2018年5月26日土曜日

不動産の処理 2

2013年の9月、この人に電話をかけた。用件は忘れてしまった。

夜10時前であったように思う。後で人づてに聞いていたところによると、この人はまだ 起きてはいたが既に布団に入っていたという。寝酒を飲んで酔っていたとも聞いた。

その人は私からの電話だと知ると、私が電話をかけた理由も聞かず、いきなり大声で一方的に怒鳴り始めた。記憶が薄れてきたので彼の口から出た言葉をそのまま反芻することはできないが、彼が喋ったことはおおよそ次のようなことであった。

「俺は両親が死ぬまできちんと介護した。お前のようにいい加減なことはしていない。なんだ、お前は! 仕事をやめて高知へ帰ってこい! 帰ってきてちゃんと親の介護をしろ!」

その人は自分が言いたいことだけを機関銃のようにまくし立てると、ガチャンと一方的に電話を切った。側にいた私の家内は強いショックを受けていた。


2018年5月24日木曜日

不動産の処理 1

2013年6月下旬、父親が倒れて緊急入院したという連絡を受けたとき、まず私を襲ったのは、しまったという思いであった。私は父親が所有していた田畑や山林の処理に長い間頭を悩ませていた。父親には、それらの不動産を早めに処分しておいてくれるように頼んだが、父親は耳を貸そうとはしなかった。「今は、山林は二束三文であるが、時代は変わる。また山林の価値が出てくる時代が来る」というのが父親の口癖であった。父親にもしものことがあったら私は父親が所有する不動産の所在地も境界もわからなくなることを恐れた私は、帰省する度に父親と一緒に山林を見て回った。カメラやビデオカメラを持参し記録をとった。しかし1年経つと山林の状況はすっかり変わっていた。

父親が入院した病院に私が駆けつけた日には、まだ父親にはわずかに意識が残っていた。父親はうわ言のようにではあったが、発作のときの状況について、目を閉じたまま、「頭にドンと来た」と語った。そして麻痺のない左腕を自分の頭に持っていった。しかし、主治医からは2日後には父親の意識がなくなると告げられていた。たとえ意識だけが鮮明になったとしても自宅に戻ることは不可能であろうと私は思った。しかし急性期を乗り越えれば父親がすぐに死ぬこともあるまいとも思った。

私は父親が100歳まで生きることを想定して介護に要する費用を頭の中で計算した。父親を東京の施設に移す手段や転院先についても思案した。私の家内は父親の介護施設を東京で探し始めてくれた。しかし父親の病状は徐々に悪化していった。それに加えて母親も入院することになった。母親は東京の病院に転院することを頑として拒否した。両親が元気だった頃から、両親とも高知で人生を終えると、私は母親から告げられていたので、東京への転院を私は無理強いすることはしなかった。幸い、土佐市内にある白菊園病院が両親を長期間入院させてくれることになった。

両親の治療は主治医に委ねるほかない。そう考えた私は、父親が所有している不動産の処理を本格的に始めた。しかしこの作業は実に困難であった。

まず、父親が所有する田畑や山林を私は全て知っているわけではなかった。市役所に出向くと父親が所有する不動産の一覧表をコピーすることができたが、土佐市内の不動産だけで40数筆もあった。その他、父親は近隣の市町村にも山林を所有しており、それらの市町村からも不動産に関する書類をもらわなければならなかった。市役所では切り図をコピーさせてくれた。しかし切り図だけでは田畑や山林の境界は皆目わからなかった。境界線には何の目印もなかった。現地に出向いて自分の目で境界を確認するほかなかった。

しかしその作業を始めてはみたが、私一人で田畑や山林を見て回ることは不可能であることがすぐにわかった。私は親戚や実家のご近所を回り、父親が所有している田畑と山林を教えてもらわざるをえなくなった。ほとんどの人たちが嫌な顔一つ見せず協力してくれた。ひとりの老人は90歳を過ぎているというのに山の上にまで一緒に登って行ってくれ、丁寧に山林の境界を私に教えてくれた。また、別のご近所の方は、抗がん剤治療を受けた直後であり白血球が1000にまで減少しているにもかかわらず、雨の中、山奥まで私を案内してくれた。ご近所の方々が総出で父親の所有する山林や田畑の境界を教えてくれた。私は心のなかで深く感謝した。

ただ、意地の悪い人がいなかったわけではなかった。あるご近所の人は、私が仕事を休んで1ヶ月間帰省するのであれば山林の境界線について教えてやろうと言った。「1ヶ月間帰ってこい。1ヶ月間もんてきたら教えてやる。」その人は意地悪く私にそう言った。その人の自宅を訪ねる度に同じ返事が帰ってきた。私が1ヶ月続けて仕事を休めるわけがないではないか。

改葬 6

我が家代々の墓地が我が家の所有でなかったことは既に書いた。このことを私が知ったのは実家のご近所の方から教えてもらったからであった。その人は、私が別のことを依頼していた司法書士からそのことを聞かされたと言った。私自身は、その司法書士からは何も聞かされていなかった。市役所に出かけてその墓地の所有者を確認したところ、確かに我が家の墓地は我が家の所有ではなかった。隣りの家の持ち物であった。

私はその司法書士に電話をかけ、事情を尋ねた。しかしその司法書士は口を濁し、私にではなくご近所の方にそのことを話した理由を説明してはくれなかった。私の家の事情を当事者である私には何も話さず第三者に話すことは司法書士として失格ではないか、そう考えた私は、それ以後、その司法書士には何も依頼しないことにした。ただ、その司法書士を私に紹介してくれた知人には事情を話さなかった。その知人は私に不信感を抱いたかもしれないが、その知人とその司法書士との仲が壊れることを私は憂慮した。

介護は単なる看護ではない。ましてや面会でもない。介護離職という言葉が最近よく聞かれるが、私はその事情がよく理解できる。仕事を持っている私が東京と高知とを往復しながら両親の介護をすることは実に大変であった。

2018年5月22日火曜日

改葬 5

私の実家の墓を掘り起こす作業にはひとりの従兄が私と一緒に立ち会ってくれた。このことは既に書いた。私がこの従兄に立ち会いを依頼したのは、作業開始日、私が朝早く墓地に行けないためであった。その日の始発便で東京を発っても、高知の実家に着くのは早くとも午前11時になった。朝9時前に実家に着かなければ、作業開始時に作業員の方々に挨拶したり墓地の説明をすることができなかった。

墓を掘り起こす作業は、土曜日と日曜日に行った。正確な日は憶えていないが、2014年の1月ではなかったかと思う。その従兄は嫌がらずに立ち会いを引き受けてくれた。昼前に私が実家の裏山の墓地に駆けつけると、既に作業はかなり進展していた。実に手際がよかった。

私は、この作業を行う前日、墓を掘り起こすことをもうひとりの従姉に電話で連絡した。その従姉は、東京に墓地を移転するようにと進言してくれた、父親の兄の長女であった。彼女は別の予定が入っているのでその作業には立ち会えないと言った。私は、内心、安堵した。墓を掘り起こす作業に立ち会うことは決して愉快なことではない。私は國弘家の嫡男であるから私が立ち会うのは当然のことであろう。しかしたとえ親戚といえど他家の者が墓を掘り起こす作業に立ち会う義務はない。私が彼女に電話を入れたのは、墓の移転を勧めてくれた彼女に進捗状況を知らせるのが礼儀だと思ったからだけであった。私は「わかりました」と答えてそのまま電話を切った。

ところが、それから程なくして、その従姉の妹が激怒しているということが私の耳に入った。墓を掘り起こす作業について私が連絡しなかったからだという。

確かに、その怒っている従姉の本籍が私の実家になっていることを私は本人から聞かされたことがあった。しかしその当時もまだ彼女の本籍がまだ私の実家になっているのかどうかについては、彼女は語らなかった。彼女は中学校卒業と同時に県外に出ていった。それ以来50年間、私は彼女と会ったこともなければ電話で話したこともなかった。彼女が私の実家の墓参りに来たことがあるといったことも聞いたことがなかった。だから、四国を離れて遠くに住んでいるその従姉に墓を掘り起こす作業に立ち会ってもらうといったことは全く考えもしなかった。

そんなことがあって以来、私はその従姉と再び疎遠になった。ただ、東京で墓が完成したならばそれを彼女に知らせようとは思っていた。

東京の墓が完成したのは翌年(2014年)の3月であった。私は完成したばかりの墓石を写真に撮り、彼女に送った。ところが残念なことに、私が送った写真は見られないという返事が届いた。私は写真を圧縮し、再度彼女に送った。しかし、やはり写真は見られなかった。何度も写真の圧縮を繰り返しては彼女に送ってみたが、その写真は見られないということであった。

私は彼女の携帯電話はスマートフォンなのかどうかをメッセージで尋ねた。彼女からはガラケイだという返事が届いた。スマートフォンとガラケイとの間では写真のやりとりができないのだろうと思った私は、「なら、見られないかもしれない」とメッセージを送った。

そうしたところ、彼女から突然、激しい文面の写真が届いた。「わるかったな。どうせ私は貧乏人だからスマートフォンは買えんわ。金がないから自宅のインターネット回線も解約した」という文面であった。私は単にスマートフォンとガラケイとの間には規格の違いがあるのでないかと言っただけであった。しかし、彼女からはもう返事はなかった。

以来、彼女は親しい人に対して私を目の敵にする発言を繰り返しているという。

改葬 4

墓をめぐっては驚きの連続であった。

2013年6月下旬に父親が倒れて入院したあと、私の帰省時に、ご近所のご夫婦が私を訪ねてきた。私の父親が所有している畑にその家の墓石が建っているという。しかし、その畑の購入代金は20数年前に既に私の父親に払っているということであった。そのご夫婦は父親が出した領収書を手にもっており、私にそれを見せてくれた。

我が家が所有する畑に他人の墓が建っているとは。驚きであった。そのようなことを両親から聞かされたことはなかったが、合点はいった。その家は農家ではなかった。だから、その畑の所有権を変更することができなかったのであろうと私は推測した。

私はそのご夫婦に連れられて、墓が建っている畑を見にいった。猫の額ほどの狭い畑であった。そこには苔が生えている墓石が建っていた。確かに建立したばかりの墓石ではなかった。

私はこの件を母親に問いただすことはしなかった。司法書士に依頼し、そのご夫婦とその司法書士とが直接相談し合って畑の所有権を移転してもらうことにした。ほどなく、所有権の移転が無事終わったとの、そのご夫妻から連絡をいただいた。

改葬 3

新しい墓地は決まった。家庭裁判所からも改葬許可が得られた。しかしその後も大変であった。市役所からも改葬許可をもらわねばならなかった。過去70年間に亡くなった先祖の戸籍一覧を市役所で発行してもらったが、全ての先祖の名前が✖️印で取り消されていた。人の生は単にひとつの✖️印でこの世から抹消されるのだと思うと、虚しさを感じた。私の両親の名前も同様に✖️印ひとつで抹消され、親しかった人たちからも忘れ去られていく。

土葬されている先祖の墓を掘り起こすにあたっては、まず菩提寺に依頼して魂抜き(閉眼供養)をしてもらわなければならなかった。閉眼供養の当日には、私の家内と息子も立ち会った。住職はひとつひとつの墓の前で読経した。そして読経が終わると、クルッと墓石を捻り、向きを変えた。この閉眼供養の儀式は1時間近く続いた。儀式が終わった後、短時間、住職と会話を交わした。その際、我が家の宗教が真言宗になったのはそんなに昔のことではないと聞かされた。先祖の戒名からわかるのだという。驚きであった。元々は何宗であったのか、どうして真言宗に改宗したのかについても聞かされたが、残念なことに、それらについては忘れてしまった。

墓を掘り起こす作業は専門業者に依頼した。二日がかりであった。この作業には私とひとりの従兄が立ち会った。驚いたことに、殆どの墓で遺骨は亡くなっていた。残っていたのは、50年前に亡くなった祖母の遺骨と30年前に亡くなった祖父の遺骨だけであった。祖母はビニール袋に包まれて埋葬されていたためか、祖父よりもしっかりとした骨が残っていた。作業員の方々は祖父母の遺骨を丹念に拾い集めてくれた。遺骨が残っていない墓からは、一握りの土だけを丸めて布袋に入れた。そう、人は死ぬと、土に還るのだ。

ほとんどの墓からは一握りの土しか回収できなかったため、東京で設けた墓に容易に納骨することができた。魂入れ(開眼供養)の儀式は、インターネットで探した名も知らぬ僧侶に依頼した。父親の四十九日の納骨の直前であった。

父親の納骨の日には、別の僧侶に読経を依頼した。私と私の家内、そして一人息子が立ち会うだけの寂しい四十九日であったが、父親はきっと喜んでくれているだろうと思った。

2018年5月10日木曜日

改葬 2

改葬にあたっては、単に新しい墓地を設ければよいというものではなかった。家庭裁判所の許可を得なければならなかった。家庭裁判所から改葬許可をもらうためには、改葬が父親の意志に添うことであることを家庭裁判所に証明する必要がある。この作業には、司法書士であり、かつ後見監督人となった古くからの友人が奮闘してくれた。彼は我が家の親戚や父親が接触していた霊園業者の方たちに聞き取り調査をしてくれた。そしてその面談結果を元にして、家庭裁判所に提出する書類を書いてくれた。実に長い文章であった。その文章からは、彼の私に対する思いやりや彼の人柄が滲み出ていた。ただ、ひとつひとつの文がとても長く読みにくい文章であった。彼とファックスのやり取りをしながら文章を推敲した。

1ヶ月以上かかったが、彼の尽力のお蔭で墓地を東京に移す許可を家庭裁判所からもらうことができた。

その後、他のことでも彼には随分力になってもらった。得難い友人である。

改葬 1

父親が倒れた後は、全ての雑務を私が代行しなければならなかった。母親とは会話ができたが、母親も父親の入院から6週間ほど後に入院した。退院できる見込みはなかった。しかも我が家では、長年、父親が財布の紐を握ってきていた。そのため、銀行口座のことや田畑のことなどを母親に尋ねても何一つ明確な返事が戻ってこなかった。なんと母親は、自分の年金が振り込まれる口座の通帳すら父親に預けていた。自分名義の預金がどれほどあるのかも知らなかった。したがって私は、両親が行うべき雑務を代行するにあたって、ほとんど全てのことを自ら市役所や銀行に足を運んで確認せねばならなかった。

土佐市役所で両親名義の土地を調べて驚いたのは、墓地が我が家の所有ではなかったことであった。隣りの家の土地であった。その墓地には江戸中期以来の我が家の先祖が埋葬されていた。つまり、300年にわたって我が家は隣りの家の土地をずっと借用していたわけである。祖父母からも両親からも我が家の墓地が隣りの家の所有であることは一度も聞かされたことがなかった。300年間も我が家が利用してきた以上、その土地は法律的にはもう我が家の所有物と考えてもいいであろうとも私は考えた。しかし先祖は全て土葬されていた。土葬されている先祖の遺骨を掘り起こさなければ、その墓地には死期が迫った両親を埋葬するための納骨堂を設けるスペースすらなかった。

父親は、そのことも考慮してか、まだ元気な頃、実家の裏山に納骨堂を造っておいてくれていた。その納骨堂には縁あって國弘家が供養することになっていた他家の遺骨が納められていた。我が家の先祖代々の遺骨をその納骨堂に移そうとも考えた。しかし納骨堂が設置されていたのは畑であった。市役所に問い合わせると、その納骨堂は移設するよう求められた。

私は業者に依頼して墓地を探してもらった。最初は土佐市内の霊園を紹介された。その霊園を下見に行った 。しかしその霊園は小高い山の北側の斜面にあり、少し日当たりが悪く湿っぽかった。また、夏であったこともあり、雑草が生えていた。そのため、別の霊園を探すことにした。次に紹介されたのは高知市内の霊園であった。高知市街を見下ろす小高い山の頂上近くにあった。南側に面しており日当たりもよかった。高知空港からも近かった。この霊園に我が家の墓地を移そうと東京の自宅に戻った。

しかし、9月になって、ひとりの従姉から、墓地を東京に移すように勧められた。自宅に近い場所に墓がなければ先祖の供養ができないというのが理由であった。その従姉はとても信心深かった。

このことを母親に話すと、母親はその考えに賛成してくれた。私は、父親のベッドサイドに行き、墓を東京に移すことを告げた。その頃には、父親も母親も共に土佐市にある白菊園に入院していた。当然、父親は返事しなかった。しかし私は、きっと父親も賛成してくれるだろうと思った。

私と私の家内は東京で霊園を探し始めた。家内は多くのパンフレットを取り寄せ、それらの霊園に下見に行ってくれた。時間があるときには、私も家内に付き添った。

しかし墓地探しは難渋を極めた。霊園はたくさんあったが、いずれも帯に短し襷に長しであった。母親が真言宗の寺に拘ったことも墓地探しが難航した大きな理由であった。私の家の宗教は真言宗豊山派であったが、どの寺でも改宗を求められた。しかし母親は頑として改宗を拒否した。

やっとここにしようと思える霊園が見つかったのは、2013年の年末であったように思う。その霊園がある寺の宗教は真言宗ではなかった。しかし 改宗は求められなかった。その寺の敷地の一部を宗教自由の墓地として開放しており、いかなる宗教も受け入れてくれた。

私たちは、その墓地を管理している業者と墓石の打ち合わせを始めた。暮石に刻印する文字や家紋についても話し合った。

墓地が完成したのは、父親の四十九日の法要の数日前のことであった。父親の四十九日の法要は私と私の家内と私の一人息子の3人だけで執り行った。ひとりの僧侶が読経してくれた。ごくごく少人数の法要であったが、亡き父親はきっと喜んでくれているだろうと私は思った。

2018年5月3日木曜日

20歳

きょうは5月3日、憲法記念日。息子の誕生日でもある。きょう、息子は20歳になった。

一昨年まで、息子の誕生日はいつも軽井沢で祝ってきた。しかし、昨年、息子が大学生になって以来、息子はゴールデンウィークはクラブ活動のため家を留守にするようになった。今年は昨年と同様に私はゴールデンウィークを家内とふたりで過ごしている。

昨夜、都内の道路も高速道路も大渋滞であった。パーキングのレストランも満席であった。一夜明けたきょう、軽井沢はどこへ行っても家族づれで賑わっている。

のどかである。

2018年5月1日火曜日

任意後見人

もみの木病院に入院した父親の容態は私が帰省するたびに悪化していった。私は、司法書士の友人の力を借りて家庭裁判所に任意後見人の申請を行い、家庭裁判所内で面接審査を受けた。面接の担当官は女性であった。残念ながら、その面接担当官から話されたことも私が担当官に話したことも、ほとんど覚えていない。ただ、その担当官は、面接のあと父親が入院しているもみの木病院に足を運び、自分の目で父親の病状を観察してくれた。

私が家庭裁判所から任意後見人に指名され高知駅近くにある法務局で登記事項証明書を受け取ったのは2013年9月中旬であったように思う。9月上旬であったかもしれない。その登記事項証明書を持参すれば、市役所でも銀行でも、本来父親本人でなければできない手続きができるはずであった。ところが、そうはならないことが多かった。登記事項証明書がいかなる書類であるのかを知らない窓口の担当者が少なくなかったからである。登記事項証明書を持参するようになった後も、銀行の窓口で長い時間待たされることが珍しくなかった。

市役所や銀行に出向かなければならないときには、私は平日、仕事を休まねばならなかった。任意後見人に指名された後は、土曜日の始発便で羽田を発って高知に帰り、月曜日の最終便で東京に戻ることが多くなった。月曜日には朝食も昼食もとる時間がなかった。月曜日には市役所や銀行を回るだけでなく、父親の不動産の処理をするために行政書士の方や土地家屋調査士の方々と打ち合わせをしたりしなければならなかった。天気がいい日には実家の掃除もせねばならなかった。父親にも母親にもとても申し訳なかったが、両親を見舞う時間は極端に少なかった。東京に戻る日には、高知龍馬空港その日のはじめての食事をとることが珍しくなかった。重い荷物を抱えて高知から東京の自宅に戻ったとき、私の顔は青ざめ、唇も白くなっていたという。

土佐市民病院

2013年6月下旬に父親が2度目の出血性脳梗塞で倒れたことを知らされたとき、私は、「ああ、最も恐れていたことが起きた」と、暗澹たる気持ちに陥った。主治医は、父親の意識は2日以内になくなるので大急ぎで親族を呼ぶようにと言ったという。

喫緊の問題は、父親の治療費をどうやって捻出するかということであった。2011年に父親が初回発作で入院した際、司法書士の友人の勧めで、父親にもしものことが起きたときに備えて私は父親と後見人契約を結んでいた。私は、父親が倒れた日の夜、その司法書士の友人に電話をかけて相談した。友人は、任意後見人申請のための診断書を主治医に書いてもらうようにと言い、その書類を私にファックスで送ってくれた。

父親が倒れたのは木曜日であった。その週末は主治医は出勤しないかもしれない。早めに診断書をお願いしておいた方がいい。そう思った私は、父親が入院している病棟に電話をかけて事情を話し、書類をファクスで送った。

ところが、このことが翌日、物議をかもすことになった。

私が父親が入院した病院に着いたのは、翌日の昼前であった。病棟のエレベータを降りて父親の部屋に向かっていると、その病棟の婦長から呼び止められた。主治医が私に話したいことがあるから、ナースステーションに入ってくれという。私は婦長に導かれてナースステーションに入った。そして婦長に勧められた椅子に座った。

数分後に主治医が現れた。その主治医はとても興奮していた。主治医は、私の前に座ると、父親の病状については一言も話さず、私が送った書類はどういうつもりなのかといきなり大声で怒鳴り始めた。私はあっけにとられた。私は、直ちにその診断書を書いてくれるようにと依頼したわけではなかった。父親は2日以内に意識がなくなると言われていたので、そのときに備えて私が高知に滞在中に主治医に診断書を預けておこうと思っただけであった。その主治医は私に「お父さんの病状をみたのか!」と大声で言った。私は病室に行く前に婦長に呼び止められてナースステーションに入った。父親の病状を自分で観察しているはずがなかった。主治医の発言の真意を測りかねた私は、単に「いいえ、まだ」と答えた。主治医は、任意後見人申請用の診断書を書く必要があるほど父親の病状は悪くないと言いたかったのか。私には皆目わからなかった。

主治医は頭ごなしに私を怒鳴りつけると、いきなり席を立ってナースステーションから出て行った。私は、椅子に座ったまま、主治医が戻るのを待った。なかなか主治医が戻らないので、ナースステーションの看護師に、どれほど待てば良いのかと尋ねた。その看護師は主治医に電話してくれた。そして20分ほど待つようにと言った。

主治医は何も言わず席を立った。こんなことは東京では許されない。

私は主治医が戻るのを待たず立ち上がり、ナースステーションを出た。そして父親の部屋を訪ねた。

父親は完全には意識がなくなっていなかった。しかし目を開けることはなく、ただ、「頭にズンときた」と言ったことを独り言のように繰り返し喋った。

私は、父親を転院させることにした。その日のうちに高知市内のもみの木病院に救急車で搬送父親を搬送した。結局、土佐市民病院では父親の病状については、一言も説明を受けられなかった。

バラギ湖

昨日は、北軽井沢の行きつけのカフェレストランで昼食を摂ったあと、バラギ湖にまで足を伸ばした。絶景であった。