒業生と来賓の座る椅子が、後方には父兄が座る椅子が並べられていた。その椅子の数から、在校生は今年の卒業式に参加しないことがわかった。

式の初めに進行係から簡単な説明があった。椅子を並べるのも在校生ではなく教職員が行ったという。「卒業おめでとう」と書かれた飾りも教職員が自ら作ったのだということであった。非常口の場所の説明も行われた。

卒業式は、3月11日の地震で犠牲となった方々への黙祷で始まった。参加者数も少なくしんみりとした卒業式となった。最後まで笑いはなかった。

卒業式が終わったあと、卒業生、父兄、それに担任の先生がクラスごとに教室に集まった。最初に、担任の先生が改めてひとりひとりに対して卒業証書を手渡した。その後、引き続き教室で担任の先生へのささやかな感謝の会を開いた。子供たちは担任の先生への贈り物をいくつか用意していた。自分たちの思い出の写真を保存したフォトビューアー、文集、花束。そして出てきたのが担任の先生の写真を真ん中に貼った額縁。その先生の写真のまわりに一人ひとりの子供たちが順番に自分の顔写真を貼った。その額縁は子供たちが用意した最後の贈り物であった。担任の先生はそれまで笑顔を絶やすことがなかった。しかし、教室の周囲を取り囲んでいた父兄からの歌が流れ出すと、急にハンカチで涙をぬぐい始めた。結局、先生は涙に耐えきれず、子供たちへの挨拶を短く切り上げた。父兄たちが歌ったのは山口百恵の「さよならの向こう側」であった。ただし、歌詞が一部変えられていた。

会が終わりに近づいた頃、廊下のスピーカーから学校中に「蛍の光」が流れ始めた。お別れ会終了の合図であった。ほんとうのお別れの時が近づいた。子供たちは、あらかじめ打ち合わせてあったのか、誰が声をかけるのでもなく自分たちの机と椅子を教室の片隅に移動し始めた。そして黒板の前に集合した。子供たち全員と先生との集合写真を撮るためであった。子供たちにとって最後の集合写真であった。私も、何回も何回もカメラのシャッターを押した。

子供たちは終始、笑顔であった。息子のクラスメートのほとんどは、そのまま附属中学校に進学する。だから卒業は友達との別れではないのだ。

しかし、少数ではあったが、附属中学校への進学を希望したのにもかかわらず他の中学校に出ざるを得ない子もきょう集まった教室のなかにいるはずであった。もちろん、自ら希望して他の中学校に進学する者もいたが。

解散した後、再度、全員が小学校の裏庭に集合した。そして子供たちは思い思いに担任の先生と並んで写真を撮ってもらった。息子はクラスメートと一緒のときには家では見ることができない表情をいつも見せる。とても優しい微笑みをたたえている。友達といっしょにいるのが嬉しくて仕方がないようだ。

まだ皆がわいわいと賑わっている最中に、私は家内と息子を連れてひっそりと裏門を出た。そして息子が1日も休まず通った小学校を後にした。

地震の影響を受けて何から何まで異例ずくめの卒業式になった。予定していた父兄と子供たちとの会食もなくなった。その後のボウリングも取りやめになった。

6年前の息子の入学式が開かれた日。その日、学校の裏庭の桜の花はすでに散りかけていた。その桜の木の下で息子の写真を撮った。当時、まだ息子は幼かった。背も低かった。制服も制帽もだぶだぶであった。きょう帰り際に裏門で家内と息子と3人で並んで撮ってもらった写真。いつの間にか息子は私よりも背が高くなっていた。

2011年3月21日月曜日

宇宙桜

 私の高校時代の3年後輩が歌を送ってきた。「地質館に集ひし人に見守られ宇宙桜は定植を待つ」という歌である。地元紙である高知新聞の歌壇に投稿したところ入選したという。彼がこの歌を詠んだきっかけも書かれていた。彼は連歌の世界ではかなり有名らしい。
 彼は、私が高校時代に寮生活を送っていた時期に1年間同室で過ごした。当時からとてもユニークな発想をする男であった。彼からの年賀状には、毎回、へんてこな歌が下手な字で書かれてくる。そして、今回のように時折、メールでも自慢の歌を送ってくる。
 彼はまだ独身。今後も結婚しそうにない。何年か前に彼に結婚しないのかと尋ねたことがあるが、生活力がないので結婚はあきらめていると彼は答えた。以来、私は彼の前で結婚話をするのは控えている。
 確かに、彼には生活力がない。彼が勤めていた小さな新聞社(従業員、わずか2名)は何年か前に潰れた。そして彼は失業した。生まれ故郷である高知に職を求め、彼は東京を去った。高知に帰って職を得ることはできたようだ。しかし彼が収入に結びつくことに自分の時間と精神力を費やしているようには見えない。相変わらず道楽三昧の生活のようだ。もちろん彼は歌を詠むことを道楽だと考えてはいまいが。連歌は彼にとってとても大切なものであるからだ。
 彼は社交的である。知人も多い。彼は彼なりに自分の人生を楽しみ、生き甲斐を感じている。そして周りの人たちも楽しませている。
 彼と話をすると、私はいつも高校時代の私に戻ってしまう。彼にはいつも命令口調で話すのだ。土佐弁丸出しで。「おい、○○、これをしちょいてや」と。連歌の世界で大御所となった彼にこのように横柄な口をきいている私はきっと無礼なのであろう。しかし若い時代にでき上がった上下関係は何十年経とうと崩せないものである。私が通った高校では、先輩は後輩よりも偉いのだ。後輩は先輩を「さん」付けで呼ぶ。先輩は後輩を呼び捨てる。

追記:
 このブログを読んだ彼から返事が来た。「会社は潰れていない。社長ひとりで頑張っている」ということであった。上に書いた「おい、○○、これをしちょいてや」というのは、私の父が所有する山林の管理をやってくれないかと彼に頼んだのだ。帰省のたびに私の父親は私を山に連れていくが、私は境界を覚えられない。いや、山林の場所すら覚えられない。「高知県の森林組合の総務部長と知り合いになっています。不在山主ツアーをしかけられますので、東京で仲間を募ってください???!」というのが彼からの返事である。

東北関東大震災 2

 東北関東大震災は天災なのであろうか、人災なのであろうか。人々が落ち着きを取り戻せば、きっと「今回の震災は人災である」という声が出てくるだろうと思う。特に東京電力は指弾されることであろう。何者かをスケープゴートにしなければ気が済まない輩が世の中には必ずいるものだ。
 しかし、生きることは危険と向かい合うことだ。私たちは常に死と向かいあいながら生きている。人類は自然というお釈迦様の手のひらの中で踊らされているにすぎないのではなかろうか。そもそも、これまで人類が築いてきた文明など自然の前には全く無力なのだ。今回の騒ぎが一段落したならば、いろいろな反省点が見つかるであろう。ただ、私は、どのように我々が知恵を働かせ努力しようとも、この種の犠牲者は今後もなくならないだろうと思う。原発をなくせば被害がなくなるという単純なものではないであろう。水力発電に頼ればダムの決壊を恐れなくてはならなくなる。

 下に掲載したのは昨日いただいたメールの続きである。私の方で文章の一部を削除するとともに手直しした。

 被災地の検死会場は修羅場でした。感情を殺して作業しました。昨日の朝、帰宅しましたが、軽いPTSD状態になり眠れず、お酒を飲みながら涙を流しました。しかし夜、家族と食事をしたあと一晩ぐっすり眠ると気持ちが落ち着いてきました。
 東京はガソリン不足になっていますが、被災地と対比するとなんと静かで平和なんだろうと感じます。被災地の人々のことを思うと心が痛みます。
 歯科医師会や日本歯科医学会がボランティアを募っていますが、現地にでかけるちことには危険を伴います。また大挙して押しかけても地元にはそのアテンドをする余裕もありません。
 私は、身元確認作業には自己完結で行動できる自衛隊の歯科医官を投入すべきだと考え、懇意にしている陸上自衛隊のある歯科医官と月曜日に相談したうえで歯科医師仲間にも相談しましたが、その提案は受け入れられませんでした。
 たまたま防衛政務官の神風衆議院議員が知り合いでしたので、自衛隊の歯科医官を投入するようお願いをしました。神風防衛政務官は動いてくださり、金曜日に防衛省内局より陸海空の3軍の歯科医官に命令が下されました。そして、約300名の歯科医官が身元確認作業に従事することになりました。宮城県警と陸上自衛隊の間では宮城県歯科医師会の江澤先生がご尽力して災害時の協力体制はできていますが、現在の自衛隊はシビリアンコントロールですから、防衛省内局の指示がなければ部隊を動かせません。21日に第1陣が出動します。これで、多くの歯科医の危険を回避し、また、地元の歯科医師会の先生方の手を煩わせることもなくなったと思っています。
 今は計画停電や患者さんの受診抑制もあり、火曜日からは町医者としての戦いをしなければなりません。先生のおっしゃるように日本人は高潔な民族であり、力をあわせて苦境から立ち直る力を持った国民であると思っています。

2011年3月20日日曜日

東北関東大震災 1

私がお世話になっている歯科医からメールが届いた。彼は地震の直後から震災救援活動に駆り出されていた。

以下、いただいたメールの文面の一部を修正して掲載する。

 諸先生方にはご心配をおかけしました。派遣中、先生方のご支援をいただきましたことを心から感謝いたします。精神的にめげそうな業務でしたが、先生方の御支援が心の支えになりました。私は昨日朝、宮城から戻りました。
 13日午後3時に、午後6時までに警察庁に集合せよとの連絡が入りました。警視庁第一機動隊のバスで緊急車両のみ走行が許されている東北道を通って山形入りし、宮城県で身元確認作業に従事しました。交代要員第2陣が金曜日深夜に来ましたので、土曜日朝にそのバスに乗り帰京しました。
 直下型地震ではありませんでしたから、仙台中心部や私が作業に従事した岩沼市でも建物の倒壊はほとんどありませんでした。ブロック塀すら倒れているのはわずかでした。古い家屋が倒壊している程度でした。
 ほとんどすべてが津波による被害でした。津波が町を破壊しました。津波の威力は想像を超え、海から6キロ地点までがれきを運び、田んぼを覆い尽くしていました。特に仙台より北のリアス式海岸の被害が甚大です。ビルの3階に避難していた方々すら津波にのみ込まれました。
 検死会場は修羅場でした。続々とご遺体が運び込まれてきます。自衛隊、警察、消防の方たちは不休で働いていました。体育館の中では御遺族が号泣する声が響いていました。我々はひたすら感情を殺すよう努力しながら作業を続けました。感情を殺さなければあまりの悲しみのために作業を続けられなくなるからです。
 まだ生存者のいる可能性があるため、重機を使ってのがれき撤去作業は行っていません。ニュージランドでの地震の際にはもっと早い時期に生存の可能性をあきらめて重機を投入しました。
 あまりにも死亡者が多いため、戦後初めて、身元確認が終わらなくても資料採取が終われば、ご遺体を自治体に回し、火葬に処すようにと警察庁から通達がありました。これは戦後初めての通達です。戦時下での対処と一緒です。
 すべてのことが終わるには2か月もしくはそれ以上かかるかもしれません。無事であった町でもライフラインは寸断され、市民は不安な不自由な暮らしをしています。警察ですら車両もガソリンも不足しています。どうしてもっと、政府が手だてをうって、大量の物資を東北地方に搬入できないのかと不思議に思いました。
 まだまだ冷たいがれきの下や海際には累々としたご遺体があります。40万人の被災者がいます。私の仲間はガイガーカウンターを身につけ原発近くの南相馬市で作業に従事しています。私のいた岩沼市も原発から60キロ地点ですから、通常の6倍程度の放射能濃度にはなっていたと思います。
 4日目にやっと温かいコーヒーを飲みました。毎日、あたりまえのように飲んでいたコーヒーすら飲むことができない状況でした。東京も不便な状況になっているようですが、自宅に戻り、宮城に比べればなんて平和で安全な町だろうという思いと一緒に作業に従事していた警察、消防、自衛隊、医師、歯科医師がきょうも作業を続けていると思うと心が痛みます。

2011年3月12日土曜日

「ちんば」と「つんぼ」

「ちんば」というのは土佐弁である。「びっこ」という意味である。現代流の表現を用いれば「脚が不自由」ということになる。私にとって「ちんば」という言葉は差別用語でもなんでもない。土佐弁の「ちんば」という言葉には身体の不自由な人を蔑むといった響きはない。

私の父方の祖父はちんばであった。私が物心ついたときには既にびっこを引きながら歩いていた。「びっこを引く」という表現は適切でない。ひどい0脚であったのだ。だから歩くと、左右に大きく状態が揺れた。たまにではあったが、曲がった膝は腫れた。そのたびに祖父は近所の医師に関節に溜まった水を抜いてもらっていた。しかし、祖父は自分がびっこであることを悲観しているように見えなかった。なぜ自分がちんばになったのかを話すこともないまま、祖父は1982年に88歳で亡くなった。

祖父がなぜちんばになったのかを知ったのは、祖父が亡くなってから30年も経った昨年の秋のことであった。父との雑談のなかで偶然その話が話題に上ったのだ。

祖父が保証人になっていた知人が急死し、我が家が多額の負債を抱えたことがあることは既に書いた。当時、近所の人たちは祖父が歩いているのを見ると遠ざかったという。金をせがまれるのではないかと恐れたらしい。祖父は不平ひとつ口にせず、ひたすら働き、誰に借金もすることもなくその多額の借金を返済した。ちんばになったのはその代償であった。

祖父が野良仕事から帰ってくるときにはいつも大きな荷を背負っていたそうである。遠くから見ても一目で祖父だとわかったらしい。大きくて重い荷物を毎日のように担いだために祖父の膝は大きく曲がったのだと父は私に語った。私が物心ついた頃、既に祖父は家督を私の父親に譲り、隠居の身分であった。祖父が比較的若くして隠居の身になったのは歪んだ膝のためであったという。

こんなことを私に語る父も既に78歳になった。あと1週間後には79歳になる。すっかり耳が遠くなった。「つんぼ」になった。私の祖父は「ちんば」、父は「つんぼ」である。私はやがて「盲(めくら)」になるのであろうか。

「ちんば」も「つんぼ」も「めくら」も不自由ではあるが恥ずべきことではない。少なくとも土佐弁では恥ずべき障害という響きはない。

昨今の言葉狩りは困ったものだ。