2011年8月20日土曜日

夏休み 軽井沢にて




お盆休みを家族と軽井沢で過ごしている。夏休みを軽井沢で過ごすのが恒例になった。義母が所有する別荘を使わせてもらっている。

今週の前半には日帰りであちこちにドライブに出かけた。白馬の栂池天狗原、蓼科に近いところにある白駒池、山梨県との県境に近い犬ころの滝、そして志賀高原。いずれの場所にも車で片道2時間~2時間半で行ける。幸い、前半は天気にも恵まれた。

週の後半には「軽井沢八月祭」が始まった。軽井沢八月祭は今年で5回目。軽井沢のあちこちで小さな演奏会が開かれる。ほとんどの演奏会は無料である。数年前には、一日中、軽井沢のあちこちでひらかれる演奏会巡りをしたこともあった。

しかし、今年の軽井沢八月祭はだいぶ規模が縮小されている。震災の影響でスポンサーが減ったのであろうか。軽井沢八月祭に引き続いて軽井沢国際音楽祭が開かれるためであろうか。今週の後半から天気が崩れたこともあり、私たちは教会で開かれた演奏会に一昨日と昨日でかけた。ただし、息子は別荘で留守番。

息子はクラシック音楽には全く興味がない。音楽そのものに興味がない。演奏会会場ではいつも演奏が始まると同時に眠ってしまう。それでも昨年までは一緒に演奏会についてきた。しかし、今年からは一人で留守番すると言い始めた。

きょう(8月20日)も朝から雨。夜とこんな雨の日には別荘でのんびりと読書をする。昨年までは歴史小説ばかり読んでいたが、今年は普段読まない本ばかり近くの本屋で買ってきては読んだ。”それでも「日本は死なない」これだけの理由”(講談社)、”日本経済、復興と成長の戦略”(朝日新聞出版)、”3・11に勝つ日本経済”(PHP研究所)、”震災大不況にダマされるな”(徳間書店)、”世界でいちばん! 日本経済の実力”(海竜社)、”2011年 ユーロ大炎上”(講談社)、”世界が感嘆する日本人”(宝島社新書)、そして”連合赤軍「あさま山荘事件」の真実”(ほおずき書籍)と”無縁社会”(文芸春秋)。

「あさま山荘事件」は、40年経過した今も私の頭には鮮明な記憶が残っている。この事件はこの軽井沢で起きた事件であった。当時まだ中学生であった家内は、事件があった年の夏、家族とあさま山荘と見に行ったという。今、その「あさま山荘」の周囲にはうっそうと木が生い茂っており、建物の下の山道からはなかなか見通すことができない。改築もされ、一見しただけでは、かつての「あさま山荘」であったのかどうかすらわからない。

”連合赤軍「あさま山荘事件」の真実”のなかの「あさま山荘事件」をきっかけとして発覚した「リンチ殺人事件」の記述も生々しかった。

今も世界では「正義」の名の下に数多くの殺人が行われている。今も世界のあちこちで続いている戦争のほとんどは宗教戦争である。当事者は「正義のため」としか言わない。しかしまぎれもない宗教戦争である。イスラム教徒キリスト教徒の紛争は将来もなくなることはないであろう。物事を善と悪の2つにしか分類できない一神教の宿命である。

“無縁社会”はNHKで放映された番組を本にまとめたものである。私は独身ではないし、一人だけではあるが息子もいる。姉や、姪、甥もいる。両親もまだ生きている。それでも将来、私も無縁社会のなかで孤独死するのではないかという不安感がないわけではない。

今、私の母親は入院しているが、残り少なくなった時間を自宅で過ごしたいと強く願っている。また、母親が自宅にもどれるかどうかはわからない。ただ、母親も、そして父親も孤独死することだけはない。「行旅死亡人」となることもない。

長くなった。明日の朝、東京に戻る。

2011年7月26日火曜日

思春期

このブログを書き始めて何年経ったであろうか。

本ブログを書き始めたのは、成長していく息子のその時々の姿を記録したいと思ったからであった。しかし、書きためたブログを読み直してみると、息子の成長を綴った文章は少なく、ほとんどは私自身の心象の描写であった。男親というのはこんなものであろう。

さて、今、息子は13歳。思春期を迎えた。

息子の思春期の芽生えを私が感じたのは、息子が10歳のときであった。今からちょうど3年前のこと。「暑い!」といって寝室のある2階から1階のリビングに降りていき、その晩、そこに置いてあるソファーの上で眠ったのだ。その夏、息子がリビングのソファーで独り寝をしたことがもう1回あった。いま振り返っても、やはりこのときが息子の思春期の始まりであったのだと思う。

もう息子は決して親といっしょに寝ようとはしない。

家内は、息子の行動のひとつひとつにとまどっているようだ。思春期の変化は男と女では大きく異なる。母親と娘にとって思春期は、親子関係から同性の親友関係への変化の時期なのかもしれない。しかし男にとって思春期は、精神的自立の時期である。特に、親からの精神的自立の時期である。最も感受性の強い時代でもある。

これから高校を卒業するまで、息子は精神は激しい嵐のなかをさまようであろう。この嵐を抜けたとき、息子には精神的エネルギーにあふれた逞しい若者になっていてもらいたいと願う。どんなに秀才であっても、精神的エネルギーがなければ人生の荒波を乗り越えていくことはできない。

息子が高校生になったら、「学校を1年休学して、これから世界一周してくる」と言い出すことがあるかもしれない。私はこのようなことが起きるのを心配しながらも、その一方でこんな突拍子もないことを息子が言い出すのをひそかに期待している。

これから息子がぶつかるであろう人生の荒波を乗り越えていく生きていく上で最も大切なものは、体全体からにじみ出る精神的エネルギーだと思う。粘り強い精神力である。もうひとつ重要なものがあるとすれば、それは作家の渡辺淳一氏が言う、「鈍感力」であろう。「鈍感力」は「楽観性」と言い換えることができよう。

鈍感力も一種の精神的エネルギーであろうが、いずれにしろ、これらを獲得する近道は、若い頃に多くの挫折を味わうことである。

2011年6月25日土曜日

今月3度目の帰省

昨日、日帰りで高知に帰省した。

一昨日、父親はリハビリテーション病院に転院した。転院手続を済ませただけですぐ母親と姉に連れられて帰宅した。したがって私が実家に帰ったときには両親が揃っていた。姉も夫(私の義兄)をひとり残したままずっと実家に泊まってくれている。

父親が落ち着いてリハビリテーションに取り組める環境を整えなくてはならない。

私は帰宅すると、父親といっしょに大急ぎで所用を済ませた。そして父親を転院先のリハビリテーション病院に送り、その脚で空港に向かった。

父親が入院したリハビリテーション病院は高知市のはずれにある。まわりに広い田園が広がる。静かで空気も澄んでいる。病院は木造2階建て。父親の病室は2階の個室であった。十分な広さと設備。日当たりもよく、療養するには最高の環境であった。父親は疲れていた。したがって私は病棟の看護師の方々に挨拶を済ませるとすぐに病院を出た。

レンタカーで病院から空港に向かう途中、私は父親の人生を振り返った。父親は、終戦後間もなく、中学校卒業と同時に一家の柱として懸命に働いてきた。そのため老後のお金には困っていない。しかし、もしリハビリテーションが終わった後も帰宅できなかったとしたら・・・。

2週間前に会ったときと比較して、父親は明らかに物忘れがひどくなっていた。5分ごとに、これがない、あれがないと騒いでいた。これほど物忘れがひどくては一人で生活できるはずがない。ましてや母親の介護など無理である。かといって、父親を東京に連れてきても、私の生活が成り立たなくなる。家族が24時間、振り回されてしまう。

しかし、65年間一家を支え続けてきた父親を、家族と離れたままひとりぼっちで終わらせることになれば、あまりにもむごいではないか。

年をとれば人は病気になる。病気にならなくとも全ての人が必ず死ぬ。ある年齢に達したならば、誰もが自分の死に向けて心の準備を開始しなければならない。

人生最期の時期を家族に囲まれて自宅で過ごすこと。

これがおそらく最も幸せな死の迎え方であろう。母親ははっきりと口に出して「住み慣れたわが家で残り少なくなった時間を過ごしたい」と言う。口には出さないが、父親もやはり同じことを一番強く望んでいるであろう。

2011年6月13日月曜日

2週続けての帰省

高知から東京に戻る飛行機の中でこの文章をしたためている。

2週続けての帰省になった。

昨日は、高知空港でレンタカーを借り、姉の嫁ぎ先に立ち寄り、姉と一緒に父親が入院している病院に向かった。ちょうど姉の三女(私の姪)が帰省しており、その三女も同乗した。

私の父親には孫が5人、ひ孫が2人いる。これらの孫やひ孫が可愛くて仕方がないらしい。父親は彼らの顔をみると心から嬉しそうな笑顔を浮かべる。

昨日、私たちが病院を訪れたのは、父親の病状に関する説明を主治医から直接聞くためであった。私が主治医に会うのは初めてであった。説明は簡単であった。医師である私にとって、父親の脳MRIを見せてもらえればほとんどなんの説明も要らなかった。これからの父親に必要なのは、脳梗塞の再発を防ぐための治療とリハビリテーションであった。

リハビリテーションによって父親の失語症が完全によくなるとは思えない。しかし、できる限りの治療を受けさせる必要がある。父親は仕事や自宅にいる私の母親のことをしきりに心配している。まずは父親のこれらの心配事を取り除いてあげなくてはいけない。

昨夜は実家に帰り、母親と夜遅くまで話した。母親とふたりきりでこんなに長時間話すことはなかった。今まで聞いたことのない話もいくつか聞くことができた。たわいのない話が多かったが。

そんなたわいのない話の中のひとつ。

だいぶ前のことであろうが、私の父親が近所の人に「うちの嫁は地味で」話したことがあるという。その時、その隣人は「亭主(つまり私)の稼ぎが少ないからよ!」と言ってあざ笑ったという。また、実家の近くの別の老婦人からは「息子を医者にしたのに役に立たんねえ」と言われたこともあるらしい。母親が地元の病院で入退院を繰り返していたことに対する嫌みであったようだ。また、父親は父親で更に別の老夫人から、「おまん(土佐弁:あなた)の頭は大したことがないのに、お孫さんができるのはどうしてじゃろうね」と言われたことがあるという。父親はその言葉に対して「ワシはこればあの人間じゃけんど(私はこの程度の人間であるが)、孫がようやってくれるけ(孫がよく勉強してくれるので)、幸せじゃ」と言い返したという。それ以来、その老婦人は父親に対して嫌みを言うのをやめたらしい。

これは余談。

母親と私が寝たのは午後11時30分を過ぎていた。私は母親の寝室の隣の居間で電気炬燵に潜って寝た。

翌朝、私は7時30分に目覚まし時計の音で目覚めた。起きると急いで身支度を整え病院にでかけた。きょうはいくつかの書類手続きを進めるつもりであった。父親と一緒に市役所や銀行に出向き、所要を済ませた。そして病院に戻り、公証人立ち会いのもと、「任意後見契約」の手続きを済ませた。父親の病状が悪化した際、父親が尊厳を失わず、かつお世話になった人たちに対して義理を欠かずに死を迎えられるよう、今から準備を進めておかなくてはいけない。

人は誰も死から逃れられない。私の父親にも、自分の人生の最期をどのように締めくくるのかを真剣に考え、そして直ちに実行に移すべき時が到来した。幸い、病状は比較的軽かったが、そんなに長い時間が残されているわけではない。

2011年6月10日金曜日

無題

私が幼なかった頃、我が家では祖母と父親との言い争いが絕えたことがなかった。怒ると父親は祖母に対して暴力を振るった。そんなとき、祖父母は私の父親の暴カから逃れるため、我が家で「鳥小屋」と呼ばれていた小さな離れに逃げた。私も祖父母を追いかけ、その「鳥小屋」の中で祖父母の間に入り込んで寝た。なぜその離れを我が家で「鳥小屋」と呼んでいたのか私は知らない。私が生まれる前か物心つく前にその離れで鶏を飼っていたのであろう。家が吹きぬける、広さが四畳半ほどの粗末な小屋であった。

まだ幼なかった私には、なぜ祖母と父親との間にけんかが絕えないのかがわからなかった。その理由を私が知ったのはごく最近のことであった。

当時、我が家は貧乏のどん底にあった。中学校を卒業後ほどなく一家の柱となった父親はなんとか貧困生活から抜け出そうと必死であった。その方策をめぐっての意見の対立が2人のけんかの原因であった。

父親は五人兄弟(男3人、女2人)の末っ子。一番上の兄は戦死していた。上の姉は肺結核で死んでいた。私が生まれたとき、私の父親の兄弟としては兄1人と姉1人が残っているだけであった。その2番目の兄は何故か生家である我が家を継がず別に所帯を持っていた。つまり、父親は末っ子でありながら家を継いでいた。貧乏も一緒に引き継いだのだ。

父親は深夜まで休まず働いた。母親も一緒であった。両親がいつ寝、いつ起きているのか、私にはわからなかった。しかしその代償として、私が幼い頃、我が家には一家団欒の時は皆無であった。食事中も父親が私や私の姉に話しかけることはなかった。父親は食事中ですら気むずかしい顔をしながら仕事のことを延々と話し続けた。一家揃っての食事が楽しく感じられたことはなかった。幼かった頃の私は、父親が仕事先から帰宅する車の音にすらおびえた。

父親と祖母との争いが絕えないことに勘えかねた祖父が「正義(まさよし)のところへ出ていく!」と怒り出したことがあったということを、つい先日、母親から聞かされた。「正義」というのは父親の二番目の兄の名である。祖父はきわめて温厚であった。私は祖父が怒ったのを見たことがない。父親と祖母との言い争いは、私の記憶よりもはるかにひどかったのであろう。

祖父が家を出ていくと怒ったとき、私の母親は「こういう状況ですからやむを得ないでしょう」と言ったという。すると祖父は「やむを得ないとはどういうことか」と今度は母親に対して怒り始めた。母親はまだ20歲になったばかりの新妻であった。そんなに若い母親が祖父に対して「どうか家にいてください」と言い直して謝まり、祖父母が出ていくことを思い止まらせたという。

こんな我が家の状況を見るに見かねて、母親の2人の姉は離婚して実家に戻るようにと勧めたらしい。

しかし母親は実家に戻らなかった。なぜ母親が離婚に踏み切らなかったのか、私は知らない。既に私の姉が生まれていたので子のために離婚を思い止まったのであろうか。

ただ、当時の母親にも全く救いがなかったわけではなかった。祖母の存在であった。姑である私の祖母は嫁である母親を何かにつけて褒め、近所の人たちにも自慢して廻ったという。祖母が母親を叱ったことは一度もなかったらしい。当時の母親にとって大きな心の支えになったようだ。

祖母は63歲のとき脳出血で倒れた。2週間後に死ぬまでの間、母親は自宅で献身的に祖母の看病をした。まだ8歲にしかすぎなかった当時の私にも、母親のその献身的な看病は神々しいとすら感じられた。

祖母は祖父とは対照的に気牲が荒く口も悪かった。父親との言い争いが絕えなかったひとつの原因もここにあったのではないかと思う。しかし、人と人との感情の機微は家族の間でも理解しきれない。祖父母と両親の4人の間の心の綾を私が正確に理解できるはずがない。

2011年6月7日火曜日

最後の上京

昨年、私の母親は3回、私が勤務する慶應病院に入院した。その度に父親が付き添ってきた。両親が利用するのはいつも夜行バスであった。高知ー東京間は11時間かかる。長旅である。

両親が住む高知では、東京では当たり前と思える治療を受けることができない。医療水準が低い。よりによって私の母親は高度の医療技術を必要とする病気に何度も罹患した。どうにも困ってしまって慶應病院で治療を受けることになったこともある。数年前には整形外科に3回ほど入院。そして昨年は泌尿器科に入院した。

昨年の夏、母親が退院し高知に帰る際、私は両親を夜行バスの停留所まで送っていった。母親は歩行器なしでは歩けない。私は停留所のすぐ傍に車を停めて父親とふたりで母親を後部座席から降ろした。そして急いで運転席に戻り、車を駐車場に停めた。

悲しかったのは、母親を車の後部座席から降ろしている最中、小田急バスの交通整理係の若者から「ここは駐車禁止です。車をどけてください」と大声で注意され続けたことだ。母親の姿を見ればその場所に車を停めざるをえないことは一目瞭然ではないか。それに私が車を停めた場所にバスが入ろうとしていたわけでもなかった。

駐車場に車を停めて停留所に急いで戻ると、母親は地下道への入口のコンクリートに座り込んでいた。冬ではなかったので腰が冷えることはなかったであろうが、身体が不自由な年老いた母親が腰を丸めながら屋外でバスの到着を待つ姿を見るのは、息子の私にとって辛いことであった。私が幼い頃、母親はよく私と私の姉の二人を同時に背負ってくれた。もう50年も前のことである。

高知行きのバスが到着した。両親は乗客の列の最後尾に並んだ。やっと立っている母親を私と父親が支えた。「どうぞお先に」と行ってくれる乗客はいなかった。両親は最後にバスに乗り込んだ。

母親は脚をあげることができない。私は母親の足首を両手で左右交互につかんで一歩一歩バスの階段を上らせた。上体は父親が抱えた。

なんとか母親をバスに乗せることができた。そして私だけバスから降りた。振り返り、両親の姿を探そうとバスを見上げた瞬間、私はなんとも表現できない悲しみに襲われた。両親が上京するのはこれが最後だろうという思いが急に込み上げてきたのだ。

バスは静かに出発した。そして間もなく新宿駅前の雑踏の中に消えた。バスが見えなくなった後も私はしばらく停留所にぼうっとしながら立っていた。

「両親が上京するのはこれが最後」

ちょうど1週間前に父親が脳梗塞になり、私のこの予感は現実のものとなった。

2011年6月6日月曜日

帰省と介護

6日前(先週の火曜日)の昼、私は汐留のオフィスに勤めている友人と新橋駅前で会って話をしていた。彼との話はいつも家族や親戚のこと、そして高校時代の友人の近況。

そろそろ席を立とうかと思い携帯電話を見ると、父親からの電話の着信履歴があった。2回かかってきていた。

私は喫茶店から道路に出て父親に電話をかけた。すぐに父親は電話に出た。父親が病院に来ていることはわかった。しかし要領を得ない。代わって出てきたのは姉であった。父親の具合がわるくなり診察を受けていたところ、突然、診察医の目の前で訳がわからなくなったという。「訳がわからなくなる」ということの意味は不明であったが、おそらく頭が朦朧としたのだろうと推測した。

短時間ではあったが父親と話し、父親が失語症になっていることはわかった。脳梗塞が起きたのだろうと推測した。

学会があったため私は直ちに帰省することができなかった。結局、金曜日の夕方、学会会場から直接羽田空港に向かうことになった。学会会場から羽田空港までは徳島に住む友人がいっしょであった。早めについたので彼のお勧めの喫茶室でお茶をしながら時間を潰した。

そうこうしているうちに上述の友人も羽田空港に到着。その徳島の友人と別れ、彼といっしょに高知に帰ってきた。彼は入院している父親の看病のために2週間に1回、東京から高知に帰省している。

いつもは高知空港まで父親が迎えに来てくれる。しかし今回は誰も迎えに来てくれない。彼も然り。私たちは1台のレンタカーを借りることにしていた。まず、彼の家に行くことにした。彼の家は国道から分かれて狭いつづら折りの道を登った山の中腹の寒村にある。車で山を登る途中、小さな温泉があり光が見えた。しかし光はそれだけであった。彼の家の両隣には民家があるが、いずれの家からも光は漏れてこなかった。1軒の家は既に空家になっているということであった。あたりは真暗。私は彼が家の玄関の電灯をつけるまで待った。家が明るくなるのを確認して彼の家の前を離れた。

実家に着いたのは午後10時を過ぎていた。家にはまだ電燈が灯っていた。玄関のドアを開けて「ただいま」と言うと、「おかえり」という女性の声が返ってきた。しかし聞きなれない声であった。姉であった。姉とは数年間会っていなかったが、声が低くなっていた。私はてっきり父親と母親しかいないものと思っていたが、父親が病気になった日からずっと実家に泊まってくれていたのであった。

私の母親は長年、慢性関節リウマチを患い、手も足も大きく変形している。右の肘関節には人工関節が入っている。数年前には頚椎骨折のため四肢麻痺になるとともに意識も朦朧となり生死をさまよった。歩行器を使えばなんとか歩くことができるまでには回復したが、これ以上の回復は望めない。

こんな母親の介護は年老いた父親がすべてやってくれていた。その父親が脳梗塞になった。四肢の麻痺はないが、自分の名前すら書くことができない。このような状態では銀行から預金を引き出すことも自分ひとりではできない。運転も医師から禁じられた。田舎では車がないと何もできない。食べ物さえ買いにいけない。

こんな両親を置いたまま、私はきょうの午後、東京に戻らなければならない。当座は県内にすむ姉と姉の長女(私の両親の外孫)がなんとかしてくれると思うが、長期的な介護をどうするか。母親はこの家からは出たくないと言う。「頚の骨が折れた時になぜ死ななかったのだろう。あの時に死んでいればよかった。」この言葉を何度母親から聞かされたことか。身体の自由が利かず一日ごとに年老い、将来への希望を持たない高齢者に共通する心の中からの叫びかもしれない。

2011年5月15日日曜日

幼友達の死

ちょうど一週間前の朝、父親から電話がかかってきた。私の実家の西隣に住む幼友達が亡くなったという知らせであった。

彼は長い間、肝硬変を患っていた。アルコール性の肝硬変であった。数年前には危篤状態に陥ったこともあった。なんとか持ち直したものの、ほとんど家から出ることはなかった。だから昨年の正月、実家近くの氏神様に初詣でに出かけた際に彼の姿を見かけ驚いた。なんと彼は同じ部落に住む人たちと酒を酌み交わしていた。彼は私に向かって笑いながら「もう死なんで!」と言った。私は彼に「お酒は飲まん方がえいで」と忠告したが、彼は私の忠告を気に留めようともしなかった。

それから1年後。今年の正月に彼の家に新年の挨拶に行った。彼は笑顔で私を迎えてくれた。短時間話しただけであったが、元気そうに見えた。

この幼友達は私の隣に住んでいたこともあり、私が中学校に進学するまではよく一緒に遊んだ。当時、彼はめったに笑顔を崩すことがなかった。いつもにこにこしていた。彼の姉は自己主張と自己顕示欲が強かったから、彼の人柄は一層温厚に思われた。

私はこの幼友達を羨んでいた。まず、彼の家庭は私の家庭よりもはるかに裕福であった。少なくとも私の目にはそう見えた。そして彼は父親によく遊んでもらえた。

しかし、成人した後の彼の人生は幸福には見えなかった。彼は地元の工業高校を卒業したあと就職したが、定職についてじっくりと仕事をすることはほとんどなかったように思う。彼の父親も若くして交通事故で亡くなった。結婚生活にも恵まれず、離婚。子もいなかった。

彼がアルコール漬けの生活を送るようになったのも無理からぬところがあったと思う。

彼の家には年老いた彼の母親ひとりが残された。彼の家は遠からず廃屋になる。私の実家の東隣は既に昨年から空家になっている。我が家も両親が亡くなれば廃屋になるであろう。

2011年5月1日日曜日

軽井沢

今年初めて軽井沢に出かけた。10数年前から、ゴールデンウイークには、私は家族と一緒に必ず軽井沢にでかける。

自宅を出たのは4月29日の午後10時過ぎであった。着いたのは30日の午前0時10分。高速道路の渋滞に巻き込まれることなく、ちょうど2時間で軽井沢に到着した。気温は2℃。東京よりも15度以上気温が低かった。電気毛布を敷いて、その晩は、すぐに寝た。

翌朝目覚めたのは午前7時。家族が起きぬ間にと思って7時30分に起き出し、締切が過ぎている依頼原稿の執筆にとりかかった。4月29日の昼間にほぼ原稿は書き上げていたが、一晩寝ると気分が変わっており、結局、大幅に書き直すことになった。昨年秋に新しく開店した、私たちの別荘近くのレストランで昼食。その後、再び執筆作業にとりかかった。原稿が仕上がったのは午後4時。直ちにメールで出版社に原稿を送った。約1万2千字。原稿用紙30枚。曇天であったこともあり、すでに外は薄暗くなり始めていた。私は息子と一緒に近くの書店に出かけて40分ほどその店で過ごした。

夕食はチゲ鍋。料理に手間がかからないから軽井沢では毎日のようにチゲ鍋ばかり作る。夕食を済ませた後は、アイススケートの世界選手権をテレビで観戦。安藤美姫は気合いのこもった演技で金メダル。しかし浅田真央の演技には全く精彩ががなかった。上の空で滑っているように見えた。

きょうの午前中はテレビ。日曜日の午前中は、毎週、NHKの将棋講座とNHK杯を観る。NHK杯の対局が終局に近づいたとき、iPhoneが鳴った。北尾まどかさんからのMMSであった。四国で開かれる催し物に招待されて東京を発つと書かれていた。彼女の活動がある雑誌に掲載されることも、添えられていた写真から知った。彼女は将棋の女流プロ二段。一昨年、NHKの将棋講座のアシスタントを務めていた。どうぶつしょうぎの発明者でもある。彼女の夫は、同じく将棋プロの片上大輔六段。

私の大学時代の後輩が、片上六段と北尾女流二段のサポータになっている。私も彼に頼まれて、一昨年の暮れ、北尾女流二段を応援する会の会員になった。以来、片上・北尾ご夫妻とは1年に何回か話す機会がある。

昨年の夏には、この私の大学時代の後輩が所有する御代田のマンションにお二人やその友人が集まった。その際に、私も家内と一緒にそのマンションを訪れ、一緒にバーベキューを囲んだ。片上六段と北尾女流二段はなかなかお似合いのカップルである。

きょう私は、午後3時から開かれる小さな演奏会を聴きに家族とでかけることにしていた。場所は私たちの別荘から車で20分ほどの場所にある「オナーズヒル」という店。ここは小高い山の頂上近くにあり、浅間山がよく見える。

ここで、まず昼食をとった。そして温泉にゆっくりつかりながら、演奏会が始まるのを待った。演奏会はレストランを利用して開かれた。観客は20名ほど。文字通り「小さな演奏会」であった。クラリネットとギターの二重奏。演奏は決して上手ではなかった。それでも、遠くにそびえる浅間山を背景にした静かな演奏会に、私はしばし時間が経つのを忘れた。

午後7時前に軽井沢を発ち、帰途についた。途中、事故や故障車のために高速道路は渋滞していた。しかし3時間半ほどで帰宅できた。

明日の夜、再度、家族と軽井沢にでかける。

2011年3月26日土曜日

家族旅行

いま、羽田空港のロビーにいる。家内と息子も一緒だ。明日、午前1時20分発の飛行機でマレーシアのコタキナバルに向かう。コタキナバルに行くのは4年続けてとなった。

今年の家族旅行が例年と違うのは、今年は息子のクラスメートの一家と一緒であるということだ。一緒に行こうと相談してそうしたわけではない。偶然であった。その上、行きの飛行機まで同じであるとは。びっくりした。どうも、私の家内が、「コタキナバルはいい、コタキナバルはいい」と息子のクラスメートの母親たちにいつも話していたらしい。

驚いたことに、実は、コタキナバルにこの春休みに行くのは、いま一緒になった一家と私たちだけではない。もう一家族もほぼ同じ時期にコタキナバルに行くのだ。もちろん息子のクラスメート一家が。ただし、その家族は成田発のクアラルンプール経由だということだ。だから、現地では3家族がいっしょになる。

2011年3月23日水曜日

震災の後の卒業式

きょうの午前、息子の通う小学校で卒業式が開かれた。息子は今年卒業する。

卒業式は講堂で開かれるはずであった。しかし3月11日の午後、息子たちが卒業式の練習をしている最中に例の地震に見舞われて講堂は一部損壊した。そのため、急遽、第二体育館で卒業式を行うことになった。

会場となった第二体育館のなかに入るのは、私は初めてであった。古い建物であった。講堂と比べると狭い。当然、暖房はない。しんしんと冷えた。前方には卒業生と来賓の座る椅子が、後方には父兄が座る椅子が並べられていた。その椅子の数から、在校生は今年の卒業式に参加しないことがわかった。

式の初めに進行係から簡単な説明があった。椅子を並べるのも在校生ではなく教職員が行ったという。「卒業おめでとう」と書かれた飾りも教職員が自ら作ったのだということであった。非常口の場所の説明も行われた。

卒業式は、3月11日の地震で犠牲となった方々への黙祷で始まった。参加者数も少なくしんみりとした卒業式となった。最後まで笑いはなかった。

卒業式が終わったあと、卒業生、父兄、それに担任の先生がクラスごとに教室に集まった。最初に、担任の先生が改めてひとりひとりに対して卒業証書を手渡した。その後、引き続き教室で担任の先生へのささやかな感謝の会を開いた。子供たちは担任の先生への贈り物をいくつか用意していた。自分たちの思い出の写真を保存したフォトビューアー、文集、花束。そして出てきたのが担任の先生の写真を真ん中に貼った額縁。その先生の写真のまわりに一人ひとりの子供たちが順番に自分の顔写真を貼った。その額縁は子供たちが用意した最後の贈り物であった。担任の先生はそれまで笑顔を絶やすことがなかった。しかし、教室の周囲を取り囲んでいた父兄からの歌が流れ出すと、急にハンカチで涙をぬぐい始めた。結局、先生は涙に耐えきれず、子供たちへの挨拶を短く切り上げた。父兄たちが歌ったのは山口百恵の「さよならの向こう側」であった。ただし、歌詞が一部変えられていた。

会が終わりに近づいた頃、廊下のスピーカーから学校中に「蛍の光」が流れ始めた。お別れ会終了の合図であった。ほんとうのお別れの時が近づいた。子供たちは、あらかじめ打ち合わせてあったのか、誰が声をかけるのでもなく自分たちの机と椅子を教室の片隅に移動し始めた。そして黒板の前に集合した。子供たち全員と先生との集合写真を撮るためであった。子供たちにとって最後の集合写真であった。私も、何回も何回もカメラのシャッターを押した。

子供たちは終始、笑顔であった。息子のクラスメートのほとんどは、そのまま附属中学校に進学する。だから卒業は友達との別れではないのだ。

しかし、少数ではあったが、附属中学校への進学を希望したのにもかかわらず他の中学校に出ざるを得ない子もきょう集まった教室のなかにいるはずであった。もちろん、自ら希望して他の中学校に進学する者もいたが。

解散した後、再度、全員が小学校の裏庭に集合した。そして子供たちは思い思いに担任の先生と並んで写真を撮ってもらった。息子はクラスメートと一緒のときには家では見ることができない表情をいつも見せる。とても優しい微笑みをたたえている。友達といっしょにいるのが嬉しくて仕方がないようだ。

まだ皆がわいわいと賑わっている最中に、私は家内と息子を連れてひっそりと裏門を出た。そして息子が1日も休まず通った小学校を後にした。

地震の影響を受けて何から何まで異例ずくめの卒業式になった。予定していた父兄と子供たちとの会食もなくなった。その後のボウリングも取りやめになった。

6年前の息子の入学式が開かれた日。その日、学校の裏庭の桜の花はすでに散りかけていた。その桜の木の下で息子の写真を撮った。当時、まだ息子は幼かった。背も低かった。制服も制帽もだぶだぶであった。きょう帰り際に裏門で家内と息子と3人で並んで撮ってもらった写真。いつの間にか息子は私よりも背が高くなっていた。

2011年3月21日月曜日

宇宙桜

 私の高校時代の3年後輩が歌を送ってきた。「地質館に集ひし人に見守られ宇宙桜は定植を待つ」という歌である。地元紙である高知新聞の歌壇に投稿したところ入選したという。彼がこの歌を詠んだきっかけも書かれていた。彼は連歌の世界ではかなり有名らしい。
 彼は、私が高校時代に寮生活を送っていた時期に1年間同室で過ごした。当時からとてもユニークな発想をする男であった。彼からの年賀状には、毎回、へんてこな歌が下手な字で書かれてくる。そして、今回のように時折、メールでも自慢の歌を送ってくる。
 彼はまだ独身。今後も結婚しそうにない。何年か前に彼に結婚しないのかと尋ねたことがあるが、生活力がないので結婚はあきらめていると彼は答えた。以来、私は彼の前で結婚話をするのは控えている。
 確かに、彼には生活力がない。彼が勤めていた小さな新聞社(従業員、わずか2名)は何年か前に潰れた。そして彼は失業した。生まれ故郷である高知に職を求め、彼は東京を去った。高知に帰って職を得ることはできたようだ。しかし彼が収入に結びつくことに自分の時間と精神力を費やしているようには見えない。相変わらず道楽三昧の生活のようだ。もちろん彼は歌を詠むことを道楽だと考えてはいまいが。連歌は彼にとってとても大切なものであるからだ。
 彼は社交的である。知人も多い。彼は彼なりに自分の人生を楽しみ、生き甲斐を感じている。そして周りの人たちも楽しませている。
 彼と話をすると、私はいつも高校時代の私に戻ってしまう。彼にはいつも命令口調で話すのだ。土佐弁丸出しで。「おい、○○、これをしちょいてや」と。連歌の世界で大御所となった彼にこのように横柄な口をきいている私はきっと無礼なのであろう。しかし若い時代にでき上がった上下関係は何十年経とうと崩せないものである。私が通った高校では、先輩は後輩よりも偉いのだ。後輩は先輩を「さん」付けで呼ぶ。先輩は後輩を呼び捨てる。

追記:
 このブログを読んだ彼から返事が来た。「会社は潰れていない。社長ひとりで頑張っている」ということであった。上に書いた「おい、○○、これをしちょいてや」というのは、私の父が所有する山林の管理をやってくれないかと彼に頼んだのだ。帰省のたびに私の父親は私を山に連れていくが、私は境界を覚えられない。いや、山林の場所すら覚えられない。「高知県の森林組合の総務部長と知り合いになっています。不在山主ツアーをしかけられますので、東京で仲間を募ってください???!」というのが彼からの返事である。

東北関東大震災 2

 東北関東大震災は天災なのであろうか、人災なのであろうか。人々が落ち着きを取り戻せば、きっと「今回の震災は人災である」という声が出てくるだろうと思う。特に東京電力は指弾されることであろう。何者かをスケープゴートにしなければ気が済まない輩が世の中には必ずいるものだ。
 しかし、生きることは危険と向かい合うことだ。私たちは常に死と向かいあいながら生きている。人類は自然というお釈迦様の手のひらの中で踊らされているにすぎないのではなかろうか。そもそも、これまで人類が築いてきた文明など自然の前には全く無力なのだ。今回の騒ぎが一段落したならば、いろいろな反省点が見つかるであろう。ただ、私は、どのように我々が知恵を働かせ努力しようとも、この種の犠牲者は今後もなくならないだろうと思う。原発をなくせば被害がなくなるという単純なものではないであろう。水力発電に頼ればダムの決壊を恐れなくてはならなくなる。

 下に掲載したのは昨日いただいたメールの続きである。私の方で文章の一部を削除するとともに手直しした。

 被災地の検死会場は修羅場でした。感情を殺して作業しました。昨日の朝、帰宅しましたが、軽いPTSD状態になり眠れず、お酒を飲みながら涙を流しました。しかし夜、家族と食事をしたあと一晩ぐっすり眠ると気持ちが落ち着いてきました。
 東京はガソリン不足になっていますが、被災地と対比するとなんと静かで平和なんだろうと感じます。被災地の人々のことを思うと心が痛みます。
 歯科医師会や日本歯科医学会がボランティアを募っていますが、現地にでかけるちことには危険を伴います。また大挙して押しかけても地元にはそのアテンドをする余裕もありません。
 私は、身元確認作業には自己完結で行動できる自衛隊の歯科医官を投入すべきだと考え、懇意にしている陸上自衛隊のある歯科医官と月曜日に相談したうえで歯科医師仲間にも相談しましたが、その提案は受け入れられませんでした。
 たまたま防衛政務官の神風衆議院議員が知り合いでしたので、自衛隊の歯科医官を投入するようお願いをしました。神風防衛政務官は動いてくださり、金曜日に防衛省内局より陸海空の3軍の歯科医官に命令が下されました。そして、約300名の歯科医官が身元確認作業に従事することになりました。宮城県警と陸上自衛隊の間では宮城県歯科医師会の江澤先生がご尽力して災害時の協力体制はできていますが、現在の自衛隊はシビリアンコントロールですから、防衛省内局の指示がなければ部隊を動かせません。21日に第1陣が出動します。これで、多くの歯科医の危険を回避し、また、地元の歯科医師会の先生方の手を煩わせることもなくなったと思っています。
 今は計画停電や患者さんの受診抑制もあり、火曜日からは町医者としての戦いをしなければなりません。先生のおっしゃるように日本人は高潔な民族であり、力をあわせて苦境から立ち直る力を持った国民であると思っています。

2011年3月20日日曜日

東北関東大震災 1

私がお世話になっている歯科医からメールが届いた。彼は地震の直後から震災救援活動に駆り出されていた。

以下、いただいたメールの文面の一部を修正して掲載する。

 諸先生方にはご心配をおかけしました。派遣中、先生方のご支援をいただきましたことを心から感謝いたします。精神的にめげそうな業務でしたが、先生方の御支援が心の支えになりました。私は昨日朝、宮城から戻りました。
 13日午後3時に、午後6時までに警察庁に集合せよとの連絡が入りました。警視庁第一機動隊のバスで緊急車両のみ走行が許されている東北道を通って山形入りし、宮城県で身元確認作業に従事しました。交代要員第2陣が金曜日深夜に来ましたので、土曜日朝にそのバスに乗り帰京しました。
 直下型地震ではありませんでしたから、仙台中心部や私が作業に従事した岩沼市でも建物の倒壊はほとんどありませんでした。ブロック塀すら倒れているのはわずかでした。古い家屋が倒壊している程度でした。
 ほとんどすべてが津波による被害でした。津波が町を破壊しました。津波の威力は想像を超え、海から6キロ地点までがれきを運び、田んぼを覆い尽くしていました。特に仙台より北のリアス式海岸の被害が甚大です。ビルの3階に避難していた方々すら津波にのみ込まれました。
 検死会場は修羅場でした。続々とご遺体が運び込まれてきます。自衛隊、警察、消防の方たちは不休で働いていました。体育館の中では御遺族が号泣する声が響いていました。我々はひたすら感情を殺すよう努力しながら作業を続けました。感情を殺さなければあまりの悲しみのために作業を続けられなくなるからです。
 まだ生存者のいる可能性があるため、重機を使ってのがれき撤去作業は行っていません。ニュージランドでの地震の際にはもっと早い時期に生存の可能性をあきらめて重機を投入しました。
 あまりにも死亡者が多いため、戦後初めて、身元確認が終わらなくても資料採取が終われば、ご遺体を自治体に回し、火葬に処すようにと警察庁から通達がありました。これは戦後初めての通達です。戦時下での対処と一緒です。
 すべてのことが終わるには2か月もしくはそれ以上かかるかもしれません。無事であった町でもライフラインは寸断され、市民は不安な不自由な暮らしをしています。警察ですら車両もガソリンも不足しています。どうしてもっと、政府が手だてをうって、大量の物資を東北地方に搬入できないのかと不思議に思いました。
 まだまだ冷たいがれきの下や海際には累々としたご遺体があります。40万人の被災者がいます。私の仲間はガイガーカウンターを身につけ原発近くの南相馬市で作業に従事しています。私のいた岩沼市も原発から60キロ地点ですから、通常の6倍程度の放射能濃度にはなっていたと思います。
 4日目にやっと温かいコーヒーを飲みました。毎日、あたりまえのように飲んでいたコーヒーすら飲むことができない状況でした。東京も不便な状況になっているようですが、自宅に戻り、宮城に比べればなんて平和で安全な町だろうという思いと一緒に作業に従事していた警察、消防、自衛隊、医師、歯科医師がきょうも作業を続けていると思うと心が痛みます。

2011年3月12日土曜日

「ちんば」と「つんぼ」

「ちんば」というのは土佐弁である。「びっこ」という意味である。現代流の表現を用いれば「脚が不自由」ということになる。私にとって「ちんば」という言葉は差別用語でもなんでもない。土佐弁の「ちんば」という言葉には身体の不自由な人を蔑むといった響きはない。

私の父方の祖父はちんばであった。私が物心ついたときには既にびっこを引きながら歩いていた。「びっこを引く」という表現は適切でない。ひどい0脚であったのだ。だから歩くと、左右に大きく状態が揺れた。たまにではあったが、曲がった膝は腫れた。そのたびに祖父は近所の医師に関節に溜まった水を抜いてもらっていた。しかし、祖父は自分がびっこであることを悲観しているように見えなかった。なぜ自分がちんばになったのかを話すこともないまま、祖父は1982年に88歳で亡くなった。

祖父がなぜちんばになったのかを知ったのは、祖父が亡くなってから30年も経った昨年の秋のことであった。父との雑談のなかで偶然その話が話題に上ったのだ。

祖父が保証人になっていた知人が急死し、我が家が多額の負債を抱えたことがあることは既に書いた。当時、近所の人たちは祖父が歩いているのを見ると遠ざかったという。金をせがまれるのではないかと恐れたらしい。祖父は不平ひとつ口にせず、ひたすら働き、誰に借金もすることもなくその多額の借金を返済した。ちんばになったのはその代償であった。

祖父が野良仕事から帰ってくるときにはいつも大きな荷を背負っていたそうである。遠くから見ても一目で祖父だとわかったらしい。大きくて重い荷物を毎日のように担いだために祖父の膝は大きく曲がったのだと父は私に語った。私が物心ついた頃、既に祖父は家督を私の父親に譲り、隠居の身分であった。祖父が比較的若くして隠居の身になったのは歪んだ膝のためであったという。

こんなことを私に語る父も既に78歳になった。あと1週間後には79歳になる。すっかり耳が遠くなった。「つんぼ」になった。私の祖父は「ちんば」、父は「つんぼ」である。私はやがて「盲(めくら)」になるのであろうか。

「ちんば」も「つんぼ」も「めくら」も不自由ではあるが恥ずべきことではない。少なくとも土佐弁では恥ずべき障害という響きはない。

昨今の言葉狩りは困ったものだ。

2011年2月28日月曜日

良識か、行儀か、シツケ放棄か



一人ひとりの人間の価値を最も高めるものは何であろうか。学歴であるという人もいるであろう。地位であるという人もいるだろう。金であるという人もいるに違いない。若い人のなかには親の地位や財産、つまり親の七光りがあることを自慢に思っている人もいるだろう。

私はこの頃、人の価値を決めるのは品格であると思うようになった。品格と高価な装飾品とは関係がない。財産とも関係がない。当然、学歴とも。学歴がなくともきわめて品格のある人はたくさんいる。ベランベー調の話し方をしても妙に品格のある人もいる。逆にどれほど学歴や地位が高かろうと卑しい品格の人も少なくない。品格はその人が生きてきた人生そのものである。

つい最近発売されたサンデー毎日に岩見隆夫氏が「ティッシュペーパーと若い女性と」というコラムを書いている。このコラムの中で岩見氏は現代の若い女性の品格のなさを心から嘆いている。

現代の女性は「男女平等」教育によって育てられた。この「男女平等」教育によって女性は男性と同等の幸福と権利を獲得できるものと信じられていた。しかしこの「何でも男女平等教育」は残念ながら女性に幸せをもたらさなかった。そればかりでない。かつての日本女性が持っていたかけがえのない美を奪った。品格も奪った。そして若い男性からは自信を奪った。

2011年1月22日土曜日

帰省

昨年12月30日から今年1月3日まで家族で高知の実家に帰省した。いつもどおり、父親が高知龍馬空港まで迎えにきてくれた。空港から私の実家までは車で約1時間かかる。

私はまっすぐ実家に帰らず、途中の高知駅前で降ろしてもらい、その日開かれている忘年会会場に向かった。年によってメンバーは若干異なるが、いつも10数名以上集まる。12月30日は中学・高校時代の友人と開く忘年会の定例日になっている。

皆、老けた。しかし、表情も声も性格も高校時代と変わらない。しかし、話題は変わる。最近はどうしても親の病気や介護のことが中心になる。子供たちもほどんど高校生以上である。すでに社会人になった子を持つ友人もいる。孫が生まれた者もいる。私のようにまだ小学生の子を持つ者は私を含めて2人しかいない。

我が国では最近、結婚しない人が急増している。結婚年齢も上昇している。しかし私の同期生(約360名:男女ほぼ同数)はほとんどが結婚している。ずっと独身を通している同期生の数は数名以下であろう。(男子生徒も女子生徒も社会人になれば結婚し家庭を持つこと。これを前提とした、ごく「普通の教育」を私たちは6年間受けた。)

彼らと出会ったのは中学校1年生のとき。もう40年以上も前のことである。しかし入学当時のことは今でもありありと思い出すことができる。

体育館で開かれた入学式。起立し、背の高い同級生のなかに埋もれながら、初めて聴いた校歌。体育館全体に木霊した。その美しいメロディーと先輩たちの透き通る歌声は今も私の耳に残る。先輩たちが自分の学校に誇りを持つとともに、新しく入学してきた私たちを心から歓迎してくれているのを肌で感じることができた。「あさかぜのすがしき国、にひはりの道は開けぬ・・・。」

振り返れば、私の人生が始まったばかりの時期であった。

あれから40年以上経て、私の息子がちょうどこの年齢に達した。この4月、中学生になる。

息子にも間もなく思春期が訪れるであろう。息子にとってこれからが本当の人生である。