2016年9月14日水曜日

久禮八幡宮

高知県高岡郡中土佐町にある久礼八幡宮(くれはちまんぐう)は海の守護神として古来より漁業関係者に崇敬されている。この神社の秋季例大祭である久礼八幡宮大祭は、土佐の三大祭りの一つとなっており、県内外から多くの観光客が訪れる。

祖父母の存命中、私は祖父母に連れられて、毎年この祭りに出かけた。久礼には伯父(祖父母の次男)一家が住んでいた。祖父母にとっては息子家族と会うのも目的であったと思う。

私の楽しみはいか焼を食べることであった。その祭りにはイカ焼の店が必ず出ていた。炭火で焼いたばかりの、タレが滴り落ちるイカの美味しさは格別であった。私はマグロのトロよりもイカの刺身や握りが好きであるが、当時から既に「イカ好き」であったのであろう。

 
祭りが開かれる2日間、八幡宮の境内には所狭しと数多くの店が並んだ。当然、おもちゃの店もあった。おもちゃ屋の前で力(かたな)を見つけた私は、無性にその刀が欲しくなり、買ってくれと祖父母にねだったことがあった。値段は300円であった。今の物価に換算するといくらになるであろうか。当時の私の小遣いは1日5円~10円であった。

いずれにしろ、我が家の生活レベルから考えると、法外に高かったに違いない。祖父母は直ぐには私の希望を聞き入れてくれなかった。翌日も私は刀を買ってくれとその店の前で強くせがんだ。そしてやっとのことで私の希望を聞き入れてもらった。その刀は何年間か私の宝物になった。

 
このときのことは祖父の頭の中に長く残ったようであった。「あの刀は高かった」と後々まで祖父は感慨深げに私に語った。

私が小学校2年生のときに祖母が亡くなった。以来、その祭りに行くことはめっきり減った。

 
当時、伯父の家は堤防の直ぐ内側にあった。今もその堤防は残っているが、数十メートル沖に新たに堤防が築かれ、辺りの気色はすっかり変わった。伯父の家も最近、空き家となった。

数年前に父親が倒れて以来帰省することが多くなった私は、久礼の町を度々訪れるようになった。しかし何度久礼の町に来ても、頭に思い浮ぶのは祖父母も叔父も両親も元気だった頃の思い出ばかりである。

2016年9月13日火曜日

祖母

私の父方の祖母は私が小学校2年生のときに亡くなった。祖母が生きていた頃、私の実家は古い藁葺きの家屋であった。柱はどれも虫に食われており真四角の柱は1本もなかった。高知は毎年必ず台風に襲われるが、台風が来るたびに家はギーギーと音を立ててきしんだ。家が揺れると、祖母は両腕を天井方向に伸ばして「ホーッホーッ」と大きな声で叫んだ。家が倒れないようにというおまじないか祈りであろうと私は思った。何故か解らぬが、どんなに激しく家が揺れても、祖母は家の外に避難しようとはしなかった。当時の自宅の家屋には蛇もよく入ってきた。睡眠中に百足に噛まれたことも何度かあった。当然、冬はすきま風のために身体は凍えた。

私が幼い頃、祖母と父親との間には喧嘩が絶えなかった。祖母も父親も気性が荒かったので烈しい口論になることが珍しくなかった。感情が高まると、父親は暴力を振るうことがあった。そんなとき、祖父母は父親の暴力から逃れて離れで寝た。その離れを我が家では「鳥小屋」と呼んでいた。畳3畳ほどの広さの、文字どおりの「小屋」であった。祖父母がこの小屋で寝るときには、私も必ず祖父母に挟まれて眠った。

祖母と父親とが何を巡ってあれほど激しく言い争うのか、まだ幼なかった当時の私には全くわからなかった。

二人の喧嘩の原因を知ったのは、数年前に父親が初回の発作で倒れた直後のことであった。父親と私が車で移動中、突然、父親がその話を始めた。喧嘩の原因は、どうやって我が家の収入を増ゃすかということについての考え方の違いであったという。祖母は「芋をつくれ」と言ったらしい。しかし父親は、芋づくりでは貧乏暮らしから脱することはできないと考えた。

父親はこんなことも話した。父親が洗濯機を購入した。母親が家事に取られる時間を減らし、もっと仕事ができるようにと考えてのことであった。しかし、当時、洗濯機がある家はまだ多くなかった。祖母は「無駄遣いだ」と父親に怒った。

要は、祖母も父親も貧乏暮らしから這い上がろうと必死だったのだ。

祖母が近所の農作業の手伝い出て仕事中に倒れたのは12月中旬の寒い日であった。その日の朝、祖母が家を出るとき、父親は「家を新築する」と祖母に告げていた。祖母はその言葉を聞いて喜び勇んで出かけていったという。「お婆に家を建てると話ちょいてよかった」と祖母の死後、父親は繰り返し話した。喧嘩が絶えなかった祖母ではあったが、父親はその言葉で祖母を喪った悲しみを癒そうとしていたのであろう。祖母と喧嘩が絶えなかったことを後悔していたのかもしれない。

祖母は意識が戻らぬまま2週間後に亡くなった。大晦日であった。祖母が心待ちにしていた新しい家はその翌年の8月に落成した。



2016年9月6日火曜日

白駒池 2016年8月21日

 長野県には数多くの湖がある。白駒池は私が最も好きな湖のひとつである。8月21日の昼すぎに軽井沢を発って家内と2人で白駒池に向かった。息子は夏期講習を受講するために、その日の朝、新幹線で東京に戻っていた。息子が高校生になるまでは3人で長野県内を隈なく回ったが、最近は軽井沢に家族で出かけてきても、息子とは別行動をとることが増えた。白駒池に向かう道すがら車の中から見る景色は、息子と一緒にドライブしたときの昔の思い出を蘇らせた。家族揃って旅行できるときは長くは続かない。そう思って時間をつくっては家族とあちこちに出かけた。そうしておいてほんとうによかったと感じる。

    

2016年9月5日月曜日

林 耕史 展 2016年9月4日(日曜日)

きょう、昼すぎに軽井沢を発って群馬県の中之条町に出かけた。花の駅「花楽の里で開かれている林耕史展を観るためである。

林先生は現在、群馬大学教育学部の教授であるが、私の息子が1年生から3年生になるまでの3年間、筑波大学附属小学校でクラス担任を務めてくれた。息子が4年生になったとき、助教授として群馬大学に赴任した。

群馬大学に赴任した後も、展覧会を開くときには、林先生は案内状を息子に送ってきてくれていた。そのため、私も東京で個展が開かれる際には、何度か会場に足を運んだことがあった。

きょう、軽井沢から会場までは、車で1時間あまりかかった。私と私の家内と息子の3人が会場に着いたときには、既に林先生自身による作品の説明が始まっていた。来場者のほとんどが20歳代の若い女性であった。皆、熱心に林先生の説明に聴きいっていた。ほとんどが林先生の教え子だろうと私は思ったが、後で確認すると、林先生の教え子は2人だけであった。

長年、林先生の作品のテーマは「漂泊」であった。舟の彫刻が多かった。しかしきょう展示されていた作品のテーマは、月と山であった。

林先生は、何故、月と山に関心を抱くようになったのかを来場者に説明した。そして、今回の展覧会のタイトルを「月が眠る山」とした理由についても述べた。来場者からの質問が多かったこともあり、林先生の話は40分以上に及んだ。

作品についての林先生の説明が終わったあと、私と家内は林先生に挨拶をした。林先生は作品の説明中に私が来場していることに気づいていたという。そして私の家内にも気づいていた。しかし、教え子である私の息子には気づいていなかった。

私の息子が林先生に近づいて挨拶をすると、林先生は「オーッ」と大声をあげた。無理もない。息子が林先生にお世話になったのはまだ8~9歳のときであった。林先生は決して小柄ではないが、私の息子は林先生よりも背が高くなっている。林先生は息子に「握手をしよう」と声をかけ、2人は握手を交わした。私たちは林先生としばらく歓談した。そして別れ際に息子と並んで写真を撮らせていただいた。

 


林先生は息子が高校3年生であることを知っていた。そして受験勉強は大変だろうと心配してくれたが、「どんな知らせでも先生は嬉しい」と言った。「どんな知らせでも先生は嬉しい」というのは、一流の大学に入らなくとも知らせをもらえればそれだけで嬉しいという意味と私は解釈した。本心であろう。師とはありがたい存在だと思った。

軽井沢には、往きと思じルートで戻った。運転しながら、久しぶりに心が晴れ晴れとしてているのを感じた。

(敬称と敬語表現は省かせていただきました。)

2016年9月2日金曜日

介護 土佐市民病院

私の父親が2度目の出血性脳梗塞の発作に襲われたのは、2013年6月の最後の金曜日のことであった。その日の午後5時過ぎ、私が新宿西口のヨドバシカメラでの買い物を終えてJR新宿駅に向かっていたとき、姉から電話がかかってきた。姉は、興奮した声で、父親が2度目の発作で土佐市民病院脳神経外科に入院したこと告げた。そして、2日後には意識がなくなるのでそれまでに親族に会わせておくようにと主治医から指示されたと言った。

しかし、直接、空港に向かうことはできなかった。一旦は帰宅しなければならない。私は自宅にいる家内に電話をかけて父親が倒れたことを告げ、荷づくりをしておいてくれるように頼んだ。喪服も用意してくれるようにと言った。

当然、その日の飛行機の最終便には間に合わなかった。しかし、幸い、翌日の始発便の予約がとれた。

私は、父親の病気の治療は主治医に任せる以外にないと腹をくくった。ただ、命は助かっても闘病生活は長期になるだろう。治療費をどう捻出するか。また、自家で寝たきりの母親をどう介護するか。一人で途方に暮れた。

午後8時過ぎになって私は高知に住んでいる一人の友人に電話をかけた。彼は司法書士であった。2011年6月に父親が初回の脳梗塞発作で倒れたとき、私は彼に仲介してもらって父親との間に任意後見人契約を結んでいた。

彼は、主治医に診断書を書いてもらうようにと私に指示した。そして、診断書の見本をファックスで送ってくれた。

彼からのファックスが届くと、私は直ちに土佐市民病院に電話し、病院のファックス番号を尋ねた。

続く