2015年12月8日火曜日

母が亡くなって4か月

母親が亡くなって4か月経った。まだたったの4か月か、というのが実感である。 昨夜、中学校・高校時代の友人2人と会食しながら夜遅くまで語り合ったが、話題は実家をどうやって管理していくか、先祖代々の墓をどうするか、定年後にどこでどうやって暮らすかといったことが主たる話題であった。還暦が近くなると、話題はこんなことに集中する。 こんな話の合間に、自分たちが幼かった時代の思い出話も出る。一人の友人は、毎日毎日、かぼちゃばかり食べさせられて辛かった思い出を語った。「もう食べられない」と母親に言ったところ、「なら、もうつくらん」と言われたということであった。「今になると母親の気持ちがよくわかる」と彼は言った。。私にも似た思い出があった。大きな土鍋に山のようなわらび。そのわらびがなくなるまで、おかずは毎日そのわらびであった。「もう、いや」と私は涙ぐんだことがあった。そのとき母親はじっと下を向いて黙った。しかし、他のおかずを用意してくれることはなく、母親は黙々とそのわらびを口に入れて食事を続けた。タケノコの季節には、おかずは毎日タケノコになった。 我が家だけが貧しかったわけではなかった。時代が貧しかったのだ。 私の実家は、私が小学校3年生になるまで藁葺き屋根のあばらやであった。柱は虫に食われて穴だらけ。地震が起きると屋根が大きく揺れた。夏になると大きな蛇が家の中をよく這っていた。ムカデに咬まれたこともあった。高知は毎年必ず台風に襲われる。台風が近づくと我が家はミシミシと音を立てた。家が倒れる恐れがあると思われたときには、隣の家に避難させてもらったこともあった。 こんな貧乏生活から抜け出そうと、両親は懸命に働いた。そして父親が33歳の時に実家の隣のミカン畑に新しく家を建てた。その家が完成したのは私が小学校3年生のときの夏であった。落成式の前日、私と私の姉はほぼできあがった新しい家の床の間に布団を敷いてもらって二人だけでそこに寝た。藁葺き屋根の家は私たちが新しい家に引っ越してからしばらくして壊された。そして数年後にはその土地に倉庫が建てられた。 晩年、両親は金に不自由することはなかった。都会の基準では大した財産ではないが、それでも親族の中では一番裕福であったと思う。しかし両親は決して派手な生活をしなかった。年老いた二人だけの生活に対する不安が強かったのだと思う。また、周囲からの嫉妬も恐れていたように感じる。土佐弁では嫉妬のことを「しょのみ」という。妬むことを「しょのむ」と表現する。両親、特に父親は周囲からしょのまれることを警戒していた。 残念なことに、両親とも貯めた財産を使うことなく亡くなった。

2015年8月24日月曜日

母親の死去 1

8月7日の午後8時8分に母親が亡くなった。80歳であった。

その日の午前中の外来診療を終えて携帯電話を確認すると、母親の入院先の主治医からメールが入っていた。「容態」という見出しのメールであった。そのメールには次のように書かれていた。

「おつかれさまです。
先日来ていただいて以来、IVH栄養を減少させることで肝機能は改善しましたが、そのぶん淡白質が減少し、アルブミンを投与しました。しかし、尿量も減少し、現在利尿剤等でfollowしておりますが、どこまで反応してくれるかが不明です(HANPやサムスカの追加を考えておりますが)。胸水のため呼吸状態は悪く、血圧も安定しません。大きな声を出す元気もなくなっています。
このまま反応しなかった場合には、厳しい状態になることが予想されます。
現在までの経過や、血小板も低い(DICではないと思いますがガベキサートの投与を開始しました)ことなどを考えますと血液透析は厳しいと思います。

よろしくお願いいたします。」

私は直ちに主治医の携帯電話に電話をかけた。主治医からは、病状が思わしくないこと、早ければ3日ほどで、長くとも1週間ほどで母親が死亡する可能性が高いことを知らされた。そして「亡くなる数日前に知らせてもらいたいと言われていたので、ご連絡を差し上げました」と説明を受けた。

そのとき、私はまだ、母親がその日に亡くなるだろうとは思っていなかった。しかし心配であったので、実家の近所の方に母親の病状をみてきてくれないかと依頼した。家内には「母親の病状がかなり悪いようです。万が一のときのために、喪服を準備しておいてくれますか」とだけメッセージを送っておいた。

その日の午後の手術を終えた直後に携帯電話を再度確認すると、上述した実家の近所の方からメッセージが入っていた。母親の病状がかなり悪いと書かれていた。その方は、ご近所や親戚に連絡をしてくれ、皆が母親の病室に集まってくれているという。従兄とも電話で話したが、病状は刻一刻と悪化しているとのことであった。

「もう駄目です」というメッセージが従兄から入ったのは午後7時58分であった。その10分後に、母親の死亡が確認された。

私は自宅に電話をかけ、家内に母親の死亡を伝えた。なんと、家内は、私が昼間送っておいたメッセージを読んでおらず、母親の死に驚いた。私は帰省する飛行機の手配を頼んだ。しかし、翌日(8月8)の午前中の飛行機に空席はなかった。大阪まで新幹線で行って大阪から高知龍馬空港に向かおうとも考えたが、大阪高知便はのチケットは8月8日の分は全て売り切れていた。幸いなことに、午後5時5分羽田発高知龍馬空港行きのJAL便が数席空いていた。

母親の遺体は、その日のうちに親族によって葬儀場に運ばれた。そしてその晩は親族が母親の遺体に付き添ってくれた。

私と家内は翌日(8月8日)、前日の晩に手配した午後5時5分発の飛行機に乗って高知に向かった。息子は塾があるため、1日遅れて高知に来てもらうことにした。予定時刻に私たちは飛行機に搭乗したが、お盆のため空港は混雑しており、離陸が遅れた。前日の晩、ほとんど寝付けなかったため、飛行機に搭乗した後、私は短時間うとうとした。ふっと目を覚ましたときに飛行機のエンジン音が静かだったので、高知龍馬空港に到着したのかと一瞬思いシートベルトをはずそうとした。しかし、飛行機はまだ離陸さえしていなかった。飛行機の高知空港への到着は20分ほど遅れた。

車は、又従妹が既に高知龍馬空港に届けてくれていた。その車を運転して私と家内は土佐市高岡町の葬儀場に向かった。ところが、途中、土佐市宇佐町で花火大会が開かれており、交通渋滞に巻き込まれた。葬儀場に着いたのは午後10時過ぎであった。

葬儀場には、前日、頻繁に母親の病状を伝えてくれた従兄ともう一人の従姉、そしてご近所のご夫婦が私たちの到着を待ってくれていた。驚いたことに、私の姉も葬儀場に来ていた。

私は、広い畳の間に寝かされている母親の遺体をみると同時に急に涙がこぼれてきて、数分間、母親の遺体の側で泣き崩れた、

2015年8月22日土曜日

「悲しみを抱きしめて 御巣鷹・日航機事故の30年」 西村匡史 講談社新書

昨夜、偶然、この本を書店で見つけた。そして、一気に最後まで読み終えた。読み進める途中、何度も涙がこぼれてきた。しかし私の涙は日航機事故で亡くなった犠牲者たちに対するものというより、むしろ残された家族や関係者に対するものであった。

特に、三人のお嬢さんを事故で亡くした田淵夫妻について書かれている第1章と第2章には心を打たれた。事故前には全くアルコールを口にしなかった母親の輝子さんは、事故後25年間、アルコールが手放せなかったという。

この本を書店で見つけた直前の8月15日に、偶然、私たちは田淵夫妻が亡くした三姉妹の墓標にお参りしていた。この本に載せられている3人の写真が墓標に飾られていた。

事故から30年経った今も遺族が苦しみ続けているのはなぜかと私は考えた。若くして命をなくした犠牲者が多かったからなのか。それとも病気ではなく予期せぬ事故で亡くなったからなのか。あるいは、事故は防げたはずだという思いが今も遺族の心に強く残っているからか。遺族にすら今も自分たちを苦しめているものが何であるのかがはっきりとはわからないかもしれない。

ただし、上野村の皆様や、その他、大勢の皆様の励ましが遺族の方々の心の支えになったということは確かだと思う。本書では、遺族の悲しみを綴ったばかりでなく、事故以来ずっと遺族を支え続けてきた上野村の方々や関係者の皆様の心の温かさも生き生きと描かれている。

2015年8月17日月曜日

御巣鷹山

一昨日(2015年8月15日)に家内とふたりで御巣鷹山に登った。昨年に引き続いて二度目の登山となった。

日航機が御巣鷹山に墜落してから30年。事故が起きた当時、家内は日本航空に勤務していた。私たちが結婚したのは事故の3年後であった。結婚と同時に家内は退職した。

ごく最近まで、この事故が夫婦の間で話題にのぼることはほとんどなかった。私も家内も意識してこの話題を避けていたのかもしれない。この事故では、家内の知人も何人か亡くなった。

事故から29年経った昨年の夏、軽井沢に滞在中、初めて御巣鷹山に登ってみようかという話になった。そして車を運転し佐久・十石峠経由で御巣鷹山に向かった。しかし途中、雨のために崖崩れがおきた場所が通行止めになっており、上野村に抜けるのに難渋した。今年は下仁田経由で上野村に向かった。

駐車場はいっぱいであった。私たちは道路脇に車を停めて事故現場に向かった。すれ違う人たちは皆、「こんにちは」と私たちに声をかけた。私たちも挨拶した。この山に登る人たちは犠牲者の肉親や親族ではなくとも、共通の悲しみを抱いている仲間だと感じた。

坂を登りながら、家内は事故で亡くなった同僚の思い出を語った。

ひとりの客室乗務員の同僚は、子どもを産むために国際線から国内線に移った。その直後にこの事故のために亡くなった。別の同僚は、事故当日、出勤するのをいやがっていたという。事故の予感でもあったのであろうか。

30年経っても思い出は風化しない。親でも子でも親族でもない家内の思い出のなかで同僚はまだ生きていた。

この事故は誰の責任でもない。少なくとも私はそう思う。しかし、人が死ねばどれだけ多くの人に悲しみをもたらすのか、そしてそれらの人びとのその後の人生にどれほど大きな影響を与えるのか、これらのことについては息子にも伝えておきたいと思う。

おそらく私たちは来年も御巣鷹山を訪れるであろう。次回は息子も同伴したい。



2015年8月13日木曜日

息子が幼かりし頃 父の日

物置になっていた自宅の一部屋を最近、家内が必死に片付けている。高校2年生になった息子の勉強部屋をつくるためだ。息子はこれまで、リビングに敷いた万年床の上で寝、そして勉強していた。下の写真は、部屋の片付けをしている最中に出てきた。私が父の日を記念して書いた懐かしい記事が残っていた。下の段が、私が書いた文章である。


2015年8月8日土曜日

8月7日

母親(滿子)が亡くなった。

2015年8月6日木曜日

母親から聞いたこと

一昨年の6月に父親が脳梗塞で倒れた。その後、間もなく、8月には母親が脊椎の圧迫骨折で入院した。ごく短かかったが、父親が入院して母親自身も入院するまでの期間、母親は実家で一人暮らしをしていた。

母親とゆっくり話すことができたのは、私の人生のなかでこの時が最初で最後となった。母親が父親と離婚しなかった理由を聞かされたのもこのときであった。「この男に付いていれば金に困らないと思った」というのが母親の答えであった。

父親と母親とは夫婦げんかが絶えなかった。このことがどれほど大きな心の傷を私に残したことか。私には両親が離婚しない理由がどうしても理解できなかった。しかし母親からこの言葉を聞いたとき、私はほっとした。母親が父親と離婚しなかった理由がひとつでもあったことを知って。このことについては既に書いたのでここではこれ以上書かない。

この時期に母親から聞かされたことのなかで、もうひとつ記憶に残っているのは、私の父方の祖母のことである。祖母は感情の起伏が激しい女性であった。喜怒哀楽が激しかった。息子である私の父親とは年中激しいけんかをしていた。けんかになると父親は祖母によく暴力を振るった。祖父母は父親の暴力から逃れるため、当時、我が家で「とりごや(鶏小屋)」と呼んでいた小さな離れでたびたび寝た。その「とりごや」は風が吹き抜ける、畳三畳ほどの小さな小屋であった。私は祖父母と一緒に鶏小屋で寝た。冬はとても寒かった。

私は祖父母に可愛がられて育ったが、祖母に関しては「怖かった」という記憶の方が強い。この激しい感情を持っていた祖母が、私の母親のことを近所に褒めてまわってくれたと母親は私に語った。「うちの嫁は働き者だ」と。このことは母親が父親と離婚しなかったもうひとつの理由となっていたのかもしれない。二人の間には、他の者にはわからない感情の交流があったに違いない。(我が家は、祖父母、両親、そして私と私の姉の6人が同居していた。)

この祖母は、寒い冬の日に近所の農家に手伝いに行った。その農作業中に脳卒中で倒れた。祖母が亡くなるまでの2週間、母親は献身的に祖母の介護をした。祖母は、囲炉裏のある部屋に寝かされていた。当時、私の家はいつ倒壊するともわからない藁葺き屋根のあばら家であった。私はまだ小学校2年生であったが、その献身的な母親の介護ぶりに驚かされた。

若い頃は両親とも実によく働いた。両親がいつ寝ていつ起きているのか、私にはわからなかった。

何年か前から、母は身体を全く動かせない。病院で寝たままである。食事すら自分一人ではできない。単に、病院のベッドで一人横になり、死を待つだけである。

この母親が死ねば、また父親の死と同じように、私の記憶から消えることのない悲しみが新たに加わる。私の悲しみが消えるのは、私が死んだときである。


死について

死について考えることがめっきり増えた。直接のきっかけは私の父親の死であった。私の父親が死んで1年5か月経ったが、まだ悲しみは消えない。和らぐこともない。多分、この悲しみは生涯消えることがないだろうと最近思うようになった。と同時に、父親の死を心から悲しんでくれる人はせいぜい数人しかいないだろうとしか思えないことに人生のはかなさを感じるようにもなった。

私が死んだあともそうであろう。私の死を心から悲しく思ってくれる人は家族を含めても数人しかいないだろう。他の人びとの記憶からは、私が生きていたという記憶すら一日ごとに消え去っていくことであろう。

ただ、私はこのことを寂しいと思っているわけではない。心から私を慕ってくれている人を大切にしなければいけないと強く感じるようになっただけである。

私は今も最低月に1回は帰省する。40年以上故郷を離れていた私を何かにつけて助けてくれる親戚や近隣の人たちもいれば、逆に私の悪口を言ったり罵ったり怒鳴りつけたりと、私の足を引っ張るだけの親戚もいる。この体験は、私に血縁というものを全く信じなくさせた。

父親が倒れて以来、思いもかけなかった人たちが私を助けてくれている。母親が生きている限りこの人たちにはお世話になり続けなくてはならない。今はその人たちの好意に甘える以外にない。しかし、母親が亡くなった暁には、その人たちに対しては心からお礼をしようと思う。逆に、私が困っているときに私の足を引っ張り続けた人たちの顔は、私の記憶の中で、鬼のような顔貌へと変っていくに違いない。

2015年8月5日水曜日

心に残ること

昨年の3月7日に父親が亡くなった。母親は身体が不自由なため葬儀には参列しなかった。幸い、父親は母親と同じ病院に入院していた。だから母親は父親の最期を看取ることができた。

父親の訃報が主治医から届いたのは3月7日の午後5時過ぎであった。そのとき、私はある学校で講義をしていた。電話を切ったとき、私の頭の中は真っ白であった。ある学生が、授業を途中で切り上げて帰宅してはどうかと言ってくれたが、私は終了のベルがなるまで授業を続けた。

その日は帰省しようにも飛行機便がない。私は翌日の始発の飛行機で高知に帰った。高知龍馬空港から病院に駆けつけた。しかしそのとき、既に父親の亡骸は葬儀場に運ばれていた。父親の病室はもぬけの殻になっていた。しかし、まだ部屋の入り口には父親の名前が書かれた名札がかけられていた。

母親の病室を訪ね、母親には葬儀に参列する意志がないことを確認した。母は「お父さん、ここでお別れしょうぜよと最期の挨拶ができたからたから、もうえい」と答えた。母は涙を流していなかった。母の気丈さに驚かされた。私は葬儀場に急いだ。葬儀場に着くと葬儀場の担当者が父親の亡骸が寝かされている部屋に私を案内してくれた。父親は広くて清潔な和室に寝かされていた。顔には白いハンカチがかけられていた。私はそのハンカチをそっと取り除き、指先で父親の顔に触れた。ドライアイスのためか、父親の顔は氷のように冷たかった。


2015年7月25日土曜日

祖母

これから書くのは母方の祖母のことである。この祖母は、晩年、夫つまり私の母方の祖父と同じ高知市内の病院に入院していた。そして二人ともこの病院で亡くなった。

私は高校時代、時々、この祖母を見舞った。東京の大学に入学したあとも、帰省する度に祖母の病室を訪れた。誰から促されたわけでもなかった。単に足が自然にそちらに向いただけであった。おそらく、幼い頃から私を可愛がってくれた祖母の笑顔を見たいという気持ちが私を病院へと向かわせたのであろう。

祖母は私の顔を見ると、たいそう喜んでくれた。長い入院生活は苦痛であったと思うが、祖母から愚痴がこぼれることはなかった。祖母は家族と離れて病院でひとりで生活し、その病院で自分の生を閉じることを自分にとってごく自然のことと感じているようであった。

ただ、そう感じたのは、多分、私がまだ若く、祖母の心情を十分理解できなかったからであろうと最近は思う。祖母も当然、家族と一緒に生活したかったに違いない。私が祖母を見舞う度に心から喜んでくれたのは、ほんとうに嬉しかったからであろう。

私が帰ろうとすると、祖母はいつも病室から私を追いかけてきた。そしてお金をくれた。いつも1万円くれたように思う。私は、お金をもらうために祖母を見舞いにきているように思われることがいやで何度も辞退したが、祖母は無理矢理、裸のお札を私に握らせた。「幸伸が来てくれて嬉しいから渡しゆうがやけ」といって、祖母はきかなかった。

祖母を見舞う度にお金をもらうことが心苦しくて、祖母から足が遠のいた時期もあった。

祖母が亡くなったことは、祖母が亡くなってしばらく経ったあと、両親から知らされた。私が帰省しても、両親の口からその祖母のことが話題として出されることはなかった。「年を取れば、誰もが死んでいくもの。死んでいった者は時間とともに家族からすら忘れ去られていくもの。」両親はこのような死生観を抱いているように私は感じた。

2015年7月20日月曜日

従兄の死

7月11日と12日の両日、介護帰省した。高知を発つ直前、母親が入院している病院からすぐ近くに住む従姉の家を訪れた。玄関のチャイムを鳴らしたが応答がない。留守かと思って立ち去ろうとしたとき、玄関の扉が少し開いているのに気付いた。誰かいるらしい。玄関の扉を開けて「こんにちは」と大きな声で呼んだ瞬間、茶の間で孫と一緒にいる従姉の姿が目に入った。チャイムが故障してたらしい。

従姉は玄関に出てくるや否や「幸伸、知っちゅう?」と話し始めた。そして一人の従兄が亡くなったことを私に告げた。その従兄の死を私は知らなかった。7月10日に亡くなったようだが詳細がわからないと従姉は話した。

亡くなった従兄は筋萎縮性側索硬化症を患って高知市内の病院に入院していた。2年ほど前にその従兄を見舞ったことがある。そのとき従兄は一生懸命私に話しかけようとした。しかし気管切開されていて声が出ない。結局、一言も理解することができないまま、私は病室を後にした。それが、私がその従兄の顔を見た最後であった。

従兄の葬儀は家族葬ですませたらしい。

従兄は二人兄弟であった。弟が一人いた。私が中学生になるまではよく従兄の家を訪ねたが、喧嘩ばかりしていた。夏休みには従兄宅に一週間ほど泊めてもらったこともあった。従兄の母親つまり私の伯母(私の父親の姉)は誰に対しても愛情深い女性であった。私が尋ねていったときには心から私を歓待してくれた。

すでに述べたように、伯母は若くして夫を亡くした。そして女手一人で二人の息子を育てた。伯母の人生は苦労の連続であった。しかし伯母が私にしかめ面を見せたことは一度もなかった。

晩年、この伯母は乳がんを患って左側の乳房切除術を受けた。私が見舞いに訪れると、伯母は胸を大きくはだけて術創を見せた。

この伯母のことを思い出すと今も心が和む。私の父親は五人兄弟であったが、私の父親も含めて五人全員がすでに亡くなっている。

2015年6月14日日曜日

大崎瀬都 再び

 私の書斎の棚には3冊の歌集が立っている。「海に向かへば」、「朱い実」、「メロンパン」の3冊である。いずれも大崎瀬都の歌集である。

過去にも書いたとおり、彼女と私は高校の同期生である。クラスがいっしょになったことはなく、在学中に彼女と会話を交わしたこともなかった。しかし彼女の歌は、高校生向けの雑誌に毎月のように掲載されており、当時から彼女の感性に深い感銘を受けていた。

彼女と話したことはこれまで一度しかない。高校の同窓会が毎年秋に東京で開かれる。その二次会の席で同級生と彼女を話題が出て、誰かが同窓会に出席していなかった彼女に電話をかけた。そのとき短時間会話を交わしたのが最初で最後である。

しかし、それ以後、彼女と年賀状のやりとりをするようになった。

下の切り抜きは、昨年9月に彼女が送ってきてくれたものである。消印は平成26年9月9日となっている。昨年3月に私の実父が亡くなり、残された母親の介護のためにたびたび帰省していた当時の私には、彼女が送ってきてくれた歌をじっくりと鑑賞する余裕はなかった。父親が倒れてから2年。この2年間は週末に自宅でのんびりできる日は全くなかった。

きのうは思い切って大切な会合への出席を取りやめて一日中家に籠もり、書類の山の整理をした。彼女が送ってくれた手紙は、リビングのiMacの下に置かれたままになっていた。その封筒の中には彼女の歌の切り抜きに加えて彼女の直筆の手紙が添えられていた。その添え書きには、彼女も2年前に実父を亡くしたと書かれていた。

「かつて父の身体でありし千の風千の分子を行き深く吸ふ」
「ゆっくりと水車の廻る四万十市安並に父と兄の墓あり」
「子どのものとき逝きし兄にはコーヒーを父にはやめてゐし酒を置く」
「ヘルパーさんに鍵を渡して何もかも明け渡したる母の起き臥し」




2015年6月13日土曜日

又従兄弟


私の父親は昨年3月7日に亡くなった。二度目の脳梗塞発作で倒れたのが一昨年の6月末。8ヶ月あまりで亡くなったことになる。

一昨年の6月に父親が倒れて以来、ずっと私を助けてくれている又従姉がいる。彼女は私と同い年。小学校、中学校、高等学校と12年間同じ学校に通った。小学校1年生と2年生のときにはクラスも同じであった。

彼女は大学在学中に結婚した。しかし数年後に離婚し小学校入学前の一人息子を連れて高知に帰ってきた。しかし実家には戻らず、息子と二人暮らしを始めた。彼女が離婚して高知に戻ってきた直後に一二度彼女に会ったことがあった。一人息子のかかとの形が元の夫のかかとにそっくりだと彼女が笑っていたことを思い出す。

彼女は薬剤師であった。したがって生活に困ることはなかった。今は、息子も結婚し、二人の孫がいる。自分自身は息子の家から歩いて5分ほどの場所に家を借りて住んでいる。以前、住んでいた家は売り払ったという。

彼女の家から高知龍馬空港までは車で10分ほど。父親が倒れたとき、彼女の家の駐車場に車を停めてもらってかまわないと彼女の方から申し出てくれた。そればかりではなかった。私が東京から帰省する際には、自宅の駐車場から空港まで車を届けてくれる。私が東京に戻る際にも車を空港の駐車場に乗り捨てておくと彼女が自宅の駐車場まで運んでくれる。もう2年間になる。

彼女がこんなことをしてくれるのは、自分自身の父親が脳出血で倒れたときの思い出があるからである。彼女は自分の父親とは決して仲良くなかった。しかし父親が初回の発作を起こしたあとは献身的に父親の面倒をみた。父親の最後の入院の際には、仕事を終えた後、一日も欠かさず数十キロ離れた病院を訪れた。そして父親のベッドのそばに消灯までいたという。父親に意識がある時期には、母親を説得して父親を車椅子に乗せ、母親、そして彼女の3人で沖縄旅行にでかけたこともあるということであった。

彼女は、私に、少しでも長い時間、両親(今は母親のみであるが)のそばにいてあげてもらいたいと話す。

私は地元の小学校を卒業後、高知市内の私立の中学校に進学した。私といっしょにその私立中学校に進学したのが、彼女ともうひとり。3人が同じ私立中学校に進学した。この二人とは長いつきあいになる。50年を越した。

高知に帰ると、時々、彼女といっしょに食事をする。彼女が地元のレストランを案内してくれる。つい先日帰省したときには、高知市内のホテルのレストランで彼女といっしょに食事しながら3時間ほど語り合った。

重い荷物をさげて一人で帰省し、病院の母親を見舞う。その合間をぬって空き家になった実家の草刈りや布団干し、実家の片付け。母親が元気になってもう一度実家に戻ることはもう期待できない。帰省しても心身の疲れが残るだけである。彼女との接点は、一抹の明かりを私の心に灯してくれる。

2015年6月9日火曜日

墓参

私は、高知に帰省すると、よく叔父の墓に参る。先日、高知に帰省した際にも叔父の墓を訪れた。そして墓の草をむしり墓前に手を合わせて墓地を後にした。

叔父はこの墓地ではなく実家の墓地に葬ってもらいたいと言っていたという。しかしその希望は叶わなかった。叔父にはふたり男の子がいるが、ふたりとも独身である。叔父の妻は、いずれこの墓の守をする人もいなくなるだろうと寂しげにつぶやくことがある。

私は叔父が愚痴を言うのを聞いたことがない。ただ、叔父が死んだ後、叔父の妻からこのようなことを聞いた。「まるで親戚中の不幸を我が家が一身に背負っているようだ」と叔父は嘆いていたという。

もう30年以上昔のことである。私はまだ多感な時期であり悩みも多かった。いつも考え込んでいた。そんなとき私はあることにはっと気がついた。どんなに悩んでも、あと50年すれば自分は死んでしまい、苦しむことすらできなくなると。50年という年月はあっという間ではないかと私は感じた。わずか50年ではないかと。

叔父がどれほどの不幸を背負っていたのか、詳しくは知らない。ただ、叔父がどれほどの不幸を背負っていたとしても、その苦しみは叔父の死とともに消えた。

自分の墓地を私がこれほど度々訪れようとは、生前、叔父は予期していなかったにちがいない。

2015年5月31日日曜日

叔父

この叔父について書くのは2度目になる。私の母親には3人の男兄弟がいたが、この叔父は上から2番目の男兄弟である。2年前の9月に亡くなった。

小さい頃から、私はこの叔父をとても尊敬していた。いやそれ以上に感謝していた。

私が地元の私立の中学に進学したとき、私の保証人になってくれたのはこの叔父であった。私が高校を卒業するまでの6年間、この叔父がずっと私の保証人になってくれた。この叔父に保証人になってくれるように依頼したのが実の姉である私の母親であったのかそれとも私の父親であったのかは知らない。いずれにしろ、私の父親も親族のなかではこの叔父を最も信頼していたことは間違いがない。

私は小学生になるかならないかの頃、この叔父が私の実家を訪れたときのことを今でも憶えている。当時、私の実家は藁葺きの今にも倒れそうなぼろ屋敷であった。家の中には電灯がともってはいたが、いろりのあった部屋はいつも薄暗かった。

叔父が私の実家を尋ねてきたとき、傍に家族の誰がいたのかは記憶がない。私が憶えているのは、叔父が私の家族との会話を少しの間中断して私の方に顔を向け、急に私の脇の下に両手を入れて私を高く持ち上げてくれたことだけである。そのとき、叔父は何か一言喋った。「よいしょっ」といったようなたわいのない言葉だったのかもしれない。

言葉はどうでもよい。私は、叔父の愛情をそのとき感じたのだ。

叔父の人生は必ずしも順調ではなかった。しかし決して義理を欠くことはなかった。何かの御礼にと私が叔父の家に何かを送ると、必ずそれ以上のお返しが返ってきた。

叔父の奥様にもひとかたならぬお世話になった。叔父と叔父の奥様とはいとこ同士であり私とも血のつながりがある。私とは従姉妹半の関係である。私が年末年始に帰省する直前には、この奥様は毎年、私の実家の掃除にでかけてきてくれた。母親の身体が不自由であったので手伝いに来てくれたのだ。

それに対して、私の両親は何度も御礼をしようとしたが、決して受け取ってくれなかった。叔父夫婦には男の子が2人いた。ふたりともまだ独身である。だから、彼らが結婚したときにこそまとまった御礼をするつもりだと母親は口癖のように言っていた。

父親が病気で倒れたときには既に叔父は亡くなっていたが、その奥様は変わりなく私たち家族を助けてくれている。私は実家に帰るたびに実家を片づけている。不要なものを倉庫に仮置きしている。それらのゴミを誰かが少しずつ持っていってくれている。その奥様と息子さんとが運んでいってくれているようだ。

何かの時のためにと少しのお金をその奥様に差し上げたが、母親のためにいろいろと買ってくれたときの領収書を添えて残金を全額返してきた。どうしても受け取ってくれない。

この叔父の家族は、実にお金にきれいな一家である。

父親が倒れて以来、実家の近くに住む人たちや親戚たちには随分厄介をかけた。助けてくれた人もいれば、このときとばかりに私の足を引っ張った人もいる。誰が信頼でき誰が信頼できないかもよくわかった。

自分がほんとうに困っているときに心から私を助けてくれた人たちに対しては、母親が亡くなったあと、まとまった御礼をするつもりでいる。逆に、私の足を引っ張った人たちからは黙って立ち去るつもりだ。そして高知との縁を一切切るつもりでいる。

Facebook

先日、iPhoneとiPadからFacebookアプリケーションを削除した。当分の間、SNSからは遠ざかることにした。ただし、Facebookでなければ連絡がとれない人もいるのでアカウントは残した。

リビングが紙の山で埋もれるのもいやになったので、今月いっぱいで読売新聞の購読もやめることにした。

LINEはすでにやめた。

しばらく情報過多の状態から逃れたい。

2015年4月11日土曜日

沈まぬ太陽

「沈まぬ太陽」は山崎豊子の小説である。このことは以前から知っていた。しかしこの小説が1985年に起きたJAL123便の墜落事故を取り扱ったものであるということを、つい最近、家内から聞かされるまで、私はこの小説のテーマを知らなかった。

いま、テレビで「沈まぬ太陽」のドラマが放映されている。家内はこのドラマをじっと観ている。

事故が起きた当時、家内は日本航空に勤務していた。私が家内と知り合ったのは、その2〜3年後であった。この事故では、家内の会社の知人も何人か亡くなっていた。私は、時折、家内からこの事故のことを聞かされた。事故機に乗っていた乗員の家族の苦しみも聞いた。

長い間、組合問題で日本航空の社内が荒れていることを私は知っていた。したがって、漠然とではあったが、その事故も職員の規律の乱れが主たる原因ではなかったのかと私は思っていた。しかしこの事故の原因を巡っては今でも様々な説が流れている。単純な事故ではなかったようだ。

昨年の夏、家族と軽井沢に滞在しているときに家内とふたりで事故現場を訪れた。ここを訪れたいと家内は長い間思っていたようだ。ただ、家内からそのことを聞かされたのは昨年が初めてであった。私もこの事故のことを家内に話すのは意図的に避けていた。

日航機は群馬県上野村の御巣鷹山に墜落したと思われている。これは正確ではない。日航機が墜落したのは群馬県上野村の高天原山の尾根である。今はこの山の中腹まで車で登れる。私たちは、軽井沢から佐久市経由でこの山を目指した。しかし佐久から上野村に抜ける山道は狭い上に曲がりくねり道路標識もなかった。果たして無事、峠を越せるかどうかを不安に思いながら私は運転した。案の定、崖崩れのため、当初通るつもりであった道は閉鎖されていた。しかたなく別の道を進んだが、すれ違う車もほとんどなく、ずっと不安であった。

上野村に着いたあとも高天原山へのルートを見つけるのは容易ではなかった。車を停めては地元の人やすれ違う人たちに何度も道を尋ねた。

事故現場に向かう高天原山の中腹にある駐車場には多くの車が停められていた。雨模様の天気のなか、そこに車を停め、私たちは山を登った。かなりきつい坂道であった。事故当時はずっと下から登ってこなければならなかった。遺族はさぞかし大変であったことであろう。

事故現場は、A、B、・・と区画されていた。そしてご遺体が見つかった場所には犠牲者の名前を記した立て札が立てられていた。

私たちはひとつひとつの区画を回り、家内の知人の名前を探した。そして知人の立て札を見つける度にその前で手を合わせた。険しい山道を歩き回りながら、家内は、事故機の乗員の家族がどれほど辛い思いをしたのかをぽつりぽつりと喋った。事故現場には犠牲者全員の名前が石碑に刻まれていた。乗客の名前はあいうえお順であった。しかし乗員の名前は犠牲となった乗客の最後尾にまとめて刻まれていた。

亡くなった家内の同僚のひとりの立て札の前で、家内は「死んだらおしまいよ」と吐き捨てるようにつぶやいた。この言葉は、妙に私の胸に突き刺さった。

事故現場には2時間ほど滞在したように思う。この間、当然のことながら私の心は沈んでいた。しかし不快感はなかった。犠牲者の魂が関係者や犠牲者の遺族によって慰められているのがその理由であろうと私は思った。浅間山荘に立った際に襲われためまいや吐き気に悩まされることはなかった。

今度は、息子も連れて3人で来ようと家内と話しながら私たちは事故現場を後にした。痛ましいあの事故が起きた当時、息子はまだ生まれていなかった。しかし、私たちがその事故から受けた衝撃を息子に伝えておきたいと思った。

ソフトデンチャー

きょうは朝から神奈川県の小田原市にでかけてきた。ある高齢の歯科医師にお会いすることが目的であった。

その歯科医師は昭和7年生まれ。83歳。私が時々訪れる銀座のエステサロンの経営者のお父様である。

この歯科医師は自分自身が日本に導入したソフトデンチャーの技術を後進に伝えようと数年前から後継者を探していた。そのことをその歯科医師のお嬢様であるエステサロンの経営者から聞かされ、ある歯科医師をご紹介したことがきっかけとなって繋がりができた。残念ながら私がご紹介した歯科医師とのご縁は結ばれなかったが、ご家族の皆様からとても感謝された。私に一度会いたいと何度も繰り返しおっしゃられ、本日の訪問となった。

ご自宅の一部が歯科のクリニックとなっていた。私がクリニックに着いたとき、ちょうど午前中の診療が終わった。その歯科医師はソフトデンチャーの実物やその素材の原料、関連する書類などを待合室に持ってきて私に対して熱心にソフトデンチャーについて熱く語った。そして、数年前、小田原中の歯科医院を回り、無償でソフトデンチャーを作製する技術を教えようとしたが、ひとりとしてソフトデンチャーに興味を示してくれなかったと嘆いた。

私はインプラント治療を手がけている歯科医師の知り合いが多い。しかしインプラント治療は危険が大きい。インプラント治療が適さない患者に対してはソフトデンチャーは有力な治療の選択肢ではないかと私は感じた。その歯科医師の説明を聞きながら、若い歯科医師の誰かがその歯科医師からソフトデンチャーの技術を学んでくれないだろうかと強く思うようになった。もし私が歯科医師であったならば、ぜひ教えを乞いたいと思った。

ソフトデンチャーの話が一段落したあと、その歯科医師とお嬢様(エステサロンの経営者)と私の3名で食事に出た。カウンターで寿司をご馳走になりながら、引き続きソフトデンチャーの話を聞いた。日本ではソフトデンチャーを作製できる技工士がいないことも聞かされた。中国の技工所に依頼しているとのことであった。その技工所に1年に3回以上出かけた時期もあったという。「ソフトデンチャー」という名称は商標登録されている。さまざまな書類手続きを進める上での苦労話も聞かせていただいた。

寿司屋を出た後、小田原駅のすぐそばにあるコーヒーショップに連れていってもらい、そこで更に話を続けた。ここでの話題の中心は、今の若い歯科医師に対する嘆きであった。そして今の若い人たちのモラルのなさやマナーの悪さについても語り合った。私も日頃から同じ印象を抱いていたので、その歯科医師の言葉のひとつひとつが胸に響いた。

その歯科医師を一言で表現すれば「堅物」である。私は全く正反対の性格であるので、逆にこのような一本筋の通った正義漢に共感を抱く。

その歯科医師は近日中にソフトデンチャーの見本を私の自宅に送ってくださるという。冒頭で述べたようにその歯科医師は83歳。時間の余裕がないと本人もご家族も感じていらっしゃる。ソフトデンチャーの技術をその歯科医師から学び、日本で普及させようと考える歯科医師はいないものか。

2015年4月7日火曜日

叔父


母親の兄のことについては先日、このブログに書いた。きょうは母親のもうひとりの男兄弟について書こうと思う。母親のすぐ年下の弟である。

私が、私の親族のなかで最も頼りにしていたのはこの叔父であった。この叔父は、家族と徳島県に山登りにでかけ、そこで急死した。2012年9月23日のことであった。家族と別れて単独行動をしていた途中で叔父に何らかの体調異常が生じたと推測されるが、詳細は不明である。待ち合わせ場所に伯父がいないことが高知の親戚に知らされ親戚中が大騒ぎになった。私の父親は親族一同で叔父を探そうと皆に提案した。警察の手助けもあり叔父は家族と待ち合わせることになっていた場所から遠く離れたところで発見された。当然のことではあったが、家族は警察から事情聴取を受けた。取り調べはかなり厳しかったらしい。叔父の妻は、山で夫(私の叔父)と別れたことを悔いた。夫を亡くした悲しみに加え、そのことに対する罪悪感に苛まれてガリガリに痩せた。叔父が亡くなった日の山登りには長男は同伴していなかった。叔父、伯母、次男の3人での山登りであった。長男は「もし僕もいっしょに山に行っていたら父親はこんなことにならなかった」といって叔父の死を嘆いた。叔父の死は、今もなお叔父の家族に深い悲しみを与え続けている。

この叔父の死は、私にも大きな衝撃を与えた。上述したとおり、私が最も尊敬し頼りにしていたのはこの叔父であったからである。ただ、私は、叔父の生前、このことを口に出して感謝の言葉を叔父に直接述べたことはなかった。

私は中高一貫の私立校に通った。6年間、私の保証人となってくれたのはこの叔父であった。幸い、在学中に叔父が学校から呼び出されることはなかった。大学浪人中、心の支えとなってくれたのも叔父であった。叔父から励ましの手紙をもらったわけではない。電話ももらったわけではなかった。ただ、親元を離れ東京で一人暮らしをしながら浪人生活を送っていた私の頭に浮かんだのは、父親とこの叔父の姿であった。

私の家族や親族に問題が生じたとき、とりまとめ役を務めるのはいつもこの叔父の役目であった。叔父の墓石にも刻まれているように、叔父は文字通り「誠」を尊ぶ人であった。叔父の判断には親族の誰もがうなずかざるを得ないところがあった。

叔父の墓は、高知龍馬空港から車で15分ほどの小高い山の中腹にある。私は帰省すると、この山の下を抜けるトンネルを必ず車で走る。ここを走るときには、私はいつも叔父が眠る霊園を見上げる。そして時間が許せば叔父の墓に参る。つい先日も墓参した。霊園のなかの桜の花はすでに少し散りかけていた。私は叔父の墓にお参りした後、墓石の上の落ち葉を拾ってその場を去った。

叔父の人生は決して順風満帆ではなかった。高校では当時の県知事から成績優秀者として表彰されたということであったから頭はよかったと思う。しかし家庭が貧しかったため大学進学は断念し就職した。そして船の設計を始めた。しかし高校卒では二級のライセンスしか取得できなかった。

就職と同時に叔父は実家を出た。そして高知市の浦戸湾にある造船所の近くの種崎というところに移り住んだ。我が家で私の父親が叔父の家族の話をするときには名字ではなく地名で「種崎」と呼んでいた。つまり「種崎」と叔父一家とは、我が家では同義語であった。子どものころ、1回か2回、叔父の家を訪ねたことがある。決して大きな家ではなかったが、その小さな家の棚には書籍がぎっしり並べられていた。

つづく

帰省

4月4日から6日まで帰省した。高知の病院に入院している母親を見舞うためである。私は1か月に1回〜3回帰省する。一昨年の6月に父親が倒れて以来、ずっと私はこの生活を続けている。帰省にはお金がかかるばだけでなく私の仕事も疎かになる。しかし昨年3月に父親は亡くなり今は母親しか生きていないが、母親が生きている限り私はこの生活を続けるつもりだ。

帰省すれば毎日病院に足を運ぶ。母親は寝たっきりであるし言葉も自由にしゃべれない。しかし意識ははっきりしており、ぼけてもいない。だから一層、私は母親を不憫に思う。

東京に行かないかと私は何度も母親に尋ねたが、母親は東京に行くことには頑として応じない。母親がまだ若かった頃から、私と二人きりになると、父親も母親も高知で生涯を終えるつもりであると母親は私に告げた。父親か母親のどちらか一方が亡くなっても自分たちは東京には出て行かないと母親ははっきりと私に言った。

今も親戚が時々、母親に向かって「東京へ行ったらどうでえ」と東京に行くことを進めてくれるらしいが、「行く」という返事は返ってこないという。

もし母親が先に亡くなって父親が残ったらどうであっただろう。おそらく、身体が動く限り東京半分・高知半分の生活を送ったことであろう。身体が動かなくなったら東京と高知のどちらを選んだであろうか。確率は半々だと私は思っている。

母親を見舞っても私がしてあげられることは多くない。母親が食べたいというものをスーパーで買っていってあげ、少しずつ口に運んであげる程度のことである。

ただ、それだけで十分であろうと思っている。大切なことは私が側にいることである。それだけで母親の孤独感は和らげられる。母親の苦しみのほとんどは孤独感から来ていると思う。

母親が亡くなったならば私と高知との縁は切れる。母親や私のために尽くしてくれた人に対しては相応の御礼をして高知を去るつもりである。お世話になった人たちだけを招待して高知から完全に引き上げる前に宴席も持とうと思っている。反対に、私や私の家族に対してあらん限りの憎しみを向けてきた人たちには一言も告げず姿を隠すことになろう。


2015年4月4日土曜日

伯父と伯母

私には母方の叔父が3人いた。正確には、伯父一人と叔父二人と書くべきである。

母親の兄つまり私の伯父は昭和34年に若くして亡くなった。私が3歳のときであった。幼い頃、私は母親に連れられてよく母親の実家を訪れた。生前、その伯父は、実家の茶の間の隣で病床に臥していた。ふたつの部屋は障子で仕切られていたが、その障子が開けられたことはなかった。だから私は伯父の顔を見たことがない。伯父は静かに寝ていた。だから伯父の声を聞いたこともない。

つい先日、その伯父の写真が私の実家の押し入れの中から出てきた。伯父がまだ20歳代の頃の写真と思われた。(伯父は30歳代前半で亡くなった。)私はその顔が伯父の長男つまり私の従兄弟とそっくりであることに驚かされた。うり二つであった。

伯父が亡くなったときのことを私は今でも憶えている。両親と一緒に私も葬儀に参列した。当時はほとんどの家が土葬であったが、伯父は火葬に付されたようだ。そして伯父の遺骨は伯父の自宅(母親の実家)から数百メートル離れた小高い山の頂近くにある墓地に埋葬された。今は四十九日の法要が終わるまでは遺骨は自宅に祭られるが、伯父は火葬直後に埋葬されたようだ。その葬儀のとき、私も急な山の斜面を墓地まで登った記憶が今も残っている。

伯父の妻は私の父親の姉であった。つまり伯父の家と私の家とは女が入れ替わっているのだ。だから最も近い親戚といえる。

しかし伯父の死後、私の母親の実家(私の父親の姉(私の伯母)の嫁ぎ先でもある)は傾いた。未亡人となった伯母は、農作業の傍ら日雇い労務者としても働いた。そして二人の男の子(つまり私の従兄弟)を懸命に育てた。

伯父の死後は、きっと貧しかったに違いない。しかし伯母が私の家(つまり伯母の実家)を訪ねてきた折りには、まだ幼かった私に時々お金をくれた。いつも50円玉一個であった。しかしその50円玉を私に差し出すとき、伯母は私に満面の笑みと愛情を示してくれた。50円といえど、当時の伯母にとっては決して少ない金額ではなかったのではないかと思う。

後に伯母は老人施設の介護士として住み込みで働いた。その施設に私はよく訪ねていった。そこにはほとんど口もきけない老人がすし詰めにされて横たわっていた。伯母はその老人たちが眠るベッドの間の床に布団を敷いて寝ていた。そしてひとりひとりの老人にやさしい声をかけていた。それらの老人から反応が返ることはなかったが。

その後、伯母は乳がんに罹患。乳がんは完治したが、新たに卵巣癌を患った。そして10年後に再発した卵巣癌のために亡くなった。

振り返ると、伯母の人生は苦労の連続であった。私の父親はその伯母をいつも不憫に思っていた。そして甥(伯母の長男)を何かにつけて手助けした。

生涯質素な生活を続けた伯母が残した財産は少なくはなかった。その財産は伯母の長男が全て相続した。しかし残念なことに、その財産が伯母の子孫のために有効に使われることはなかった。その甥とその妻とが無意味なことに使い果たしてしまったということであった。このことをその甥の長男(伯母の孫)から最近しみじみと聞かされた。

私にとっては、伯母が私に向けてくれた笑顔と愛情とが私の心のなかの生涯の宝物である。

2015年3月29日日曜日

届いたコメント

きょうの昼、このブログ「私と家族」に対するコメントが2つ届いた。差出人は「匿名」となっていたが、誰からのコメントであるかは一目瞭然であった。

ひとつは、「人のことをここまで詳しく出してあなたは世間をしらなすぎる。人間として間違っています」

もうひとつは、「あなたは医者として最低。世間知らずですね」

というものであった。

ひとつのブログは、私がその人に親愛の気持ちを抱き「今はどんな生活を送っているのだろう」と長い間思い続けていたことが一読すれば読者に通じるはずのものであった。私は、何十年ぶりかでその人の声を聞き心が躍った。その感動を伝えようと思っただけである。確かに、その人のこれまでの人生を思い起こし、抽象的にではあったがその一部に同情を誘う内容を書いたことは事実である。しかし、その人を侮辱した文面ではない。私は、その人に対して「ご苦労様でした。お疲れさま。大変でしたね」という思いを込めてその文章を書いた。

「引っ込めてくれ」と一言言ってくれればすぐに引っ込める。すでにその投稿は引っ込めた。

もうひとつのブログに対するコメントは全く理解ができない。どういう意図なのであろうか。そのブログは医療について私が綴ったものではない。どこが「医者として最低」の箇所なのか何度読み直してもわからない。強いてここかと思われる部分をあげるとすれば、以下の一節であろうか(http://tkunihiro2.blogspot.jp/2011/01/blog-post.html)。

「我が国では最近、結婚しない人が急増している。結婚年齢も上昇している。しかし私の同期生(約360名:男女ほぼ同数)はほとんどが結婚している。ずっと独身を通している同期生の数は数名以下であろう。(男子生徒も女子生徒も社会人になれば結婚し家庭を持つこと。これを前提とした、ごく「普通の教育」を私たちは6年間受けた。)」

その人からは時折、直接または人を通して私に連絡が入るが、ことごとく私に対する批判であり憎しみに満ちた文言である。(幸い、私の方からその人に対してこのような憎しみをぶつけたことはない。)

私はFacebookなどでも時折自分の意見を述べる。私の投稿やコメントに対して激しい批判を受けることもある。しかし、自分自身が批判を受ける立場に身を置くとわかることがひとつある。それは、批判する対象に対してレッテルを貼ったり品位に欠ける言葉を使えば、批判する人の主張がどれだけ正しくとも、その人の評価を下げるということである。

「生きることは、すなわち無様なかっこうを人に曝すことである」と私は思っている。このブログ(「私と家族」)のなかでは、私自身や私の家族の「みっともないこと」も随分述べた。それらを読んで私や私の家族を侮辱する人はいるだろう。それはそれでよい。ただ、私の年齢に達しているならば、多くの人は自分自身が辿ってきた人生を重ね合わせ、何らかの共感を抱いてくれるであろうと思っている。

ある意味、生前、私の父親は家族に対してはちゃめちゃであった。しかし、父親が死んだ今、私は心の底から父親を慕っている。私の父に対するその思いを理解してくれている人は少ないであろうが。

全ての人から共感される人生などあろうはずがない。百人中一人でも私の生き方に賛同してくれればいいと私は思っている。

私のブログに対して上のコメントを寄こしてきた人にも、私は同情以外の感情は湧かない。その人は私よりも年上である。いつになったらその人は自分の半生を笑いながら振り返り自分自身が辿ってきた人生と「今」を肯定することができるようになるのであろうか。その日が一日も早く来ることを私は願っている。その人から私は批判され続けてきているが、その人がこれまで懸命に生き、きちんと子育てもしてきたことを立派だと思っている。そろそろ被害者意識や劣等感を克服してもらいたい。