2019年5月12日日曜日

マスオさん

私は、留学から戻った1995年秋から数年間,家内の実家に住まわせてもらった。留学中に帰国後の住宅を探すのは、インターネットが発達していない当時は困難であったからである。生活が落ち着き次第、家内の実家を出るつもりであった。しかし家内の両親は思いの他、私を歓待してくれ、実の娘である家内とも一緒に暮らせる生活を喜んだ。家内の兄夫婦も一緒に住んでいたので、家内の両親は実の息子と娘家族と一緒に住むことになったわけである。家内の実家は5階建てのビルディングである。3階に義兄夫婦が、4階に義理の両親が、そして5階に私たち夫婦が住んだ。
 
私は、ただで家内の実家に住まわせてもらうのは申し訳ないと思い、ボーナス月である7月と12月に百万円ずつ両親に手渡した。つまり、毎年、二百万円を義理の両親に支払っていた。
 
 
年間二百万円の家賃が安いのか高いのか、それとも妥当であったのかはわからない。ただ、義理の両親は実の娘と一緒に住めることを心から喜んでいたので、家賃として支払った金額がたとえ少なすぎたとしても、義理の両親には不満はなかったのではないかと思う。
 
 ところが、私たちがただで家内の実家に住まわせてもらっていたと思い込んでいた人がいたという。そしてその人は私の義理の母親にそう言ったらしい。驚きである。その人は、「自分ならばお金を支払わない」と考えたのであろう。私たち夫婦は、少なくとも金銭に関しては潔癖な人生を送ってきた。ただで住めれば得であるといった発想は私たち夫婦にはない。
 

姉 10 お年玉

私と私の家族は、年末年始には毎年、高知に帰省した。正月には姉(池友子)の家族も実家を訪れてにぎやかな正月になった。私と私の家内は、小額ではあったが、姉(池友子)の4人の子供たちにお年玉をあげた。(当時、私たち夫婦にはまだ子がいなかった。)
 
ところが、私の家内が姉(池友子)にお年玉を手渡すと、姉(池友子)は次のように言ったことがあったという。「このお年玉は生活費に充てさせてもらう。」このことを聞いた私の家内は驚いたという。自分の子たちに対するお年玉まで取ってしまうのかと。
 
このことを私はまったく知らなかった。数年前に初めて家内からこのことを聞かされた。家内は他人の悪口をほとんどいわない。私の両親の件で私の家内は、姉(池友子)と姉(池友子)の長女からひどい目に遭わされてきた。私は私でぎりぎりまで私の家内に伏せていたことも数多くあったが、姉(池友子)との間で裁判が持ち上がったときには、それらを伏せておくことができなくなったので、家内に話した。家内も姉(池友子)について腹に据えかねていたことを私に話すようになった。
 
家内は、今、私が少しでも姉(池友子)と姉(池友子)の長女の話を持ち出すと、めまいと頭痛と吐き気がすると言う。

姉 9 無言電話

2013年7月28日の午後、姉(池友子)は私に3つの留守番メッセージを残した。このメッセージの内容は既に書いた。その晩、正確には2013年7月29日の早朝(1:30〜1:48)に姉から7回無言電話がかかってきた。かかってきた電話は業務に使っている電話であったので、夜中でもマナーモードには切り替えていなかった。
 
私の寝室は2階にある。私は既に眠っていたが、けたたましい音で鳴る電話の音で起こされた。最初は頭がぼーっとしておりすぐには反応できなかったが、両親に何事かが起きたのかも知れないと考え、階段を駆け降りた。そしてリビングに置いてあった携帯電話の受話器をとった。聞こえたのは姉(池友子)の息遣いであった。発信元は姉(池友子)の夫の携帯電話であった。2013年7月15日の晩、姉(池友子)が一方的に電話を切った後、姉(池友子)の長女からもあのように非常識な言葉を投げられたため、姉(池友子)の夫と何度か話をしていた。姉(池友子)は夫の携帯電話の記録を見て私と自分の夫とが連絡を取り合っているのを知り、あのような無言電話と留守番メッセージを残したのだろうと私は思った。
 
さて、私は受話器を取るや否や「もしもし、もしもし」と何度か呼びかけたが、姉(池友子)の息遣いが聞こえてきただけであった。私が何度呼びかけても姉(池友子)は返事を返さなかった。そして30秒ほどで電話は切れた。私が携帯電話を元の場所に置くと、また電話がかかってきた。このときは私が電話で応答しようとすると同時に電話が切れた。
 
私は、姉(池友子)がいやがらせで電話をかけてきているのであろうと思ってその晩は携帯電話をマナーモードに切り替えて2階の寝室に戻った。朝確認すると、全部で7回、姉(池友子)から電話が入っていた。私が応答したのは4回目であったことがわかった。
 
(姉(池友子)が私に留守番メッセージを残したのは無言電話の10時間ほど前であったが、私が姉(池友子)からの留守番メッセージに気づいたのは、その無言電話があった日の午後のことであった。つまり、無言電話を受けた日の午後に姉(池友子)からの留守番メッセージに気がついた。)
 
初回、4回目、7回目の姉(池友子)からの無言電話の記録を下に掲載しておく。姉(池友子)は裁判の場で、「不在着信」であったと主張した。しかし4回目の電話の表示を見れば、私が受話器を取っていたことがわかる。姉(池友子)は常に嘘をつく。姉(池友子)から嘘をとると姉(池友子)には何も残らないのではないかと最近は思うようになった。
 
 
 
 

姉 8 「三万円」 その2

2013年7月13日から15日まで帰省した際に姉(池友子)に3万円を返しそびれたことは既に書いた。私は姉弟の間でのことであるし、父親が入院した直後でもある、それに姉(池友子)と姉(池友子)の長女から母親との絶縁を告げられて姉(池友子)との関係がぎくしゃくもしているので、頃合いを見計らって姉(池友子)に金を返せばいいだろう程度に考えていた。
 
ところが姉(池友子)は、私に金を返してくれとは要求せず、なんと両親に返却を要求したのである。姉(池友子)から私の両親に宛てた絶縁状に、私に貸した3万円を返してくれと書いてきた。しかも従姉の一人に電話をかけては「幸伸が3万円を取っていって返さない」と言っていたという。私はこのことをこの従姉本人から聞いた。
 
私は大急ぎで姉(池友子)に現金書留で10万円を送った。借りた金は3万円であったが、実家の近くに住む姉(池友子)には両親の状態をたまには見に行ってもらうこともあろうかと思って多めに現金を包んだ。(この時点では、私は、ほんとうに姉(池友子)が両親との縁を切るとは思っていなかった。)しかし姉(池友子)からは金を受け取ったという連絡は来なかった。当然、礼状も届かなかった。
 
3万円貸しただけなのに10万円送ってもらってどうして私に礼を言わなかったのかと裁判の場で私の弁護士が姉(池友子)と姉(池友子)の姪に尋問した。これに対して姉(池友子)の長女(私の姪)は「おじちゃんが送ってきた現金書留封筒には現金が入っていただけでおじちゃんの添え書きがなかったから怖かった」と陳述した。加えて、「感謝状」であったと姉(池友子)と姉(池友子)の長女が主張する手紙のなかに私が借りた金を両親が私に代わって返してくれという記述があるのは礼状としては不適切な表現ではないかという私の弁護士からの尋問には一切答えなかった。姉(池友子)は、私から10万円送られてきた後、私が金を返したことを誰にも話さなかった。金を借りて返さないと言ってさんざん私を批判したくせに、私から多額の現金が送られたことには口をつぐんだ。
 
繰り返しになるが、「この母にこの娘あり」である。この母娘は、発言内容を節操なくどうとでも変える。

姉 7 「三万円」 その1

2013年6月30日に私は姉(池友子)から3万円借りた。結果的にはその3万円は使うことなく、そのまま東京に持って帰った。次に帰省した際にその金を姉(池友子)に返したかったが、2013年7月1日に母親と絶縁すると姉(池友子)と姉(池友子)の長女から言われていたのでなんとなく姉(池友子)の家を訪れるのが憂鬱であった。そのため2013年7月13日から15日まで帰省した際には姉(池友子)に連絡をとることも姉(池友子)の家を訪れることもしなかった。姉(池友子)から借りていた3万円もそのまま東京に持ち帰った。
 
その当時はまだ、父親とも縁を切るという話は姉(池友子)から聞かされていなかった。2013年7月13日から15日に帰省して私が最も気がかりであったのは、父親が所有する不動産の始末であった。元々農家であったわが家にはあちこちに田畑や山林があった。しかし私はそれらがどこにあるのか、ほとんどわからなかった。母親は慢性関節リウマチを長年患い、歩くことすらままならない。
 
私は高知から帰った2013年7月15日の晩に姉(池友子)に電話をかけた。そして、父親の不動産が欲しいかどうかを尋ねた。姉(池友子)は不動産は要らない。金だけ欲しいと言った。しかし身体の不自由な母親に不動産を相続させるわけにはいかない。父親の所有している田畑や山林はできるかぎり私が処分するが、父親が亡くなったときにもし不動産が残っていたならば、姉(池友子)と私の二人で折半しようと提案した。しかし姉(池友子)は、「要らないものは要らない」と言って、不動産を相続することを拒否した。私は「そんなことを言うても、身体の不自由な母親に不動産を相続させるわけにはいかんじゃいか」と声を荒立てた。そうしたら、姉(池友子)はがちゃっと一方的に電話を切った。
 
姉(池友子)は何か気に入らないことがあるといつも一方的に電話を切った。この日も、再度電話をかけても無駄であろうと思い,姉(池友子)の長女に電話をかけ、姉(池友子)との電話でのやり取りの概略を述べた。
 
すると、姪はいきなり「おばあちゃんは許さん」と怒り出した。その2週間前の2013年7月1日に姉(池友子)と姉(池友子)の長女から母親との縁切りを告げられていたが理由を知らなかったので、このとき姪になぜおばあちゃん(姪の祖母にあたる私の母親)を許せないのかを尋ねた。姪は「おばあちゃんは私のお母さんによりもおじちゃんに少し多めに遺産を残したい」と言った。だから許せないと怒り出したのだ。

姉 6「あなたたち家族の3人」

2013年7月28日に姉(池友子)が残した留守番メッセージの冒頭の「あなたたち家族の3人」は私と私の両親を指しているものとずっと私は思っていた。この「3人」が私と私の家内と私の一人息子を指していたことを知ったのは、2年後の母親の告別式の晩であった。
 
父親の葬儀には出なかった姉(池友子)が、なんと母親の葬儀には参列した。姉(池友子)ばかりではなかった。姉(池友子)の長女と次女、そして彼女達の子供たちも告別式に参列したのだ。しかし彼らは誰一人として親族席には座らなかった。一般席のしかも最後部に一列に並んで座った。私も私の親族も、親族席に座るようにと姉(池友子)に言ったが受け付けなかった。
 
告別式の喪主の挨拶で、私は母親が死ぬ間際まで姉(池友子)に会いたがっていたということを述べた。ところが、少し難聴気味である姉(池友子)は最後部に座ったこともあって私のスピーチが聞き取れなかったという。(事実かどうかは不明。)姉(池友子)が隣りに座っている娘達に尋ねると、娘達は私がさんざん姉(池友子)の悪口を言っていたと話したという。
 
愚かな娘達である。百歩譲って私が姉(池友子)を批判するスピーチをしていたとしても、姉(池友子)にそのスピーチが聞き取れなかったならば、そのようなことは伏せておけばいい。わざわざ話すことではない。ましてや私は、一言も姉(池友子)や姉(池友子)の家族を批判することは話していない。
 
「この母(池友子)にこの娘あり」である。
 
結果として、姉(池友子)は私のスピーチ内容に激怒したという。その晩、親戚に電話をかけてきた。そして電話に出た従姉に次のように言ったという。私と私の家内と息子が母親の財産を全部自分たちの名義に書き換えた。私の家内は「現金が好きだから」と。姉(池友子)の留守番電話の「あなたたち家族の3人」が私と私の両親ではなく、私と私の家内と息子を指していたことを知ったのはこのときであった。しかし、当時、まだ中学生であった私の息子までこれほど憎むとは、姉(池友子)は狂っている。
 
私が姉(池友子)や姉(池友子)の家族を批判するスピーチをしていないことは参列者全員が証言してくれた。繰り返しになるが、私は「母親は死ぬ間際まで実の娘である姉(池友子)に会いたがっておりました」と一言言っただけである。悪口でも何でもない。母親が姉(池友子)に対して最も告げたかったであろう言葉を私が代弁しただけである。どんなに姉(池友子)が母親を憎んでも、母親は実の娘に会いたくて仕方がなかったのだ。
 
父親が亡くなったとき、私は姉(池友子)に手紙を書いた。その手紙の最後に、私は姉(池友子)の病気を知っている。どんなに薬を飲んでもどんな宗教に帰依しても姉(池友子)の病気は治らないと書いた。この一文をとりあげて、姉(池友子)は姉(池友子)の病気の詳細を知っていたはずだと裁判の場で主張した。私が知るはずはない。私は姉(池友子)から不眠を訴えられたことはあるが、どのような病名で通院しているのかもどのような薬を服用しているのかも知らなかった。ただ、誰が見ても姉(池友子)が精神の病気をやんでいるのは明らかであった。その心の病の原因は姉(池友子)の心の持ち方に問題があることであると考えたため私はそう書いたのだ。
 
姉(池友子)は一度でもいいから母親の生前に病院を訪れるべきであった。そして実の娘が見舞いに来てくれ喜ぶ母親の笑顔を見ておくべきであった。その母親の笑顔を見ておけば、姉(池友子)の病気は治ったかもしれない。姉(池友子)の病気は、母親の死後、更に悪化したと人づてに聞いている。当然の結果である。

姉 5

姉(池友子)が2013年7月28日に残した留守番メッセージの音声記録へのリンクを「姉 1」に記した。その留守番メッセージは活字におこして裁判所に提出した。その文書をここに掲載しておく。
 

感謝状? 3

2013年8月13日。高知県で記録的な暑さを記録した日であった。この日、熱中症のためか母親は自宅で転倒し腰椎骨折をおこした。そして救急車で病院に搬送された。母親を搬送する救急車の後を追って実家のご近所の人たちが病院に駆けつけてくれた。
 
その人たち(2名)のうちの一人が、私の実家から姉(池友子)に電話をかけて、病院に来てくれるように依頼した。ところが姉(池友子)は既に両親には「絶縁状」を送っており、家族と相談して家族全員が國弘家と縁を切ることにした。したがって病院には行かないし、両親の葬式にも参列しないと言った。
 
倒れた母親の衣服を救急車が来る前に着替えさせなければならないし、母親の身体の清拭も必要であったふたりは、頑固な姉(池友子)と話を続ける時間はないと考え、途中で電話を切ったという。母親は寝室の中に置いてあったオマルのなかに倒れ込んでいたらしい。身体は糞便でべっとりであったと聞かされた。
 
二人が救急車の後を追って病院に向っているときに姉(池友子)から何回か電話がかかってきた。しかし病院には絶対に行かないという姉(池友子)の相手をする余裕がない二人は、電話をとらなかった。
 
それから約2年後の2015年8月7日に母親は亡くなった。母親の葬儀の日、姉(池友子)はその隣人にこう言ったという。「病院に行こうかと思って五百子に何回も電話したけんど、五百子は電話に出なかった。」(父親の葬儀には参列しなかった姉(池友子)が、なんとこのときには葬儀場に駆けつけたのである。私は驚いた。)
 
つい先日、この隣人は怒りを込めて言った。「おばちゃん(私の母親)が入院する病院はきちんと友子ちゃんに伝えてある。もし友子ちゃんに病院に来る気があれば、私に断る必要などない。直接病院に来ればいい。」
 
まさに彼女の言う通りである。
 
姉(池友子)は自分が両親に送った手紙(「感謝状? 1」を参照)をこの際には「絶縁状」と言った。そして裁判の場では「感謝状」であったと主張した。姉(池友子)の長女も同様の証言をした。
 
姉(池友子)と姉(池友子)の長女のこれまでの人生を象徴するエピソードのひとつである。姉(池友子)は他人を陥れることと金にしか興味がない。これは私と私の家内の共通の認識である。

感謝状? 2

既に何回か書いたが,2013年6月下旬に父親が出血性脳梗塞の二度目の発作で倒れて入院したとき、私は数日間高知に帰省した。私が東京に戻る日の前日(2013年7月1日)の夕方、姉の家に立ち寄ったとき、別れ際に姉(池友子)と姉の長女がかしこまって私の前に立ち、「幸伸,私たちはお母ちゃんと縁を切る」と私に告げた。私はまたいつもの親子げんかでもたのだろうと軽く考え、返事もせずにホテルに戻った。
 
その前日、つまり2013年6月30日にも私は姉(池友子)の家を訪れていた。姉は数日前にその家(賃貸マンション)に引っ越したばかりであった。私が姉(池友子)の家を訪れたとき、姉の夫(私の義兄)は仕事に出ており、家の中には姉(池友子)しかいなかった。姉は引っ越したばかりの住居のなかを案内してくれた。
 
帰り際に屋外でしばらく姉(池友子)と立ち話をした。その際に、姉(池友子)が、「お金は足りる?」と私に尋ねた。当時、高知県内にはメガバンクは1つしかなかった。みずほ銀行であった。しかし私はみずほ銀行には預金口座を持っていなかった。姉は私を高知市内のショッピングセンターの脇にあるATMに私を案内してくれた。私はいくばくかの金をそのATMで引き出した。父親の衣類やタオルなど、いろいろな入院用品を買ったので、私の財布の中の金が少なくなっているのではないかと姉(池友子)は心配してくれたのだ。財布のなかを確認すると、数千円しか残っていなかった。姉(池友子)はそれを見て、「お金を貸しちゃおか。待っちょり」と言って自宅に戻り3万円を持って出てきた。私は翌7月1日しか高知には滞在しないので多くの金は要らないだろうと思ったが、もし金が必要になった際にまたATMに行かなければいけなくなるのは時間の無駄になると思い、姉(池友子)が差し出した3万円を借りた。
 
このことからもわかるとおり、私と姉(池友子)とは決して仲たがいしていたわけではなかった。事情をよく知らない人は、私と姉(池友子)とは元々仲が悪かったのではないかと思ったかもしれないが、そんなことは全くなかった。
 
翌7月1日にも東京に戻る挨拶をするために私は姉(池友子)の家を訪れた。その際には、姉(池友子)の長女と次女および彼女らの子(姉(池友子)の孫)も姉(池友子)の家に遊びに来ていた。屋外で子供たちを遊ばせていた。短時間姉(池友子)と立ち話をしてホテルに戻ろうとしたその時に、姉(池友子)と姉(池友子)の長女が母親と絶縁すると突然私に告げたのである。姉(池友子)の次女は少し離れたところで子供たちを遊ばせており、私たちの会話には加わらなかった。
 
私は7月13日から15日まで再度、高知に帰省した。その際に、姉(池友子)から借りた3万円を返すつもりであった。しかし、当時はまだ身体の不自由な母親が自宅で一人暮らししていた。母親の介護もしなければならなかった。雑用も山のようにあった。
 
また、姉(池友子)の気性を知っていた私は、しばらく姉(池友子)とは接触を持たずそのままにしておくのがいいだろうと考えた。そのため、姉(池友子)には3万円を返さないまま東京に戻ってきた。そしてその日(2013年7月15日)の晩、東京から姉(池友子)に電話をかけた。
 
この際の電話でのやりとりについては次回書こうと思う。

2019年5月9日木曜日

感謝状? 1

下の手紙は、姉(池友子)が両親に宛てて送ってきた手紙である。当時、父親は既に入院しており、この手紙は母親と一部の親戚の者しか読んでいない。私はこの手紙を母親の死後、母親の寝室を整理している際に見つけたので、母親が生きていた時期には読んでいなかった。ただしその文面は母親が私に繰り返し聞かせたので、おおよその内容は知っていた。
 
読者は下の手紙を感謝状と解釈するであろうか。姉は、母親が入院したときには「既に絶縁状を送ったので、もう見舞にも葬式にも行かない」と実家のご近所の者に言った。ところが、裁判の場では、この手紙は「感謝状」であったと姉も姉の長女も弁解した。
 

姉 4

 
 
振り返ると、私の家族は姉(池友子)と姉の家族に利用され続けただけであった、
 
私が留学から戻った後のことであるから1995年よりも後のこどであるが、正確な年を記憶していない。なんとなく秋の初めごろであったのように思うが記憶が定かでない。
 
姉からひっきりなしに電話がかかってくることがあった。1日に2度電話がかかってくることもあった。用件は姉の長女の結婚。長女が結婚すると言い始めたが姉はその結婚に反対であるので姪(池祐唯0の長女)を説得してもらいたいということであった。
 
私は相手の男性に合ったことがなかった。名前すら知らなかった。ただ、姪よりもかなり年上であるということは姉から聞かされた。ただ、姉が二人の結婚に反対するのは年齢差が理由でなかった。始めの頃はなぜ姉が娘の結婚に反対するのか私には理由がわからなかった。姉から電話がかかってきても私は単に姉の話を聞くだけであった。
 
ただ、あまりにもしつこく姉が二人の悪口を言うので、私も最後には姪に電話して二人の結婚を止めてみると答えた。そして姪に電話をかけた。
 
私が姪にまず言ったのは、姪の荷物を実家から持ち出すために姪の結婚相手が姉の自宅を訪れた際に、母親である姉(池友子)に挨拶ひとつしなかいというのは失礼ではないかということであった。このことは姉から聞かされた話であったが、事実であったのかどうかはわからない。ただ、姪はそのことが事実ではないとは言わなかった。
 
私は電話をかけるまえに、10年ほど前に相談したことのある占星術師に電話で姪の結婚について尋ねた。姪の誕生日も結婚相手の誕生日も私は知らなかったのでその占星術師の答えもややあいまいであったかも知れないが、その占星術師は「すこし遅くて30歳代後半になるが、そのころ姪ごさんにはいいご縁がある。今のご縁はあまりよくない」と言った。
 
私はたかが占いのことであったが、そのことも姪に告げた。
 
しかし、姉の言葉をそのまま繰り返せば、姪は既に”目つきが変わっていた”ようだ。(電話であったので彼女の表情はわからなかったが。)姪はその前にも好きな人がいたそうであるが、その際にも姪の目つきが気違いのようになったと姉(池友子)は私に話した。
 
私は輪根の度重なる職場への電話に耐えかね、姉の指示にしたがって、姪に電話をかけた。しかし私は姪の結婚には賛成で反対でもなかった。単に、あれほどまで姉(池友子)が姪の結婚相手を悪く言うのであれば、sの話のどこかには事実が含まれているのであろうと思っただけである。
 
姉の話から、二人が結婚することになっても、姉は結婚式には出席しないものと思った。親が出席しない結婚披露宴に私が出席するわけにはいかないと私は考え、披露宴には出なかった。
 
ところが、ところが、である。あれほど結婚披露宴には出ないと言っていた姉は、何事もなかったように結婚披露宴に出席したのだ。そして二人の結婚に反対する電話をかけさせられた私は姪から今も憎まれている。姪の結婚にあたって披露宴には出なかったが姉に8万円託したが、その8万円が姪の手に渡ったのかどうかすらわからない。
 
私が姪の結婚に反対する電話をかけた経緯については、父親が生前、姪に話してくてくれたという。父親本人からそう聞いた。父親の話を聞いて姪は納得したと父親は私に話した。
 
とんでもない。姪は私を今も憎みに憎んでいる。そして私を悪い者に仕立てた姉(池友子)は何事もなかったように娘をかわいがり娘は姉(池友子)を慕っている。
 
姪は、私には「まっとうな人間になってもらいたい」そうだ。ばかけた話である。

姉 3

母親が亡くなったのは、2014年8月7日の夕方であった。金曜日であった。午前中の外来を終えて携帯電話を確認すると、母親の容体が思わしくないとのメールが主治医から届いていた。早ければ1週間以内に母親は亡くなるかもしれないと書かれていた。私は直ちに主治医に電話をかけ、電話をかけると同時に実家のご近所の人に連絡した。何人かの隣人が病院に駆けつけてくれた。私の従兄姉も病院に来てくれた。
 
私はその日の午後、手術があった。手術を終えて携帯電話を確認すると、ひとりの従兄から繰り返しメッセージが入っていた。母親の容体が刻一刻と悪くなっていく模様が述べられていた。「もう駄目だ!」というのが最後のメッセージであった。なんということか・・・。
 
私はその数日前に母親を見舞っていた。いつも母親は寿司を食べたがるのでその帰省の際にも病院近くのスーパーで寿司を買って病院に持っていった。しかしそのとき、母親はその寿司を口にしようとはしなかった。すでに病態がかなり悪化していたのであろう。
 
帰省するたびに母親の容体は悪化していた。それを見るのは私にはとても辛いことであった。入院当初は、私が病室に入るや否や「お姉は?」と尋ねた。その一言から、母親の電話に姉が無視を続けていることがわかった。私は返す言葉もなく、ただ首を横に振るだけであった。母親はそれを見ると天井を見つめ、しばらく沈黙した。寂しそうであった。入院後数ヶ月すると、母親は携帯電話を手にしなくなった。そして「お姉は?」と私に尋ねることもなくなった。
 
私は母親がかわいそうでならなかった。目と鼻の先に済んでいる実の娘が一度も見舞に来ないどころか電話すらとらない。姉の子供たちも夫も無視を続けている。
 
母親が亡くなったあと、私が高知に帰ることができたのは、その翌日の夕方であった。既に外は暗くなっていた。母親の遺骸は従兄らによって既に葬儀場に運ばれていた。白いハンカチを顔にかぶせられ横たえられている母親の遺骸を見た瞬間、私は涙が止まらなくなった。泣き続けた。
 
私が泣き続けているとき、なんと一度も母親の見舞に来なかった姉が私に寄ってきた。そして、私一人に母親の介護をさせたことをわびた。しかし、姉が母親の面会に来なかった理由は弁護士が止めたからだと姉は言った。
 
そんなことがあろうはずはない! その理由は真っ赤な嘘である!
 
遺産相続の問題が姉と私と母親との間で持ち上がったのは、父親の死後のことである。姉は父親の存命中も一度たりとも病院には来なかった。電話もとらなかった。。
 
なんという言い訳であろうか。
 
これは姉の人生を象徴的に表す出来事である。姉は他人を陥れること金にしか興味がない。これが私と私の家内の共通の認識である。私は生涯、姉(池友子)を憎む。

2019年5月6日月曜日

母親の思い 2

私の姉に対してよりも私に少し多めに遺産を残したいと姉に話した母親の気持ちがよくわかる。姉には4人の子がいるが、私の両親の援助もあり、全員が私立の中学校と高校に通った。そして全員が国立大学を卒業した。嫁ぎ先が経営する会社が倒産したあと家も失って借家住まいになった姉の家族にとって、実家からの援助がなければ、これほどの教育が受けられようはずがない。実家のご近所の人たちは、両親がどれほど姉の家族をサポートしてきたかをよく知っていた。両親からの援助を全く知らなかったのは、姉の夫(私の義兄)と姉の子供たちだけであった。姉は実家からの援助を必死で隠した。
 
母親からすれば、自分たち(私の両親)の援助によって姉の子供たちは全員大学を卒業し就職した。2人はすでに結婚し曽孫も生まれた。ただ、國弘家の跡取りである私の子はまだ中学生。これから教育に多くの金はかかるであろう。先祖代々の墓地の処理も私に委ねなくてはならない。更に実家の建物や土地、点在する多くの田畑や山林の処分も頼まねなならない。したがって、息子である私に多めに遺産を残しておかなければ私が苦労するであろう。こう考えていたに違いない。
 
こう考えた母親は、まず姉の了承を得るために姉に話をしたのだ。姉の了承を得ておこうと考えたのであろう。
 
ところが、なんと、姉はその母親からの問いかけに対して、姉は「絶縁!」で応えた。
 
母親は嘆き悲しみ、私に何度も次のように言った。「親子なんだから、不満があればきちんと話をすればいい。」
 
姉は、母親が何度電話をかけても受話器をとらなかった。母親が脊椎圧迫骨折で入院し亡くなるまでの間に母親は姉に繰り返し繰り返し電話をかけたが、姉は頑として受話器を取らなかった。途中から母親は携帯電話を投げ捨てた。その携帯電話は、母親が亡くなるまで、病院の近くに住む従姉が預かってくれた。
 
姉が母親の顔を見たのは、母親の危篤を従兄から知らされて病院に駆けつけたときであった。しかし、すでに母親は亡くなっていた。姉は母親の遺骸にすがりついて泣き叫んだだという。時すでに遅し。そばにいたひとりの親戚の者が「友子ちゃん、ちっくと遅かったねえ」と言ったという。痛烈な皮肉であった。

母親の思い 1

父親が倒れた直後、姉と姉の長女が、私の母親と絶縁すると突然言ったことはこれまで繰り返し述べてきた。父親が倒れて入院した数日後のことであった。ふたりが絶縁を告げたとき、理由は何も話さなかった。私も彼らの発言をあまり気には止めなかった。またいつもの親子ゲンカをしたのだろう程度にしか考えていなかった。

ふたりが母親と縁を切ることを決めた理由は、母親が姉に対してよりも私に少し多めに遺産を残したいと言ったことが理由であることを姉の長女(私の姪)から直接聞かされた。姪は、「お婆ちゃんはお母さんよりもおじちゃんに少し多めに遺産を残したいと言った。だから許さない」と言った。

この姪は、自分の母親(つまり私の姉)が内密でどれほど莫大な経済援助を受けてきたのかを全く知らされていなかった。姉は実家からの援助をひたすら隠し通した。

姉はまとまった金がほしくて仕方がなかったようである。姉が入信しているエホバの証人の最終ステージの講習会を受けるために多額の受講料を支払わなくてはいけなかったらしい。このことは私の従姉から聞かされた。「最終段階の講習会」という表現をその従姉は使った。ということは、姉はそれまでに前段階の講習会を何度か受講し、それなりの受講料を払ってきていたのであろう。姉は母親から受け取った金のかなりの金額をエホバの証人に貢いでいたに違いない。

裁判の席で、姉は、エホバの商人からは一切金の請求はなかった。支払っても千円程度であったと証言したが、そんなはずはない。その従姉の姉も、私の姉の陳述を全く信用しなかった。「人が生きていくためにはお金が必要である。そんなわずかな金ですむはずがない」と彼女は言った。彼女もある宗教に入信しているので、宗教団体の実情をよく知っており、そう思ったのであろう。彼女は、自分も家族も幸せにしない宗教はやめるべきであると私の姉に忠告したが、姉は聞き入れなかった。

話を本論に戻す。

両親には自分が築いた財産を全て使って人生の最期を楽しく過ごしてもらいたいというのが私の希望であった。したがって事あるたびに、お金を使うようにと母親には話した。母親は何回か私が勤務している病院に入院したが、毎回、大部屋であった。個室に入院すればいいのにと私は思った。しかし高知から遠く離れて東京で入院生活を送る母親は個室では淋しいだろうと思った。また、父親は、金銭的なことも考えていたようだ。父親は「幸伸の体面を考えれば、個室に入院させた方がいいかもしれないが・・・・」と複雑な心境をのぞかせた。私は何も意見を言わなかった。両親の財産は両親のものであると考えていたからだ。

父親とも母親とも、私は遺産相続について一切相談したことはない。父親が倒れ、姉と姉の長女から絶縁を言い渡されたあと母親は遺言状を残したが、私はその遺言状の文面は一切読まなかった。その遺言状には母親の遺産の全てを私に譲ると書かれていたようであるが、遺言状を今まで私は一度も読んでいない。母親の遺言状の処理も弁護士と税理士に全面的に委ねた。

姉と姉の長女は、私が両親との間でこっそりと遺産を独り占めする相談をしていたはずだと思い込んでいるように思えるが、馬鹿げた妄想である。そんなことは考えたことすらない。そんなことを思いつく彼らこそ、彼らが私の立場であったら、両親の遺産を独り占めするためにはどうすればいいかと策をめぐらしたことであろう。他人の物を盗んだりだまし取ったりしようといったことは一度も考えたことがない私と私の家内には、そのような発想は全く湧いてこない。

布引観音











浅間牧場からの眺望 浅間山











東御市武石余里の花桃









2019年5月5日日曜日

姉 2

父親が倒れた直後に姉と姉の長女は両親との絶縁を私に告げた。そして程なく私とも絶縁した。父親に続いて母親も緊急入院した日には、姉は、家族会議を開き、家族全員が國弘家と縁を切ることを決めたと実家のご近所の人に告げた。

姉が國弘家と絶縁することを決めたきっかけは、私の母親が、娘である私の姉に対して「幸伸に少し多めに遺産を残したい」と告げたからであるという。このことは姉の長女から聞かされた。それは父親が倒れて入院した約2週間後の2013年7月15日の夜のことであった。

私は驚いた。遺産相続について、私はそれまで、父親とも母親とも全く話したことがなかった。ただ、そのことを姪から聞かされたとき、私は母親の考えがわかった。

母親は、自分の夫(私の父親)にも姉の家族にも内緒で、多額の経済援助を姉に行なっていていた。当然、父親は父親で別途、姉の家族に経済援助を行った。父親から姉の家族に対する援助については姉の家族は全員知っていた。そのことが姉は気に入らず、父親が死ぬまで父親をなじり続けた。姉は、父親からよりも多くの金銭援助を私の母親から受け続けていたが、この援助は母親と姉との間だけの秘密であった。つまり私の父親はほとんど自分の妻(つまり私の母親)からの援助については知らなかった。ただ、母親は、自分が姉の家族に対して一所懸命経済援助していることを私には隠さず話した。我が家の財布は全て父親が握っていたが、父親は数万円の金を財布から抜かれても全く気がつかなかった。大金を今の畳の上に放りっぱなしにしていたところ、それが盗難に遭ったこともあったという。母親は父親の財布から毎回数万円から10数万円の金を抜き取っては姉に対してこっそり渡した。たまに姉の長女が実家に来てくれたときには、その長女に、姉に渡してくれるようにと大金を預けていた。(このことは実家のご近所の人が目の前で見ている。)母親が姉に与えた援助は2千万円を下らないはずである。母親は、姉の夫の生命保険の掛け金も負担していた。姉の子供たちの成人式の振袖も母親が買ってあげたものであった。冷蔵庫が故障としたときに新しく冷蔵庫を買い換えてあげたのも母親であった。育ち盛りの子供を4人抱えた姉を助けるために実家のご近所の畑を借りて野菜を栽培し、姉の家に毎日のように届けたのも母親であった。姉の家までは、車で片道40分かかった。仕事が忙しくて姉の家に行けないときには、宅配便で食料を送っていた。

ところが、姉は、実家は一円も援助してくれないと、両親がなくなるまで親戚や実家のご近所の人たちに言い続けた。私と電話で話すときにも、話題はいつもそのことであった。母親を病院に見舞ってもバス代すらくれないと言って姉は母親を激しく非難した。

私は「そうかえ」としか言わなかった。実家から多額の援助を受けていることを知られると夫から叱られると姉は私と私の家内に告げていたからである。姉のプライドを傷つけては行けないと考え、私は知らないふりを続けた。

しかしこれは失敗であった。実家から姉がどれほどの援助を受けているのかを私はきちんと姉の子供たちには告げておくべきであった。特に姉の長女の悪態には耳と目を覆わざるを得ないことが度々あった。

姉の長女のことを思い浮かべた際にいつも連想するのは、韓国の慰安婦である。慰安婦たちが日本を批判するために述べていることはあまりにも荒唐無稽なことばかりであるが、姉の長女が私や関係者に話した荒唐無稽な事柄は韓国の慰安婦の陳述と差がない。

姉からも、姉の子供たちからも、一言も私の両親(つまり彼らの母方の祖父母)に対する感謝の言葉を私は一度たりとも耳にしたことがない。

姉 1

私の父親は2013年6月に出血生脳梗塞で倒れた。2度目の梗塞発作であった。梗塞範囲の広さをCTで見せられた私は、もう父親が全快することはないと諦めた。しかしたとえ意識は回復しなくとも数十年間生きるかもしれない。その一方、実家で一人暮らしとなった母親は身体が不自由でトイレにすら歩いていくことができない。私は両親をどのようにして介護しようかと途方にくれた。

こんな大変な時期に、私の姉は一方的に両親に対して絶縁を告げた。私とも縁を切ってきた。姉と姉の長女の話があまりにも荒唐無稽なので、姉と姉の長女が私と私の家族および私の両親と一方的に縁を切ってきた正確な理由はわからない。ただ、姪の話から推測すると、私の母親が「幸伸に対して友子によりも大目に遺産を遺したい」といったことが最大の理由のようである。

私の姉は、1日も早く父親に死んでもらいたい。遺産が欲しいからと私に繰り返し言っていた。このことからも姪の話は信用していいであろう。

下の音声は、父親が倒れて約1ヶ月後に私によこしてきた留守番メッセージである。ここでは一切の説明を加えない。後日、このメッセージの解説をしようと思う。


保証人

10年以上前のことになるかもしれない。私の姉の次女、つまり私の姪が、突然私の自宅を訪ねてきた。勤めていた白木屋を辞めて転職したため、引っ越さなければならなくなった。新たに家を借りるにあたって保証人が必要である。私に保証人になってもらえないかということであった。

どんな些細なことであっても保証人になることは大変である。姪が家賃を払わないというようなことは心配しなかった。私が心配したのは、もし姪が火事でも起こすようなことがあったならば大変なことになるということであった。

私は、両親に保証人になってもらえないかと姪に尋ねた。姪は、転職したことも引っ越すことも両親には話していない。私からも離さないでもらいたいと言った。当然、私に保証人になってくれと頼んだことも口外しないでもらいたいと姪は言った。

親子の間に何かがあったのであろうと私は推測したが、全くそのことについては姪に訊かなかった。私の家内は私が保証人になることに反対であったが、しばらく考えた上で私は保証人を引き受けることとした。そしてその場で不動産の契約書に捺印した。

しかし姪からはその後、なんの音沙汰もなかった。

ところが、それから2年ほどして、突然、姉と私の母親から激しい口調で電話がかかってきた。姪の保証人になったことを何故親である私の姉に離さなかったのかと2人は激怒していた。私には全く意味がわからなかった。私が保証人を引き受けた当時、既に成人になっていた姪から、両親には話さないでもらいたいと言われていたから私は話さなかっただけである。私が保証人を引き受けたことに感謝されこそすれ、私が姪の母親である私の姉からも、姪の祖母にあたる私の母親からも非難される理由は何一つない。

ふたりからは約2週間にわたって繰り返し私に電話がかかってきた。私の母親は「なぜ保証人になったことをお姉ちゃんに話さなかったのか」と言って私を叱りつけた。私は「成人になっている姪から、口外しないでもらいたいと強く依頼されたことをどうして話さなければならないのか」と反発した。しかし、母親は何一つ理由を言わなかった。

私は事情を姪本人から聞こうとして姪に電話をかけた。しかし姪は私からの電話をとるやいなや一方的に切った。そしてその後は、私が姪に電話をかけても反応がなかった。

しばらくして、姪から手紙が届いた。その手紙には、私の姉がいかにひどい母親であるかということが綴られていた。そして私の姉は他人の悪口しか言ったことがないとも書かれていた。まさにそのとおりであった。私の姉は生まれてこの方、私が知るかぎり、一度しか人を褒めたことがない。

皮肉なことに、この姪は、私と私の姉との間で裁判が持ち上がった際に、いかに姪が母親である私の姉を尊敬し慕っているのかという証言を裁判所に提出してきた。

姉も姉の家族も、例外なく全員が、このレベルである。

海野宿と「うだつが上がらない」

昨日の朝、軽井沢から東御市にある海野塾に行った。海野塾は江戸時代の北國街道の宿場町である。真田家とも関係の深い町であったが、昨年のNHKの大河ドラマ「真田丸」ではほとんど取り上げられることがなかった。そのためか、今もこの旧宿場町を訪れる観光客は少ない。しかし町の景観は江戸時代のままをとどめている。住民の教育レベルも高いという。この町を散策しながら何人かの住民と雑談を交わしたが、皆、言葉遣いも丁寧で品格が感じられた。

この町の建物で目を引いたのは、うだつ()のある家が多かったことである。ひとりの住民からは、うだつは経済的に成功したことを示していると教えられた。この旧宿場町は養蚕業の日本での総元締めとして栄えたということであった。そのことから、住民のプライドは今も高く商売が下手であるが、教養や学歴が高い人が多いらしい。上述したように、住民の言葉遣いはとても上品であったことからもそれは頷けた。

道路にはちりひとつ落ちていなかった。観光化され伝統美を失ってしまった馬籠宿や奈良井宿よりもはるかに魅力ある街並みが軽井沢からわずかに20数キロ先にあることをつい先日まで知らなかったことが不思議でならない。