2007年4月24日火曜日

のりたま

「のりたま」といえば昔からある有名なふりかけだ。私が物心ついたときには既にあった。

この「のりたま」を1週間前の朝食時に家内が出してきた。私が「のりたま」に何らかのこだわりを持っていることをあたかも知っているかのごとく、「はい、のりたま」と言って、袋を私に差し出した。

私は何も言わず「のりたま」の袋を受け取り、開封した。「のりたま」を口にするのは何時以来であっただろうか。記憶がない。

私が子供の頃、わが家にとって「のりたま」は高級品であった。掌に少し乗せた程度の量で150円ほどした。当時のわが家の食卓に「のりたま」がのったことはなかった。代りに、「のりたま」の数十倍の量が入っているにもかかわらず、それよりもずっと安く売られていた、おかかのようなふりかけを母親がよく買ってきた。大きな袋にはち切れんばかりにふりかけが詰め込まれていた。

対照的に、隣の家の食卓には、いつも「のりたま」がのっていた。その家には、私より一歳年下の幼友達が住んでいた。私が「のりたま」の味を憶えているのは、その家で何かの折りに「のりたま」を食べさせてもらったことがあるからに違いない。「のりたま」は当時の私にとって富の象徴そのものであった。

そういえば、当時、わが家にはテレビもなかった。一週間に二度ほど祖母につれられて近所にテレビを観せてもらいにでかけた。「事件記者」という番組と「お好み新喜劇」という番組を祖母は好んだ。

隣の幼友達の家でもテレビを観せてもらうことがあった。「風のフジ丸」というアニメ番組であった。幼友達とテレビの前に並んで座り一緒に観た。

しかし、幼友達のお父さんが帰宅して私たちがテレビを観ているのを目にすると、必ずといっていいほど黙ってテレビを消してしまった。私へのいやがらせであった。いつしか私は、隣の家でテレビを観せてもらうときには、幼友達のお父さんの帰宅を無意識に恐れるようになった。

その家には卓球台もあった。私とその幼友達とはその卓球台を使って、よく卓球もした。しかし、その幼友達のお父さんが帰宅すると、いつも私はラケットを取り上げられた。そして親子で延々と卓球を続けた。私は黙ったまま、ずっとその親子の遊ぶ様を傍らで見ていた。

私は子供心にその幼友達のお父さんを憎んでいた。ただし、まだ幼かった私には、その当時、私が抱いていた感情が「憎しみ」といえるものであるという自覚はなかった。

私が幼い頃、わが家には親子で遊ぶということはただの一度もなかった。父親は仕事をしているか、気難しい顔で考え事をしているかのいずれかであった。家族に怒鳴り散らすこともよくあった。父親が笑っているのを見た記憶はない。私にとって父親は恐怖の対象でしかなかった。そのためか、私の幼友達とそのお父さんが卓球をしながら会話を交わしている姿は、一面では、私にとって憧れであった。

その幼友達のお父さんは20年ほど前に交通事故で亡くなった。即死であった。そして、その幼友達も数年前から大病を患っている。彼は離婚し、子供もいない。住む家もシロアリの巣となり、今にも崩れ落ちそうだ。それに引き換え、私の父親はまだ元気だ。母親も自由のきかない身体になっているが、命には別状がない。人生はわからないものだとつくづく思う。

「のりたま」のことを考えているうちに、思わぬ方向に考えが逸れてしまった。

2007年4月16日月曜日

高校時代のクラスメート

昨日の日曜日、高校時代のクラスメート3人と会った。東京から出張してきた一人が会おうという連絡をよこしてきたのだ。昼食だけの予定であったが、話がはずみ、結局、別れたのは午後8時過ぎになった。

3人のクラスメートのうちの一人(女性)とは高校を卒業後、一度も会うことがなかった。なんと32年ぶりの再会であった。彼女は歯科医。大学時代の先輩と結婚し、都内でご主人と一緒に歯科のクリニックを開業しているということであった。子供も3人いるという。一番下の子供が高校2年生になり、やっと自分の時間が持てるようになったと言っていた。

途中から一人のクラスメートの奥様も加わった。その奥様は私も昔からよく知っている。

話は各自の近況や各自が知っている同期生の状況から高校時代の思い出までめまぐるしく変わった。

私の母校は、高知市内にある私立の中高一貫教育校であった。私たちは最も多感な時代を共に過ごした。私自身はこの歳に至ってもこの母校が私のアイデンティティーそのものである。そしてその時代をともに過ごした友人は私の人生の生き証人である。

私たちの人生も、もうそんなに長くはない。少なくとも自由に体が動き、健康でいられる期間は・・・。自分に残された生が短くなるにつれて、もう一度、十代に描いた夢を純粋に追い求めてみたいという欲求が強くなってきた。

2007年4月13日金曜日

なぜ人は日記を晒すのか

講談社から「ブログ進化論 なぜ人は日記を晒すのか」という新書が出ている。私も購入し読んでみた。

しかし、この種の命題に唯一の回答などあるはずがない。ブログを書く理由は各人各様ではないか。少なくとも私自身は自分の日記を他人に晒そうとしているつもりはない。

私が私自身のこのブログを読んでもらいたいと思っているのは我が一人息子である。つまり私は息子を仮想的な読者としてこのブログを書いている。

私の息子はまだ8歳である。私自身の年齢を考えると、息子が成人になったときには私はもう既にこの世にいないかも知れない。しかし、小学校3年生になったばかりの息子に私自身がたどってきた人生をいま話すことは無意味である。息子は何の興味も示さないであろう。

息子が成人になったとき私は生きているだろうか。社会人になり、さまざまな苦難に遭遇したとき私は傍にいてあげられるであろうか。まだ無邪気な笑顔を見せる息子の顔を眺めるたびにこんな思いが湧き上がってくる。

父親である私が日々の生活の中で何をどう感じながら生きてきいたのか、その一端をこのブログから大人になった息子が知ることができたならば、たとえ私が既にこの世に存在しなくても息子を勇気づけることができるのではないか。漠然とではあるが、このようなことを考えながら私はキーボードを叩いている。

祖母の死

私の生まれ故郷は高知県の土佐市である。国道56号線沿いの四方を山に囲まれた農村で育った。私の生家には今も両親が暮らしている。もっとも母は昨年ほとんど入院していたが。

私は正月には必ず帰省する。両親に孫を会わせるという目的もある。しかし最も大きな目的は墓参りだ。

私の田舎ではごく最近まで土葬であった。ひょっとしたら今も土葬が行われているのかもしれない。私の祖父母も土葬であった。だから別々の墓石がある。

私の祖母が亡くなったのは私が小学校2年生のときの冬であった。12月30日に息を引き取った。脳出血で倒れ、ほとんど意識が回復することなく2週間ほどで亡くなった。

祖母が倒れた日はとても寒い日であった。その日、祖母は近所の家の農作業を手伝いに出ていた。金柑採りの手伝いだった。畑で突然倒れたという。祖母は高血圧であった。

一緒に農作業をしていた近所の人たちが祖母を家まで運んできてくれた。近所の医師を喚んだ。その医師は私の田舎で唯一人の医師であった。その医師は横たわる祖母を無言で診察した後、私の両親に何かつぶやくように話した後、すぐに帰っていった。

それから祖母が亡くなるまでの間、その医師は数回往診してくれた。しかし点滴一つすることもなかったように記憶している。ひょっとして祖母は少しは 食事摂取ができていたのだろうか。私の母がつきっきりで看病していたが、私が祖母のそばにいくと遠ざかるようにと指示された。いま考えると、おそらく祖母 の下の世話をしようとしていたのかもしれない。

祖母が元気だった頃、祖母と私の父親とは毎日のように家でけんかした。何が原因なのか幼い私にはわからなかった。激しいけんかであった。けんかの 後、祖父母はよく離れに布団を敷いて寝た。その離れを我が家では「鳥小屋」と呼んでいた。当時、我が家では鶏を飼っていた。まさに本当の鳥小屋だった。そ の一角にあった3畳ほどの畳部屋に布団を敷いたのだ。私も祖父母の間に挟まって寝た。

私には怒っていた父親の顔しか思い出せない。父はいつも家族に対して激しく怒った。幼い頃、私は常に父を恐れていた。そんな父親ではあったが、祖母が亡くなった後は、長い間、祖母の死を悲しんだ。

私が小学校3年生になるまで我が家は藁葺き屋根の家であった。台風が来ると大きく家が揺れた。祖母は呪文を唱えるかのように「ほー、ほー」と大声で うなり声をあげた。柱は虫に食われており、いろりの煙のため家中煤だらけであった。私はいろりの側で祖父の膝の上によく乗った。私が膝に乗ると、祖父は火 箸でいろりの灰に字を書いていくつかの漢字を私に教えてくれた。しかし祖父の書く漢字はいつも一緒であり、私が学ぶ漢字が増えることはなかった。祖父が好 んで書いた漢字は、「松」と「杉」であった。

そんな家を建て替える直前に祖母は亡くなった。祖母とけんかが絶えなかったことも父を更に悲しませた。藁葺き屋根の家の隣の土地に新しい家が完成し たのは祖母が亡くなった翌年の夏であった。その家が完成した夜、私と私の姉は、ふたりだけでまだ障子もない開けっぴろげのその家に寝かされた。それはどう も当時のしきたりであったらしい。

祖母は63歳であった。早すぎる死であった。

2007年4月6日金曜日

息子と英語

息子の春休みを利用して家族でバリ島に行ってきた。バリ島は初めてであった。1週間、家族揃って時間を過ごす機会はこうして旅行にでも出ない限りとれない。

今回の旅行は息子にとってもいい刺激になったようだ。今までの家族旅行は、息子にとって単なる「旅行」でしかなかった。しかし今回は少し違った。現地の人たちや他の観光客たちと自ら会話を交わしたいという強い欲求に駆られたようだ。

現地で私たち夫婦がマッサージにでかける間、何回かホテルに息子を預かってもらった。これまでは、息子はこのようなときもいつも私たちについてきた。しかし今回はホテルで他の観光客の子供たちと一緒に過ごすことを選択した。

最後の晩のこと。私たちがマッサージからホテルに帰ると既に夕暮れになっていた。ホテルの託児所に息子を迎えに行くと、息子たちはプールサイドのレストランで夕食をとっているという。

そのレストランに行ってみると、息子はさまざまな年齢の子供たちに交じって食事をしていた。私たちは立ち止まって遠方から息子の後ろ姿をじっと見た。

息子は他の子供たちに何か話しかけたくてしょうがないようであった。しかし言葉が通じない。身振り手振りでコミュニケーションをとろうとしていた。心なしか気後れしているようであった。

20分ほどして食事が終り、プールサイドのレストランから託児所に戻ることになった。相変わらず息子は口を開かない。ちょっとかわいそうに思えた。

私たちは子供たちの列を少し離れて追った。息子は最後尾を歩いていた。そしてその前を歩く2歳ほどの小さな子供にそっと追いつき、黙ってその子の右手を握った。その子の手をとりながら息子はホテルの中に入っていった。

帰国後、息子は、英語の習いたいと言い始めた。これまで、私たちがどんなに勧めても、どうしてもいやだと言い張った英語の勉強をしたいと息子自らが言い始めた。既に息子は並の中学生になら負けない日本語力を身につけている。ちょうどいいタイミングだと思う。