2007年11月25日日曜日

海に向かへば

私の書斎の書架には1冊の歌集が立っている。「海に向かへば」という表題がつけられている(出版:雁書館)。この歌集の作者と私とは高校時代の同期である。

私は高知県にある中高一貫教育の私学で6年間の学生生活を送った。この歌集の作者である「大崎瀬都」という女性は高校から編入してきた。だから彼女と一緒に学生生活を送ったのは3年間にすぎない。しかも彼女は文科系のクラスに進んだ。同じクラスになることはなかった。そんなこともあって学生時代に彼女と話をしたことは一度もなかった。

彼女は小柄で物静かであった。そしていつもうつむき加減に歩いていた。決して目立つ学生ではなかった。しかし私は、廊下などで彼女とすれ違うたびにはっとして彼女の方に目を向けた。

彼女の歌は当時、高校生向けの月刊誌に毎月のように入選していた。それらの歌を目にするたびに私は彼女のみずみずしい感性に驚嘆した。校舎の中の階段の昇り降りといったきわめて平凡な行動にすら彼女は歌のなかで私に大きな感動をもたらしてくれた。

「海に向かへば」はそんな彼女が数年前に出版した歌集である。この歌集の中の1章のタイトルでもある。この章のなかに収められた歌を読めば「海」とは土佐湾に広がる太平洋であることがわかる。この章の中の作品をいくつか紹介したい。


故郷の海も真近しベルが鳴りここよりは「土佐くろしお鉄道」

故郷へ向ふ列車の夜の窓に一歳(ひととせ)老いし顔を映せり

降り立ちし爪の先よりほぐれゆくわれをつつみて故郷のあり

故郷の川に下りて手を洗ふわれの儀式を知る人のなし

列車動けば目をそらしたり見送りの母は涙を見せるかも知れず

気の遠くなるほど長き歳月と言ふにあたらず海に向かへば

2007年11月19日月曜日

高台寺

先週の水曜日から土曜日まで大阪での学会にでかけた。その合間をぬって京都に出かけた。

金曜日の午後、まず高台寺を訪れた。ここは豊臣秀吉の妻であった北の政所(寧々)が夫の霊を弔うために建てた寺である。秀吉の没後、彼女は残りの人生をこの寺で送った。彼女の墓もこの寺の中にある。

関ヶ原の戦いの際、彼女は徳川家康側に加担した。子飼いの福島正則や加藤清正が徳川方(東軍)についた理由のひとつは彼女からの進言があったからであろうと私は推測している。もちろん、朝鮮出兵時、石田三成が秀吉に告げた数々の讒言に対する恨みもあったであろうが。西軍方に陣取っていた小早川秀秋がなかなか戦に加わらず、途中から突然寝返って東軍に加勢したのも北の政所の意向を汲んだものであったのではなかろうか。

(皮肉なことに、東軍に加担した彼らの家は徳川幕府開設から程なく途絶えることになる。加藤清正の死は暗殺によるものであったのかもしれない。)

なぜ北の政所は秀吉の子である秀頼方につかなかったのであろうか。

客観的に歴史を振り返れば、秀吉亡き後、日本統治能力があるのは徳川家康以外にはなかった。したがって北の政所が東軍方につこうが西軍方につこうが歴史に大きな変化はなかったのかもしれない。北の政所が東軍に加勢した理由のひとつは、豊臣家が存続していくためには家康に対して臣の礼をとる以外にないと冷静に判断したためなのかもしれない。彼女が家康方につくことによって豊臣家お取りつぶしを免れようとしたと考えることもできないことはない。

しかし私は、北の政所を動かした最も大きな原動力は嫉妬であったのではなかろうかと思っている。秀頼の母つまり茶々に対する嫉妬である。秀吉と寧々との間には子がなかった。あの時代、秀頼の実の母は茶々であっても少なくとも形式上の母は寧々(北の政所)である。もし茶々が秀頼の実の母であったとしてももう少し慎みを持って行動していれば北の政所の誇りを傷つけることもなかったであろう。

もちろん茶々の勝手な振る舞いを許した秀吉にも大きな責任がある。

秀頼が生まれる前、秀吉には国松という子があった。しかし国松は早世した。その悲しみから逃れるために秀吉は朝鮮出兵を決意したという説もある。だから、国松亡き後、やっと生まれた秀頼を秀吉が溺愛し、茶々のわがままをなんでも許したとしても理解できないこともない。

ただ、ひとつ疑問がある。果たして国松も秀頼も果たして秀吉の子であったのであろうか。そうではなかったという説を唱える歴史学者も少なくない。秀吉自身は我が子と固く信じていたであろうが。

秀吉は実に多くの側室を持った。しかし茶々以外は誰も子を産んでいない。秀吉は種なしであったという説が消えない根拠となっている。

ひょっとしたら北の政所は、秀頼が秀吉の子でないことを薄々知っていたのかもしれない。

当然、家康の政治力も素晴らしかった。北の政所を味方につけるために家康は彼女に対して心から礼を尽くした。女性である彼女の目に、石田三成と比較して家康がどれほど立派に映ったかは容易に想像できる。

家康が天下を取った後も家康は北の政所に対して生涯手厚い援助を続けた。

北の政所の遺体は高台寺の霊屋という建物の中に安置されている。この小さな建物を外からのぞき込みながら、私はこの小さな、ほんとうに小さな墓の主が、日本の歴史に大きな影響を与えたことを思い、人間の情念というものの怖さを改めて感じた。

2007年11月10日土曜日

友人の次男の死とピアノリサイタル

4日前の午後5時過ぎに私の携帯電話が鳴った。友人からの電話であった。私の職場に出かけてきている。これから私の部屋を訪ねてもいいかという内容であった。

その時、私はちょうど外出していた。その旨、彼に告げた。彼の電話の用件は察しがついた。

彼はちょうど2週間ほど前に次男を亡くした。数日後にそのことを私は職場の廊下で彼の部下から聞かされた。私は茫然となった。脳腫瘍であったという。昨年の夏に発病し余命いくばくもないことがすぐにわかったが、職場で彼はそのことを誰にも話さなかったとその部下は私に告げた。

4日前の電話で彼と数分間話したときも彼はそのことを私に語った。「職場で混乱が生じるといけないと思ったので、この1年間、ずっと誰にもしゃべらずに過ごしてきた。」彼はそう言った。この言葉から、彼がこの1年間耐えてきた孤独がひしひしと伝わってきた。

彼は、「息子が死ぬ1週間前まで一緒に食事にでかけたりできたから・・・」とも言った。この1年間、彼は家族と一緒に過ごす時間をできるかぎりとってきたのだろうなと私は推測した。

彼は電話の向こうで涙ぐんでいた。私も涙を流した。

彼は文字通りの会社人間であった。ワーカホリックであった。彼は、会うたびに、彼の仕事と会社に対する熱い情熱を熱く私に語った。「出世したい。」この言葉が何度彼の口から出てきたことか・・・。そのたびに私は、どうしてそう思うのかと尋ねた。彼の答えはいつも同じであった。

よくもわるくも彼は「男」であった。「男」になりきれる彼を私は心から尊敬していた。

しかし彼が「男」になりきれていたのは、彼に温かい家庭があってこそのことであった。この前提が崩された今、彼はこれからもずっと会社人間でい続けることができるのであろうか。

電話を切る間際に、彼は「49日の法要が終わったら、会って愚痴を聞いてよ」と言った。「愚痴」とは「後悔」のことだろうと私はとっさに思った。私は、「もちろん。泊まりがけで出かけていくよ」と答えた。

死は永遠の別れであり、絶対的な拒絶である。

彼との電話を切るとすぐ、私は地下鉄に飛び乗り、上野に向かった。その日の午後7時から東京文化會舘大ホールで行われる関孝弘氏のピアノリサイタルに招待されていたからだ。関氏のそのピアノリサイタルには昨年も同じ知人が招待してくれた。その知人は関氏の姪にあたる。

私には音楽の素養はないが、関氏は基本にとても忠実な演奏をされる方なのではないかと感じている。演奏には技術を超えた「人」が表れる。関氏の奏でる端正なメロディーは関氏の歩んできた人生そして関氏の人柄そのものなのであろうと思う。

演奏の最中、私はずっと友人のことを考えていた。ピアノ演奏を聴きながら、きっとこの音楽は彼の耳にも届いているはずだとなぜだかわからないが私はそう感じていた。関氏の演奏する曲のひとつひとつがその日の私には鎮魂歌として胸に響いた。

彼の次男の死を悲しんでいるのは彼と彼の家族ばかりではない。しかしこの悲しみを乗り越える勇気を彼に与えてくれるのは時間以外にない。