2018年12月30日日曜日

今年もあと1日

今日は晦日。今年もあと1日を残すだけとなった。2014年3月に父親が亡くなって以来、揉めに揉めた父親の遺産相続問題も裁判所の裁定で決着がついた。姉を名誉毀損で訴えた民事訴訟も勝訴となった。母親の遺産相続でも姉と徹底的に争うつもりであった。しかし、私の人生最後の姉への情けとして姉の要求を一部受け入れたところ、母親の遺産相続の問題はあっけなく片付いた。11月末で全てが決着した。

父親の葬儀には、姉の親族のなかでは姉の夫である義兄一人だけが参列してくれた。姉と姉の4人の子供たちは誰も来なかった。その1年5ヶ月後に亡くなった母親の葬儀にも姉も姉の子供たちも参列はしないだろうと思っていた。ところが、姉と姉の長女と次女が告別式に訪れた。

しかし、姉にも姉の子供たちにも参列してもらわなかった方がよかった。彼らは私の母親の葬儀を汚しに来ただけであった。まず、3人とも親族席に座らなかった。一般席のしかもその最後部に並んで座った。焼香も最後であった。姉は祭壇までは来たが焼香はしなかった。そして、式場では、姉の長女が、参列者たちに対して「裁判をやれば私たちが勝つと、誰もが言っている」と話していたという。従姉からこのことを告げられた私は、「裁判とは何のことだろう」といぶかしく思った。母親が亡くなったときには、父親の遺産相続問題で調停中であったが、裁判にはなっていなかった。私が姉を名誉毀損で訴えたのは、母親の死後、かなりの時間が経過したあとであった。その裁判で私は勝った。姉が夜中に繰り返しかけてきた無言電話や留守番メッセージは今も大切に保存している。

「あなたたち3人がしたことは全て知っちょります」で始まる姉の留守番メッセージを初めて聞いたのは、私が池袋駅から大塚駅に向かって歩いているときであった。留守番メッセージは3回残されていた。姉は酔っていたのか、ろれつが回っておらず、周囲がやかましかったこともあってなかなか聞き取れなかった。しかし、姉の声の響きだけで背筋がぞっとした。これらのメッセージは、関係者に今後繰り返し聞いてもらうかもしれない。

「あなたたち3人」が誰を指すのかわからなかったが、長い間、それは私と私の両親を指しているのであろうと思っていた。「あなたち3人」が私と私の家内と私の長男を指していることを知ったのは母親の葬儀の翌日であった。その日、私は葬儀に参列してくれた親戚をお礼のために訪れた。その際に、ある親戚から、その前の晩(つまり葬儀の日の夜)、姉から電話があり、私と私の家内と私の息子が母親の預金通帳の名義を全て自分たちの名義に書き換えたと告げたといい、私たちに対しする憎しみを抱いていたと告げられた。

この話を親戚から聞かされた私の家内は絶句した。私も驚いたが、同時に「あなたたち3人」が私と私の両親のことではなく私と私の家内と私の息子であることを初めて知り、姉の異常さが気味わるくなった。

裁判の場で、姉は、「ある従姉(実際には実名)がそのように私に告げたからそれを信じていた」と陳述した。事実を確認せずこのような発言をすることが許されるのであろうか。

姉は、自分に不利な事実については、全て「ご近所の人たちがそう話していた」とか「従姉からそう聞いた」と証言して、ことごとく責任を逃れようとした。

姉も姉の長女も人ではない。両親は亡くなった。取り返しはつかない。

2018年10月29日月曜日

面河渓

10月25日から28日まで高知に帰省した。母校である高知学芸高校の1年生に対して進学ガイダンスを行うためである。高知に滞在中、日帰りで愛媛県の面河渓を訪れた。数年前から面河渓に行ってみたいとずっと思っていたが、途中で道に迷い、何度か途中で引き返していた。

私が幼い頃、我が家には縦4センチ、横3センチほどの小さな白黒写真があった。この写真には1歳になるかならないかの頃の私が父親に抱かれている姿が写っていた。父親はまだ若々しかった。父親の生前、その写真はどこで撮影したのかと父親に尋ねたことがあった。父親は「面河に行ったときに撮った写真よ」と一言答えただけであった。私もそれ以上突っ込んで聞きはしなかった。

その写真は、私が大学を卒業する際に卒業アルバムに掲載するために他の数枚の写真と一緒に実家から送ってもらったが、残念なことに紛失してしまった。ただその写真に写っていた若かりし頃の父親と幼い私自身の表情は今も網膜に焼き付いている。

その写真には、背景はほとんど写っていなかった。しかし、今回、面河を訪ね、きっとここで撮影したのだろうと思う場所を見つけた。

今でこそ道路が整備されているが、実家から面河までは遠い。当時はまだ道らしき道すらなかったのではないか。しかも当時、我が家には車がなかった。父親はどうやって面河まで行ったのであろうか。しかもまだ乳飲子であった私を連れて。きっと母親も私の姉も一緒であったのではないだろうか。

面河渓の紅葉をカメラに収めながら、私は60年前の出来事に想いを馳せた。










2018年10月9日火曜日

姉の病状

今朝、弁護士と電話を話した際に、姉の病状が思わしくないとの連絡を受けた。予想通りであった。一方的に縁を切っても親の遺産の相続権は消えないことを姉は知っていた節がある。姉は両親が入院して亡くなるまでの間、一度も病院に面会に訪れなかった。母親からのたび重なる電話にも出なかった。父親の葬儀にも出席しなかった。

両親の生前、一度も両親の見舞いに訪れなければ、姉の病状はさらに悪化するだろうと私は思っていた。案の定、そうなった。亡くなった両親をどんなに責めようとも、どんなに言い訳をしようとも、身体は正直である。

もう姉の病状はよくなるまい。可哀想であるが仕方がない。意地悪い表現をすれば、自業自得である。姉が縋る宗教も姉の心を癒しはしない。姉は、何が自分を苦しめ続けているのかに早く気づかねばならない。それ以外に姉が救われる道はない。私はもう手助けしない。

2018年8月19日日曜日

父親は2013年6月下旬に入院した。しかしその2年ほど前に父親は1回目の発作で入院したことがあった。その際には高知市内のもみの木病院で急性期の治療を受けた後、リハビリテーションのために「すこやかな森」に転院した。父親が「すこやかな森」に入院して何日も経過しないときに、ひとつの事件が起きた。

父親が看護師から清拭してもらっている最中にその看護師に対して「気持ちがいいので局部をもっと触ってくれ」という意味のことを言ったというのだ。父親がどのように言ったのか、正確な表現は知らないが。

私はこのことを姉から知らされた。姉はこのことをすごく恥じていた。姪もこのことで父親に激しく腹を立てており、もう「すこやかな森」には恥ずかしくて行けないと言っているということであった。

この話を聞いて私も恥ずかしくなかったわけではない。しかし、転院前、もみの木病院で主治医から見せられた父親の脳梗塞の範囲は広く、側頭葉から前頭葉に及んでいた。父親の言動がおかしくなるのは当然であった。私はこの件で父親を責めても仕方がないと考えた。

その後、わたしが「すこやかな森」に父親を見舞った際、主治医からこの件について尋ねられた。「お父様は普段からこのようにエロチックな方だったのですか」と。私ははっきりとは答えなかったように記憶している。

この時期のことであろうが、私が姪に対して「おじいちゃんの夜の伽をしろ」と言ったと姪は裁判の際に証言した。ここまで作り話をするのかと、私は愕然とした。

姪が恥ずかしがっているということを姉から聞かされたとき、私は姪に対して申し訳ないと思っていた。ただ、どうしようもないと考えていた。父親は脳の病気を患っているのだ。父親には責任はない。父親の子である私にも姉にも責任はない。看護師に対しては一言謝罪すべきだと思ったが、私と姉と姪との間で責任のなすりつけあいをすることではなかった。

いずれにしろ、もし父親が私が勤務する病院に入院していたならば、私の病院の看護師はこのようなことを大げさには扱わなかったであろう。私は高知県内の医療レベルが低いことに失望した。

私の姉が父親のことを「エロじじい」と盛んに言い出したのはこの事件の後であったように思う。

エロじじい

私が父親について「エロじじいは早う死ね」と言っていたと裁判の場で姪は証言した。私は唖然とした。この言葉はまさに私の姉が私に繰り返し言った言葉であった。そもそも、私は自分の父親を「エロじじい」と呼んだことはない。私が父親のことを姪に話すときには、必ず「おじいちゃん」と言った。また、父親が1日も早く死ぬことを願っていたのも私ではなく姉であった。姉は姪に対しても「エロじじいは早く死ね」と繰り返し喋っていたのであろう。なんと姪は、姉のこの言葉を私が言っていたと嘘の証言をしたのだ。姪の根性は根っこから腐っている。

もし姪のこの証言が判決文のなかで事実として取り上げられたならば、私は姪を偽証または名誉毀損で訴えるつもりであった。私の代理人を務めてくれた弁護士にもそのことを伝えておいた。しかし裁判官は姪の証言には一切言及しなかった。姪は救われた。

2018年8月18日土曜日

2013年7月15日 姪

私の姉と姉の長女(私の姪)が私の母親との絶縁を私に告げたのはその2週間前の7月1日のことであった。このことは既に書いた。絶縁の理由は、私の姉(つまり姪の母親)よりも私に多く遺産相続させたいと母親が言ったからだということも述べた。

7月15日の晩、姪は悪口雑言の限りを尽くして私の両親を批判した。自分たちが私の両親から受けてきた愛情と多額の金銭援助に対する感謝の言葉は一言もなかった。それどころか、「外孫と内孫を区別することは許さん!」とまで言った。姪と名の弟妹が私の両親から受けていた金銭援助は私の息子がもらった金銭の数百倍に昇るというのに・・・。私は唖然とした。

姪の発言があまりにも酷いので、私は姪に対して次のように言った。「お爺ちゃんの財産は私のものではないが、お爺ちゃんの財産がもし私のものであったならば、私は〇〇(姪の名)には1円もやりたくない。」当時、まだ父親は生きていた。私は慎重に言葉を選んだつもりであった。

私のこの発言について、後に姪は裁判の場で次のように証言した。私の父親の遺産を1円もやらないと私が言ったというのだ。

何というすり替えであろうか。表現は似ていても意味は全く異なるではないか。

36歳(当時)にもなって、まだ母親方の祖父母の財産をアテにしていたのか。私の両親の孫にあたる私の姪は、私の両親の遺産の法定相続人ではない。

2018年8月17日金曜日

2014年1月19日 日曜市

父親が入院した後、私は1ヶ月に1回〜3回の頻度で帰省した。土曜日、日曜日、月曜日と2泊3日で帰省することが多かった。平日に高知にいなければ、さまざまな雑用をこなすことができなかったからである。月曜日には朝食も昼食もとる時間の余裕はなかった。夕方、高知龍馬空港のレストランでうどんをかけこんだ。孤独であった。

そんな私の唯一の楽しみは、日曜市で芋の天ぷらを食べることであった。天ぷらを朝食代わりに食べた後は、両親を見舞い、天気がいい日には実家を掃除した。窓を開け、布団を干した。草むしりもした。両親が実家にいなくとも実家をきれいに保つことは、長男である私の責務であると考えていた。








2013年12月23日 閉眼供養

2013年6月下旬に出血性脳梗塞のため入院した父親の容体は、私が帰省するたびに悪化していった。母親も腰椎骨折のため入院。実家は空き家になった。父親にもしものことがあっても父親を埋葬するスペースは我が家の墓地にはなかった。私は改葬が必要だと考えた。

しかし改葬には家庭裁判所の許可がいる。後見監督人を引き受けてくれた私の友人に相談したところ、彼が私の親戚を回っていろいろと話を聞き、家庭裁判所に提出する改葬許可依頼書を書いてくれた。

当初、私は土佐市内か高知市内の墓地を探した。しかし、ひとりの従姉が、思い切って東京に墓地を移してはどうかと言ってきた。私の一人息子は東京生まれ東京育ちである。墓地が高知県にあれば墓参もままならないであろう。墓地の場所すらわからなくなってしまうかもしれない。私は従姉の進言にしたがって東京に墓地を移すことにした。墓地探しは家内に頼んだ。家内は沢山の霊園からパンフレットを取り寄せるとともに、時間を割いてそれらの霊園を実際に下見に行ってくれた。時間があるときには私も同伴した。

写真は、併願供養の際の写真である。家内と息子も私と一緒に帰省し、菩提寺の住職とともに併願供養を行った。2013年12月23日のことであった。












2013年7月15日 3枚の写真

手元に2枚の写真がある。撮影日は2013年7月15日。高知の実家の写真で撮影したものである。この年の6月下旬に父親が2度目の出血性脳梗塞で倒れて入院した。これらの写真は私が家内と息子を連れて帰省したときに撮影した写真である。母親は実に嬉しそうにしている。母親は一人暮らしになったが、人生で初めて夫(私の父親)からの圧迫がなくなって幸せであると語った。娘(私の姉)と孫(私の姉の長女)から絶縁されたことをこの時期にはまだ母親は知らなかった。対照的に私は目にはクマができ今にも泣き出しそうである。私の当時の心境を如実に表した写真である。この4週間後に母親は自宅で転倒して入院。父親も母親も退院することはなく、還らぬ人となった。実家で撮影した母親の最後の写真となった。






2018年8月14日火曜日

2013年7月1日

この日のことも私は生涯忘れないと思う。姉と姉の長女(私の姪)が、私に対して、私の母親との絶縁を宣言した日である。

二人が母親との絶縁を決めた理由を私が知ったのはその2週間後の2013年7月15日の晩であった。私の母親が、私の姉よりも私に多めに遺産を残したいと言ったことが許せないと姪は私に告げた。

私は両親の遺産相続について両親と話したことは一度もなかった。親の財産は親が築いたものであり私のものではないのであるから、両親は自分の財産は好きなようにつかってもらいたいと私は考えていた。しかし姉は両親の財産を1日も早く手にしたいということを度々私に告げた。私はその度に姉を窘めた。両親の晩年、姉の関心は両親の財産にしかないように私には思えた。姪は、実家のご近所の人たちに対して、私の両親の財産がどれほどあるかを吹聴していたらしい。実家のご近所の方からそのことを私は直接聞かされた。私の両親は、東京に住む者にとっては大した財産を残したわけではない。しかし姪の話を聞かされた実家のご近所の方はその日の暮らしにも困窮していた。姪の分別のなさに私は呆れた。

話を戻す。私の姉よりも私に多くの財産を残したいと私の母親が考えていたことは7月15日に姪から聞かされるまで知らなかった。しかし、その話を姪から聞かされたとき、私は母親の気持ちがよくわかった。姉と姉の家族に対して、私の母親がどれほど多額の援助をしてきていたかを私は知っていたからである。姉の嫁ぎ先が経営していた会社が倒産した後、私の父親も姉の家族に対して多額の援助をしていた。母親はそれとは別に、父親に内緒で援助を続けた。母親が姉に渡した現金は1千万円どころではない。しかし、姉は、母親からの援助をひた隠しにした。自分の夫は当然、自分の4人の子たちにも告げなかった。それどころか、「両親は一円たりと援助してくれない」と家族や親戚に言い続けた。

姉の4人の子たちは全員大学を卒業して社会人になっていた。実家である私の家からの援助なくしては誰一人として大学には進めなかった。姉の長女は私の母親が倒れたとき36歳になっていた。結婚し子もいた。それに対して私の一人息子はまだ中学生であり、両親から私の息子は金銭的な援助は受けたことがなかった。ほどなく死んでいく私の母親が、嫡男である私と私の一人息子のために姉よりも多めに遺産を譲りたいと考えるのは当然のことであった。私には國弘家の墓守も頼まなくてはいけない、実家の建物や田畑の処分も頼まなければならない。(ただし、私自身は、当時はまだ、姉と私とは等しく遺産相続すればいいと考えていた。)

私は母親と遺産相続について話したことはないということを姪に告げた上で、なぜ母親がそのように思ったのかについて私の考えを述べた。すると、姪は「外孫と内孫を区別するのは許さん!」と怒り出した。

驚いた。どれほど多くの援助を姉の4人の子たちは受けてきたのかを忘れたのであろうか。姪は、私が何を言っても「外孫と内孫を区別することは許さん!」という言葉を繰り返すだけであった。

堪忍袋の緒が切れた私が次のように言った。「ならば、私の一人息子が両親から百万円もらったら、お前たち4人の孫たちには四百万円渡せということかえ!?」この問いに、姪は黙った。

それにしても、両親の遺産の法定相続人でもない姪がこの段階でここまでしゃしゃり出るとは・・・。非常識な親子である。

8月12日

一昨日(8月12日)、御巣鷹山に家内とふたりで慰霊登山した。御巣鷹山に慰霊登山するのは今年で5回目。5年連続となった。今年は午前中に軽井沢を発ったため、事故現場でご遺族や報道陣を多数見かけた。事故から33年発ったが、今もご遺族の哀しみは消えていないように見えた。事故当時、私の家内は日本航空に勤めていた。家内の友人も何人かこの事故で亡くなった。

母親が自宅で倒れ腰椎骨折を起こして緊急入院したのも8月12日であった。2013年8月12日。あれから5年が経った。その日、私は家族と軽井沢に出かけてきていた。実家の近くに住む女性から母親の緊急を知らせる電話を受けたのはその晩であった。彼女は早口で次のように私に告げた。「みっちゃん(私の母親の呼称)が倒れた。救急車で病院に運ぶ。私たちも救急車の後ろに付いて病院に行く。友子ちゃん(私の姉)に電話をかけて病院に駆けつけてくれるようにと頼んだけんど(頼んだが)、『國弘家とは縁を切った。家族会議を開き、池家の全員が國弘家とは縁を切ることに決めた。病院には行かん。葬式にも行かん』と友子ちゃんは言いゆう(言っている)。

彼女は、「実の親なのだから病院に駆けつけないといけない」と繰り返し私の姉を説得してくれたという。しかし姉は頑として拒否した。私の姉に何を言っても無駄だと思った彼女は一方的に電話を切り、私の母親の着替えを手伝い、救急車が実家に着くのを待ったという。失禁してびしょびしょになっていた母親の衣類を取り替えてくれたのは彼女と彼女の妹であった。彼女が救急車の後を追って病院に向かっている途中で何度か私の姉から電話がかかってきたが、運転中であったこともあり、彼女は私の姉からの電話を受けなかったという。

彼女から連絡を受けたとき、私はハンマーで頭を殴られるような衝撃を受けた。私ばかりではなかった。側にいた私の息子も動揺し始めた。

8月12日といえばお盆の真っ最中。身動きがとれなかった。私が高知に帰省したのはその週の週末であった。結局、母親はそれから2年の闘病生活を経て一度も退院することなく亡くなった。

日航機事故と母親の入院。8月12日は私の家族にとって生涯忘れることのできない日となった。

2018年8月13日月曜日

姉 2

姉は両親が私に贔屓していると思っていた。このことが姉が私や私の家内に対して激しい憎しみを抱く大きな原因となっていた。

しかし私は、両親が姉よりも私を可愛がってくれていると感じたことはない。両親は姉も私も同じように可愛いと思ってくれていると私は感じていた。(ただ、姉は他家に嫁いだ身であるのに対して私は國弘家の嫡男であり、私には両親が亡くなったあと、墓を護り家を護ってもらわなくてはいけないとは考えていたと思う。)姉の4人の子たち(父親の孫)に対しても私の一人息子に対してと同等の愛情を父親が抱いていることが私には言葉の端々や表情からわかった。

姉の3番目の子(長男:私の甥)が大学に入学した後は、長男が必要とする金はいつでもいくらでも出してやると父親は繰り返し私に話した。そのことに対して私が不平を言ったことは一度もない。しかし甥は大学入学後一度だけ感謝の手紙を父親に寄こしてきた後、連絡を断った。父親はさびしそうであった。私はなぜ甥が父親に連絡をとらないのかを知っていた。甥の母親である私の姉が、実家には絶対に連絡を取るなと甥に強制していたのだ。私は、姉がこのようなことを甥に言っていることを父親には話さなかった。父親が可哀想に思えたからである。しかし今振り返ると、父親にはこのことをきちんと話しておくべきであった。後悔している。

姉は、自分が家族に内緒で受け取れる金は貪欲に要求した。そしてその援助を家族にひた隠しに隠した。その一方で家族に知られる援助は絶対に受け取るなと家族に厳命した。姉は甥に対して両親に連絡をとるなと厳命しただけではない。甥と同じ東京に住む私に対しても決して連絡をとってはいけないと言ったという。これは姉自身の口から私が直接聞かされた。

甥は一浪して東京大学に入学した。甥の浪人中、私は甥を励ますため何度も甥に電話をかけた。姉はそれを喜んでくれ、時間があるときには電話で甥を励ましてくれと言った。浪人中、入学試験が迫った年末には甥が弱気になって受験する大学のランクを下げようかと迷い始めた。そのときにも私は、大学に受かるかどうかはその大学に縁があるかどうかで決まる、ランクを下げたからといって受かる保証はない、最後は気迫の勝負だと話して甥を励ました。結局、甥は当初の目標大学であった東京大学の入学試験を受け、合格した。

入学試験を受けるために上京してくる際の交通費は私が負担した。しかし、甥は姉からのこのことを知らされていなかった。姉は私が送った金をさも自分が用意した金であるかのように何も告げずに甥に渡していた。甥が予備校に通うための学費も私が負担した。しかしそのことも姉は甥に告げていなかった。

ところが姉は、私の父親に多額の援助をもらうことによって甥が東京大学に入学できたと同時に、実家の者(私の両親と私)には絶対に連絡をとるなと甥に命令したのだ。

もし甥が私の両親(彼の祖父母)または私と連絡を取り合うことができていたならば、甥はきっと大学院に進学したと思う。多額の教育ローンを申し込む必要もなかった。甥は今立派に仕事をしているが、甥が不憫んでならない。

姉は、自分の子と両親の人生に対して責任を取れるのであろうか。どこまでも無責任な姉である。姉のこれまでの人生を象徴する出来事であった。

2018年8月12日日曜日

姉 1

おそらく、私は生涯、姉の言葉は何一つ信じないだろうと思う。もちろん、私が姉に会うことも姉と話をすることも、もうないであろうが。

2018年8月5日日曜日

腕時計

今朝、冷房を入れようとしてリビングのガラス窓を閉めたところ、ガラス窓と障子との間に置きっぱなしにしていた腕時計を見つけた。この腕時計は私が父親にプレゼントしたものであった。父親が亡くなったとき、実家から持ち帰った。持ち帰ってきたとき、その時計は止まっていた。リビングのなかの明るい場所に置いておいたところ、いつの間にか時を刻み始めた。しかし時刻は不正確であった。おそらくまだバッテリーの充電が不十分なのであろうと思い窓際に置いておいた。以来、なんと4年もの間,窓際に置きっぱなしになっていた。




2018年7月17日火曜日

遺産相続 12 無言電話

2013年7月28日の姉の留守番電話のことは既に書いた。その留守番電話に私が気づいたのは7月28日から30日までの間であったのではないかと推測していたが、正確な日ははっきりと記憶していなかった。しかし、記憶をつなぎ合わせた結果、姉からの留守番電話に気づいたのが7月29日の夕方であったことが判明した。姉はまず私に留守番メッセージを残し、その日の深夜(正確には翌日の早朝)に私に無言電話をかけてきたのだ。ところが私が留守番電話に気づかなかったため、私は姉からの無言電話の後で留守番メッセージを聞くことになった。

姉からの無言電話は7月29日の午前1時30分から1時48分までの間に7回かかってきた。すでに私は眠っていたが、けたたましく鳴る呼び出し音で目が覚めた。(あとで確認すると、私は3回目にかかってきた電話で目を覚ましていた。)姉は私が職場から貸与されていたPHSに電話をかけてきたのだ。業務用のPHSであっため、夜間でもマナーモードに切り替えていなかった。

私は階段を駆け下りて1階のリビングに行きPHSを手にとった。しかし私が「もしもし」と言うと同時に電話が切れた。電話は姉の夫の電話機からであった。父親の容態が急変したのであろうかと私が心配していたところ、すぐにまた着信音が鳴った。私は直ちに応答した。しかしそのとき聞こえてきたのは、姉の息遣いだけであった。姉は何か喋ろうとしていたようであったが、結局、何も喋らないまま電話を切った。私はPHSを手に持ったままその場に立っていた。すると程なくまた電話がかかってきた。私はすぐ応答したが、また電話は切れた。そのときになって、やっと私は単なる嫌がらせの電話であることに気づいた。私はPHSをマナーモードに切り替えて2階の寝室に戻り眠った。朝、PHSを見ると、その後も2回、姉から電話がかかってきていた。

実の弟に対して真夜中にこのようにしつこい無言電話をかけてくるとは・・・。狂気でなくて何であろう。

この電話は単なる「不在着信」であったと後に姉は主張した。嘘である。写真から明らかなように、私は受話器をとっている。姉はこれまで都合が悪くなるといつも平気で嘘をついた。この件でもこのように荒唐無稽な嘘をつき続けるつもりなのであろうか。

2018年7月16日月曜日

遺産相続 11 母親の葬儀

私は母親よりも父親との出来事を思い浮かべることが多い。父親のことは懐かしく思い出せるが、生前の母親のことを思い出すと今も胸が締め付けられる。

母親の葬儀は、姉と姉の長女と次女に汚された。

その前の年に亡くなった私の父親の葬儀に彼らは参列しなかった。ところが、母親の告別式の直前、突然、葬儀場に姿を現した。

告別式。

驚いたことに、彼らは誰も親族席には座らなかった。一般参列客席のしかも最後列に座った。姉は再度立ち上がり、私のところに歩み寄ってきた。そして、焼香しないと告げた。私は「そんな宗教があるか!」と姉を怒鳴りつけた。私の側に座っていた親族は姉に対して親族席に座るようにと説得した。しかし姉はそれに従うことなく一般参列席に戻っていった。後に姉の長女(私の姪)が語ったところによると、姉や姉の子どもたちが親族席に座らなかったのは、私が怖かったからということであった。あれほど可愛がってくれた私の母親に対して何ら感謝の気持ちを抱かなかったばかりか、単に母親の介護をするのが嫌だという理由だけで母親に一方的に絶縁を告げた彼らが私に顔向けできなかったのは当然である。しかし彼らが私を恐れる原因は私にはない。さも私に責任があるかのように言うのは非常識である。しかも葬儀は厳粛な儀式である。 喪主である私が怖いからといって最も近い親族が一般参列客のしかも最後列に座ることは許されない。非常識極まりない一家である。

さて、喪主である私の挨拶と読経が終わった後、親族や参列者の焼香が始まった。ところが姉と姉の子供たちは一般参列客の焼香が終わろうとしたときになっても席を立たなかった。参列客たちの視線が姉たちに注がれた。参列者たちから焼香するようにと促され、やっと重い腰を上げた。姉はよろめき娘たちに支えられよろよろしながら祭壇へと歩いていった。姉の子どもたちは焼香した。しかし姉は焼香しなかった。参列者の一人が姉に近づいて焼香するようにと促すと、姉は自分の代わりに焼香してくれるようにと彼女に頼んだ。焼香席から戻る途中、姉は母親の柩の前で立ち止まり、何度か母親の顔に手で触れた。そして元の一般参列者席に戻っていった。

耳が遠い姉には、読経の前の私の喪主挨拶が聞こえなかったという。その姉に対して、姉の長女は、私が姉の悪口を話したと告げたらしい。告別式の晩、姉が従姉に電話をかけ、私と私の家内と私の息子が母親の財産をすべて自分たちの名義に書き換えたと告げたのは、姉の娘から告げられた私の挨拶に腹を立てたからと後に姉は語った。

非常識な姪である。他の参列者が証言してくれたとおり、私は何一つ姉の悪口など言っていない。私は単に、「母親は死ぬ間際まで実の娘である姉に会いたがっておりました。娘に会えないまま死んでいった母親はさぞかし寂しかっただろうと思います」と話しただけであった。私は、母親は最期まで姉に愛情を抱き姉の身を案じていたということを私は告げたに過ぎない。姉がどれほど母親を憎んでいようと母親は死ぬ間際まで姉を気遣っていた。これは「事実」であり「悪口」ではない。

告別式のあと従姉のひとりから聞かされたことであるが、この姪は「裁判をすれば私たちが勝つと私の知人は知っている」といったことを葬儀場で従姉たちに話していたという。私は、一体何の裁判なのだろうかと思うと同時に、葬儀の場でこのような話をした姪に呆れた。

子を4人持ち、孫もたくさんいる姉が、なぜ子に対する母親の気持ちを理解することができないのであろうか。両親の晩年、姉は両親の財産にしか関心がなかったことが、人としてあたりまえの感情すら失わせてしまったのであろうか。

2018年7月14日土曜日

遺産相続 10 留守番電話

私の手元に3つの音声ファルがある。2013日7月28日午後3時過ぎに姉が残した留守番メッセージである。私がこの留守番メッセージに気づいた日がいつであったのかは記憶が定かでない。7月28日から30日までの間であったと思う。夕方、池袋駅から大塚駅に向かって人混みの中を歩いていたときであった。

留守番メッセージを再生すると、いきなりおどろおどろしい声が流れてきた。周囲が騒がしかったため、最初は何と言っているかは聞き取れなかったが、その声のトーンから背筋が寒くなった。私は携帯電話に耳を近づけてそのメッセージを注意深く聞いた。何度か聞き直して、その声が姉であることに気づいた。

憎しみに満ちたメッセージであった。「あなたたち3人がしたことを全部知っちょります・・・」からメッセージは始まった。音声メッセージは3回残されていたが、メッセージを残しているうちに姉の感情が激してきたらしく、最後は叫び声で終わっていた。

私たち3人がした悪事は全て知っている
姉の家族、親族、知り合い、知り合いの知り合いの誰にも連絡をとるな
連絡をとった場合には力の強い弁護士に言う

という内容であった。

私は長い間、姉が言った「あなたたち3人」とは、私の両親と私のことであると思っていた。この「3人」が私と私の家内と私の一人息子(当時、中学生)のことであったことを知ったのは、母親の告別式の翌日であった。つまり、私は2年あまり、勘違いしていたことになる。

「あなたたち3人」が私と私の家内と私の一人息子を指していたことを知ったきっかけは、母親の告別式の晩に姉が従姉の家に電話をかけてきて、私と私の家内と私のひとり息子が亡くなった母親の財産を全て自分たちの名義に書き換えたと告げたことからであった。私は、母親の告別式の翌日、遺骨を持って親戚の挨拶回りをした。その際に、偶然、姉からの電話を受けた従姉本人からそのことを聞かされた。姉は、私の家内は現金が好きだからとも言ったということであった。その話を従姉から聞かされた私と私の家内はその場で絶句した。

母親の告別式の晩に親戚に電話をかけてきて、何の根拠もなく事実でもないこのようなことを告げる姉の非常識は許されるものではない。

弁護士にもこのことを話した。たとえ私が母親の財産をすべて私の名義に書き換えていたとしてもそれは犯罪ではない。なぜなら私は公正証書を母親と交わし母親の代理人となっていたから、と弁護士は答えた。もちろん、もし私が母親の財産を私の名義に書き換えたならば贈与税は支払う必要が出てこようが。

それにしても、当時まだ中学生でしかなかった私の息子にまであれほど激しい憎しみを姉が抱いていたことは、狂気としか表現のしようがない。








2018年7月13日金曜日

遺産相続 9 母親から姉への援助

昨日、私の母親の銀行口座の取引情報が届いた。この取引情報は、私が情報開示請求に対する回答であった。予想通りであった。こお回答書には、毎月26日か27日に、決まった額が引き落とされていた。途中からその額が増えていた。ある生命保険の保険料であった。

私の母親は、嫁いだ娘(私の姉)の夫の生命保険の保険料を長い間、支払っていたのだ。私の姉の夫(私の義兄)の生命保険の保険料を私の母親が支払っていることを、私は母親から直接聞かされていた。こればかりでなく、私の母親は、生前、夫(私の父親)に内密で多額の援助をし続けた。私が帰省した際にはそのことを自慢げに私に語った。

母親は、姉の嫁ぎ先が経営する会社が倒産してからは、毎日のように食材を姉の家に届けた。実家から姉の家までは車で片道40分かかった。姉の家に行けないときには、宅配便で野菜や果物を送った。姉の家族のために、母親は実家の近くに畑を借りていたということも実家のご近所の方から聞かされた。

姉の長女と次女が成人式を迎えたときには、母親は、振袖を買う金を姉に渡した。姉の家の冷蔵庫が故障したと聞くや、新しく冷蔵庫を買うための金も渡した。母親は姉と会うたびに、姉に生活費を手渡していた。この光景は、実家のご近所の人たちも見ていた。母親の姉への援助額は莫大な金額にのぼった。

私はそのことで母親を批判したことも姉を批判したこともなかった。私は生活に困っていなかった。もし私が生活に困ることがあれば、そのときには私の両親は私を助けてくれるだろうと暗黙のうちに思っていた。

母親ばかりでなく父親も姉や姉の4人の子どもたちに多額の援助を与えた。ただし、父親は母親と異なり、こっそりと援助することはなかった。父親は姉の家族が全員いる前で姉に金を渡した。このことが実家からの援助を家族の誰にも知られなかった姉のプライドを傷つけたらしい。ことあるたびに姉は口汚く父親を罵った。「孫から領収書を取った」と言って。姉の子供たちの大学入学という大切なときに多額の援助をしてくれた父親への感謝の言葉は、姉からは一言も出なかった。そればかりではない。父親が与えた金は姉の子どもたちがもらったものであり、姉自身は金をもらっていないと言い張った。何という恥知らずであろうか。

姉の姿勢は両親が亡くなった今も変わらない。家族に知られた両親からの援助に関して両親を詰り、家族から知られずこっそり受けた援助は家族にひた隠しにしている。

上述した銀行の取引情報は、何かの折に姉の主張(嘘)を覆す証拠とするため取り寄せたものである。

両親の生前、姉が莫大な援助を両親から受けたことを私は何も気にしていない。むしろ、生活が苦しい時期の姉を陰から助けてくれた両親に私は心から感謝している。

両親が亡くなった今、姉は、両親がどれほど懸命に自分の家族を陰で支えてくれたかを正直に自分の子どもたちに語らねばならない。それなくして、姉の病気が治ることはない。

2018年7月11日水曜日

家族という病 下重 暁子

今、下重暁子氏の「家族という病」を読んでいる。まだ半分ほどしか読んでいないが、家族というものに関する私の考えと彼女の考えとはだいぶ異なる。しかし、自分の興味や関心事に正直に生きていこうとしている人たちに対する彼女の共感には交換が持てる。

 第2章まで読んだ私は、彼女は単純に家族否定者であろうと思っていた。しかし第3章に入り、トーンがガラッと変化した。第3章のタイトルは「家族を知る」。「介護で親子は互いを理解する」、「親は要介護になってはじめて弱い姿をわが子に見せられる」といった見出しが続く。まだ第3章を読んでいる途中であるが、第4章のタイトルは、「旅立った家族に手紙を書くこと」。

どうやら、彼女は全面的に家族というものを否定しているわけではないようである。単に、血の繋がりだけで束縛し合う家族というものを否定しているのかもしれない。

2013年6月に父親が倒れて緊急入院した直後に姉と姉の長女は両親との絶縁を私に告げた。以来、父親と母親の生前、姉と姉の家族は、一度も両親の見舞いには来なかった。父親の葬儀にも参列しなかった。

私は2年間、東京と高知とを行き来しながら懸命に両親を介護した。肉体的にばかりでなく精神的にも衰弱した両親を間近で見ることは辛いことであったが貴重な体験であった。両親の最期を看取った満足感は、生涯、私の精神の糧になると思う。

姉は両親の最期を切り捨てた。生涯、悔やみきれないであろう。両親は亡くなった。姉が自ら放棄した貴重な時間を取り戻すことはもうできない。

2018年7月7日土曜日

服装

私は自分の服装には無頓着である。家内も然り。そのため、これまでに何度か「事件」を起きた。

もう十数年前のことになるが、車を買おうと思い立ってあちこちのディーラーを回ったことがある。品川にあるヤナセに行ったときのこと。ヤナセの営業マンにまず勧められた車はベンツのA180であった。試乗させてもらったが、内装があまりにもお粗末なのに驚かされた。椅子を固定するネジがそのまま露出していたのだ。まるで貨物車であった。ベンツを買おうとする客はおそらく見栄っ張りなのだろうと思い込んでいた私は非常に驚いた。

その店で次に勧められたのはオペルであった。しかし私達が試乗させてもらった車は戦後間もなくつくられたのではないかと思えるような中古車であった。エンジンはブルンブルンと大きな音を立て、車体も大きく振動した。

当日の私たち夫婦の服装があまりにもみすぼらしかったため、ヤナセの営業マンは、私たちには車など買う金などあるはずがないと思ったのであろう。応対も粗雑であった。

その翌週、わたし達はフォルクスワーゲンのビートルに試乗させてもらおうと芝公園に出かけた。その日、試乗会が開かれていたのだ。

わたし達は、担当者に試乗させてもらいたいと頼んだ。すると、その担当者は「買う所で乗ってください」とつれなく言った。私たちの姿を見て、その担当者もヤナセの担当者と同じように感じたのであろう。わたし達はその担当者の勧めに従って芝公園から池袋にバスで移動した。池袋近くのバス停からディーラーに電話すると、ディーラーの担当者が車でバス停まで迎えに来てくれた。そして道すがら、「帰りには池袋駅まで車でお送りします」と言ってくれた。ところが、わたし達が帰ろうとしたとき、その担当者は、そっけなく「すぐそこにバス停があります」と言って出口のドアを開けた。

店を出たわたし達は顔を見合わせて笑った。

みすぼらしい服装をしていると人の本性がよく見える。

2018年6月24日日曜日

軽井沢 発地

今朝、東京を発って軽井沢に出かけてきた。車で2時間あまり。自宅を出たときには雨が降っていたが、途中で雨が止み、晴れ間が出てきた。発地にある「たんぽぽ」というレストランでランチ。浅間山が美しい。

今回も、水泳の試合があると言って、息子は今朝早く出かけていった。息子も軽井沢は好きであるが、なかなか時間が取れなくなった。









2018年6月23日土曜日

記録

このところ、亡くなった両親の介護をめぐる姉および姉の家族との確執について書くことが多い。しかし、姉と姉の家族に対して何か激しい感情があるかといえば、いまはもう彼らには何の憎しみも怒りも抱いていない。彼らにはもう関心がない。しかし、両親の介護をめぐって彼らとの間で起きたことについてはきちんと記録を残しておこうと思っている。私の一人息子のために。私の父親は、親戚との確執について私に多くを語らなかった。そのため、両親が倒れたあと、私は親戚からの言いがかりに随分と苦しめられたからである。

2018年6月18日月曜日

父親 2

姉は口を開けば父親を詰った。このことは本ブログで繰り返し述べてきた。しかし父親が姉を批判する言葉を私が聞いたことは一度もなかった。姉の嫁ぎ先が経営していた会社が倒産して以来、父親は姉と姉の家族のことをずっと心配していた。そればかりではない。父親は特に姉の4人の子たちの教育には強い責任感を抱いていた。全員に大学教育を受けさせることは祖父である私の父親の責務であると考えていた。そのことを私に向かって度々口にした。

父親がそう考えていたのは私の祖父つまり私の父親の父親の影響であった。私が私立大学の医学部の入学試験に合格し、いざ翌日、東京に発つという段になって、突然、父親が国立大学に言ってくれないかと言い出したのだ。私は旧帝大の医学部にも合格していた。そのとき、財産を売り払ってもいいから私が希望する大学に行かせてやれと言ってくれたのが私の祖父であった。

結果的には、私の大学在学中に父親が金に困ることはなかった。当時は高度成長期であったこともことも手伝って父親の仕事は順調であり、私の学費の支払いや生活費の仕送りは全く負担にはならなかったと、後年、父親は私に語った。

私の大学入学時ばかりではなかった。私の中学校進学時にも祖父は父親の背中を押して私を私立中学校へ進学させてくれた。

父親は、私の人生の節目で祖父が「財産を売り払ってもいい」と言って父親の背中を押してくれた祖父に感謝していた。そして祖父を見習って、父親も自分の孫たちに大学教育を受けさせねばと考えていた。

姉の4人の子たちは全員国立大学を卒業した。父親はそれを心から喜んだ。高知の片田舎の4人の子たちが全員国立大学を卒業することは極めて稀である。父親は近所の人たちに向かって、自分は幸せであると語っていたという。そのことを、父親が倒れたあと、私はご近所の人たちから直接聞かされた。姉がたくさん子を産んでくれたことに対しても、父親は姉に心から感謝していたということである。

姉は子を4人産み育て、既に孫が何人もいる。自分自身の両親が如何に自分のことを心配してくれていたかについて、なぜ気づこうとしないのであろうか。

甥 2

父親は私の姉の長男のために保険に加入していた。姉の長男が病気になったり怪我をした際に保険金が姉の長男に支払われるという保険であった。その保険は期限付であった。父親の死後、数ヶ月ほど後に満期を迎えていた。

家庭裁判所の審判によって、その保険の掛金を私が相続することになった。そのため、その掛金を受け取る手続きを行うために郵便局に出向いた。書類に必要事項を記載、捺印して、窓口の近くで長時間待った。やっと私の名が呼ばれた。私が立って窓口に行くと、申し訳なさそうに郵便局の担当者が話し始めた。その担当者は、保険は既に満期を迎えているので掛金は私の口座には振り込まれず、被保険者である姉の長男の口座に振り込まれると言った。私は驚いた。父親は他にも保険をかけていた。私の家内そして私の息子が被保険者となっている保険であった。これらも既に満期を迎えていた。何ということであろう。裁判官も弁護士もそして税理士もそのことを見落としていたのだ。

しかし私は単にこのことを悲しんだわけではなかった。息子はまだ大学生である。卒業するまでに多額のお金を必要とする。息子の生活費やクラブ活動費は息子が受け取る保険の掛金から一部出してもらえばいい。家内も何らかの方法で受け取る保険の掛金を私に返すと言ってくれている。

問題は姉の長男が受け取る保険の掛金であるが、その分の金は姉から返却してもらうつもりである。さすがの姉も、そのことには同意するであろう。姉が同意すれば、姉が受け取ることになっている父親の遺産の一部が姉の長男に直接渡ることになる。いいことである。姉は実家から受け取った援助をひた隠しに隠してきた。姉の長男のために私の父親が支払った掛金が姉の長男に直接入れば、姉の長男は私の父親すなわち彼の祖父の愛情を感じることができるであろう。

「外孫と内孫を区別することは許さん!」と私に怒鳴りかかってきた姉の長女の顔を見てみたいものである。

問題は、私の相続税が過払いになってしまうことだけである。

甥 1

今から15年ほど前のことになろうか。甥は1年間、自宅で浪人生活を送った後、東京大学に入学した。

甥が浪人生活を送っている頃、私は姉の家に度々電話をかけ、甥を励ました。甥は東京大学を目指して勉強していたが、時折弱気になり、受験する大学のランクを少し下げようかと言い出すことがあった。そんな甥を、私は「気迫で負けてはいけない。たとえ受験校のランクを下げてもその大学に縁がなければ受からない。試験に受かりさえすればお金のことはどうにでもなる」と言って励ました。姉も私に対して、時々電話をかけてきて長男(私の甥)を励ましてくれと言った。結局、甥は東京大学を受験し、無事、合格した。

甥が受験のために上京してきた日の晩、私は甥を私の自宅に呼んだ。そして一緒に食事しながら短時間雑談を交わした。どんなことを話したかは忘れてしまったが、気迫で負けるなといったことは話したかもしれない。食事の後、私の車で、甥が宿泊していた本郷のホテルの近くまで送っていった。甥は試験が終わったら東京で遊んで帰ると言って、車を降りた。車から降りた後、ホテルに向かってトボトボと力なく歩いていったそのときの甥の後ろ姿が今も忘れられない。   

合格発表の日、合格通知がなかなか届かなかった。姉と甥は不合格だったと思い込み、二人して大泣きに泣いたという。ちょうどそのとき、姉の次女から姉に電話が入った。インターネットで調べたところ、合格者名簿の中に甥の名前があるという知らせであった。

4月に甥は東京に出てきたはずであった。しかし、夏になっても甥からは連絡がなかった。そにため、私はその年の8月に姉に電話をかけた。そして甥がどこに住んでいるのかを尋ねた。たまには甥を自宅に呼んで一緒に食事をしたり、小遣いもやりたいと思ったからであった。ところが、甥の住所を私が尋ねるや否や、姉から大声で罵声が飛んできた。「〇〇(甥の名前)には、叔父ちゃんには絶対連絡たらいかんと言うちゅう!」と。

私はあっけにとられた。私は「それはどういうこと? どうしてそんなことを言うが?」と怒った。私が声を荒立てたのは当然のことであった。私が怒ると、姉はガチャっと一方的に電話を切った。受話器を置いたあと、私は甥の姿を思い浮かべ、暗澹たる気持ちになった。姉に電話をかけ直す気力はなかった。ただ、私はその電話を職場の医局からかけたので私と姉の会話を聞いていた人たちがいた。たまりかねてひとりの秘書が姉に電話をかけた。そして「お姉さん、さっきの会話をそばで聞いていましたが、あれはひどすぎたのではありませんか」と言ってくれた。その問いかけに姉は何も答えなかったという。

結局、甥は大学を卒業するまで私に連絡してくることはなかった。大学卒業と同時に甥が外資系のコンピュータ関連企業に就職したことは私の父親から聞かされた。私は、甥は大学院に進学したかったのに家庭の事情で断念したのではないかと思い、甥が不憫になった。父親は、甥は、東京のある女子大学の学生と交際しているということも私に話した。これらのことを父親が知っていたことから、たまには父親と甥とは連絡を取り合っていたのではないかと私は推測した。

甥が社会人になったということを知った私は思いきって甥に連絡した。電話番号は父親に教えてもらった。以来、甥と私とは、時々、メッセージで連絡をとるようになった。2回か3回だけであったが、甥と会うこともあった。甥と会ったとき、思いきって甥に尋ねた。甥の浪人中、私が予備校の学費の一部を出してあげたことや大学の入学試験を受けるために上京した際の交通費も私が出したことを知っているかと。案の定、甥は知らないと答えた。

甥は、自分で学資ローンを組んで大学に通ったということであった。数百万円のローンが残っていると言った。私は甥が不憫でならなかった。私の父親は、甥に対して、いつでも金を出してやると繰り返し繰り返し言っていた。それは、父親の人生最後の生きがいのように私には思えた。甥が入学したとき、父親は甥に二百万円渡したが、それが父親からの最後の援助になったのではないかと私は危惧した。ひょっとしたら、姉は、私の父親と連絡を取ることすら甥に禁止していたのではないか。私は心配した。電話をかけてもなかなか甥からは折り返し電話が来ないと父親が寂しがっていたことがあった。どうやら私の危惧は当たっていたらしい。

姉は、自分の秘密で受け取れる金はスポンジが水を吸い取るように、無条件で両親や私から受け取った。嫁ぎ先の家族にはそのことをおくびにも出さなかった。そして「実家の両親は1円たりと援助してくれない」と自分の家族ばかりでなく親戚や実家のご近所に触れ回った。

もし姉が、父親と連絡をとるな、私とも連絡をとるな、と甥に言わなければ、甥は学生時代にあれほどまで経済的に辛い思いをすることはなかったであろう。父親は甥が必要とする金は惜しまず出したはずである。甥は大学院にも進学できたかもしれない。

私は、これからの甥の人生が幸福に満ちたものとなることを心から願わずにはいられない。




2018年6月17日日曜日

父親 1

私の姉は、口を開けば父親を口汚く罵った。父親の晩年には、「早く死ね!」といった言葉を度々口に出した。私は姉を窘めなかった。無駄だと思ったからである。姉は父親だけを罵っていたわけではなかった。義理の両親、義理の兄夫婦、夫、そして自分の子たちをも、事ある度に言葉の限りを尽くして罵倒した。人の悪口を言うのは姉の生涯のミッションのようなものであった。当然、私も私の家内も私の義理の母親も姉の標的となった。私の母親も然り。姉の小学校、中学校、高校のクラスメートも、姉は誰一人褒めなかった。

ただ、一度だけ姉が人を褒めるのを聞いたことがある。姉は、自分の三女だけは、「心が優しい」と言って褒めた。三女は姉にたびたびメッセージを送ってくれたり電話をかけてきては「お母さん、元気?」と尋ねてくれるからだという。

娘から労りのメッセージや電話をもらうと嬉しいという姉の言葉は母親としての率直な気持ちを表したものであろう。ところが、娘から連絡をもらうことが嬉しいと話す姉は、その一方で、自分の両親(私の両親でもある)からの電話は長年にわたって着信拒否設定していた。そしてそれは当然のことであると考えていた。姉は、何事によらず自分がすることはどんなに酷いことであっても自分に非はなく相手が悪いと常に考えた。その着信拒否設定についても自分の正当性を私に主張した。

晩年の両親がどれほど寂しい思いをしていたか、姉はわからなかったのであろうか。わかっていたはずだと私は思う。わかっていたからこそ着信拒否したのだ。姉は晩年の両親を虐めることを生きがいとしているように私は感じていた。そう思わずにはいられなかった。私は、姉から、父親を懲らしめるために私も父親からの電話を着信拒否するようにと何度か要求されたからだ。(母親からの電話を着信拒否するようにとは要求されなかった。)

姉は自分に甘く他人に殊の外厳しい。これは姉の最大の欠点である。生涯、治りはしないであろう。

2018年6月15日金曜日

遺産相続 8

2013年6月下旬に父親が二度目の出血性脳梗塞で倒れた翌日、私は高知に帰省した。そして数日間、高知に滞在した。高知滞在中の6月30日に私は姉の家を訪れて姉の家の庭で短時間雑談を交わした。別れ際に私が自分の財布の中を覗き数千円しか入っていないのを見た姉は、私に金を貸そうかと言ってくれた。その翌々日には東京に戻る予定であったし高知滞在中はもう多額の金を必要とすることはあるまいと思った私は、姉から金を借りようかどうしようかと一瞬迷った。しかし、当時、高知にはATMが少なかった。それに私は高知市内の地理にも不案内であった。もし高知滞在中に金を引き出さなければならなくなったら時間がかかるかもしれない。そう考えた私は、姉に金を借りておくことにした。姉は家の中に戻り、再び庭に出てきて私に3万円手渡してくれた。姉は、いつ返してくれとも言わなかった。私は次に帰省する際にその金を姉に返すつもりであった。

ところが、何度も述べたように、その翌日の7月1日つまり私が東京に戻る日の前日、私は姉と姉の長女から母親との絶縁を告げられた。そのため、2週間後、再度高知に帰省した際には、姉に会わないまま東京に戻った。そしてその晩、姉に電話をかけた。父親が死んだ後、父親が所有する不動産を相続したいと思っているかどうかを姉に確認するためであった。田舎では山林や田畑を欲しがる人はもういない。父親が所有している山林や田畑などは誰が相続しても手に余るものであった。もし姉が相続を希望しないのであれば、父親が生きているうちに可能な限り不動産を処分しておかなければならない。東京に住む私とて、高知県内のどこにあるのかもわからない田畑や山林を相続することはできない。不動産を処分するとすれば、両親の介護のために私が度々高知に帰る時期しかなかった。

姉は不動産は要らないと答えた。私は、私が出来る限り不動産を処分するが残ってしまうかもしれないと言った。そして父親が亡くなったときにもし不動産が残っていたならば、姉と私が半分ずつ相続しようと提案した。しかし姉は、不動産は要らないの一点張りであった。母親は身体が不自由だから母親には山林や田畑は相続させられないではないかと私は声を荒立てた。すると姉は、「要らんものは要らん」と言って一方的に電話を切った。姉から借りた3万円のことは話せなかった。

その晩、姉は自分の長女に電話をするとともに、なんとその深夜(正確には、7月16日の午前1時過ぎ)にひとりの従姉に電話をかけて散々私をなじったという。姉がそんな深夜、従姉に電話したことはその数日後に従姉本人から聞かされた。「不動産はやるが銭は一銭もやらん」と私が言ったといって姉は憤慨していたという。その何日か後で再びその従姉と電話で話したときには、「幸伸は金を3万円取って行って返さん!」と言って姉が憤慨していると告げられた。どちらも心外であった。

7月中旬といえばまだ父親が倒れてから2週間余りしか経過していなかった。父親の病状がどうなるかはまだわからなかった。その時点では、父親は数十年以上生き続ける可能性もあった。父親の財産がどれほどあるのかもわからなかった。当然、父親の財産は父親の病気の治療に優先的に使うべきである。父親が倒れてまだ2週間あまりしか経っていない7月中旬の時点で、どうして私が父親の現金や預金の遺産分配について姉と話すことができよう。

私が姉から借りた3万円についても然り。私は姉の金を「取っていった」わけではない。高知に滞在中、少しでも多くの時間を両親の介護に費やしたいと思って姉の厚意に甘えただけである。私は、借りた3万円をそのまま姉に返すつもりはなかった。その頃はまだ、私はまさか本当に姉と姉の家族が私の両親と本当に絶縁するつもりだとは思ってはおらず、両親の介護に際して細々とした雑費も必要になるであろうからと考え、姉に少し多めに金を渡すつもりをしていた。

私は姉の讒言に腹が立ったが、現金書留で10万円姉に送った。しかし姉からは何の連絡もなかった。

三度目であったか四度目であったか記憶が定かでないが、私が再度高知に帰ったとき、姉から両親に送られてきていた絶縁状を母親から見せられた。その絶縁状には、姉が私に貸した3万円を返却してもらいたいということも書かれていた。その絶縁状が正確にいつ両親に送られてきたのかは知らなかったが、手紙の文面からは私が姉に10万円を送る前に届いたのであろうと推測された。

私が姉に送った10万円に関して何の連絡もよこさなかった理由は私が怖かったからであると、後に姉の長女は述べた。その言葉を聞いて、姉と姉の長女は私によほど負い目を感じていたのであろうとしか私には思えなかった。それまでの自分たちの言動が非常識だったことに気づいていたのであろう。そうでなければ私を恐れる理由などない。姉の長女は、私が姉に送った現金封筒に手紙が添えられていなかったので私が怖かったと述べた。私が送った10万円に対して何の連絡も寄越さないような礼儀知らずにそのようなことを言われる筋合いはない。百歩譲って彼女たちが私を恐れる正当な理由があったとしても、それを理由に何をしても逆に何をしなくても許されるとでも考えているのであろうか。姉ばかりでなく姉の長女も全く社会常識のない女である。

遺産相続 7

父親は2011年6月に出血性脳梗塞の初回発作のため数ヶ月間入院した。その際、私は友人の司法書士の勧めで父親と任意後見人契約を結んだ。もし父親の意識がなくなったり父親の判断力がなくなった場合には私が後見人を務めるという契約であった。脳梗塞のためか父親は当時、理解力に乏しく、その契約を結ぶことを嫌がったが、最終的には同意してくれた。

私の姉は、この契約がどのようなものであるのかを全く理解していないようだ。私が父親の財産をどうとでも処理できるようになると思っているようだ。父親がその2年後に二度目の発作で倒れた後、私はその契約にしたがって父親の任意後見人になったが、任意後見人となった私の裁量範囲はきわめて狭いものであった。まず、父親のすべての財産目録を作成して家庭裁判所に提出しなければならなかった。そして全ての入出金を、領収書や請求書を添付して報告しなければならなかった。改葬や不動産の処理に関しては、家庭裁判所の許可が必要であったが、それらの許可をもらうにあたっては、多大な事務処理を必要とした。幸い、後見監督人を務めてくれた私の古くからの友人が改葬許可や不動産処理の許可を家庭裁判所からもらうために骨を折ってくれた。友人のこの協力については以前にも少し述べた。

任意後見人契約を結ぶということは多大な負担を負うことである。任意後見人を務めたことがある者であれば誰でもわかる。単に病院に届け物をするといったことや両親と面会するといった簡単なことではない。私が父親の任意後見人として家庭裁判所から認められたとき、私がまず考えたことは、嫡男として、父親に名誉ある死に方をさせるにはどうすればいいのだろうかということであった。私が実家の掃除や草むしりを怠らなかったのも、嫡男として、父親の名誉を守るためであった。家庭裁判所から許可される必要があったので少額にはなったが、両親の介護を手助けしてくれる人たちにお礼として金を渡したのもそれが理由であった。そして東京から帰省する際には両手にいっぱい手土産買いご近所や親戚に配ったのも、父親に恥ずかしい思いをさせたくないという思いからであった。

しかし、家族に看取られながら死ぬのがやはり父親にとっては最も名誉ある死であろうと考えた私は、なんとしても父親の最期は実娘である私の姉やその子たちに看取ってもらいたいと願った。私が実家で見つけた姉の小学校時代の通知簿や姉の結婚式の写真を姉の夫に届けたのもそういった気持ちがあったからであった。しかし姉は、結局、父親を見舞うことはなかった。父親の最期にも立ち会わなかった。葬式にも参列しなかった。姉は父親の人生を、そして死を汚した。

姉は今、このことについて、心の中で如何なる言い訳をしているのであろうか。

遺産相続 6

姉と姉の長女が、私の一家との絶縁を決断した理由は、私の母親が姉よりも私に多目に遺産を残したいと行ったことが理由であったことは既に書いた。このことを聞かされたのは2013年7月15日の晩であった。姉の長女からであった。この晩、姉の長女とはもうひとつのことで言い争った。

父親が倒れる半年前の2013年1月のこと。帰宅すると現金書留封筒が2通、リビングのテーブルの上に置かれていた。1通は私宛、もう1通は私の家内宛であった。差出人は私の父親であった。どういう趣旨の金であるのかわからなかったが、私の家内はその晩直ちに父親に電話をかけ、礼を述べた。そしてその金は大切に預かり、いつでも返却すると父親に告げた。

父親は私に現金書留を送ったのとほぼ同時期に姉の家を訪れていた。このことは、その直後に姉から直接電話で聞いた。父親が姉の家を訪れたとき、父親が家の外から大声で姉の名前を繰り返し呼んだという。父親と顔を合わせたくなかった姉は頑として玄関を開けなかった。しかしあまりにも長時間にわたって父親が姉の名を連呼するため、ご近所に恥ずかしく思い、止むを得ず玄関の鍵を開けたと姉は言った。ただし、姉は、そのとき父親が玄関で姉に現金を渡したことは私に話さなかった。

父親が姉に現金を渡したことは、その6ヶ月後に父親が入院した後、実家で母親から聞かされた。母親から聞いたところによると、姉は親戚やご近所の人たちに対して「要らない金を押しつけられた。この金は返す」と繰り返し話していたそうである。その一方で、父親にも母親にも一言も礼を言わなかった。そればかりか、両親がかけた電話にも出ず、金も両親に返してはこなかった。父親が倒れる直前、「親と口もきかぬ者には、もう銭はやらない」と言って憤慨していたという。父親が怒ったのは当然である。

姉はすべてにおいてこうであった。姉は、自分の嫁ぎ先が経営する会社が倒産した後、私の両親から多額の援助を受けてきた。それらの援助の大半を姉は自分の夫や子たちに伏せていた。私の両親はそのことを知っていたが、姉が嫁ぎ先で肩身の狭い思いをしてはいけないと考え、姉の家族には何も告げないでいた。それをいいことに、姉は家族や実家のご近所の人たちに対して、「両親は1円の金もくれない」と言いふらしていた。私もことことを耳にタコができるほど姉から聞かされていた。

話を戻す。2013年7月15日の晩、私と私の家内が父親から送ってもらった現金書留のことが姉の長女との間で問題になった。彼女は、私の家内には金をやる必要はないと頑強に主張した。私は、私と私の家内が受け取った合計金額は彼女の母親つまり私の姉が一人で受け取った金と同額であることを理由に、彼女の主張には合理性がないと言った。しかし姪は理由も告げず、私の家内には金をやる必要がないという言葉を繰り返した。私は腹が立ち、私の家内は我が家の長男の嫁であること、私の家内が受け取った金は私の姉のものでもなくましてや姉の長女のものでもなく父親の金であることを告げ、私の父親の孫である姉の長女が口出しすることではないと言った。それでも姉の長女は納得しなかった。姉の長女が尋常でない憎しみを私の家内に対して抱いていることを私は知った。おそらく彼女が私の家内に対して抱いている憎しみは、私の姉の影響であろうと思った。

私は、私の母親の実家から経済的援助を受けることなど想像したことすらない。母親の実家の遺産を母親が相続し、それを私がもらうといったことも考えたことすらない。姉の長女は、自分の母親の実家からの経済的援助を当然のことだと考えてきたようだ。その後の彼女の言動からは、自分の母親が相続する実家からの遺産を彼女が相続することまで想像していたのではないかと思わざるを得ない。情けない姪である。卑しい。

2018年6月13日水曜日

又従姉妹 1

2013年6月に父親が倒れて亡くなるまでの8ヶ月間は、精神的にも肉体的にもとても辛い時期であった。父親を追うようにして母親も入院した。ふたりの介護をするには、帰省したときにはどうしても平日に最低1日は高知に滞在しなければならなかった。週末には市役所も銀行も閉まっており、何の事務手続きもできなかった。したがって必然的に土曜日、日曜日、月曜日と2泊3日で帰省することが多くなった。

土曜日と日曜日には、実家を訪れ、天気がよければ家の窓を開け布団を干した。庭の草むしりも欠かさなかった。夏には汗まみれ泥まみれになった。しかし実家をきれいに保つことは両親に対する私の責務であると考えた。実家では、倉庫に山のように積み上げられていた農機具などの始末もせねばならなかった。自宅にあった重要書類も急いで整理する必要があった。家庭裁判所に父親の財産目録を一日も早く提出しなければならなかったからだ。

実家に母親が住んでいる時期には母親と雑談しながらそれらの作業を行うことができたので気が紛れた。しかし母親は父親の後を追うかのごとく1ヶ月半後に腰椎圧迫骨折のため入院した。母親が入院した後は、実家に帰っても会話を交わす人はいなかった。私は一人、黙々と実家の清掃と書類の整理を続けた。このような孤独な作業の最中に古いタンスの引き出しに仕舞われていた私と私の姉の小学校時代の通知簿を見つけたときには驚いた。通知簿は紫色の風呂敷の中に入れられていた。風呂敷を紐解くと、当時のままの通知簿が出てきた。
 
私はこれらの通知簿を破棄する気持ちにはなれず 、姉の通知簿を姉の夫(私の義兄)の勤務先に届けた。その日、義兄は出勤しておらず、義兄の同僚に通知簿を入れた包みを託した。その通知簿の入った包みを見て、姉が両親の愛情に気づいてくれることを願った。私自身の通知簿は東京に持ち帰った。

ただ、私が最も多く時間を取られたのは、田畑と山林の処分であった。両親が所有していた土地は50筆近くあった。それらの殆どの正確な場所も境界もわからなかった。場所も境界もわからなければ処分はできない。私は実家のご近所の人たちを頼って田畑や山林の場所と境界を教えてもらった。ただ、市役所でコピーした切り図と実際の区割りとが違っており、誰も正確な境界がわからない田畑も少なくなかった。田畑を荒らすと隣りの田畑を所有する農家に迷惑がかかる。そのため、東京では、時間を見つけてはインターネットで田畑を管理してくれる人を探した。しかしそのような人は見つからなかった。私は途方にくれた。

そんな私に手を差しのべてくれる人がいた。私の又従姉妹であった。彼女とは小学校から高校まで同じ学校に通った。彼女は、私が少しでも長い時間両親のそばにいられるようにと、高知空港のそばにある駐車場を貸してくれた。そればかりか、私が高知に帰る際には、予め車を空港の駐車場まで届けてくれた。そして私が東京に戻る際には車を空港の駐車場に乗り捨てて置くようにと言ってくれた。私は彼女の行為に甘えることにした。

彼女がこのような申し出をしてくれたのには理由があった。 彼女は自分の人生の進路を巡って父親と衝突することが多かったという。女性は大学進学も不要であると彼女の父親は彼女に行ったという。彼女は父親の反対を押し切って1年浪人した後、薬学部に入学した。今も薬剤師として働いている。また、彼女が離婚したときにも父親と大ゲンカしたらしい。彼女ははっきりとは言わなかったが、彼女の話からは、彼女の父親の存命中には何度か絶縁状態に陥ったこともあったのではないかと私は思った。

しかし彼女の父親が脳出血で倒れた後は、彼女は懸命に父親の介護をした。父親が入院したときには1日も欠かさず仕事を終えた後、病院を訪れたということであった。片道1時間を要した。彼女は、父親の側に行ってあげることが最大の親孝行だと考えたという。私の父親が倒れたとき、彼女が私のためにいろいろと便宜を図ってくれたのも、私が少しでも長い時間、父親の側にいてあげられるようにという配慮であった。嬉しかった。「棄てる」神あれば拾う神あり。

一方で、何の力もなくなった最晩年の両親を見捨てた姉を救う神はいるだろうか。

2018年6月12日火曜日

遺産相続 5

姉と姉の長女が私の母親と一方的に縁を切った理由は、私の母親が私の方に多目に遺産を残したいと言ったことが理由であったことはすでに書いた。姉の長女(つまり私の姪)から絶縁の理由を聞かされたとき、私は驚いた。私は遺産相続については母親ばかりでなく他の誰とも話したことがなかったからだ。しかし母親の考えは理解できた。

姉には4人の子がいるが、彼らは私の両親からの援助もあって既に全員が大学を卒業し社会人になっていた。4人の子のうち上のふたりは既に結婚して子もいた。その一方で、私の一人息子はまだ中学生であった。両親が亡くなれば、長男である私が実家の建物ばかりでなく田畑や山林の始末もしなくてはならない。田舎の田畑や山林は誰も欲しがらない。タダでも受け取らない。加えて我が家の墓も移す必要があった。両親が死んだ後、私は多額の金が必要になる。姉よりも私に遺産を多目に残すことによって両親の死後の整理を私に頼もうというのが母親の意図したことであろうと私は考えた。

私はその推測を姪に告げた。そうしたところ、姪はいきなり「外孫と内孫を差別することは許さん!」と怒り出した。私は呆れた。私の両親から姉の子たちはどれほど多額の援助を受けてきたのかを忘れたのであろうか。これに対して、当時はまだ中学生であった私の息子には何もしてやれないまま両親は死んでいく。どれほど父親も母親も気がかりだったことだろう。

私は姪に対して次のように言った。「お前ら4人はおじいちゃんとおばあちゃんのお蔭で大学も出て社会人になった。それに引き換え、私の息子は中学生だ。まだおじいちゃんとおばあちゃんには何もしてもらっていない。そのことだけでもおばあちゃんが私に多目に遺産を残したいと言ったとしても当たり前のことじゃないかえ。」

しかし、姪は、「外孫と内孫を差別することは許さん!」と繰り返すだけであった。怒りがこみ上げてきた私は続けて次のように言った。

「じゃあ、私の一人息子が百万円もらったらお前たちは四百万円もらわないと納得しないということかえ?」

この私の問いかけに姪は返事をしなかった。

最近、このときの姪との会話について家内と話した。外孫である姪たちがあれほどまで多額の援助を受けたのだから内孫である私の息子は更に多額の援助を私の両親から受けてきたに違いないと邪推していたのではないかというのが私の家内の考えであった。そうだったのかもしれない。

金に執着する者は哀れである。金の奴隷でしかない。

遺産相続 4

私は、母親よりも父親のことを思い出すことが多い。「思い出す」というよりも「考える」ことが多い。なぜだろうかと時々思う。おそらく、母親の最晩年があまりにも寂しいものであったため、母親が亡くなって3年近く経った今でも思い出すのが辛いからであろう。

父親は2013年6月下旬に2度目の出血性脳梗塞で倒れて緊急入院した。母親は一人暮らしとなった。一人暮らし自体は母親にとっては寂しくはなかったようである。ご近所の方が母親と同居して母親をお世話してあげようかと言ってくれたことがあった。私は身体が不自由で歩くこともまままらない母親に一人暮らしさせることが心配で、そのご近所の方の申し出を母親に伝えた。しかし母親は頑としてその申し出を拒否した。母親は、「寂しくなんかない。今が人生で一番幸せだ」と言った。結婚以来、ずっと夫である私の父親に受けてきた圧迫からやっと解放されて幸せだということであった。

しかし母親は、程なくして娘(私の姉)と孫(姉の長女)から送られてきた絶縁状を読み、愕然としていた。母親は、私の姉と話そうと、繰り返し繰り返し電話した。何度電話しても電話は通じなかった。

母親が絶縁状を受け取る3週間ほど前の2013年7月1日に、私は私の姉と姉の長女から、母親と縁を切るということを告げられていた。しかし私は母親が酷くてそのことを母親に告げることができなかった。結局、このことは母親が死ぬまで話さなかった。

姉と姪が母親との縁切りを私に告げたとき、私はそのことをあまり重大には捉えていなかった。またすぐ仲直りするだろうという程度にしか考えていなかった。ただ、なぜ父親と縁を切るとは言わず母親と縁を切ると言ったのかは不思議だった。姉は父親を激しく憎悪していたが、それ以上に母親を憎んでいるとは知らなかった。

なぜ姉と姪が私の母親と縁を切ったのかは、2018年7月15日の番に私が姪と電話で話した際にわかった。いつことだったのかは聞かなかったが、私の母親が娘である私の姉よりも私に多目に遺産を残したいと言ったことが許せないと姪は言った。私は父親とも母親とも遺産相続について話したことは一度もなかった。ただ、姉は、両親の遺産を一日も早く相続したがっていた。そのため、私と電話で話す際には、必ず「祖父は早く死ね!」といった言葉を口にした。私の父親はちっとも金をくれないが、父親が死ねば遺産を手にすることができると姉は考えているようであった。私は「父親が生前に金を使わなければその分遺産が多くなるのだから、早く死ねなどと言う必要はない」と姉を諭したが、姉のくちぶりからはすぐにでも金が欲しいようであった。

父親は遺言状も残さずにほぼ意識がなくなった。父親には意志表示能力はない。後は母親だ。母親は私の姉よりも息子である私に遺産を多く残したいと言った。母親と縁を切り一切母親の介護はせず、母親を懲らしめなくては。ふたりはきっとそう考えたのであろう。

愚かであった。単なる欲のために親と縁を切ることが後にどれほど心の重荷となるのかを彼らは理解できなかったのだ。


2018年6月9日土曜日

人を動かすもの 1

人の行動を支配するのは嫉妬と憎しみであると主張する人がいる。この考えもあながち間違っていないと実姉との確執の過程で感じた。私の姉の行動を支配しているのは、まさに嫉妬と憎しみであるように思う。

ただ、嫉妬と憎悪に狂っている人が客観的に見て不幸かといえばそうではないことが多い。私の目には、姉も客観的には人並み以上に幸せな環境の中で生きてきたのではないかと映る。姉は長年病気を患っており、「床に伏していることが多い」と姉本人から聞かされたことがあるが、その病は自ら引き寄せたものである。

確かに、これまでの姉の人生の中で不幸な出来事がなかったわけではない。一番不幸だったのは、両親の不和である。父親は他人に対しては実に温和であった。父親が家族以外の者に対して声を荒だてたり暴力を振るったりといったことは一度もなかった。対照的に家族には厳しかった。母親や祖母にはすぐに暴力を振るった。このことは、これまでに何度も書いた。父親の暴力に耐えかねて、私は高校2年生のときに寮生活を始めた。姉も高校を卒業して2年足らずで結婚して家を出た。ただ、高校卒業と同時に東京に出てきた私と違って、姉は嫁いだ後も両親の喧嘩を身近で見聞きせざるをえなかった。父親に殴られて顔を大きく腫らし血を流している母親が姉の嫁ぎ先に逃げてきたこともあったという。    

私が留学中には、嫁ぎ先が経営していた会社が倒産し、姉の家族は家を失って借家住まいとなった。会社が倒産した後は、嫁ぎ先の親族や自分の夫との関係も壊れがちになったという。夫とは罵り合う毎日だったようだ。私の父親も家を失った姉に対して「乞食以下である」といった言葉も投げつけたという。まだ幼かった4人の子を抱え、姉は途方にくれる毎日を送っていたことであろう。

ただ、子は必ず育つ。最小限の食べ物と親の愛情がありさえすれば十分である。子は金を食べて育つわけではない。私の両親の援助もあって、姉の4人の子は全員国立大学に進学し無事卒業した。 

姉は口を開けば父親を罵った。「早く死ね!」といった言葉も度々口にした。しかし父親が姉を悪く言う言葉を私が聞いたことは一度もなかった。父親は常に姉と姉の家族のことを心配していた。

父親が2度目の出血性脳梗塞で倒れた直後に姉と姉の長女は、私の家族との絶縁を一方的に告げてきた。姉と長女は私の母親と絶縁すると私に告げた。そしてその直後に父親と母親に対して絶縁状を送ってきた。私は直接絶縁を告げられたことはないが、実家のご近所の人に対して私とも縁を切ると告げたという。

父親は入院の8ヶ月後に亡くなった。父親が入院してから1ヶ月半後に腰椎の圧迫骨折のために入院した母親も、父親の死から1年5ヶ月後に亡くなった。この時期、私は度々帰省して両親の世話をした。土曜日の始発便で東京を発ち、月曜日の最終便で東京に戻った。いつもリッチモンドホテル高知に泊まった。このホテルの方すぐそばで日曜市が開かれる。日曜市で馴染みになった人たちと雑談を交わすのが唯一の気休めであった。高知での滞在中、姉にも姉の家族にも連絡したことは一度もなかった。

いま振り返ると、父親と母親の介護のために東京と高知とを行き来した2年あまりは私にとって貴重な体験であった。父親はほとんど意識がないように見えた。しかし少なくとも亡くなる3ヶ月前まで私がベッドサイドに来ていることに気がついていたようだ。父親が返事をすることはなかったが、私は改葬や田畑の処分状況について報告した。このときの父親との感情のやり取りはそれまで経験したことのないものであった。まもなく人生を終えようとしている父親を見つめながら、私は父親からの愛情を感じるとともに私も父親に対して心から感謝した。姉も、両親の最晩年の姿を身近で見ておくべきであった。おそらくそれまで抱いていた両親に対する憎しみも怒りも消え去り、長年の苦しみから解き放たれたであろう。親からの愛情に気づくことが姉にとって最良の薬となったはずである。

両親の最晩年の人生から目をそらした姉は立ち直る機会を自ら放棄した。放棄した最も大きな理由は、私と私の家内、特に私の家内に対する嫉妬と猜疑心であった。私と結婚後、波乱のない人生を送ってきた私の家内に対する激しい怒りであった。姉の長女と最後に話したとき、彼女の言葉の端々から姉と彼女の私の家内に対する憎しみが伝わってきた。父親が倒れたとき、父親の命が長くないと感じた姉と彼女は、私の家内に対する最後の復讐の機会だと感じたのであろう。私と私の家内に両親の介護の負担を担わせることによって復讐しようとした。大きな誤りであった。私の家内は、私の両親の介護を長男の嫁の当然の責務と考え、立派に責任を果たしてくれた。そして私と私の家内は、両親の最期を看取ったことに誇りを持つことができた。

これに対して姉が失ったものはあまりにも大きかった。





2018年6月8日金曜日

帰省

つい先ほど、高知龍馬空港に着いた。これから東京に戻る。2泊3日の旅であった。

こちらではいくつかの用事を済ませることができた。また何人かの知人、友人、親戚に会うこともできた。有意義な高知滞在であった。

今後は高知に帰る機会がめっきり減るだろうと思い、きょうは時折どしゃ降りになる中、午後、思い切って高知城を訪れた。ボランティアにガイドを頼んだ。ガイドを引き受けてくれた老人は須崎市生まれだということであった。私はガイドの説明を聞きながら時折、足を止め、写真を撮りながらゆっくりと石畳を登った。雨のため見晴らしは良くないだろうと思ったが、天守閣にも登った。もうこれが高知城を訪れる最後の機会かもしれないという思いに取り憑かれた私は、城下に広がる高知市の街並をじっと見つめた。

きょうは高知城を訪れる前に叔母の家も訪ねた。僅か1時間あまりであったが、これまで聞いたことがない、私の祖父母や両親の話を叔母から数多く聞かせてもらうことができた。最も驚かされたのは、母方の祖母のことであった。祖母は長男を亡くしていた。その若くして亡くなった長男の嫁から追い出されるような形で晩年は次男夫婦の家に身を寄せたという。ただ、祖母に会うときには、私はいつも病院を訪れた。したがって私は祖母が自分の家から出ていたことは全く知らなかった。当時、祖母がもらっていた年金は月に2万円だったということも、きょう叔母から聞かされた。祖母が受け取ったその年金は、祖母本人から頼まれて叔母が保管していたという。しかしそれを親戚はよく言わなかったらしい。祖母の年金を叔母夫妻が自由に使っていると思い込んでいた親戚もいたという。「お金のかからん扶養家族がおると税金が安うなってえいねえ」とイヤミを言う親戚もいたらしい。

まだ大学生だった私は、東京から帰省すると祖母に会うために祖母が入院している病院をよく訪れた。私が祖母に会いに行くと、祖母は帰り際に私を廊下にまで追いかけてきていつも私に1万円くれた。当時の祖母の年金が月に僅か2万円だったということをきょう叔母から聞かされて、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

祖母の遺体は死後、長男の家に戻された。そして長男の家の墓に埋葬された。叔母が保管していた祖母の僅かばかりの遺産は、長男の嫁が全額引き取ったという。






2018年6月6日水曜日

遺産相続 3

姉が高校3年生だった時のこと。秋であった。夕食の後、家族全員の前で突然、父親が次のように喋り始めた。静かで穏やかな口調であった。

「〇〇(姉の名前)、お前は大学に行きとうないかえ。幸伸は大学に行くことになると思うが。姉弟の間で差をつけたらいかんけ、訊いちょくけんど。行きたけりゃ行かしちゃるが、どうでえ。」

この父親からの問いかけに対して姉は「勉強は嫌いやけ、大学には行かん」と答えた。私が視線を姉の方に向けると、姉はうつむき、茶の間の畳をじっと見つめていた。

姉と3歳違いの私は、当時、中学3年生であった。大学進学などまだ全く考えたこともない時期であったので、父親と姉とのこのときの会話は今も鮮明に覚えている。

姉が大学に進学しなかったのは姉自身の選択であり、両親の強制によるものでも説得の結果でもなかった。姉は自ら就職を選んだのだ。

2013年に父親が出血性脳梗塞で倒れた後、私は父親と母親の介護のためにたびたび高知に帰省するようになった。姉が高校卒業後、大学には進学せず就職することに決まったあと、父親が姉の就職口を見つけるために奔走したことを私が実家のご近所の方から聞かされたのは、この時期のことであった。具体的にどのような活動を父親がしたのかも断片的ではあったが聞かせてもらった。

姉は地方銀行に就職した。目立って産業のない高知県では、銀行に勤められるというのは幸運なことである。少なくとも社会からは、一定の評価を受けられるであろう。

姉が銀行に就職するにあたってどれほど父親が奔走したのかを姉自身は今も知らないかもしれない。

はっきりと口に出していうことはなかったが、姉が銀行員になったことを父親は喜んでいるように私は感じていた。しかし姉本人からは、銀行に勤務し始めた姉から銀行員になった喜びを聞かされることはなかった。姉は口を開けば愚痴を言った。取るに足りないことばかりだったのでどんな愚痴だったのかはほとんど記憶していないが、特に窓口業務を嫌っていた。そして姉を銀行に就職させた父親を強くなじった。確かに、適正という面から考えれば、姉は銀行員向きではなかったかもしれない。姉は決して社交的ではなかった。人づきあいはうまくなかった。

幸か不幸か、姉の銀行員生活は長く続かなかった。姉は20歳で結婚退職した。当時、女性銀行員は結婚すれば退職せねばならなかった。皮肉なことに、姉が結婚した相手は、姉があれほどまで嫌った窓口業務をしている最中に姉を見初めた客の男性であった。

「あのときはイヤでイヤでしょうがなかったけんど、銀行に勤めてよかったと思う」と、後年、姉が私にポツリと言ったことがある。その前後の会話とは全く関係なく突然、姉はこう言ったのだ。姉がこのとき、なぜ突然このようなことを言ったのか今もわからない。いつのことであったのかも忘れてしまった。

2018年6月5日火曜日

遺産相続 2

姉との遺産分割協議の過程でもうひとつ腹が立つことがあった。

私は中学校、高校、大学と12年間、日本育英会の奨学資金をもらっていた。そして卒業後に約10年間かけて完済した。完済したのはドイツ留学の前であったから、おそらく35歳の頃には完済していたのではないかと思われる。当然、自分で払った。

ところが、遺産協議のなかで、姉は奨学金を両親に頼らず自分で還したことを証明しろと言ってきたのだ。

驚いた。自分が学生時代に受けた奨学金は、卒業後に自分が還すのが当たり前ではないか。親に頼って奨学金を返済することなど、私は考えたことすらなかった。

しかし怒ってばかりもいられない。私は日本育英会の事務局に電話をかけて私の記録が残っているかどうかを尋ねた。電話に出た事務員は、奨学金が完済されたならば、その5年後に記録を全て削除するので、私の記録は20年以上前に抹消されているはずだと答えた。

ただ、姉が私に問いただしているのは、奨学金を返済する金を出したのは両親ではなかったのかということであった。バカバカしいとは思ったが、一応、古い預金通帳を調べた。当然のことであろうが、奨学金返済を証明する記録は通帳にはなかった。当時、奨学金の返済方法は特殊であった。旅館の宿泊台帳のような細長い振込用紙が送られてきた。毎回の返済額も自分である程度決められるようになっていた。

奨学金の返済は年に2回であったように記憶している。かなりまとまった金額を毎回振り込んだ。まだ薄給であった私には堪えた。家内にも申し訳なく思った。

私にこのように詰問してくる姉は大学には進学しなかったが、高校は私学であった。しかし姉は高校在学中、奨学金を受けなかった。申請すらしなかった。

身勝手な姉である。



遺産相続 1

父親が亡くなって4年余りが経過した。しかし、まだ私の姉との遺産分割を巡ってこじれている。父親が倒れて入院した直後に私の両親や私の家族と一方的に縁を切り、父親が死ぬまで一切の連絡を絶った姉が、父親が死ぬと同時に代理人を立てて父親の遺産を請求してきた。一度は裁判所の調停案を姉が受け入れた。ところが私と姉の意思の最終確認をするために家庭裁判所が設けてくれた調停委員との面談の場でなんと姉はその調停案を拒否した。つまり土壇場で姉は関係者全ての努力をゴミ箱へ葬り去ったのだ。全てが振り出しに戻った。2度目の調停案のとりまとめには数ヶ月以上を要した。その調停案も姉は拒否した。そのため父親の遺産相続は家庭裁判所での審判に委ねられることになった。今年3月末にやっと家庭裁判所の審判が降りた。この審判は過去の2回の調停案とほぼ同じであったが、今回、姉は異議を申し立てず、異議申し立て期限が過ぎて自動的に家庭裁判所の審判が確定した。

調停委員と裁判官とを挟んで私の代理人(弁護士)と姉の代理人(弁護士)が話し合いを4年間にわたって続けてきたわけであるが、驚かされることが何度もあった。

一番驚かされたのは、父親の葬儀の晩から私が3泊した高知市内のホテルの宿泊代は経費として認めないと姉が主張したことである。私が宿泊したのは、1泊1万円程度のビジネスホテルであった。しかもその3〜4日の間に支払ったわずか数百円の駐車料金も経費として認めないと姉が言っていると私の代理人が私に伝えてきた。

私は心の中で泣いた。

葬儀が終わればその日に全てが終わるというものではないであろう。國弘家の嫡男である私は父親の人生を締めくくるために多くの雑務を済まさなくてはならない。父親の葬儀の後、私は何日間か高知に留まり、葬儀に参列してくださった方々の家にお礼に伺うとともに、市役所で年金などの手続きをすませた。またいくつかの金融機関を回って父親の口座を凍結する手続きを行なった。父親の生前、後見監督人を務めてくれた友人の司法書士に書類一式を渡すことも必要であった。父親の銀行の預金通帳や父親の実印などを抱えたまま、鍵のかからない実家にどうして一人で泊まることができようか。

父親の葬儀の後、まだ私が高知に滞在していたとき、父親が加入していた生命保険会社の担当者にも会った。父親が契約者となっていた生命保険が4つあったが、そのうちの一つの保険の被保険者が姉の長男(私の甥)になっていた。「その保険の掛金は甥御さんに差し上げたらどう?」とその担当者は言った。私は彼女の勧めに従って甥に掛金を譲ろうと思い、メッセージを送った。私はまず、甥に父親(彼の祖父)の死を伝えた。彼からは「残念です」というだけの短いメッセージが戻ってきた。私は続けて、甥が被保険者となっている保険があること、その掛金を甥に譲ろうと思っていることを伝えた。そして書類を送るので必要事項を記載して返送してくれるようにと依頼した。しかし私の送ったそのメッセージには返事が返ってこなかった。

私のこのメッセージに対して甥が返事を寄こさないだろうとは思っていた。予想通りであった。甥が返事を寄こさない事情を知っていた私は、甥が不憫に思えて仕方がなかった。

話を元に戻す。

姉は一枚一枚の駐車場の領収書について、 なぜそれらの駐車場に車を停める必要があったのかについても説明を求めてきた。

私が仕事を犠牲にして東京と高知とを往復しながら両親の介護をし、父親が亡くなったあとは葬儀を済ませ、死後の整理をしている間、姉は私からの一切の連絡を拒否し、葬儀にも参列しなかった。この姉がこんなことまで私に説明を要求してくるなど、こんなにも馬鹿げたことがあろうか。

姉は狂っている。感情のある人間ではない。私は姉を呪った。遺産分割協議の途中でこのときほど激しく腹が立ったことはなかった。


2018年6月3日日曜日

軽井沢

今朝、東京を発って軽井沢に出かけてきた。軽井沢に来るのは1ヶ月ぶりである。自動車学校に行かなくてはならないからと、今回も息子は来なかった。

佐久にある「SOCCA」というカジュアルなフレンチレストランで昼食をとり、御代田の「ここらで」にやってきた。いつもお決まりのコースである。きょうは快晴。浅間山が山頂までよく見える。前回、軽井沢に来たときには浅間山の裾野まで山肌が見えていたが、きょうは7合目あたりまで新緑に被われている。日向に出ると頭が焼けるように熱い。いよいよ軽井沢にも本格的な夏到来である。






2018年5月26日土曜日

不動産の処理 2

2013年の9月、この人に電話をかけた。用件は忘れてしまった。

夜10時前であったように思う。後で人づてに聞いていたところによると、この人はまだ 起きてはいたが既に布団に入っていたという。寝酒を飲んで酔っていたとも聞いた。

その人は私からの電話だと知ると、私が電話をかけた理由も聞かず、いきなり大声で一方的に怒鳴り始めた。記憶が薄れてきたので彼の口から出た言葉をそのまま反芻することはできないが、彼が喋ったことはおおよそ次のようなことであった。

「俺は両親が死ぬまできちんと介護した。お前のようにいい加減なことはしていない。なんだ、お前は! 仕事をやめて高知へ帰ってこい! 帰ってきてちゃんと親の介護をしろ!」

その人は自分が言いたいことだけを機関銃のようにまくし立てると、ガチャンと一方的に電話を切った。側にいた私の家内は強いショックを受けていた。


2018年5月24日木曜日

不動産の処理 1

2013年6月下旬、父親が倒れて緊急入院したという連絡を受けたとき、まず私を襲ったのは、しまったという思いであった。私は父親が所有していた田畑や山林の処理に長い間頭を悩ませていた。父親には、それらの不動産を早めに処分しておいてくれるように頼んだが、父親は耳を貸そうとはしなかった。「今は、山林は二束三文であるが、時代は変わる。また山林の価値が出てくる時代が来る」というのが父親の口癖であった。父親にもしものことがあったら私は父親が所有する不動産の所在地も境界もわからなくなることを恐れた私は、帰省する度に父親と一緒に山林を見て回った。カメラやビデオカメラを持参し記録をとった。しかし1年経つと山林の状況はすっかり変わっていた。

父親が入院した病院に私が駆けつけた日には、まだ父親にはわずかに意識が残っていた。父親はうわ言のようにではあったが、発作のときの状況について、目を閉じたまま、「頭にドンと来た」と語った。そして麻痺のない左腕を自分の頭に持っていった。しかし、主治医からは2日後には父親の意識がなくなると告げられていた。たとえ意識だけが鮮明になったとしても自宅に戻ることは不可能であろうと私は思った。しかし急性期を乗り越えれば父親がすぐに死ぬこともあるまいとも思った。

私は父親が100歳まで生きることを想定して介護に要する費用を頭の中で計算した。父親を東京の施設に移す手段や転院先についても思案した。私の家内は父親の介護施設を東京で探し始めてくれた。しかし父親の病状は徐々に悪化していった。それに加えて母親も入院することになった。母親は東京の病院に転院することを頑として拒否した。両親が元気だった頃から、両親とも高知で人生を終えると、私は母親から告げられていたので、東京への転院を私は無理強いすることはしなかった。幸い、土佐市内にある白菊園病院が両親を長期間入院させてくれることになった。

両親の治療は主治医に委ねるほかない。そう考えた私は、父親が所有している不動産の処理を本格的に始めた。しかしこの作業は実に困難であった。

まず、父親が所有する田畑や山林を私は全て知っているわけではなかった。市役所に出向くと父親が所有する不動産の一覧表をコピーすることができたが、土佐市内の不動産だけで40数筆もあった。その他、父親は近隣の市町村にも山林を所有しており、それらの市町村からも不動産に関する書類をもらわなければならなかった。市役所では切り図をコピーさせてくれた。しかし切り図だけでは田畑や山林の境界は皆目わからなかった。境界線には何の目印もなかった。現地に出向いて自分の目で境界を確認するほかなかった。

しかしその作業を始めてはみたが、私一人で田畑や山林を見て回ることは不可能であることがすぐにわかった。私は親戚や実家のご近所を回り、父親が所有している田畑と山林を教えてもらわざるをえなくなった。ほとんどの人たちが嫌な顔一つ見せず協力してくれた。ひとりの老人は90歳を過ぎているというのに山の上にまで一緒に登って行ってくれ、丁寧に山林の境界を私に教えてくれた。また、別のご近所の方は、抗がん剤治療を受けた直後であり白血球が1000にまで減少しているにもかかわらず、雨の中、山奥まで私を案内してくれた。ご近所の方々が総出で父親の所有する山林や田畑の境界を教えてくれた。私は心のなかで深く感謝した。

ただ、意地の悪い人がいなかったわけではなかった。あるご近所の人は、私が仕事を休んで1ヶ月間帰省するのであれば山林の境界線について教えてやろうと言った。「1ヶ月間帰ってこい。1ヶ月間もんてきたら教えてやる。」その人は意地悪く私にそう言った。その人の自宅を訪ねる度に同じ返事が帰ってきた。私が1ヶ月続けて仕事を休めるわけがないではないか。

改葬 6

我が家代々の墓地が我が家の所有でなかったことは既に書いた。このことを私が知ったのは実家のご近所の方から教えてもらったからであった。その人は、私が別のことを依頼していた司法書士からそのことを聞かされたと言った。私自身は、その司法書士からは何も聞かされていなかった。市役所に出かけてその墓地の所有者を確認したところ、確かに我が家の墓地は我が家の所有ではなかった。隣りの家の持ち物であった。

私はその司法書士に電話をかけ、事情を尋ねた。しかしその司法書士は口を濁し、私にではなくご近所の方にそのことを話した理由を説明してはくれなかった。私の家の事情を当事者である私には何も話さず第三者に話すことは司法書士として失格ではないか、そう考えた私は、それ以後、その司法書士には何も依頼しないことにした。ただ、その司法書士を私に紹介してくれた知人には事情を話さなかった。その知人は私に不信感を抱いたかもしれないが、その知人とその司法書士との仲が壊れることを私は憂慮した。

介護は単なる看護ではない。ましてや面会でもない。介護離職という言葉が最近よく聞かれるが、私はその事情がよく理解できる。仕事を持っている私が東京と高知とを往復しながら両親の介護をすることは実に大変であった。

2018年5月22日火曜日

改葬 5

私の実家の墓を掘り起こす作業にはひとりの従兄が私と一緒に立ち会ってくれた。このことは既に書いた。私がこの従兄に立ち会いを依頼したのは、作業開始日、私が朝早く墓地に行けないためであった。その日の始発便で東京を発っても、高知の実家に着くのは早くとも午前11時になった。朝9時前に実家に着かなければ、作業開始時に作業員の方々に挨拶したり墓地の説明をすることができなかった。

墓を掘り起こす作業は、土曜日と日曜日に行った。正確な日は憶えていないが、2014年の1月ではなかったかと思う。その従兄は嫌がらずに立ち会いを引き受けてくれた。昼前に私が実家の裏山の墓地に駆けつけると、既に作業はかなり進展していた。実に手際がよかった。

私は、この作業を行う前日、墓を掘り起こすことをもうひとりの従姉に電話で連絡した。その従姉は、東京に墓地を移転するようにと進言してくれた、父親の兄の長女であった。彼女は別の予定が入っているのでその作業には立ち会えないと言った。私は、内心、安堵した。墓を掘り起こす作業に立ち会うことは決して愉快なことではない。私は國弘家の嫡男であるから私が立ち会うのは当然のことであろう。しかしたとえ親戚といえど他家の者が墓を掘り起こす作業に立ち会う義務はない。私が彼女に電話を入れたのは、墓の移転を勧めてくれた彼女に進捗状況を知らせるのが礼儀だと思ったからだけであった。私は「わかりました」と答えてそのまま電話を切った。

ところが、それから程なくして、その従姉の妹が激怒しているということが私の耳に入った。墓を掘り起こす作業について私が連絡しなかったからだという。

確かに、その怒っている従姉の本籍が私の実家になっていることを私は本人から聞かされたことがあった。しかしその当時もまだ彼女の本籍がまだ私の実家になっているのかどうかについては、彼女は語らなかった。彼女は中学校卒業と同時に県外に出ていった。それ以来50年間、私は彼女と会ったこともなければ電話で話したこともなかった。彼女が私の実家の墓参りに来たことがあるといったことも聞いたことがなかった。だから、四国を離れて遠くに住んでいるその従姉に墓を掘り起こす作業に立ち会ってもらうといったことは全く考えもしなかった。

そんなことがあって以来、私はその従姉と再び疎遠になった。ただ、東京で墓が完成したならばそれを彼女に知らせようとは思っていた。

東京の墓が完成したのは翌年(2014年)の3月であった。私は完成したばかりの墓石を写真に撮り、彼女に送った。ところが残念なことに、私が送った写真は見られないという返事が届いた。私は写真を圧縮し、再度彼女に送った。しかし、やはり写真は見られなかった。何度も写真の圧縮を繰り返しては彼女に送ってみたが、その写真は見られないということであった。

私は彼女の携帯電話はスマートフォンなのかどうかをメッセージで尋ねた。彼女からはガラケイだという返事が届いた。スマートフォンとガラケイとの間では写真のやりとりができないのだろうと思った私は、「なら、見られないかもしれない」とメッセージを送った。

そうしたところ、彼女から突然、激しい文面の写真が届いた。「わるかったな。どうせ私は貧乏人だからスマートフォンは買えんわ。金がないから自宅のインターネット回線も解約した」という文面であった。私は単にスマートフォンとガラケイとの間には規格の違いがあるのでないかと言っただけであった。しかし、彼女からはもう返事はなかった。

以来、彼女は親しい人に対して私を目の敵にする発言を繰り返しているという。

改葬 4

墓をめぐっては驚きの連続であった。

2013年6月下旬に父親が倒れて入院したあと、私の帰省時に、ご近所のご夫婦が私を訪ねてきた。私の父親が所有している畑にその家の墓石が建っているという。しかし、その畑の購入代金は20数年前に既に私の父親に払っているということであった。そのご夫婦は父親が出した領収書を手にもっており、私にそれを見せてくれた。

我が家が所有する畑に他人の墓が建っているとは。驚きであった。そのようなことを両親から聞かされたことはなかったが、合点はいった。その家は農家ではなかった。だから、その畑の所有権を変更することができなかったのであろうと私は推測した。

私はそのご夫婦に連れられて、墓が建っている畑を見にいった。猫の額ほどの狭い畑であった。そこには苔が生えている墓石が建っていた。確かに建立したばかりの墓石ではなかった。

私はこの件を母親に問いただすことはしなかった。司法書士に依頼し、そのご夫婦とその司法書士とが直接相談し合って畑の所有権を移転してもらうことにした。ほどなく、所有権の移転が無事終わったとの、そのご夫妻から連絡をいただいた。

改葬 3

新しい墓地は決まった。家庭裁判所からも改葬許可が得られた。しかしその後も大変であった。市役所からも改葬許可をもらわねばならなかった。過去70年間に亡くなった先祖の戸籍一覧を市役所で発行してもらったが、全ての先祖の名前が✖️印で取り消されていた。人の生は単にひとつの✖️印でこの世から抹消されるのだと思うと、虚しさを感じた。私の両親の名前も同様に✖️印ひとつで抹消され、親しかった人たちからも忘れ去られていく。

土葬されている先祖の墓を掘り起こすにあたっては、まず菩提寺に依頼して魂抜き(閉眼供養)をしてもらわなければならなかった。閉眼供養の当日には、私の家内と息子も立ち会った。住職はひとつひとつの墓の前で読経した。そして読経が終わると、クルッと墓石を捻り、向きを変えた。この閉眼供養の儀式は1時間近く続いた。儀式が終わった後、短時間、住職と会話を交わした。その際、我が家の宗教が真言宗になったのはそんなに昔のことではないと聞かされた。先祖の戒名からわかるのだという。驚きであった。元々は何宗であったのか、どうして真言宗に改宗したのかについても聞かされたが、残念なことに、それらについては忘れてしまった。

墓を掘り起こす作業は専門業者に依頼した。二日がかりであった。この作業には私とひとりの従兄が立ち会った。驚いたことに、殆どの墓で遺骨は亡くなっていた。残っていたのは、50年前に亡くなった祖母の遺骨と30年前に亡くなった祖父の遺骨だけであった。祖母はビニール袋に包まれて埋葬されていたためか、祖父よりもしっかりとした骨が残っていた。作業員の方々は祖父母の遺骨を丹念に拾い集めてくれた。遺骨が残っていない墓からは、一握りの土だけを丸めて布袋に入れた。そう、人は死ぬと、土に還るのだ。

ほとんどの墓からは一握りの土しか回収できなかったため、東京で設けた墓に容易に納骨することができた。魂入れ(開眼供養)の儀式は、インターネットで探した名も知らぬ僧侶に依頼した。父親の四十九日の納骨の直前であった。

父親の納骨の日には、別の僧侶に読経を依頼した。私と私の家内、そして一人息子が立ち会うだけの寂しい四十九日であったが、父親はきっと喜んでくれているだろうと思った。

2018年5月10日木曜日

改葬 2

改葬にあたっては、単に新しい墓地を設ければよいというものではなかった。家庭裁判所の許可を得なければならなかった。家庭裁判所から改葬許可をもらうためには、改葬が父親の意志に添うことであることを家庭裁判所に証明する必要がある。この作業には、司法書士であり、かつ後見監督人となった古くからの友人が奮闘してくれた。彼は我が家の親戚や父親が接触していた霊園業者の方たちに聞き取り調査をしてくれた。そしてその面談結果を元にして、家庭裁判所に提出する書類を書いてくれた。実に長い文章であった。その文章からは、彼の私に対する思いやりや彼の人柄が滲み出ていた。ただ、ひとつひとつの文がとても長く読みにくい文章であった。彼とファックスのやり取りをしながら文章を推敲した。

1ヶ月以上かかったが、彼の尽力のお蔭で墓地を東京に移す許可を家庭裁判所からもらうことができた。

その後、他のことでも彼には随分力になってもらった。得難い友人である。

改葬 1

父親が倒れた後は、全ての雑務を私が代行しなければならなかった。母親とは会話ができたが、母親も父親の入院から6週間ほど後に入院した。退院できる見込みはなかった。しかも我が家では、長年、父親が財布の紐を握ってきていた。そのため、銀行口座のことや田畑のことなどを母親に尋ねても何一つ明確な返事が戻ってこなかった。なんと母親は、自分の年金が振り込まれる口座の通帳すら父親に預けていた。自分名義の預金がどれほどあるのかも知らなかった。したがって私は、両親が行うべき雑務を代行するにあたって、ほとんど全てのことを自ら市役所や銀行に足を運んで確認せねばならなかった。

土佐市役所で両親名義の土地を調べて驚いたのは、墓地が我が家の所有ではなかったことであった。隣りの家の土地であった。その墓地には江戸中期以来の我が家の先祖が埋葬されていた。つまり、300年にわたって我が家は隣りの家の土地をずっと借用していたわけである。祖父母からも両親からも我が家の墓地が隣りの家の所有であることは一度も聞かされたことがなかった。300年間も我が家が利用してきた以上、その土地は法律的にはもう我が家の所有物と考えてもいいであろうとも私は考えた。しかし先祖は全て土葬されていた。土葬されている先祖の遺骨を掘り起こさなければ、その墓地には死期が迫った両親を埋葬するための納骨堂を設けるスペースすらなかった。

父親は、そのことも考慮してか、まだ元気な頃、実家の裏山に納骨堂を造っておいてくれていた。その納骨堂には縁あって國弘家が供養することになっていた他家の遺骨が納められていた。我が家の先祖代々の遺骨をその納骨堂に移そうとも考えた。しかし納骨堂が設置されていたのは畑であった。市役所に問い合わせると、その納骨堂は移設するよう求められた。

私は業者に依頼して墓地を探してもらった。最初は土佐市内の霊園を紹介された。その霊園を下見に行った 。しかしその霊園は小高い山の北側の斜面にあり、少し日当たりが悪く湿っぽかった。また、夏であったこともあり、雑草が生えていた。そのため、別の霊園を探すことにした。次に紹介されたのは高知市内の霊園であった。高知市街を見下ろす小高い山の頂上近くにあった。南側に面しており日当たりもよかった。高知空港からも近かった。この霊園に我が家の墓地を移そうと東京の自宅に戻った。

しかし、9月になって、ひとりの従姉から、墓地を東京に移すように勧められた。自宅に近い場所に墓がなければ先祖の供養ができないというのが理由であった。その従姉はとても信心深かった。

このことを母親に話すと、母親はその考えに賛成してくれた。私は、父親のベッドサイドに行き、墓を東京に移すことを告げた。その頃には、父親も母親も共に土佐市にある白菊園に入院していた。当然、父親は返事しなかった。しかし私は、きっと父親も賛成してくれるだろうと思った。

私と私の家内は東京で霊園を探し始めた。家内は多くのパンフレットを取り寄せ、それらの霊園に下見に行ってくれた。時間があるときには、私も家内に付き添った。

しかし墓地探しは難渋を極めた。霊園はたくさんあったが、いずれも帯に短し襷に長しであった。母親が真言宗の寺に拘ったことも墓地探しが難航した大きな理由であった。私の家の宗教は真言宗豊山派であったが、どの寺でも改宗を求められた。しかし母親は頑として改宗を拒否した。

やっとここにしようと思える霊園が見つかったのは、2013年の年末であったように思う。その霊園がある寺の宗教は真言宗ではなかった。しかし 改宗は求められなかった。その寺の敷地の一部を宗教自由の墓地として開放しており、いかなる宗教も受け入れてくれた。

私たちは、その墓地を管理している業者と墓石の打ち合わせを始めた。暮石に刻印する文字や家紋についても話し合った。

墓地が完成したのは、父親の四十九日の法要の数日前のことであった。父親の四十九日の法要は私と私の家内と私の一人息子の3人だけで執り行った。ひとりの僧侶が読経してくれた。ごくごく少人数の法要であったが、亡き父親はきっと喜んでくれているだろうと私は思った。

2018年5月3日木曜日

20歳

きょうは5月3日、憲法記念日。息子の誕生日でもある。きょう、息子は20歳になった。

一昨年まで、息子の誕生日はいつも軽井沢で祝ってきた。しかし、昨年、息子が大学生になって以来、息子はゴールデンウィークはクラブ活動のため家を留守にするようになった。今年は昨年と同様に私はゴールデンウィークを家内とふたりで過ごしている。

昨夜、都内の道路も高速道路も大渋滞であった。パーキングのレストランも満席であった。一夜明けたきょう、軽井沢はどこへ行っても家族づれで賑わっている。

のどかである。

2018年5月1日火曜日

任意後見人

もみの木病院に入院した父親の容態は私が帰省するたびに悪化していった。私は、司法書士の友人の力を借りて家庭裁判所に任意後見人の申請を行い、家庭裁判所内で面接審査を受けた。面接の担当官は女性であった。残念ながら、その面接担当官から話されたことも私が担当官に話したことも、ほとんど覚えていない。ただ、その担当官は、面接のあと父親が入院しているもみの木病院に足を運び、自分の目で父親の病状を観察してくれた。

私が家庭裁判所から任意後見人に指名され高知駅近くにある法務局で登記事項証明書を受け取ったのは2013年9月中旬であったように思う。9月上旬であったかもしれない。その登記事項証明書を持参すれば、市役所でも銀行でも、本来父親本人でなければできない手続きができるはずであった。ところが、そうはならないことが多かった。登記事項証明書がいかなる書類であるのかを知らない窓口の担当者が少なくなかったからである。登記事項証明書を持参するようになった後も、銀行の窓口で長い時間待たされることが珍しくなかった。

市役所や銀行に出向かなければならないときには、私は平日、仕事を休まねばならなかった。任意後見人に指名された後は、土曜日の始発便で羽田を発って高知に帰り、月曜日の最終便で東京に戻ることが多くなった。月曜日には朝食も昼食もとる時間がなかった。月曜日には市役所や銀行を回るだけでなく、父親の不動産の処理をするために行政書士の方や土地家屋調査士の方々と打ち合わせをしたりしなければならなかった。天気がいい日には実家の掃除もせねばならなかった。父親にも母親にもとても申し訳なかったが、両親を見舞う時間は極端に少なかった。東京に戻る日には、高知龍馬空港その日のはじめての食事をとることが珍しくなかった。重い荷物を抱えて高知から東京の自宅に戻ったとき、私の顔は青ざめ、唇も白くなっていたという。

土佐市民病院

2013年6月下旬に父親が2度目の出血性脳梗塞で倒れたことを知らされたとき、私は、「ああ、最も恐れていたことが起きた」と、暗澹たる気持ちに陥った。主治医は、父親の意識は2日以内になくなるので大急ぎで親族を呼ぶようにと言ったという。

喫緊の問題は、父親の治療費をどうやって捻出するかということであった。2011年に父親が初回発作で入院した際、司法書士の友人の勧めで、父親にもしものことが起きたときに備えて私は父親と後見人契約を結んでいた。私は、父親が倒れた日の夜、その司法書士の友人に電話をかけて相談した。友人は、任意後見人申請のための診断書を主治医に書いてもらうようにと言い、その書類を私にファックスで送ってくれた。

父親が倒れたのは木曜日であった。その週末は主治医は出勤しないかもしれない。早めに診断書をお願いしておいた方がいい。そう思った私は、父親が入院している病棟に電話をかけて事情を話し、書類をファクスで送った。

ところが、このことが翌日、物議をかもすことになった。

私が父親が入院した病院に着いたのは、翌日の昼前であった。病棟のエレベータを降りて父親の部屋に向かっていると、その病棟の婦長から呼び止められた。主治医が私に話したいことがあるから、ナースステーションに入ってくれという。私は婦長に導かれてナースステーションに入った。そして婦長に勧められた椅子に座った。

数分後に主治医が現れた。その主治医はとても興奮していた。主治医は、私の前に座ると、父親の病状については一言も話さず、私が送った書類はどういうつもりなのかといきなり大声で怒鳴り始めた。私はあっけにとられた。私は、直ちにその診断書を書いてくれるようにと依頼したわけではなかった。父親は2日以内に意識がなくなると言われていたので、そのときに備えて私が高知に滞在中に主治医に診断書を預けておこうと思っただけであった。その主治医は私に「お父さんの病状をみたのか!」と大声で言った。私は病室に行く前に婦長に呼び止められてナースステーションに入った。父親の病状を自分で観察しているはずがなかった。主治医の発言の真意を測りかねた私は、単に「いいえ、まだ」と答えた。主治医は、任意後見人申請用の診断書を書く必要があるほど父親の病状は悪くないと言いたかったのか。私には皆目わからなかった。

主治医は頭ごなしに私を怒鳴りつけると、いきなり席を立ってナースステーションから出て行った。私は、椅子に座ったまま、主治医が戻るのを待った。なかなか主治医が戻らないので、ナースステーションの看護師に、どれほど待てば良いのかと尋ねた。その看護師は主治医に電話してくれた。そして20分ほど待つようにと言った。

主治医は何も言わず席を立った。こんなことは東京では許されない。

私は主治医が戻るのを待たず立ち上がり、ナースステーションを出た。そして父親の部屋を訪ねた。

父親は完全には意識がなくなっていなかった。しかし目を開けることはなく、ただ、「頭にズンときた」と言ったことを独り言のように繰り返し喋った。

私は、父親を転院させることにした。その日のうちに高知市内のもみの木病院に救急車で搬送父親を搬送した。結局、土佐市民病院では父親の病状については、一言も説明を受けられなかった。

バラギ湖

昨日は、北軽井沢の行きつけのカフェレストランで昼食を摂ったあと、バラギ湖にまで足を伸ばした。絶景であった。












2018年4月29日日曜日

軽井沢 佐久市 蓼科

きょうは格好のドライブ日和であった。












軽井沢 雲場池

昨夜、軽井沢に出かけてきた。今月、4回目である。きょうは清々しい天気である。改修作業が終わり、つい先日、一般に再開放された雲場池を訪れた。





2018年4月26日木曜日

高知市 もみのき病院

2013年6月下旬に2度目の出血性脳梗塞で倒れた父親は、高知市内のもみのき病院に入院した。急性期の治療を終えたあとは、「すこやかな森」というリハビリテーション施設に転院することになっていた。

もみのき病院に入院して2ヶ月ほど経過した2013年8月下旬に、父親が入院している病棟の看護師から電話がかかってきた。その週の金曜日に父親がすこやかな森に転院するという知らせであった。転院にあたっては病棟の看護師が私の父親に付き添うが、家族も来院してもらいたいと依頼された。しかし毎週金曜日は私の外来診療日。しかもその日の午後には手術も予定されていた。そのため、父親の転院を1日遅らせて土曜日にしてくれないかと私は頼んだ。しかし、どうしても金曜日にもみの木病院を退院してすこやかな森に転院してもらいたいと、その看護師は言い、私の願いは聞き入れられなかった。しかも、すこやかな森に転院しても、最長3ヶ月しかその施設にはいられないとのことであった。

東京と高知とは遠い。大学病院に勤務する医師である私が、東京と高知とを往復しながら父親と母親二人の介護をすることは容易ではなった。私は長期にわたって父親を受け入れてくれる施設を探した。知人が長く勤めていた土佐市内の「白菊園」という施設に電話をかけ、直接院長に入院を依頼した。院長は穏やかな口調で快く父親の長期入院を認めてくれた。ただし、白菊園では、一旦、父親がすこやかな森に入院したならば、永久的に父親を引き取れないと言われた。

当時、母親も別の病院に入院していた。3ヶ月後に父親の転院先を再度探すのは無理であった。白菊園に父親を入院させる以外の選択肢は、当時の私にはなかった。

私はもみの木病院に電話し、父親はすこやかな森ではなく白菊園に転院させたい旨を伝えた。すると、電話に出た看護師は、「すこやかな森に転院しないのであれば、お父さんにうちの病院の看護師は付き添わず、一人でタクシーに乗せ白菊園に一人で行ってもらいますよ」と言った。

その頃、父親はほとんど意識がなくなっていた。左半身も完全麻痺の状態であった。こんな父親が一人でタクシーに乗って転院などできるはずがないではないか。

白菊園では院長を交えていろいろと討議してくれたようだ。白菊園の病棟の看護師長がもみのき病院まで足を運んでくれ、父親の病状を観察してくれた。到底、一人では転院できないと判断した白菊園側が、その週の金曜日に父親をもみの木病院まで迎えに行ってくれることになった。

ありがたかった。

ただ、高知県内には「系列」という患者には見えないバリアがあることを、父親の転院騒ぎを通じて知った。患者にはうかがい知ることのできないこのバリアにその後も何度か翻弄されることになるとは、このとき、私はまだ気づいていなかった。

80歳まで、あれほどまで懸命に働き続けた父親が受けたぞんざいな扱いに、私は一人泣いた。

2018年4月24日火曜日

母の思い出 2

国立高知病院に緊急入院した母親を数日後に見舞ったとき、母親はナースステーションの隣の部屋に寝かされていた。ナースステーションと母親のベッドとの間には扉がなく、母親の状態はナースステーションから常に観察できるようになっていた。

母親はまだ激しい痛みを訴えていた。鎮痛剤を頻回投与しても痛みが取れないようであった。苦しそうであった。母親は激しい痛みに苦しみながら、私にあることで強い怒りをぶつけた。

母親が緊急入院した当初、母親はたびたびナースコールボタンを押したらしい。度重なるナースコールに耐えかねたのが原因だったのかもしれないが、母親は何日間か、真っ暗でナースコールボタンもない部屋にひとり閉じ込められていたというのだ。母親は病院に対して激しく怒っていた。いずれ、このことを病院に訴え出ると言った。

私は、機会があれば、このことについて国立高知病院の管理者に事情を訪ねようと思っていた。しかし、結局、その機会が訪れることはなかった。

母の思い出 1

忘れぬうちに書き綴っておこうと思う。

2013年6月下旬に父親が二度目の出血性脳梗塞で倒れ、緊急入院した。そして身体が不自由な母親は実家で一人暮らしをすることになった。母親は50歳代から慢性関節リウマチに侵され、歩くことすらままならなかった。手は大きく変形し、箸を持つこともできなかった。

こんな母親が一人暮らしすることになったことを見かねたご近所の方が、私の実家で私の母親と一緒に暮らし母親の介護をしてあげようかと申し出てくれた。私にとっては嬉しい申し出であったので、このことを母親に告げた。母親はきっと喜んでくれるだろうと思った。

ところが私の予想に反して、母は強くその申し出を拒んだ。拒む理由も私に告げた。私は何度か、その申し出を受けてはどうかと母親に話した。しかし母親が頭を縦にふることはなかった。そしてこんなことを言った。「幸伸、私は寂しくないで。これまでずっと、お父さんに圧迫され続けてきた。我慢の連続だった。やっと、人生で初めて自由が得られた。」

このことを母親から聞かされても、私は母親が心配でならなかった。実家から東京に戻っても母親のことが心配で、たびたび電話をかけた。しかし手の不自由な母親が携帯電話を操作することは難しく、母親が電話に出ることは稀であった。

母親が倒れたという連絡を受けたのは、2013年8月中旬であった。その日、高知県では日本での最高気温を記録していた。母親は暑さのために熱中症様の症状が起き、自分で救急車を呼んだ。そして、その救急車が実家に着く前に寝室に置いてあったオマルで用を足そうとして立ち上がった際に転倒し、脊椎の圧迫骨折を起こしたのだ。

ご近所の方たちが駆けつけてきてくれたとき、母親の衣類は尿でびしょびしょになっていたという。駆けつけてくれたご近所の方たちは、その汚れた母親の衣類を脱がし、洗濯してあった衣類を着せてくれた。そして救急車に母親を乗せ、救急車の後を追って病院にまで駆けつけてくれた。なんとありがたいことであろうか。

その日、私は、家族で軽井沢に出かけていた。お盆の帰省ラッシュの時期であり、すぐには高知に帰れそうもなかった。母親の介護をご近所の方たちに頼む以外に選択肢はなかった。母親が入院した病院に行けたのは母親が倒れてから3〜4日後のことであった。

2018年4月7日土曜日

義兄の死

義兄が3月23日に亡くなった。つい数日前に叔母に電話をかけた際に叔母から義兄の死を聞かされた。h叔母も私の姉に電話をかけた際に初めてそのことを姉から知らされたという。おそらく姉は、私の親族のごく一部にしか夫の死を知らせなかったのであろう。ただ、姉夫婦には4人の子と少なくとも4人の孫がいる。家族葬ではあっても決して寂しい葬儀ではなかったであろう。

2013年6月下旬に私の父親が出血性脳梗塞で緊急入院した。そのとき、私は数日間帰省した。姉と姉の長女から國弘家との絶縁を一方的に告げられたのはその時であった。2013年7月1日。この日のことは生涯忘れられない。

その日の夕方、私は姉の家を訪ね、姉が住む集合住宅の敷地内で姉と雑談を交わしていた。私がさあホテルに戻ろうとしたとき、姉と姉の長女がかしこっまって私の前に立ち、「幸伸、話がある」と真剣な表情で話し始めた。「何?」と私が尋ねると、「私たちはお母ちゃんと縁を切るから」と姉は言った。その時、私は、またいつもの親子喧嘩でもしたのか、程度にしか受け取らなかった。しかしその3週間ほどあとに姉は両親宛に絶縁状を送ってきた。その絶縁状の末尾には「さようなら」と書かれていたらしい。「らしい」と表現したのは、私は、その絶縁状を母親の死後まで手に取って読まなかったからである。3回目に私が帰省したとき、母親は姉から送られてきた絶縁状の文面を何度も私に繰り返し話しては悲しんだ。このときの母親の嘆き様を私は生涯忘れないであろう。

姉が両親宛に絶縁状を送りつけてきた直後の2013年8月13日、母親は自宅で転倒し、救急車で国立高知病院に搬送された。救急車が実家に着く前にご近所の人たちが病院に駆けつけてくれ、姉に電話連絡し、母親の搬送先が決まったら病院に来てくれるよう繰り返し頼んだ。しかし姉は、「國弘家とはすで縁を切った。絶縁状も送ったので母親を見舞いにはいかない、葬式にもいかない。これは家族会議で決めた。ご近所の人たちに迷惑をかけるわけにはいかないから、母親はおいたまま帰って」と言ったという。

父親は翌年の2014年3月に亡くなった。姉の言葉どおり、父親が亡くなるまで、姉も姉の子供たちも誰一人として両親の見舞いに来ることはなかった。実家も放りっぱなしであった。父親の葬儀にも、姉も姉の子供たちも誰一人として出席しなかった。病院で一人残された母親を見舞ってくれることもなかった。2015年8月に母親が危篤に陥ったとき、病院に駆けつけてくれていた実家のご近所の方が姉にそのことを電話で伝えてくれた。しかし姉が病院に着いたときには、母親は既に息絶えていた。姉は母親の遺体にしがみついて大泣きに泣いたという。泣きじゃくっている姉に対して、母親の死を看取ってくれたご近所の方の一人は、「友子ちゃん、ちっくと遅かったね」と言ったらしい。

姉が國弘家と縁を切った理由は、両親の看病や介護をしたくないことが理由であった。ただそれだけであった。



残酷な一家である。

父が亡くなってから4年

父親が亡くなってからもうすぐ4年になる。父親は2013年6月下旬に出血性脳梗塞で入院。容体は回復することなく、翌年の3月7日に亡くなった。父親死亡の連絡を従姉から受けたときの衝撃は今も忘れられない。

私が現在住んでいる東京の家の仏壇には父親と母親の遺影を飾っている。その遺影を見るたびに両親への感謝の気持ちが湧いてくる。

先日、中学・高校時代の友人が私の実家の写真を送ってきてくれた。冬なので実家の庭の草は枯れているが、暖かくなるとまた草が鬱蒼と生い茂るに違いない。実家には誰も住んでいない。

その友人は、今、車で四国八十八ケ所巡りをしている最中だという。四国が広いのに驚かされたと彼からのメールには書かれていた。彼の父親が心身深かったので親孝行をしようと思って八十八ケ所巡りをしているとのこと。私には彼の気持ちがよくわかる。ひとつひとつ寺を回りながら、彼は亡くなった自分の父親の生前の姿を思い出しているにちがいない。

私の父親の生前、私と父親とは喧嘩ばかりしていた。加えて、私は高校に入学して間もなく実家を出たこともあり父親とはあまり話す機会がなかった。だから父親の平素の生活ぶりを私はほとんど知らなかった。父親の生活の様子を知ったのは、父親の介護をするためにしばしば帰省するようになってからであった。ご近所の方々が私にいろいろと話してくれた。それらのひとつひとつが私の胸を打った。貴重な思い出となった。

2013年11月に父親を見舞ったとき、もう意識はないものと思っていた父親が、「よう来てくれるね。嬉しい」と突然2回しゃべった。私は驚いた。その翌月、私が家内と息子を連れて父親を見舞った際には、父親は麻痺のない右腕を伸ばして私の手を握った。それにも驚かされた。帰り際、父親は目を閉じたまま「気をつけて帰りなさいよ」と二度と繰り返した。聞こえるか聞こえないかのごく小さな声であった。それが父親の声を聞く最後となった。

父親と母親の介護を東京と高知とを往復しながら行うのは実に大変であった。この期間はほとんど仕事が手につかなかった。夜も寝つけないことが多かった。父親に次いで2015年8月に母親が亡くなくなった。私は心身ともにへとへとに疲れた。しかし悔いはなかった。