2007年12月22日土曜日

豊国廟

高台寺を訪れた翌日、豊国廟に行った。ここには豊臣秀吉が眠る。長い間、私は秀吉の墓はどこにあるのだろうと思っていた。私が秀吉の墓石の写真を初めて見たのは2年ほど前であった。本屋で歴史雑誌を立ち読みしている際に偶然その写真を見つけた。

「なんて小さいのだろう、なんて寂しいのだろう」というのが私の第一印象であった。その日以来、京都を訪れる機会があれば何としてでも秀吉の霊廟を見てみたいと思うようになった。

秀吉の墓は小高い山の頂上にあった。階段はちょうど500段。ぽつんと秀吉の墓石だけが建っていた。ただし、墓石は写真から想像していたよりもかなり大きかった。私が墓石のまわりをうろついているともう一人の訪問者が坂を登ってきた。しかしここを訪れる人は少ない。帰りに階段を下りる際にもうひとりの訪問客とすれちがっただけであった。

階段を下りきった山のすそ野には女子大がある。華やかである。その華やかな喧騒からほんの少ししか離れていない場所にひっそりと秀吉は眠っている。その女子大に通っている学生すら、すぐ側に秀吉の墓があるとは知らないのだろう。

地元の人に尋ねると、秀吉の霊廟である豊国廟の他に、豊国寺と豊国神社とがあるという。秀吉の死後、徳川家康は豊臣家の財力を削ぐために神社仏閣への機寄進を盛んに勧めた。豊国寺も豊臣家からの寄進によって建てられた。この豊国寺の釣鐘に「国家安康」の文字が刻まれていたことをめぐって豊臣家と徳川家との間でいざこざが生じた。「国家安康」のなかの「家」と「康」とが裂かれていると徳川家康が豊臣家に因縁をつけたのだ。まさに因縁そのものである。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

秀吉の有名な辞世の句である。

2007年11月25日日曜日

海に向かへば

私の書斎の書架には1冊の歌集が立っている。「海に向かへば」という表題がつけられている(出版:雁書館)。この歌集の作者と私とは高校時代の同期である。

私は高知県にある中高一貫教育の私学で6年間の学生生活を送った。この歌集の作者である「大崎瀬都」という女性は高校から編入してきた。だから彼女と一緒に学生生活を送ったのは3年間にすぎない。しかも彼女は文科系のクラスに進んだ。同じクラスになることはなかった。そんなこともあって学生時代に彼女と話をしたことは一度もなかった。

彼女は小柄で物静かであった。そしていつもうつむき加減に歩いていた。決して目立つ学生ではなかった。しかし私は、廊下などで彼女とすれ違うたびにはっとして彼女の方に目を向けた。

彼女の歌は当時、高校生向けの月刊誌に毎月のように入選していた。それらの歌を目にするたびに私は彼女のみずみずしい感性に驚嘆した。校舎の中の階段の昇り降りといったきわめて平凡な行動にすら彼女は歌のなかで私に大きな感動をもたらしてくれた。

「海に向かへば」はそんな彼女が数年前に出版した歌集である。この歌集の中の1章のタイトルでもある。この章のなかに収められた歌を読めば「海」とは土佐湾に広がる太平洋であることがわかる。この章の中の作品をいくつか紹介したい。


故郷の海も真近しベルが鳴りここよりは「土佐くろしお鉄道」

故郷へ向ふ列車の夜の窓に一歳(ひととせ)老いし顔を映せり

降り立ちし爪の先よりほぐれゆくわれをつつみて故郷のあり

故郷の川に下りて手を洗ふわれの儀式を知る人のなし

列車動けば目をそらしたり見送りの母は涙を見せるかも知れず

気の遠くなるほど長き歳月と言ふにあたらず海に向かへば

2007年11月19日月曜日

高台寺

先週の水曜日から土曜日まで大阪での学会にでかけた。その合間をぬって京都に出かけた。

金曜日の午後、まず高台寺を訪れた。ここは豊臣秀吉の妻であった北の政所(寧々)が夫の霊を弔うために建てた寺である。秀吉の没後、彼女は残りの人生をこの寺で送った。彼女の墓もこの寺の中にある。

関ヶ原の戦いの際、彼女は徳川家康側に加担した。子飼いの福島正則や加藤清正が徳川方(東軍)についた理由のひとつは彼女からの進言があったからであろうと私は推測している。もちろん、朝鮮出兵時、石田三成が秀吉に告げた数々の讒言に対する恨みもあったであろうが。西軍方に陣取っていた小早川秀秋がなかなか戦に加わらず、途中から突然寝返って東軍に加勢したのも北の政所の意向を汲んだものであったのではなかろうか。

(皮肉なことに、東軍に加担した彼らの家は徳川幕府開設から程なく途絶えることになる。加藤清正の死は暗殺によるものであったのかもしれない。)

なぜ北の政所は秀吉の子である秀頼方につかなかったのであろうか。

客観的に歴史を振り返れば、秀吉亡き後、日本統治能力があるのは徳川家康以外にはなかった。したがって北の政所が東軍方につこうが西軍方につこうが歴史に大きな変化はなかったのかもしれない。北の政所が東軍に加勢した理由のひとつは、豊臣家が存続していくためには家康に対して臣の礼をとる以外にないと冷静に判断したためなのかもしれない。彼女が家康方につくことによって豊臣家お取りつぶしを免れようとしたと考えることもできないことはない。

しかし私は、北の政所を動かした最も大きな原動力は嫉妬であったのではなかろうかと思っている。秀頼の母つまり茶々に対する嫉妬である。秀吉と寧々との間には子がなかった。あの時代、秀頼の実の母は茶々であっても少なくとも形式上の母は寧々(北の政所)である。もし茶々が秀頼の実の母であったとしてももう少し慎みを持って行動していれば北の政所の誇りを傷つけることもなかったであろう。

もちろん茶々の勝手な振る舞いを許した秀吉にも大きな責任がある。

秀頼が生まれる前、秀吉には国松という子があった。しかし国松は早世した。その悲しみから逃れるために秀吉は朝鮮出兵を決意したという説もある。だから、国松亡き後、やっと生まれた秀頼を秀吉が溺愛し、茶々のわがままをなんでも許したとしても理解できないこともない。

ただ、ひとつ疑問がある。果たして国松も秀頼も果たして秀吉の子であったのであろうか。そうではなかったという説を唱える歴史学者も少なくない。秀吉自身は我が子と固く信じていたであろうが。

秀吉は実に多くの側室を持った。しかし茶々以外は誰も子を産んでいない。秀吉は種なしであったという説が消えない根拠となっている。

ひょっとしたら北の政所は、秀頼が秀吉の子でないことを薄々知っていたのかもしれない。

当然、家康の政治力も素晴らしかった。北の政所を味方につけるために家康は彼女に対して心から礼を尽くした。女性である彼女の目に、石田三成と比較して家康がどれほど立派に映ったかは容易に想像できる。

家康が天下を取った後も家康は北の政所に対して生涯手厚い援助を続けた。

北の政所の遺体は高台寺の霊屋という建物の中に安置されている。この小さな建物を外からのぞき込みながら、私はこの小さな、ほんとうに小さな墓の主が、日本の歴史に大きな影響を与えたことを思い、人間の情念というものの怖さを改めて感じた。

2007年11月10日土曜日

友人の次男の死とピアノリサイタル

4日前の午後5時過ぎに私の携帯電話が鳴った。友人からの電話であった。私の職場に出かけてきている。これから私の部屋を訪ねてもいいかという内容であった。

その時、私はちょうど外出していた。その旨、彼に告げた。彼の電話の用件は察しがついた。

彼はちょうど2週間ほど前に次男を亡くした。数日後にそのことを私は職場の廊下で彼の部下から聞かされた。私は茫然となった。脳腫瘍であったという。昨年の夏に発病し余命いくばくもないことがすぐにわかったが、職場で彼はそのことを誰にも話さなかったとその部下は私に告げた。

4日前の電話で彼と数分間話したときも彼はそのことを私に語った。「職場で混乱が生じるといけないと思ったので、この1年間、ずっと誰にもしゃべらずに過ごしてきた。」彼はそう言った。この言葉から、彼がこの1年間耐えてきた孤独がひしひしと伝わってきた。

彼は、「息子が死ぬ1週間前まで一緒に食事にでかけたりできたから・・・」とも言った。この1年間、彼は家族と一緒に過ごす時間をできるかぎりとってきたのだろうなと私は推測した。

彼は電話の向こうで涙ぐんでいた。私も涙を流した。

彼は文字通りの会社人間であった。ワーカホリックであった。彼は、会うたびに、彼の仕事と会社に対する熱い情熱を熱く私に語った。「出世したい。」この言葉が何度彼の口から出てきたことか・・・。そのたびに私は、どうしてそう思うのかと尋ねた。彼の答えはいつも同じであった。

よくもわるくも彼は「男」であった。「男」になりきれる彼を私は心から尊敬していた。

しかし彼が「男」になりきれていたのは、彼に温かい家庭があってこそのことであった。この前提が崩された今、彼はこれからもずっと会社人間でい続けることができるのであろうか。

電話を切る間際に、彼は「49日の法要が終わったら、会って愚痴を聞いてよ」と言った。「愚痴」とは「後悔」のことだろうと私はとっさに思った。私は、「もちろん。泊まりがけで出かけていくよ」と答えた。

死は永遠の別れであり、絶対的な拒絶である。

彼との電話を切るとすぐ、私は地下鉄に飛び乗り、上野に向かった。その日の午後7時から東京文化會舘大ホールで行われる関孝弘氏のピアノリサイタルに招待されていたからだ。関氏のそのピアノリサイタルには昨年も同じ知人が招待してくれた。その知人は関氏の姪にあたる。

私には音楽の素養はないが、関氏は基本にとても忠実な演奏をされる方なのではないかと感じている。演奏には技術を超えた「人」が表れる。関氏の奏でる端正なメロディーは関氏の歩んできた人生そして関氏の人柄そのものなのであろうと思う。

演奏の最中、私はずっと友人のことを考えていた。ピアノ演奏を聴きながら、きっとこの音楽は彼の耳にも届いているはずだとなぜだかわからないが私はそう感じていた。関氏の演奏する曲のひとつひとつがその日の私には鎮魂歌として胸に響いた。

彼の次男の死を悲しんでいるのは彼と彼の家族ばかりではない。しかしこの悲しみを乗り越える勇気を彼に与えてくれるのは時間以外にない。

2007年10月11日木曜日

子の誕生

10月9日、義兄夫婦に女児が誕生した。結婚してから10年近く。二人にとって待ちに待った子の誕生であった。

今朝、生まれたばかりのその児の写真を家内が私に見せた。その写真を見た瞬間、私は、自分の息子が生まれた翌日に撮影した写真を思い出した。同じように産着にくるまれている写真であった。しかし私の息子はその写真では大声で泣き叫んでいた。

「治豊が生まれたばかりのときよりもこの児の顔立ちの方がととのっているんじゃない?」などと実兄の子の誕生を嬉しそうに語る家内の言葉にもほとんど返事を返さず、私は自分の息子が生まれたときの思い出に飲み込まれていった。

私の息子が生まれたとき、私はまずホッとした。息子が五体満足で生まれたからではない。高齢出産であったにもかかわらず比較的安産であったからでもない。妻を母にするという夫としての義務をやっと果たせたという安堵感であった。父親になった喜びは世間でいわれるほど大きいものではなかったように思う。というよりも父親になったという実感がなかった。義理の姉はいま、「自分の子がこんなにも可愛いものだとは思わなかった」と言っているという。母の正直な気持ちであろう。

男である私は、自分の息子が生まれた頃よりも今の方が息子をはるかに可愛いと感じる。文字通り、自分の命よりも大切である。

繰り返し言われるように男は子を持ってもすぐに父親にはなれない。男が父親としてのよろこびを感じられるようになるまでには女性には想像もできないような長い時間を要する。

家内が私に見せたもう一枚の写真には、生まれたばかりの我が子の後ろでしゃがみながら満面の笑みを浮かべている義兄が写っていた。私も義兄のその笑顔を見て、心のなかで祝福した。私の息子が生まれたときよりもずっと嬉しかった。それは、私が10年近く父親としての体験を積んできたためであろう。幼い子が殺されたといったニュースを耳にするたびにいまの私は自然と涙が浮かぶ。

しかし、それと同時に、その写真をじっと見つめながら、今の義兄も、私に息子が生まれた頃のような、父親という実感にはまだ十分浸れないてはいないのではなかろうかという思いも私は抱いた。

人には想像力がある。他人の不幸もある程度までは自分の悲しみとして感じることができる。逆に他人の喜びを自分自身の喜びとしていっしょに喜ぶこともできる。しかし実際にその立場に自分の身をおかなければほんとうに理解できないこともある。

義兄は大の子供好きである。これからはもっともっと子供が好きになることであろう。新しい生命の誕生は肉親にとって人生のなかで最も嬉しいことである。

2007年10月1日月曜日

ピアノリサイタル

去る8月、私に一通の封書が届いた。差出人欄には「川添亜希」と書かれてあった。封書の中には1枚のリサイタル招待のチケットと添え書きが入っていた。

この女性に私は1年ほど前、ある仕事の関係で一度だけ面談したことがあった。

どちらかといえばボーイッシュ。両脚を開いて座った姿は身振りもまるで男性のようであった。しかし私がこのように感じたのは彼女の動作からだけではなかった。私の前に座った彼女は全身からエネルギーをたぎらせていた。私は彼女に対して興味をいだいた。

しかし彼女はピアニスト。しかもこれから全国をまわって、いや世界を相手に活発に演奏活動をやっていこうとしてる・・・。残念ではあったが、私は彼女に仕事を依頼するのを断念した。彼女はピアノ一本で頑張るのがいいと判断した。そしてその場でその旨を彼女に伝えた。彼女は納得した。

別れ際に、もし演奏会を開くことがあったらチケットを送ってくださいと私は彼女に一言告げた。彼女は笑顔でかるく頷いた。以来、彼女のことは、ずっと私の頭の片隅にあった。しかし本当に彼女の演奏会に出向くことがあろうとは思っていなかった。

さて、9月27日、演奏会当日。私は開演15分前に会場に到着した。会場にはすでに多くの聴衆が集まり開演を待っていた。私は聴衆席のほぼ真ん中に座った。舞台の中心には1台のピアノが据えられていた。彼女が演壇に姿を現すまでの15分ほどの間、私はじっとこの1年間を振り返っていた。

開演時刻となり聴衆席の電灯は消され、舞台にスポットライトがあたった。会場がシーンと静まり返ると同時に、大きく腕を振りながら大股で舞台に姿を現したのはまぎれもなく1年前に顔を合わせた彼女であった。

彼女は一礼した後、無言のままピアノの前に座り、直ちに演奏を始めた。バッハであった。彼女の演奏が始まるとほぼ同時に、私は「えっ」という印象を抱いた。彼女の奏でるピアノの音色があまりに線の太いものであったからだ。「線が太い音」などという表現はわかりづらいかもしれない。しかし音楽の素養のない私にはこのような表現しかできない。

私は時々、コンサートにでかける。音楽に耳を傾けている時間だけは日常の些事を忘れることができる。

しかしこれまで、演奏には上手下手しかないものと漠然と思っていた。演奏には個性があるのだということを感じたのは今回が初めてであった。

もちろん私が彼女の演奏に「個性」を感じたのは私が彼女を知っていたからなのかもしれない。どの演奏家の演奏にも個性があるのであろう。

バッハの曲が2つ続いた後はハルトマンのピアノソナタであった。「1945年4月27日」という何ともいかめしい曲名がプログラムには書かれていた。私はこの曲を知らなかった。「作曲者であるハルトマンは、1945年4月27日と28日、自分の家の前を、何千人ものダッハウ強制収容所の囚人たちが、いつ果てるともしれない列をなし、足をひきずって死の行進をしていくさまを目撃した」と、この曲の説明の中の一節に書かれていた。

ドイツのミュンヘンに留学している時期、私はこの収容所を3回訪れたことがある。最初は私と家内の2人で、2度目は日本からミュンヘンを訪れた職場の同僚と、3回目は家内の家族とであった。最初にダッハウを訪れたとき、私はこの収容所跡が実に清潔に保存されているのに驚かされた。とともに、めまいと吐き気に見舞われた。死んでいった多くのユダヤ人たちの霊がいまもこの収容所の中をさまよっているためであろうと私は勝手に推測した。

彼女の奏でる旋律を聴きながら、私はいつしかこのダッハウ収容所を訪れたとき受けたショックを思い出し、沈欝な気分に捕らわれていた。

現代音楽にはおそらく最新の音楽理論が取り入れられているのであろう。演奏も難しいのであろう。私はおそらくこの曲は彼女が自分のものにしようと全力を込めて取り組んだものなのだろうと感じた。「挑戦」という名にふさわしい、演奏の難しい曲であることは素人の私にもわかった。

15分の休憩の後はシューマンの「謝肉祭」であった。この曲は比較的リラックスしながら聴くことができた。知っている曲であることもあったのかもしれない。美しいしかし力強い音色に耳を傾けながら私は彼女の指の動きをじっと見つめた。

演奏が終ると、割れんばかりの拍手が会場に鳴り響いた。この拍手は聴衆の心からの喜びを表現する拍手であった。彼女を讃える拍手であった。

コンサート会場では、アンコールの拍手は、儀式化・儀礼化されているといえなくもない。手を叩くのが儀礼だから拍手をする。このようなことも少なくない。また1曲でも多く曲を聴かせてもらって得をしようという打算があることもある。

しかし、今回、彼女に対する拍手は、まさに彼女の演奏を讃える聴衆の心からの喜びを表現するものであった。聴衆は誰もが満面の笑みを浮かべていた。私も手を叩かずにはいられなかった。

結局、アンコールに応えて彼女は3曲弾いてくれた。疲れているだろうにと私は彼女がかわいそうになった。アンコール曲は比較的ポピュラーな曲であったが、最後まで気を抜くことなく本格的な演奏を聴かせてもらった。

会場を去るとき、受付に山のような花束が届けられているのを見た。

その晩、家族や仲間に囲まれ彼女は実においしい酒を飲み、それまで払ってきた努力に自らを褒め称えたことであろう。私にとって今回のピアノリサイタルは、音楽に奏者の個性を感じた初めての演奏会であった。

2007年8月5日日曜日

同窓会

毎年8月の第一土曜日に私の卒業した高校の同窓会総会と全員懇親会が開かれる。今年は私の学年が幹事役を務めた。親友が幹事と代表幹事を務めていたので私も応援のために出席した。夏に帰郷するのは10数年ぶりのことであった。

私の母校が発足したのはちょうど私が生まれた年である。だから今年、50周年となる。私は16期生。私の在学中はまだ第一期の卒業生もまだ30歳そこそこであった。しかし、もう第一期生は66歳になる。

高知市長も私の母校の卒業生になっていた。高知新聞社の社長も。そして私が在職する慶應大学医学部の元教授であり、現在、日本看護協会会長を務めている久常節子氏も私の母校の先輩であることを知った。(私の母校は男女共学である。男女ほぼ同数。)今の高知県を支えている多くの人材が私の母校出身者であることを同窓会会場で聞かされてうれしい限りであった。

全員懇親会のあと同期である16期生だけの同窓会が開かれた。69名が集まった。2年前の正月には120名集まったので少し寂しくはあったが、お盆の直前ということを考えれば、よくこれだけ沢山の同期生が集まったものだともいえた。

16期生全員の同窓会がお開きになった後、クラスメートだけでの同窓会となった。高知に住むクラスメートが行きつけのラウンジに私たちを案内した。多くのホステスに生まれて初めて囲まれ、クラスメートの女性たちは大喜び。なんとその店のホステスの一人に母校の後輩がいた。和服がよく似合う女性であった。彼女は私たちの10期後輩ということであったのでもう若くはない。しかしまだ30歳前後にみえた。高校を卒業と同時に夜の仕事についたという。私の母校の卒業生はほぼ全員が大学に進学する。だから大学に進学しなかったというだけでも驚いたが、卒業と同時にこの道に入ったというのも驚きであった。

四次会はバーで。ここもクラスメートの行きつけの店であった。静かで清潔な店であった。そこではスナックとバーとの違いは何かといった基本的なことも知らない私たちを相手に、クラスメートが一所懸命説明してくれた。カクテルの話も聞かせてくれた。彼は地酒の醸造会社の役員を務めている。学生時代からまじめ一本の男である。カクテルの話もほんとうに一所懸命、夢中になって話してくれた。

最初に座ったテーブル席から全員が途中でカウンター席に移動、彼の勧めに従って「バー」の雰囲気をゆっくりと楽しませてもらうことができた。

解散したのは午前1時過ぎであった。同窓会総会の開始時刻から既に9時間以上経過していた。ふだんほとんどアルコールを口にしない私も昨日ばかりはかなり飲んでしまった。ホテルに戻った後、心地よい疲労感に襲われすぐ眠りに落ちた。

2007年7月7日土曜日

1977年7月7日

午前0時を過ぎた。2007年7月7日になった。7が3つ並ぶ。きょう結婚届を出そうとしているカップルが多いと聞いた。

ちょうど30年前のきょう、つまり1977年7月7日、私は大学2年生であった。雨が朝から一日中降ったことを憶えている。この日の朝、クラスメートの一人から、その日の夜開かれるパーティに来ないかと誘われた。7が4つ並ぶ日を記念してフェリス女子学院の学生がパーティを開催するという。欠員ができたので来ないかということであった。

パーティは横浜の元町で開かれた。私が会場に到着したときには既に多くの男女が集まっていた。女性はすべてフェリス女子学院の学生であった。男性は半分が他大学の医学部の学生であった。彼らは私たちよりも2〜3学年上であると聞いた。

パーティでは「牧子さん」と呼ばれていたフェリスの女子学生が進行役を務めた。今いう「コンパ」でも「合コン」でもなかった。文字通り、7が4つ並ぶ日を祝うパーティであった。ある店のワンフロアーを借り切り、部屋の周囲に椅子が並べられているだけの簡素な部屋の中で会は進行した。田舎者である私はその会場の華やかな雰囲気にのまれてパーティが終わるまでずっと片隅でじっとしていたに違いない。そのパーティがどのように進められたのかとんと思い出せない。

一次会が終わり、二次会の会場に移動することになった。二次会の場所は渋谷であった。東横線に乗って移動した。その電車の中で隣同士になったのが「みどりちゃん」と呼ばれていた女性であった。彼女は群馬県の前橋市から出てきたということであった。人懐っこい女性であった。彼女を挟んで隣の隣には他の大学の医学部生が座った。彼は私よりもずいぶん年上に見えた。彼女と私とはその後数年間この医学生にずいぶんと可愛がってもらった。

「みどりちゃん」とはその後、グループでよく会うようになった。彼女は同じフェリス女子学院の同級生と3人で一軒家を借りきって住んでいた。この家には誰も使っていない部屋が一部屋あった。私はアルバイトの帰りにこの家に立ち寄り、何人かの友人といっしょにこの部屋で何度か寝泊まりさせてもらった。布団がなかったので、いつも炬燵の中に足を入れて雑魚寝であった。この部屋にはテレビが置いてあり、全員揃ってテレビを観ることもよくあった。小さな炬燵を囲んで膝をぶつけながら食事をし酒を酌み交わしながら夜中まで騒ぐことも珍しくなかった。

程なく私は専門課程に進みキャンパスが彼女たちの家から遠くなった。自ずと彼女たちからは縁遠くなった。しかし、その後、この家には私の友人が連れてきた男連中がたくさん出入りするようになったようだ。なんと私のクラスメートの一人は、この部屋で一ヶ月間ずっと寝泊まりしながら大学に通っていたということをずっとあとになって彼自身の口から聞かされた。

彼女たちが大学を卒業するまでの間、彼女たちと彼女たちの家に出入りしてくる大学生たちの間ではさまざまな人間模様が繰り返されたようだ。恋愛関係になったカップルもあったと聞いた。しかし、私だけはそのような世界からは無縁であった。

この「みどりちゃん」の結婚式にはこれらの仲間が集った。そしてその数年後の私の結婚披露宴にも彼らは集まってくれた。「みどりちゃん」は今、埼玉県に住む。3児の母だ。たまに電話で話すことがあるが、声もしゃべり方も30年前と全く変わらない。当時、「みどりちゃん」を介して知り合った「のりこさん」という女性ともまだ親交がある。彼女は私よりも1歳年上である。知りあった当時、彼女は食道がんでお父様を亡くしたばかりであった。いつもどこかに暗さを持つ女性であった。彼女の持つこの暗さは今も変らない。なぜか私は彼女よりもむしろ彼女のお母様から慕われた。「みどりちゃん」と「のりこさん」はこの30年間、実に対照的な人生を歩んできた。いま大学時代のことを振り返ると、ふたりがその後担うべき運命は既にその時期から定められていたようにも感じる。

二人は今も私にとってかけがえのない異性の友人である。1977年7月7日。30年も前のことである。

2007年6月7日木曜日

犬山城



5月29日から6月1日まで名古屋に行った。学会出席が目的であった。学会の合間を縫って6月1日の午前に犬山城を訪れた。名古屋駅から名鉄とタクシーを使って約35分。一人旅であった。

犬山城は織田信長の叔父にあたる小田信康が築いた城だ。1537年に築かれたという。

犬山城の天守閣に登ると南方に名古屋の街が見える。その手前に小高い山がある。犬山城の職員に尋ねるとその山の頂上に小牧城があるという。小牧といえば家康と秀吉が戦った場所だ。秀吉は犬山城に陣取った。小牧城には家康が陣を敷いた。

北西には岐阜城がある。残念ながら肉眼で岐阜城を確かめることはできなかった。岐阜条は10年ほど前に訪れた。やはり学会の期間中であった。「岐阜」という地名は信長が命名した。

犬山城から見渡す濃尾平野は、長かった戦国時代に終止符を打った数々の英雄を産んだ地だ。人間の情熱と欲望が煮えたぎった戦国の世の中心舞台となったこの平野を眺めながら、私はまたしても芭蕉の一句を思い浮かべていた。

夏草や
つわものどもが夢のあと

2007年6月5日火曜日

湯川ふるさと公園




中軽井沢を湯川という小さな川が流れている。この湯川を挟むように広大な緑が広がる。ここが湯川ふるさと公園だ。中軽井沢はよく訪れるが、こんな身近な場所にこれほどまでに広い公園があったとは・・・。全く気づかなかった。

川縁には樹木が生い茂っている。小川のせせらぎと小鳥のさえずりを聞きながら川縁を歩いていると釣り人に出会った。岩魚と山女を釣っているのだという。川を横切って向こう岸に行こうとしたが橋がない。結局、森を抜けて新幹線の線路近くまで出てやっと橋を渡ることができた。橋を渡るとたくさんの子供たちが滑り台やブランコで遊んでいる姿が見えた。

私たちは息子を遊ばせるために、これまで軽井沢でいろいろの公園を訪れた。しかしこれほどまでに広く美しい公園は他にない。旧軽井沢からも近い。大発見であった。

息子が遊んでいる間、私はひとりで川縁に降りていった。降りていく途中、イタドリを見つけた。そのイタドリを見つけた瞬間、私の頭の中には幼なかりし時代の思い出が次から次へと湧いてきた。川縁を散歩しながら、いつしか私は幼年時代を過ごした郷里のことばかり考えていた。

ワラビ、ゼンマイ。春になると、私は山菜を採るために学校から帰ると毎日のように裏山に駆け登った。少し生臭いような新緑の香りが鼻をついた。6月になると山桃採りにも行った。秋になると、アケビ採りと山芋掘り。アケビはほとんど種ばかりである。その種は噛むと苦い。しかしべとっとしたゼリー状の部分はわずかに甘みを持ち独特の香りを放つ。掘ってきた山芋は大根おろしで擦ってとろろ状にし、醤油をかけて生のままで食べる。手や口のまわりがかゆくなるが、まだ若かった私にはそんなことは一向に気にならなかった。冬は裏山にワナをしかけて鳥を捕まえる。学校から帰ると鳥が捕まっていないかどうかを見に行く。翼をばたつかせて逃げようともがいている鳥をぐっと両手でおさえながら自宅に帰ると、祖父がその鳥の名を教えてくれた。ツグミやヒヨが捕まることが多かった。メジロが捕まったこともあった。祖父が料ってくれた鳥の丸焼きに私は無心になってかぶりついた。焼かれた鳥がかわいそうにも思えたが、こおばしく実にうまかった。

私は根っからの野生児であった。そして今も、多分。

オナーズヒル軽井沢 その2

2週続けて週末を軽井沢で過ごした。オナーズヒル軽井沢に来るのも2週続けてとなった。

オナーズヒル軽井沢は国道18号線の追分の信号から南に車で10分弱下ったところにある。ここにあるレストランからは浅間山が見渡せる。今週はあいにくもやがかかっていて浅間山はぼんやりと見えるだけであったが、先週の日曜日には頂上までくっきり見えた。レストランの中は静かだ。訪れる客も少ない。料理も実においしい。店員の接客態度も気持ちがいい。

昼食を済ませた後、山道の散歩を楽しんだ。森の中はひんやりと寒い。鳥のさえずりを聞きながら曲がりくねった狭い山道を歩く。ところどころに設置された標識だけが頼りだ。

一汗かいたところで温泉につかる。ここには大きくはないが清潔な温泉もある。以前は温泉が湧いていたが、いまは小瀬温泉からのもらい湯であるという。喧噪から離れた山の奥でゆったりと昼食をとり散歩を楽しんだ後の入浴は最高である。

ここには宿泊施設もある。4部屋しかないが。いつかここに泊まってみたいと思っている。

2007年5月28日月曜日

ホナーズヒル軽井沢




国道18号線の追分の信号から車で10分足らず下ったところに「オナーズヒル軽井沢」という小さな温泉旅館がある。ここにはレストランもあり、浅間山を遠くに眺めながら食事をとることもできる。私たちがこの施設を訪れるのは昨日が初めてであった。

宿泊のための部屋はわずかに4部屋。しかし建物は新しく清潔で、職員の応対もいい。私たちはここで昼食をとり、30分ほど山歩きをした後、温泉につかった。ゆっくりと心身の疲れを癒すことができた。おそらくこれからはたびたびこの施設を訪れることになろう。

2007年5月25日金曜日

息子が生まれた日

今朝6時過ぎに鳴った電話の音で目が覚めた。きょう予定されていた息子の遠足が天候が悪いために中止になったという父兄からの連絡であった。まだ雨は降っていなかった。電話を切った後、家内はぼやいた。「ゆうべ遅くまで折角準備を整えたのに・・・。」しかし、その30分後に雨が降り始めた。間もなく本格的な雨になった。

息子が生まれた日もきょうのようにはっきりしない天候であった。もう9年前になる。その日の朝5時過ぎに私は家内のささやき声で起こされた。これから病院に一人で行ってくるという。家内はその数日前から入院の支度を整えていた。

私はすぐに起き上がり、急いで身支度をした。そしてタクシーを拾うために家の外に飛び出した。当時、私たちが住んでいた家の向いは病院であった。したがって常時タクシーが停っていた。しかしそのときに限っては1台のタクシーも停っていなかった。午前5過ぎという時刻もタクシーを最も拾いにくい時間帯であった。またその日はちょうど祭日でもあった。私は走って大通りまで出た。しかしタクシーがなかなか来ない。

やっとタクシーを拾ってそのタクシーに飛び乗り、自宅の前にタクシーを着けたのは、15分ほど後であった。

そのタクシーの運転手は病院までの道順を知らなかった。地方育ちの私も都内の道路はほとんどわからなかった。お腹をかかえながら家内がナビゲートしていった。

病院に着いたのはちょうど午前7時であった。病院の救急外来は静かであった。産科の当直医がほどなく診察をしてくれ、すぐに入院ということになった。

案内された病室はいつ建てられたのかもわからない古い病棟の4階にあった。部屋に入ると湿気のためにむっとした。エアコンをつけようとしたが壊れていた。家内はすぐに陣痛室に移動した。残された私は蒸し暑く狭い病室のなかでじっと時間が経つのを待った。外は曇り空であった。時折、霧雨が降った。

午後4時頃であっただろうか。家内が分娩室に移ったとの連絡があった。男である私には出産に対する現実的な感覚が全くなかった。その報告を聞くと間もなく眠りに落ちた。

どれほどの時間、眠っていただろうか。電話の鳴る音で目が覚めた。分娩室からの電話であった。子供が生まれたという。私は急いで5階にある分娩室に駆け上がった。

分娩台にはまだ家内が横たわっていた。しかし苦渋の表情はなかった。傍にいた助産婦がタオルケットにくるんだ生まれたばかりの赤子を私に手渡した。男の子であった。私はぎこちない手つきで息子を受け取った。息子は私の手に移ると泣くことなく、いったいどこにいるのだろうという表情を浮かべてキョロッ、キョロッと左右に目を動かせた。「目と目が離れたずいぶん垂れ目の赤子だなあ」というのが私の第一印象であった。

2007年5月21日月曜日

ちんどん屋




私の自宅の近くにある巣鴨地蔵通商店街は、週末は大勢の人手で賑わっている。きのうの日曜日、この商店街で巣鴨商人祭りが開かれていた。天気がよかったので息子と一緒に祭りに出かけた。

息子の目的はスタンプラリーであった。商店街の7か所に設置された中継所でスタンプをもらうとともにクジを引く。当たりクジを引くとそれぞれの中継所で記念品がもらえる。スタンプが7つになると最も高価な記念品が用意されているクジを引くことができる。

商店街を息子とゆっくり歩いていると前方から奇妙な音楽が流れてきた。太鼓とトランペットの音色が聞こえる。ちんどん屋であった。彼らは巣鴨商人祭りの宣伝用のプラカードを胸から下げていた。

この辺り一帯は戦災を免れたのであろうか。古い街並みが今も残る。まだ街全体が生きている。人情もある。車の通りの激しい白山通りのすぐ裏で日本の伝統が生き続けている。

2007年5月17日木曜日

いい言葉

1週間ほど前、大学時代のクラスメートに電話をかけた。ちょっと頼みたい用件があったのだ。大学では彼女と私とは出席番号が近いこともあってグループで国家試験の勉強を一緒にしたこともあった。

その日は用件だけ告げてすぐに電話を切るつもりであった。しかし思わず話がはずみ長電話となった。彼女とは数年前からたまに話すことがあったが、近況を簡単に告げる程度であった。

私は、大学卒業後、彼女がどのような人生を歩んできたのかほとんど知らなかった。その日、彼女が経験してきたいくつかの挫折を聞かされて驚いた。人生は過酷だ。男女を問わず、次から次へと新たな試練が襲ってくる。

その日、彼女の話し方はいつになく穏やかであった。

電話を切る直前、彼女は次のようなフレーズを私に告げ、「いい言葉でしょう」と笑った。

"When one door closes, the door on the other side opens."

彼女は海外留学のために旅立つ飛行機の中でこのフレーズを目にしたという。

2007年5月16日水曜日

あきみ

私には「あきみ」という名の従兄がいた。私はこの従兄を「あきちゃん」と呼んでいた。「あきみ」と漢字でどのように書くのかは知らないままで終わった。この従兄は10年ほど前、膀胱ガンで亡くなった。

この従兄の父つまり私の伯父は、終戦の1か月前にフィリピンのレイテ島で戦死した。この伯父が出征したとき、この従兄は生後2週間にしかならなかったという。従兄には自分の父親の思い出は全くなかった。母は再婚し父が異なる妹がひとり生まれた。しかしその義理の父親もすぐに病死した。

この従兄は中学校を卒業すると同時に大阪に働きに出た。生まれ故郷に帰ってきたのは30歳近くになってからであった。そして結婚した。

いつだったか、この従兄が自分の妻と3人の娘を連れて私の実家を訪ねてきたことがある。そのとき5分ほどであったが立ち話をした。その際、その従兄は私に向かって次のようなことを言った。

「わしは子供のころひとりでさびしかったけんのう。ほんで子供を3人つくった。貧乏じゃけ3人の娘には何もしちゃれん。けんど親の愛情は子供に伝わるけんのう。」

こう話しながら、この従兄は自分の幼かりし昔を思い出したようであった。空を見やりながら心なしか涙ぐんでいるように見えた。

戦死した伯父の墓はわが家の墓地にある。この従兄は、私の家から10数キロ離れた、別の墓地に埋葬された。従兄の娘たちは県外に嫁いで皆ばらばらになった。従兄の母親はまだ存命。しかし従兄の母親が死ねば伯父の死を知る人は私の父親だけになる。私の父親の死とともに戦死した伯父の記憶はこの世から消え去る。永遠に。

2007年5月13日日曜日

グミ


グミのことを私の郷里では「しゃしゃぶ」とよぶ。私が高校を卒業する頃まで実家の庭先にグミの木が植えられていた。毎年、梅雨が明けた頃に真っ赤な実をつける。少し渋味はあったが、甘くて美味しかった。

私が高校を卒業し東京に出てきてからも夏が来るとしゃしゃぶのことをよく思い出した。しかしつい数年前まで東京でしゃしゃぶを見ることはなかった。何度か「しゃしゃぶを食べたい」と人に話したことはあったが、だれもしゃしゃぶを知る人はなかった。

私が東京でしゃしゃぶを見つけたのは偶然のことであった。職場の敷地のなかにある花屋さんで真っ赤な実をつけた鉢植えのしゃしゃぶが売られているのを通りすがりに見つけたのだ。その鉢には「グミ」という札がつけられていた。そのとき初めて、しゃしゃぶのことを東京ではグミとよぶことを知った。

しかしそのときは買いそびれた。その鉢植えのしゃしゃぶの木はいつの間にか店頭から消えてしまっていた。1年待って昨年の夏、やっと鉢植えのしゃしゃぶの木を手に入れた。そして自宅の庭に植え替えた。

一昨日の朝、出勤する際に、そのしゃしゃぶの木が3個の実をつけているのを見つけた。まだ青く、注意して見ないと見逃してしまう。しかしあと1か月もすればこれらの実は赤く熟し、私の目を楽しませてくれるに違いない。


2007年5月10日木曜日

海のマリー




北軽井沢の交差点から数百メートル北に行ったところに「海のマリー」という名のレストランがある。軽井沢に行った際には、よくこのレストランで昼食をとる。ここでは上品な老婦人がおいしい食事と暖かいもてなしで私たちを迎えてくれる。

この夫人のご主人に会ったこともある。二人はご主人の定年後にいま住む北軽井沢に移り住んだという。老婦人は自宅の広い庭で花を育てるのが楽しみだそうだ。ご主人は今も仕事を持ち、高崎で働いている。週末だけ北軽井沢の自宅に帰ってくるという。

先日の連休にこのレストランを訪れたときには、食事の後、大分から届いたばかりだという新緑茶を私たちにふるまってくれた。私は日本茶はほとんど飲まないが、ここでいただいたお茶は甘味があり風味も最高であった。料理はいつも薄味。四国で育った私は、この薄味にはほっとさせられる。

浮世を離れたような静かなこのレストランでこの老婦人と会話を交わしながらとる昼食は最高である。

2007年5月1日火曜日

久しぶりの飛鳥山公園


一昨日の日曜日は朝から快晴であった。昼食をすませた後、自転車に乗って息子と近くの飛鳥山公園に出かけた。息子と飛鳥山公園に行くのは3年ぶりであった。多くの家族連れで賑わっていた。

3年前の夏には、夜、ふたりでよく飛鳥山公園に行った。ほとんど人はいなかった。薄暗い公園のなかで二人っきりということも珍しくなかった。午後8時5分前になるとノクターンの音楽が流れ始める。そして午後8時ちょうどに公園内の照明が消える。それまで公園内にあるコンクリートの山に登ったり、すべり台を滑ったりして息子と遊んだ。

その頃、息子は小学校受験を目前に控えていた。息子に公園で遊ばせることによって少しでも息子の運動能力を高めること。父親である私ができることはそれぐらいしかなかった。

家内は息子がずっと幼い頃から小学校受験をさせる心づもりであったらしい。息子が3歳になったころから代官山の塾に週一回息子を連れていっていた。しかし家内は、私にはそれが塾であるとは言わなかった。ただ、幼児教育に優れたノウハウを持っているところとだけ行った。私も特に詳しく尋ねることはなかった。

息子に小学校受験をさせたいと家内が私に最初に言ったのは、受験の年の8月であった。私は驚いた。最初、私は反対した。しかし息子に小学校受験をさせるという家内の決意は固そうであった。すでに模擬試験も受けさせたという。しかしその模擬試験の成績はさんざんであったらしい。訊いてみると、何と27人中24番であったという。下から4番目だ。家内はひとりで頭を抱えていたようだ。通わせていた塾ではどうも学業は習っていなかったらしい。

私は「それは大物だ」と家内に言った。私のなかに変な闘志が湧いてきた。くだらぬ受験技術を身につけていない息子をそのまま伸ばし、試験に合格させてみたい・・・。私は家内に「もし縁があるなら合格するだろう。もし縁がなければどんなに能力があっても合格はしない。受験するだけさせてみてもいいのでは」と答えた。それから息子の本格的な「受験勉強」が始まった。

息子は目を見張るほど急激に成績を上げていった。試験の直前にはどの模擬試験でもトップクラスの成績をとるようになった。大人にも難しい問題をすらすらと解いていく息子の姿を見て、ひょっとしたら息子は学問で生きていくこともできるかもしれないと感じた。

わずか3か月間ではあったが、息子の受験勉強の期間中、私と一緒に毎晩のように飛鳥山公園に出かけてきたことを息子はまだ憶えている。

2007年4月24日火曜日

のりたま

「のりたま」といえば昔からある有名なふりかけだ。私が物心ついたときには既にあった。

この「のりたま」を1週間前の朝食時に家内が出してきた。私が「のりたま」に何らかのこだわりを持っていることをあたかも知っているかのごとく、「はい、のりたま」と言って、袋を私に差し出した。

私は何も言わず「のりたま」の袋を受け取り、開封した。「のりたま」を口にするのは何時以来であっただろうか。記憶がない。

私が子供の頃、わが家にとって「のりたま」は高級品であった。掌に少し乗せた程度の量で150円ほどした。当時のわが家の食卓に「のりたま」がのったことはなかった。代りに、「のりたま」の数十倍の量が入っているにもかかわらず、それよりもずっと安く売られていた、おかかのようなふりかけを母親がよく買ってきた。大きな袋にはち切れんばかりにふりかけが詰め込まれていた。

対照的に、隣の家の食卓には、いつも「のりたま」がのっていた。その家には、私より一歳年下の幼友達が住んでいた。私が「のりたま」の味を憶えているのは、その家で何かの折りに「のりたま」を食べさせてもらったことがあるからに違いない。「のりたま」は当時の私にとって富の象徴そのものであった。

そういえば、当時、わが家にはテレビもなかった。一週間に二度ほど祖母につれられて近所にテレビを観せてもらいにでかけた。「事件記者」という番組と「お好み新喜劇」という番組を祖母は好んだ。

隣の幼友達の家でもテレビを観せてもらうことがあった。「風のフジ丸」というアニメ番組であった。幼友達とテレビの前に並んで座り一緒に観た。

しかし、幼友達のお父さんが帰宅して私たちがテレビを観ているのを目にすると、必ずといっていいほど黙ってテレビを消してしまった。私へのいやがらせであった。いつしか私は、隣の家でテレビを観せてもらうときには、幼友達のお父さんの帰宅を無意識に恐れるようになった。

その家には卓球台もあった。私とその幼友達とはその卓球台を使って、よく卓球もした。しかし、その幼友達のお父さんが帰宅すると、いつも私はラケットを取り上げられた。そして親子で延々と卓球を続けた。私は黙ったまま、ずっとその親子の遊ぶ様を傍らで見ていた。

私は子供心にその幼友達のお父さんを憎んでいた。ただし、まだ幼かった私には、その当時、私が抱いていた感情が「憎しみ」といえるものであるという自覚はなかった。

私が幼い頃、わが家には親子で遊ぶということはただの一度もなかった。父親は仕事をしているか、気難しい顔で考え事をしているかのいずれかであった。家族に怒鳴り散らすこともよくあった。父親が笑っているのを見た記憶はない。私にとって父親は恐怖の対象でしかなかった。そのためか、私の幼友達とそのお父さんが卓球をしながら会話を交わしている姿は、一面では、私にとって憧れであった。

その幼友達のお父さんは20年ほど前に交通事故で亡くなった。即死であった。そして、その幼友達も数年前から大病を患っている。彼は離婚し、子供もいない。住む家もシロアリの巣となり、今にも崩れ落ちそうだ。それに引き換え、私の父親はまだ元気だ。母親も自由のきかない身体になっているが、命には別状がない。人生はわからないものだとつくづく思う。

「のりたま」のことを考えているうちに、思わぬ方向に考えが逸れてしまった。

2007年4月16日月曜日

高校時代のクラスメート

昨日の日曜日、高校時代のクラスメート3人と会った。東京から出張してきた一人が会おうという連絡をよこしてきたのだ。昼食だけの予定であったが、話がはずみ、結局、別れたのは午後8時過ぎになった。

3人のクラスメートのうちの一人(女性)とは高校を卒業後、一度も会うことがなかった。なんと32年ぶりの再会であった。彼女は歯科医。大学時代の先輩と結婚し、都内でご主人と一緒に歯科のクリニックを開業しているということであった。子供も3人いるという。一番下の子供が高校2年生になり、やっと自分の時間が持てるようになったと言っていた。

途中から一人のクラスメートの奥様も加わった。その奥様は私も昔からよく知っている。

話は各自の近況や各自が知っている同期生の状況から高校時代の思い出までめまぐるしく変わった。

私の母校は、高知市内にある私立の中高一貫教育校であった。私たちは最も多感な時代を共に過ごした。私自身はこの歳に至ってもこの母校が私のアイデンティティーそのものである。そしてその時代をともに過ごした友人は私の人生の生き証人である。

私たちの人生も、もうそんなに長くはない。少なくとも自由に体が動き、健康でいられる期間は・・・。自分に残された生が短くなるにつれて、もう一度、十代に描いた夢を純粋に追い求めてみたいという欲求が強くなってきた。

2007年4月13日金曜日

なぜ人は日記を晒すのか

講談社から「ブログ進化論 なぜ人は日記を晒すのか」という新書が出ている。私も購入し読んでみた。

しかし、この種の命題に唯一の回答などあるはずがない。ブログを書く理由は各人各様ではないか。少なくとも私自身は自分の日記を他人に晒そうとしているつもりはない。

私が私自身のこのブログを読んでもらいたいと思っているのは我が一人息子である。つまり私は息子を仮想的な読者としてこのブログを書いている。

私の息子はまだ8歳である。私自身の年齢を考えると、息子が成人になったときには私はもう既にこの世にいないかも知れない。しかし、小学校3年生になったばかりの息子に私自身がたどってきた人生をいま話すことは無意味である。息子は何の興味も示さないであろう。

息子が成人になったとき私は生きているだろうか。社会人になり、さまざまな苦難に遭遇したとき私は傍にいてあげられるであろうか。まだ無邪気な笑顔を見せる息子の顔を眺めるたびにこんな思いが湧き上がってくる。

父親である私が日々の生活の中で何をどう感じながら生きてきいたのか、その一端をこのブログから大人になった息子が知ることができたならば、たとえ私が既にこの世に存在しなくても息子を勇気づけることができるのではないか。漠然とではあるが、このようなことを考えながら私はキーボードを叩いている。

祖母の死

私の生まれ故郷は高知県の土佐市である。国道56号線沿いの四方を山に囲まれた農村で育った。私の生家には今も両親が暮らしている。もっとも母は昨年ほとんど入院していたが。

私は正月には必ず帰省する。両親に孫を会わせるという目的もある。しかし最も大きな目的は墓参りだ。

私の田舎ではごく最近まで土葬であった。ひょっとしたら今も土葬が行われているのかもしれない。私の祖父母も土葬であった。だから別々の墓石がある。

私の祖母が亡くなったのは私が小学校2年生のときの冬であった。12月30日に息を引き取った。脳出血で倒れ、ほとんど意識が回復することなく2週間ほどで亡くなった。

祖母が倒れた日はとても寒い日であった。その日、祖母は近所の家の農作業を手伝いに出ていた。金柑採りの手伝いだった。畑で突然倒れたという。祖母は高血圧であった。

一緒に農作業をしていた近所の人たちが祖母を家まで運んできてくれた。近所の医師を喚んだ。その医師は私の田舎で唯一人の医師であった。その医師は横たわる祖母を無言で診察した後、私の両親に何かつぶやくように話した後、すぐに帰っていった。

それから祖母が亡くなるまでの間、その医師は数回往診してくれた。しかし点滴一つすることもなかったように記憶している。ひょっとして祖母は少しは 食事摂取ができていたのだろうか。私の母がつきっきりで看病していたが、私が祖母のそばにいくと遠ざかるようにと指示された。いま考えると、おそらく祖母 の下の世話をしようとしていたのかもしれない。

祖母が元気だった頃、祖母と私の父親とは毎日のように家でけんかした。何が原因なのか幼い私にはわからなかった。激しいけんかであった。けんかの 後、祖父母はよく離れに布団を敷いて寝た。その離れを我が家では「鳥小屋」と呼んでいた。当時、我が家では鶏を飼っていた。まさに本当の鳥小屋だった。そ の一角にあった3畳ほどの畳部屋に布団を敷いたのだ。私も祖父母の間に挟まって寝た。

私には怒っていた父親の顔しか思い出せない。父はいつも家族に対して激しく怒った。幼い頃、私は常に父を恐れていた。そんな父親ではあったが、祖母が亡くなった後は、長い間、祖母の死を悲しんだ。

私が小学校3年生になるまで我が家は藁葺き屋根の家であった。台風が来ると大きく家が揺れた。祖母は呪文を唱えるかのように「ほー、ほー」と大声で うなり声をあげた。柱は虫に食われており、いろりの煙のため家中煤だらけであった。私はいろりの側で祖父の膝の上によく乗った。私が膝に乗ると、祖父は火 箸でいろりの灰に字を書いていくつかの漢字を私に教えてくれた。しかし祖父の書く漢字はいつも一緒であり、私が学ぶ漢字が増えることはなかった。祖父が好 んで書いた漢字は、「松」と「杉」であった。

そんな家を建て替える直前に祖母は亡くなった。祖母とけんかが絶えなかったことも父を更に悲しませた。藁葺き屋根の家の隣の土地に新しい家が完成し たのは祖母が亡くなった翌年の夏であった。その家が完成した夜、私と私の姉は、ふたりだけでまだ障子もない開けっぴろげのその家に寝かされた。それはどう も当時のしきたりであったらしい。

祖母は63歳であった。早すぎる死であった。

2007年4月6日金曜日

息子と英語

息子の春休みを利用して家族でバリ島に行ってきた。バリ島は初めてであった。1週間、家族揃って時間を過ごす機会はこうして旅行にでも出ない限りとれない。

今回の旅行は息子にとってもいい刺激になったようだ。今までの家族旅行は、息子にとって単なる「旅行」でしかなかった。しかし今回は少し違った。現地の人たちや他の観光客たちと自ら会話を交わしたいという強い欲求に駆られたようだ。

現地で私たち夫婦がマッサージにでかける間、何回かホテルに息子を預かってもらった。これまでは、息子はこのようなときもいつも私たちについてきた。しかし今回はホテルで他の観光客の子供たちと一緒に過ごすことを選択した。

最後の晩のこと。私たちがマッサージからホテルに帰ると既に夕暮れになっていた。ホテルの託児所に息子を迎えに行くと、息子たちはプールサイドのレストランで夕食をとっているという。

そのレストランに行ってみると、息子はさまざまな年齢の子供たちに交じって食事をしていた。私たちは立ち止まって遠方から息子の後ろ姿をじっと見た。

息子は他の子供たちに何か話しかけたくてしょうがないようであった。しかし言葉が通じない。身振り手振りでコミュニケーションをとろうとしていた。心なしか気後れしているようであった。

20分ほどして食事が終り、プールサイドのレストランから託児所に戻ることになった。相変わらず息子は口を開かない。ちょっとかわいそうに思えた。

私たちは子供たちの列を少し離れて追った。息子は最後尾を歩いていた。そしてその前を歩く2歳ほどの小さな子供にそっと追いつき、黙ってその子の右手を握った。その子の手をとりながら息子はホテルの中に入っていった。

帰国後、息子は、英語の習いたいと言い始めた。これまで、私たちがどんなに勧めても、どうしてもいやだと言い張った英語の勉強をしたいと息子自らが言い始めた。既に息子は並の中学生になら負けない日本語力を身につけている。ちょうどいいタイミングだと思う。

2007年3月12日月曜日

ある母と子

数日前の帰宅途中、心痛む出来事があった。

山手線の高田馬場駅で一組の母子が乗車してきた。母親は35歳ほど。連れている子供は3歳ほどの男の子であった。

この男の子と母親とは立ったまま仲良く会話していた。私もかわいい男の子だなと思い、時々視線をその母子に向けていた。

電車が池袋駅に止まろうとスピードを下げ始めたそのとき、母親が大声でその男の子にどなりつけると同時に左の頬をピシャリとぶった。私はその音の大きさにびっくりした。

池袋駅のホームに電車が止まると、その男の子の腕をつかみ、引きずり下ろすようにして母子とも電車から降りた。開いたドアのすぐ傍で母親はしゃがみ、その男の子を大きな声で叱り始めた。

「あなたはお金を払っていないのだから電車の中で座る権利はないの。他の人は一日中働き疲れているの。あなたは何もしていないでしょう。」

どうもその男の子は池袋で座れないかと母親に言ったらしかった。男の子は「ごめんなさい。ごめんなさい。」と繰り返し母親に謝っていた。

電車が発車しようとしたとき、その母子は再び電車に乗ってきた。そして私の傍に立った。母親は同じ言葉を繰り返していた。

私は巣鴨駅で降りた。私が座っていた場所にその母親は座った。その男の子をどうするのかと見ていると、その男の子を抱き上げて自分の膝の上に載せた。

確かにその母親が言いきかせていることはことは正しい。しかし・・・。巣鴨駅から自宅まで歩きながら、私は複雑な気持ちにとらわれていた。

2007年2月3日土曜日

「女性は子を産む機械」発言をめぐって

ある大臣が「女性は子を産む機械だ」と発言したというニュースがマスコミを賑わしている。国会では野党が鬼の首を取ったかのようにこの大臣を追求し、審議拒否にまで入った。

確かに大臣のこの発言は心配りが足りなかったとしかいいようがない。

しかしこの発言は少なくとも心ある国民には意義あるものであった。

女性が機械でないのは明白である。こんなわかりきったことに目くじらを立てる必要はない。また、女性にしか子を産めないのも事実である。

今、声を大にして大臣批判を繰り返しているのは、子を産んだことのない独身女性ばかりである。私は大声で大臣批判を繰り返す女性には哀れを感じる。

何事であっても人によって価値観はさまざまである。皆が同じ考え方をする必要はない。しかし子を産み育てることが女性ばかりでなく男性にとっても人生の中で最も楽しく価値あることのひとつであるということには違いなかろう。戦後教育はこの最も根源的で重要な価値観を古い考え・国粋主義的な考え・男尊女卑として軽視し否定し続けてきた。しかし戦前教育が価値観の強制であっったならば戦後の教育も同様に価値観の強制である。子を持つことに誇りを持てなくなった若い女性はブランド物で身を飾り我が物顔で道を闊歩する。この国は衰退へとつきすすんでいる。

人口減少ばかりではない。日本国民のモラルの崩壊も著しい。

自分の子を抱き重い荷物を抱えながら歩いている女性。髪は振り乱している。化粧もしていない。しかしその女性がかもしだす母性の温かさは究極の女性美である。母性こそが女性の美の源泉である。

女性は、自分が女性として生まれたことに誇りを持たなくてはいけない。女性であることに劣等感を感じ男に対する対抗心をむき出しにする女性に与する必要はない。彼女らは気の毒な人たちなのだから。

2007年1月28日日曜日

日比谷公園の梅



きょうは日曜日。朝からいい天気であった。昼に銀座のアップルストアにでかけた。セミナーを受講するためだ。

帰る道すがら、日比谷公園に立ち寄った。私は毎週火曜日に内幸町に来ている。その際、この公園のすぐ脇の道を歩く。しかし公園内を散策するのは久しぶりであった。

薄桃色の梅の花が目に入り、しばし立ち止まった。

「春」。この言葉が急に私の脳裏に浮かんだ。

そういえば、10日前には神田橋の袂にある寒桜も見事な花を咲かせていた。

息子の作文 ー原文通りー

「三部武勇伝でやった事とその感想」

 僕たちは、三部武勇伝で、なわとび、ロッックソーラン(踊り)、二人三脚、リレーを教わりました。一番おもしろかったのは、二人三脚です。なぜおもしろかったかというと、二人三脚は、最初は難しかったが、最後はできて、
「やった。」
と言えるからです。
 一月二十六日(金)は、三部武勇伝佐野後の日のような事をやりました。二人三脚があったらいいな・・・・・、と思ったが、二人三脚はありませんでした。
 でもリレーとなわとびはありました。
 リレーの一回目は一位でよかったです。二重回しの生き残りリレーは四組中三位でした。
(もっと頑張ればよかった。)
と、思いました。三部武勇伝で、ろいろな事を覚えました。これを、今年の運動会につなげていきたいと思います。

2007年1月27日土曜日

祖父

私が幼い頃、我が家は貧乏のどん底にあった。私が生まれたのは終戦から10年あまりしか経っていない時期である。時代そのものが貧しかった。しかし日本全体が貧しい中でも、我が家は特に貧しいのだと私は両親からいいきかされていた。

両親はいつも仕事をしていた。毎晩、夜中の2時まで働いた。朝、私が目を覚ますと、母親は既に家事を始めていた。私には両親と一緒に寝た記憶がほとんどない。私は祖父と祖母の間に入って、祖父母と一緒に寝た。

私の祖父がかつて多大な借金をかかえていたことを知ったのは、祖父が亡くなってから10年以上経ってからであった。私が何年か前に実家に帰省した際、私の生家の近くに住む老婆が私に語ってくれた。祖父はある人の借金の保証人になっていたという。その人が急死した。保証人になっていた祖父は、その人に代って莫大な返済義務を負った。

私の祖父がその多大な借金を抱えたとき、近所の人たちは、これで私の祖父も終わりだとささやきあったという。しかし祖父は、長い年月をかけて誠実に借金を返済していったとその老婆は語った。そして我が家の今があるのは、私の祖父の人徳のおかげであるといって涙を浮かべながら私の祖父を褒めた。

今に至るも祖父が抱えた借金の話を家族の誰からも聞いたことはない。私も尋ねない。祖父はその苦労を自分の死とともにあの世に持ち去った。祖父は私の息子にとってはひじいちゃんになる。3代遡った自分の先祖の生きた道を私の息子は何一つ知らないまま一生を終えるであろう。私の息子がいささかでも私の祖父のことを思うのは、祖父の墓石のまえで意味もわからないまま手を合わせるときだけである。

夏草や つわものどもが夢のあと

温厚な人柄とは裏腹に、祖父は厳しい時代を生きた。生き抜いた。

2007年1月20日土曜日

中土佐町久礼 その1

中土佐町久礼といえば「土佐の一本釣り」で有名になった町だ。土佐湾に面した小さな港町である。私の生家から西に20キロほど行ったところにある。

この町の海辺に私の伯父が生前住んでいた。祖父母がともに生きている頃には、私は祖父母に連れられてよく伯父の家を訪ねた。私の生家から中土佐町久礼に行くには須崎駅から汽車に乗らなければならなかった。汽車は私にとってとても不思議な乗り物であった。と同時に、とてもこわい乗り物であった。ホームから汽車との間は大きくひらいていた。その隙間に落ちるのではないかという恐怖感に汽車に乗るたびに襲われた。

私の家と同様に伯父も貧乏暮らしであった。マッチ箱のような小さい平屋に伯父夫婦と子供3人がひしめきあうようにして住んでいた。堤防のすぐ側にあるその家は、台風が来るたびに浸水した。しかし堤防越しに眺める土佐湾の景色は美しく、また雄大であった。私は、この堤防にもたれかかりながら、伯父にいろいろな話を聞かせてもらった。

伯父は私の父とは対照的に、とても温厚な人であった。学校での成績も私の父よりもよかったと聞かされていた。

今でもはっきり憶えているのは、海から陸へと吹いてくる強い風に髪をなびかせながら、私が伯父に「なぜ、風邪が吹くの?」と尋ねたときのことだ。私はまだ4歳か5歳であった。2〜3秒間、間をおいて、伯父はゆっくりと説明し始めた。

「あるところに空気のない箇所ができる。その空気のなくなった場所に向かって空気が流れていくのが風だよ」と伯父は話した。

私は恐怖に襲われた。もし今自分が立っている場所の空気がなくなったら、息ができなくなってしまうのではと思ったのだ。ばかげた想像であった。しかしまだ幼く何の科学的知識もない当時の私は怖くてしかたなくなった。

私は黙ったまま堤防脇の階段を降りて伯父の家に戻った。

このときの恐怖感は40数年経った今でも、当時の伯父の姿とともに、鮮明に蘇ってくる。

2007年1月17日水曜日

小学生のお年玉、平均が初めて2万5千円台に

exciteニュースに下のような記事が掲載されていた。今年、私の息子が全部でいかほどのお年玉をもらったのか私は知らないが、おおよそこの程度ではなかろうか。平均といえる。もっとも私たちが息子にお年玉をあげたことはこれまで一度もない。したがって、息子はお年玉は親からはもらわないものだと思っているかもしれない。いいことだ・・・。


ー記事ー

2007年正月に小学生がもらったお年玉合計は平均25,293円で、03年の調査開始以後初めて2万5千円台となったと、小学館が2007年1月15日に発表した。景気回復の影響を受けて昨年より766円増えた。金額で最も多いのが「1万5千円超〜2万円」の17.7%で、「1万円以下」は14.3%で、どちらも昨年と同じような割合となっている。一方、「3万円超〜3万5千円」が3.1ポイント増、「15万円以上」は0.7ポイント増、さらに最高は過去最高の17万円と、お年玉の金額の差が大きくなっていた。使い道は4年連続で「ゲームソフトを買う」が1位で、67.4%が使い道を自分で決めていた。今年の調査は1月5日〜1月9日に実施され、583名がアンケートに答えた。

2007年1月8日月曜日

第29回日本フルートフェスティバルin東京




昨日、家族でコンサートに行った。場所は東京文化会館大ホール。直前に会場に電話をすると、当日券が余っているということで、急遽でかけることにした。

私は予約券を買ってコンサートに行ったことはない。日本では有名な楽団のコンサートは何か月か前に予約しないとチケットが手に入らない。留学中は週末、よくコンサートにでかけた。気が向いたときにぶらっと会場に行けば、その場でチケットを購入することができた。しかも予約券よりも当日券の方が安いことが多かった。日本とは反対だ。チケットが完売の場合でも、開場前で必ず誰かがチケットを売ってくれた。日本のダフ屋ではない。前売り券を買っていた本人が正価で売ってくれるのだ。交渉すれば正価よりも安くしてくれることもあった。私たち夫婦は多くの場合、30マルク以下の安いチケットを会場で手に入れた。

私たちが留学していたミュンヘンでは、夏は夜10ごろまで明るい。夏場は天気がよければコンサートは屋外で開催されることがある。ついさっきまで野良仕事をしていた隣の夫婦がいつのまにか連れ立ってコンサートに出かけていく光景をよく目にした。オペラやコンサート、バレエなどはミュンヘンでは生活の一部であった。私たちもそういった生活にいつしか馴染んでいた。

留学から帰ってからはほとんどこういった演奏会にでかけることはなくなった。精神的な余裕がなくなったためだったかもしれない。それよりも東京のせわしない雰囲気のなかでゆっくりコンサートを聴こうという気が起きなくなったからかもしれない。帰国後4年後に長男が生まれてからはコンサートにでかけることは物理的に難しくなった。

長男もあっというまに8歳。私たちも年をとった。休日に家族でゆっくりとコンサートにでかけることはこれから次第に多くなっていくだろう。

2007年1月7日日曜日

2007年元旦




数年前から1月1日に帰省するようになった。年末年始の休み期間中どうしても1日仕事が入る。ならば休み期間中の冒頭で仕事をして、残りの休み期間に帰省しようというわけだ。

1月1日の航空運賃は安いので助かる。しかしひとつ残念なことがある。それは、毎年12月30日に開いている高校時代の友人との忘年会に出席できないことだ。その忘年会に出席できない私に会うために、1月2日に3人の友人が私の実家を訪ねてきてくれた。中学時代からの友人。もう40年近いつきあいになる。

一番上の写真はわが家の屋上から撮影した写真、真ん中は羽田空港でみかけた琴の演奏、そして一番下は飛行機から見えた富士山だ。

2007年1月6日土曜日

土佐の方言

私が生まれ故郷である高知を離れて30年以上経過した。土佐弁で話す機会はほとんどない。高校時代の友人や両親と話をする際に使う程度だ。

以前も書いたが、東京で生まれ育った私の家内は、私と結婚して10年間ほどはほとんど私の両親が話す言葉を理解できなかったそうだ。確かに両親の話す言葉の中にはたくさんの方言が混じっている。高知で生まれ育った私には今も何の違和感もなく伝わってくるが。

今年の正月、高知に帰省したときに両親の口から出てきた高知の方言をノートにメモしてみた。下はそのノートである。


ばったりいた=しまった
さがしい=(坂が)険しい
しらった=味付けをしていない、味がついていない
まける=こぼれる
へちむく=そっぽを向く
ぬばす=延期する
ぬべる=水を足して湯の温度を下げる
かやる=倒れる、転倒する
たつくる=走り回って荒らす(例:イノシシが畑をたつくる)
みてる=死ぬ
おどろく=目覚める
つかえる=道が混雑して渋滞する
たくばう=保存する、食べないで残しておく
ねき=側
たごる=咳をする
車に積む=人を車に同乗させる
こみこんで=意欲的に、積極的に(例:こみこんで勉強をしゆう(意欲的に勉強している))
おきゃく=宴会、パーティー
こわい=危ない、危険だ(例:そっちへ行ったらこわいで)
およけない=気持ちがわるくぞっとする
へんしも=大急ぎで
そうにかあらん=そうだろう、そうだと思う