2011年6月25日土曜日

今月3度目の帰省

昨日、日帰りで高知に帰省した。

一昨日、父親はリハビリテーション病院に転院した。転院手続を済ませただけですぐ母親と姉に連れられて帰宅した。したがって私が実家に帰ったときには両親が揃っていた。姉も夫(私の義兄)をひとり残したままずっと実家に泊まってくれている。

父親が落ち着いてリハビリテーションに取り組める環境を整えなくてはならない。

私は帰宅すると、父親といっしょに大急ぎで所用を済ませた。そして父親を転院先のリハビリテーション病院に送り、その脚で空港に向かった。

父親が入院したリハビリテーション病院は高知市のはずれにある。まわりに広い田園が広がる。静かで空気も澄んでいる。病院は木造2階建て。父親の病室は2階の個室であった。十分な広さと設備。日当たりもよく、療養するには最高の環境であった。父親は疲れていた。したがって私は病棟の看護師の方々に挨拶を済ませるとすぐに病院を出た。

レンタカーで病院から空港に向かう途中、私は父親の人生を振り返った。父親は、終戦後間もなく、中学校卒業と同時に一家の柱として懸命に働いてきた。そのため老後のお金には困っていない。しかし、もしリハビリテーションが終わった後も帰宅できなかったとしたら・・・。

2週間前に会ったときと比較して、父親は明らかに物忘れがひどくなっていた。5分ごとに、これがない、あれがないと騒いでいた。これほど物忘れがひどくては一人で生活できるはずがない。ましてや母親の介護など無理である。かといって、父親を東京に連れてきても、私の生活が成り立たなくなる。家族が24時間、振り回されてしまう。

しかし、65年間一家を支え続けてきた父親を、家族と離れたままひとりぼっちで終わらせることになれば、あまりにもむごいではないか。

年をとれば人は病気になる。病気にならなくとも全ての人が必ず死ぬ。ある年齢に達したならば、誰もが自分の死に向けて心の準備を開始しなければならない。

人生最期の時期を家族に囲まれて自宅で過ごすこと。

これがおそらく最も幸せな死の迎え方であろう。母親ははっきりと口に出して「住み慣れたわが家で残り少なくなった時間を過ごしたい」と言う。口には出さないが、父親もやはり同じことを一番強く望んでいるであろう。

2011年6月13日月曜日

2週続けての帰省

高知から東京に戻る飛行機の中でこの文章をしたためている。

2週続けての帰省になった。

昨日は、高知空港でレンタカーを借り、姉の嫁ぎ先に立ち寄り、姉と一緒に父親が入院している病院に向かった。ちょうど姉の三女(私の姪)が帰省しており、その三女も同乗した。

私の父親には孫が5人、ひ孫が2人いる。これらの孫やひ孫が可愛くて仕方がないらしい。父親は彼らの顔をみると心から嬉しそうな笑顔を浮かべる。

昨日、私たちが病院を訪れたのは、父親の病状に関する説明を主治医から直接聞くためであった。私が主治医に会うのは初めてであった。説明は簡単であった。医師である私にとって、父親の脳MRIを見せてもらえればほとんどなんの説明も要らなかった。これからの父親に必要なのは、脳梗塞の再発を防ぐための治療とリハビリテーションであった。

リハビリテーションによって父親の失語症が完全によくなるとは思えない。しかし、できる限りの治療を受けさせる必要がある。父親は仕事や自宅にいる私の母親のことをしきりに心配している。まずは父親のこれらの心配事を取り除いてあげなくてはいけない。

昨夜は実家に帰り、母親と夜遅くまで話した。母親とふたりきりでこんなに長時間話すことはなかった。今まで聞いたことのない話もいくつか聞くことができた。たわいのない話が多かったが。

そんなたわいのない話の中のひとつ。

だいぶ前のことであろうが、私の父親が近所の人に「うちの嫁は地味で」話したことがあるという。その時、その隣人は「亭主(つまり私)の稼ぎが少ないからよ!」と言ってあざ笑ったという。また、実家の近くの別の老婦人からは「息子を医者にしたのに役に立たんねえ」と言われたこともあるらしい。母親が地元の病院で入退院を繰り返していたことに対する嫌みであったようだ。また、父親は父親で更に別の老夫人から、「おまん(土佐弁:あなた)の頭は大したことがないのに、お孫さんができるのはどうしてじゃろうね」と言われたことがあるという。父親はその言葉に対して「ワシはこればあの人間じゃけんど(私はこの程度の人間であるが)、孫がようやってくれるけ(孫がよく勉強してくれるので)、幸せじゃ」と言い返したという。それ以来、その老婦人は父親に対して嫌みを言うのをやめたらしい。

これは余談。

母親と私が寝たのは午後11時30分を過ぎていた。私は母親の寝室の隣の居間で電気炬燵に潜って寝た。

翌朝、私は7時30分に目覚まし時計の音で目覚めた。起きると急いで身支度を整え病院にでかけた。きょうはいくつかの書類手続きを進めるつもりであった。父親と一緒に市役所や銀行に出向き、所要を済ませた。そして病院に戻り、公証人立ち会いのもと、「任意後見契約」の手続きを済ませた。父親の病状が悪化した際、父親が尊厳を失わず、かつお世話になった人たちに対して義理を欠かずに死を迎えられるよう、今から準備を進めておかなくてはいけない。

人は誰も死から逃れられない。私の父親にも、自分の人生の最期をどのように締めくくるのかを真剣に考え、そして直ちに実行に移すべき時が到来した。幸い、病状は比較的軽かったが、そんなに長い時間が残されているわけではない。

2011年6月10日金曜日

無題

私が幼なかった頃、我が家では祖母と父親との言い争いが絕えたことがなかった。怒ると父親は祖母に対して暴力を振るった。そんなとき、祖父母は私の父親の暴カから逃れるため、我が家で「鳥小屋」と呼ばれていた小さな離れに逃げた。私も祖父母を追いかけ、その「鳥小屋」の中で祖父母の間に入り込んで寝た。なぜその離れを我が家で「鳥小屋」と呼んでいたのか私は知らない。私が生まれる前か物心つく前にその離れで鶏を飼っていたのであろう。家が吹きぬける、広さが四畳半ほどの粗末な小屋であった。

まだ幼なかった私には、なぜ祖母と父親との間にけんかが絕えないのかがわからなかった。その理由を私が知ったのはごく最近のことであった。

当時、我が家は貧乏のどん底にあった。中学校を卒業後ほどなく一家の柱となった父親はなんとか貧困生活から抜け出そうと必死であった。その方策をめぐっての意見の対立が2人のけんかの原因であった。

父親は五人兄弟(男3人、女2人)の末っ子。一番上の兄は戦死していた。上の姉は肺結核で死んでいた。私が生まれたとき、私の父親の兄弟としては兄1人と姉1人が残っているだけであった。その2番目の兄は何故か生家である我が家を継がず別に所帯を持っていた。つまり、父親は末っ子でありながら家を継いでいた。貧乏も一緒に引き継いだのだ。

父親は深夜まで休まず働いた。母親も一緒であった。両親がいつ寝、いつ起きているのか、私にはわからなかった。しかしその代償として、私が幼い頃、我が家には一家団欒の時は皆無であった。食事中も父親が私や私の姉に話しかけることはなかった。父親は食事中ですら気むずかしい顔をしながら仕事のことを延々と話し続けた。一家揃っての食事が楽しく感じられたことはなかった。幼かった頃の私は、父親が仕事先から帰宅する車の音にすらおびえた。

父親と祖母との争いが絕えないことに勘えかねた祖父が「正義(まさよし)のところへ出ていく!」と怒り出したことがあったということを、つい先日、母親から聞かされた。「正義」というのは父親の二番目の兄の名である。祖父はきわめて温厚であった。私は祖父が怒ったのを見たことがない。父親と祖母との言い争いは、私の記憶よりもはるかにひどかったのであろう。

祖父が家を出ていくと怒ったとき、私の母親は「こういう状況ですからやむを得ないでしょう」と言ったという。すると祖父は「やむを得ないとはどういうことか」と今度は母親に対して怒り始めた。母親はまだ20歲になったばかりの新妻であった。そんなに若い母親が祖父に対して「どうか家にいてください」と言い直して謝まり、祖父母が出ていくことを思い止まらせたという。

こんな我が家の状況を見るに見かねて、母親の2人の姉は離婚して実家に戻るようにと勧めたらしい。

しかし母親は実家に戻らなかった。なぜ母親が離婚に踏み切らなかったのか、私は知らない。既に私の姉が生まれていたので子のために離婚を思い止まったのであろうか。

ただ、当時の母親にも全く救いがなかったわけではなかった。祖母の存在であった。姑である私の祖母は嫁である母親を何かにつけて褒め、近所の人たちにも自慢して廻ったという。祖母が母親を叱ったことは一度もなかったらしい。当時の母親にとって大きな心の支えになったようだ。

祖母は63歲のとき脳出血で倒れた。2週間後に死ぬまでの間、母親は自宅で献身的に祖母の看病をした。まだ8歲にしかすぎなかった当時の私にも、母親のその献身的な看病は神々しいとすら感じられた。

祖母は祖父とは対照的に気牲が荒く口も悪かった。父親との言い争いが絕えなかったひとつの原因もここにあったのではないかと思う。しかし、人と人との感情の機微は家族の間でも理解しきれない。祖父母と両親の4人の間の心の綾を私が正確に理解できるはずがない。

2011年6月7日火曜日

最後の上京

昨年、私の母親は3回、私が勤務する慶應病院に入院した。その度に父親が付き添ってきた。両親が利用するのはいつも夜行バスであった。高知ー東京間は11時間かかる。長旅である。

両親が住む高知では、東京では当たり前と思える治療を受けることができない。医療水準が低い。よりによって私の母親は高度の医療技術を必要とする病気に何度も罹患した。どうにも困ってしまって慶應病院で治療を受けることになったこともある。数年前には整形外科に3回ほど入院。そして昨年は泌尿器科に入院した。

昨年の夏、母親が退院し高知に帰る際、私は両親を夜行バスの停留所まで送っていった。母親は歩行器なしでは歩けない。私は停留所のすぐ傍に車を停めて父親とふたりで母親を後部座席から降ろした。そして急いで運転席に戻り、車を駐車場に停めた。

悲しかったのは、母親を車の後部座席から降ろしている最中、小田急バスの交通整理係の若者から「ここは駐車禁止です。車をどけてください」と大声で注意され続けたことだ。母親の姿を見ればその場所に車を停めざるをえないことは一目瞭然ではないか。それに私が車を停めた場所にバスが入ろうとしていたわけでもなかった。

駐車場に車を停めて停留所に急いで戻ると、母親は地下道への入口のコンクリートに座り込んでいた。冬ではなかったので腰が冷えることはなかったであろうが、身体が不自由な年老いた母親が腰を丸めながら屋外でバスの到着を待つ姿を見るのは、息子の私にとって辛いことであった。私が幼い頃、母親はよく私と私の姉の二人を同時に背負ってくれた。もう50年も前のことである。

高知行きのバスが到着した。両親は乗客の列の最後尾に並んだ。やっと立っている母親を私と父親が支えた。「どうぞお先に」と行ってくれる乗客はいなかった。両親は最後にバスに乗り込んだ。

母親は脚をあげることができない。私は母親の足首を両手で左右交互につかんで一歩一歩バスの階段を上らせた。上体は父親が抱えた。

なんとか母親をバスに乗せることができた。そして私だけバスから降りた。振り返り、両親の姿を探そうとバスを見上げた瞬間、私はなんとも表現できない悲しみに襲われた。両親が上京するのはこれが最後だろうという思いが急に込み上げてきたのだ。

バスは静かに出発した。そして間もなく新宿駅前の雑踏の中に消えた。バスが見えなくなった後も私はしばらく停留所にぼうっとしながら立っていた。

「両親が上京するのはこれが最後」

ちょうど1週間前に父親が脳梗塞になり、私のこの予感は現実のものとなった。

2011年6月6日月曜日

帰省と介護

6日前(先週の火曜日)の昼、私は汐留のオフィスに勤めている友人と新橋駅前で会って話をしていた。彼との話はいつも家族や親戚のこと、そして高校時代の友人の近況。

そろそろ席を立とうかと思い携帯電話を見ると、父親からの電話の着信履歴があった。2回かかってきていた。

私は喫茶店から道路に出て父親に電話をかけた。すぐに父親は電話に出た。父親が病院に来ていることはわかった。しかし要領を得ない。代わって出てきたのは姉であった。父親の具合がわるくなり診察を受けていたところ、突然、診察医の目の前で訳がわからなくなったという。「訳がわからなくなる」ということの意味は不明であったが、おそらく頭が朦朧としたのだろうと推測した。

短時間ではあったが父親と話し、父親が失語症になっていることはわかった。脳梗塞が起きたのだろうと推測した。

学会があったため私は直ちに帰省することができなかった。結局、金曜日の夕方、学会会場から直接羽田空港に向かうことになった。学会会場から羽田空港までは徳島に住む友人がいっしょであった。早めについたので彼のお勧めの喫茶室でお茶をしながら時間を潰した。

そうこうしているうちに上述の友人も羽田空港に到着。その徳島の友人と別れ、彼といっしょに高知に帰ってきた。彼は入院している父親の看病のために2週間に1回、東京から高知に帰省している。

いつもは高知空港まで父親が迎えに来てくれる。しかし今回は誰も迎えに来てくれない。彼も然り。私たちは1台のレンタカーを借りることにしていた。まず、彼の家に行くことにした。彼の家は国道から分かれて狭いつづら折りの道を登った山の中腹の寒村にある。車で山を登る途中、小さな温泉があり光が見えた。しかし光はそれだけであった。彼の家の両隣には民家があるが、いずれの家からも光は漏れてこなかった。1軒の家は既に空家になっているということであった。あたりは真暗。私は彼が家の玄関の電灯をつけるまで待った。家が明るくなるのを確認して彼の家の前を離れた。

実家に着いたのは午後10時を過ぎていた。家にはまだ電燈が灯っていた。玄関のドアを開けて「ただいま」と言うと、「おかえり」という女性の声が返ってきた。しかし聞きなれない声であった。姉であった。姉とは数年間会っていなかったが、声が低くなっていた。私はてっきり父親と母親しかいないものと思っていたが、父親が病気になった日からずっと実家に泊まってくれていたのであった。

私の母親は長年、慢性関節リウマチを患い、手も足も大きく変形している。右の肘関節には人工関節が入っている。数年前には頚椎骨折のため四肢麻痺になるとともに意識も朦朧となり生死をさまよった。歩行器を使えばなんとか歩くことができるまでには回復したが、これ以上の回復は望めない。

こんな母親の介護は年老いた父親がすべてやってくれていた。その父親が脳梗塞になった。四肢の麻痺はないが、自分の名前すら書くことができない。このような状態では銀行から預金を引き出すことも自分ひとりではできない。運転も医師から禁じられた。田舎では車がないと何もできない。食べ物さえ買いにいけない。

こんな両親を置いたまま、私はきょうの午後、東京に戻らなければならない。当座は県内にすむ姉と姉の長女(私の両親の外孫)がなんとかしてくれると思うが、長期的な介護をどうするか。母親はこの家からは出たくないと言う。「頚の骨が折れた時になぜ死ななかったのだろう。あの時に死んでいればよかった。」この言葉を何度母親から聞かされたことか。身体の自由が利かず一日ごとに年老い、将来への希望を持たない高齢者に共通する心の中からの叫びかもしれない。