2020年4月26日日曜日

岡江久美子さんの死

岡江久美子さんが亡くなった。
 
私にとって岡江久美子さんといえばNHKの「連想ゲーム」。テレビをほとんど観ない私にはこの番組のことしか頭に浮かばない。彼女が17年間司会役を務めた「はなまるマーケット」という番組もあったようであるが、私はその番組を一度も観たことがない。彼女の死もYouTubeで知った。
 
彼女の死は多くの国民に悲しみを齎した。
 
しかし私は、彼女の死そのものよりも彼女の遺骨を受け取るために自宅の正門まで出てきた夫の大和田獏さんのやつれた顔に悲しみを覚えた。私の父と母が亡くなったときの私の悲しみが大和田獏さんの悲しみと重なったのだ。大和田獏さんは報道陣に対して「残念で悲しくて悔しい」と話した。簡単なコメントを残した後、報道陣に一礼し、静かに家の中に消えた。
 
高知の病院に入院していた両親の見舞と介護のために東京と高知とを往復した2年半の記憶が次々と頭に浮かんでくる。父が倒れたのは2013年6月末。8ヶ月後の翌年の3月に亡くなった。母は父親を追うように2013年8月に入院し、2015年8月に亡くなった。父親の臨終にも母親の臨終にも立ち会えなかった。両親の死を知らせる親戚からの電話をもらったときの衝撃は今も忘れない。本人にとって本当に辛かったことや嬉しかったことの記憶は時間を超越していつまでも頭の中に残るのであろう。
 
 

2020年4月18日土曜日

帽子

「わが家は貧しい」ということを私は幼児期に父親から繰り返し聞かされていた。事実、貧しかった。実家の家は強い台風が来ればすぐにでも倒壊しそうな古いわらぶき屋根であった。台風が高知県に上陸すると、家はゆっさゆっさと揺れた。そのとき祖母は「ほう、ほう」と大きな声をあげた。実家の柱には虫に食われて無数の穴が空いていた。どれひとつとして四角い柱はなかった。どれも角が丸くなっていた。隙間だらけの家には蛇が入ってきた。ムカデに噛まれたこともあった
 
しかし、まだ幼かった私は、そんな家に住むことを苦痛には感じていなかった。どんなにあばら屋であっても、それは私が生まれて育った家であった。
 
私は「わが家は貧しい」と大学を卒業するまで思い込んでいた。「貧乏人の息子」であるという思いに私の行動は長年にわたって縛られていた。
 
私の幼児期、夏になると毎年、野球帽を買いに自宅近くの雑貨屋に母親とでかけた。その時期には頭部も大きくなっていくため、前の年の帽子はかぶれなかった。店で帽子を選んでいるとき、私は母親に向って「うちは貧乏だから、安い帽子でいい」と言ったという。数十年後に母親からこのことを聞かされた。当然、私には記憶がなかった。私にこの話をしたとき母親はじっと私の顔を見ながら微笑んでいた。この頃には、既にわが家は貧乏のどん底から抜け出していたのかもしれない。母親が私に見せた笑みは生活の余裕に裏付けされたものだったのであろう。まだ幼い私が我が家が貧しいことを自覚していることを母親は不憫に思い、忘れられない記憶として残っていたのにちがいない。

卓球台

私が小学校の頃、実家の隣の家の庭に卓球台が置かれていた。その家の幼友達の父親が自作した卓球台であった。ラケットも自作。私はその幼友達とその卓球台で時々卓球を遊んだ。
 
しかし私たちが卓球をしているときに彼の父親が帰宅することがあると、毎回、彼の父親から私はラケットを取り上げられた。そして彼の父親は息子である私の幼友達と卓球を始めた。私は傍に立ったまま親子が卓球を楽しんでいるのを眺めた。しかし、幼友達親子の卓球はなかなか終わらなかった。いつも30分以上続いた。親子の卓球を存分に楽しむと、彼の父親はラケットを卓球台に置き、私には何も言わずに立ち去っていった。こんなことが何度もあった。
 
私には、この幼友達の父親に関して何ひとついい思い出がない。子供の頃、何かにつけて陰湿な嫌がらせをさせられた記憶しかない。
 
私の父親なら、子供同士が楽しく遊んでいるところに割り込むことは決してしなかったであろうと思う。私の父親は仕事にしか関心がなかった。幼い私が父親に遊んでもらった記憶は全くない。しかし私の父親には、このような卑しいところはなかった。

2020年4月12日日曜日

ヒデ坊ちゃん

私が幼い頃、同じ村に私より数歳年上の少年が住んでいた。私は彼を「ヒデ坊ちゃん」と呼んでいた。村民は「ヒデ坊」と呼んでいたように記憶している。彼には姉が2人いた。つまり彼は末っ子の長男であった。年齢が少し離れていたこともあり、私は彼と遊んだことがほとんどなかった。台風来襲の日に彼の家の納屋の屋根裏部屋に登り、紙鉄砲で遊んだことが唯一の記憶である。
 
彼は大人しかった。
 
彼は中学校を卒業すると働きに出た。何の仕事についたのか私は知らなかったが、毎朝、自宅から歩いて働きに出る彼の姿をよく見かけた。
 
彼が就職してどれほど経った頃だったであろうか。1年後であったか2年後であったか。ある日、同じ村に住むひとりの老人が血相を変えて私の家に駆け込んできた。そして顔を硬らせながら側にいた私の父親に向かって大声で次のように喚いた。「ヒデ坊が首を吊って死んだ!」私の父親は大慌てでその老人と一緒に彼の家に向かった。
 
数日後、彼の遺体は彼の自宅の裏山に埋葬された。彼の自殺の原因を詮索する村民はいなかった。彼のことは一日ごとに村民の記憶から消え去っていくように思われた。
 
しかし残された彼の家族の悲しみはさぞかし深かったに違いない。特に彼の両親にとっては生涯消えない深い心の傷として残ったであろう。彼の死後、彼の母親の頭髪はあっと言う間に真っ白くなった。
 
彼の家は彼の2番目の姉が家を継いだ。
 
彼の自殺の原因は今もわからない。若さがあればどんな苦難であっても乗り越えられるはずである。還暦を過ぎ残りの人生が短くなった私は強くそう思う。
 
あれから50数年が経った。
 

2020年4月11日土曜日

少年忍者 風のフジ丸

私が幼い時期、我が家は貧しかった。私は高知県内の寒村で育ったが、父親の言葉を借りれば「村で一番貧しかった」そうである。なぜそれほどまでに我が家が貧しかったのか、正確な理由は知らない。私が生まれたのは1956年(昭和31年)。まだ終戦から10年余りしか経過していなかった。どの家庭も生活が苦しい時期であったと思う。

Wikipedia によると、日本でテレビ放送が始まったのは1953年2月1日。私が生まれる3年あまり前のことであった。保育園児だったころ、私は祖母に連れられて、毎週火曜日の夜、3軒隣りにテレビを観せてもらいに行った。「事件記者」という番組が午後8時から1時間放映されていた。記憶に誤りがなければ火曜日であったと思う。その一家からはいつも歓待してもらった。雑談しながら番組を楽しんだ。当時まだ街灯はなく、月の出ていない夜の帰り道は真っ暗であった。姉が一緒だった記憶はない。姉はいつも母親と一緒であったような印象が残っている。対照的に私はいつも祖父母の側にいた。夜も、祖父母の布団の中に入り祖父母に挟まれて寝た。時折、おねしょをしたが、叱られたことはなかった。

話が逸れた。

我が家にテレビが入ったのはいつであったろうか。私が小学生の頃であったことは確かであるが、正確な時期が思い出せない。ただ、「少年忍者 風のフジ丸」というテレビアニメが放映されていた時期には、我が家にはまだテレビがなかった。Wikipedia には、この番組が放映されたのは1964年6月7日から1965年8月1日までであったと記載されている。この番組を自宅で観た記憶はない。したがって、我が家にテレビが入ったのは、早くとも1965年だったということになる。

「少年忍者 風のフジ丸」のことを今も鮮明に覚えているのは、この番組と生涯忘れることのできない嫌な記憶とが結びついているからである。私はこの番組を隣りの家で観せてもらった。日曜日の夕方に1歳歳下の幼友達と一緒にこの番組を観ることが楽しみであった。ところがテレビが置かれていた彼の家の茶の間に彼の父親が入ってくることがあると、番組の途中であってもいつもテレビを消された。彼の父親は息子の傍らに私がいるのを見るとヘラヘラと笑い、少し間を置いて私の方を見ながらテレビの電源を切った。そしてニタニタ笑いながら何も言わずに茶の間から出ていった。一回や二回ではなかった。

大の大人が、まだ小学生であった私に対してこのような嫌がらせをしたのである。

私の父親も何かにつけて彼の父親から嫌がらせをされたらしい。村の会合から帰るたびに父親は悔しさを母親にぶちまけていた。今も私が鮮明に記憶しているのは、村の農道の改修工事の打ち合わせを村民の間で繰り返し行なっている時期の出来事である。その打ち合わせの場で、彼の父親が、我が家の前の部分だけは改修する必要がないと主張しているという。会合から帰ってくる度にこのことを私の母親にす父親の唇は怒りで震えていた。

隣りの家から受けた数々の嫌がらせについて、後年、父親は、母親と私が傍らにいるときに次のように言った。「貧乏のどん底から這い上がってきている「うち」(つまり私の家)に対するしょのみがあったんだろう」と。「しょのみ」とは土佐弁で、「嫉妬」を意味する。

小遣い

私が幼い頃、姉と私の小遣いは一日五円であった。隣りの家に住んでいた姉弟の小遣いは一日十円。倍であった。このことに私の姉は愚痴をこぼしていた。母親に対して、小遣いを増やしてくれるよう、しょっちゅう要求した。時期は定かではないが、それから何年かして姉と私の小遣いは一日十円に増えた。しかしその時には既に隣家の姉弟の小遣いは一日二十円になっていた。

私は、小遣いが隣家の姉弟よりも少ないことで愚痴をこぼしたことはなかった。私がよく一緒に遊んだその姉弟の弟の方は、私よりも小遣いが多いことをほとんど自慢しなかったからかもしれない。姉が一緒によく遊んでいたその姉弟の姉の方は、弟とは対照的に、自分の小遣いが多いことを姉に自慢したらしい。少なくとも私の姉はそう言った。

私と私の姉の大きな違いは、私は自分の置かれた境遇と他人の境遇とをほとんど比較しようと思わないのに対して姉は何事につけても他人と自分とを比較することであろう。子供の頃から、姉の口から出るのは、愚痴と他人の悪口ばかりであった。この姉の性癖は生涯変わらないだろうと思う。私の目には、姉はこれまで平均以上に幸せな人生を送ってきた。何年か前に夫は亡くなり寡婦となったが4人の子供は皆立派に育ち、既に多くの孫もいる。誰の目にも、少なくとも姉の晩年は恵まれた人生に見えているはずである。

のりたま

最近、自宅の食卓には、常にふりかけの「のりたま」が置かれている。この「のりたま」の袋を見るたびに子供の頃の思い出が蘇ってくる。
 
実家の隣りには1歳年下の幼友達が住んでいた。私はその幼友達と毎日のように遊んだ。当然、彼の家も度々訪れた。私の目を引いたのは彼の家の食卓に置かれていた丸美屋の「のりたま」であった。現在と同じ袋に入っていた。中身は当時も少なかった。高価なふりかけであった。私は大人になるまで一度も「のりたま」を口にしたことがなかった。
 
我が家でも当然ふりかけを食べた。しかし我が家で食べるふりかけは非常に大きな袋に入っており、しかも袋が破けそうになるほどぎっしりと詰められていた。鰹節をすり潰したようなふりかけであった。少し生臭かった。中身がスカスカで薄っぺらい「のりたま」の袋とは対照的であった。それでも「のりたま」よりはるかに安価であり、数十円で買えた。そのふりかけの名前は覚えていない。当時、名前を確認したことすらなかった。「ノーブランド」のふりかけであった。
 
私にとって、ふりかけの違いはその幼友達の家と我が家の財力の差の象徴であった。「我が家は貧しい」ということを何かにつけて感じさせられる幼児期を私は送った。我が家が貧しいことを幼かった私も自覚しており、常に引け目を感じていた。貧困生活から抜け出すために無我夢中で働いていた当時の私の両親の思いを理解できたのは、数十年後であった。

2020年4月5日日曜日

墓参り

昨日の昼、急に思い立って家族で墓参りに行った。自宅から墓地までは車で約20分。

父親の命日は3月7日であったが、コロナウイルス騒ぎのために墓参りが遅くなった。昨日は快晴であった。墓掃除を済ませたあと、家族で墓前に手を合わせて帰ってきた。帰り際に「私たちが死んだら年に1回は墓参りに来てよ」と笑いながら家内が息子に告げた。息子はボソッと小声で「うん」と答えた。

父親の生前、私が実家に帰省すると、父親と私は実家の裏山にある先祖の墓を一緒に訪れた。先祖代々の墓は全て土葬であり、29柱もの墓石が建っていた。しかし私が生前の姿を知っているのは祖父母だけであった。墓石に刻まれている俗名をほとんど知らなかった。知っていたのは、父親の姉である米尾と兄の才京だけであった。祖父母の墓石は墓地の最後列に並んで建っていた。祖父母の墓石の前に立つと、父親は「幸伸が帰ってきたぜよ」と祖父母に語りかけるように話しながら墓石に水をかけた。そして墓参りが終わり山を下ってくる途中で「私が元気なうちは私が墓守をするが、私が死んだら墓守を頼むぜよ」と私に言った。

父親の入院中に私は先祖の墓を全て東京に移した。改葬には多大な労力と時間、そして資金を要した。しかし改装しなければ父親を埋葬するスペースがなかった。父親の病状は帰省するたびに悪化しており、時間との競争であった。東京の墓が完成したのは父親の死後になった。納骨の日の数日前であった。先祖の遺骨と父親の遺骨を同じ日に、完成したばかりの墓に納めた。納骨式に立ち会ったのは、私と私の家内と息子の3人だけであった。それでも父親はきっと喜んでいてくれるだろうと私は固く信じ、墓前に手を合わせた。