2009年12月7日月曜日

服装

7年ほど前に、現在住んでいる家に引っ越してきた。留学から戻って6~7年ほどは家内の実家に住まわせてもらっていた。つまり、世に言う「マスオ」さんの生活を送っていたのだ。

息子が2歳になったこともあり、引っ越しを機に車を買うことにした。8年間以上車を持っていなかった私は、車のことはまるでわからない。そこで外車、日本車を問わずさまざまなディーラーに出かけていって車を見せてもらった。

そんな時期、ある日曜日に芝でフォークスワーゲンのBeatleの試乗会が開かれると聞き、家内と息子を連れて試乗会場に出かけていった。そこには何台かのBeatleが停められていた。係員に試乗させてもらいたい旨を話した。しかしはっきりとした返事が返ってこない。私たちは順番が来るのを待った。そんなとき、一人の男性の担当者が私たちのところに歩み寄ってきて次のように私たちに告げた。「車を買うところで試乗してください。」

私たちは即座には意味を理解しかねた。私たちは、確かにビートルを買おうという強い気持ちを持っていたわけではなかった。その様子を係員たちに察知されたのかとも思った。しかし、買わないと決めていたわけでもない。そのときはまだ全く白紙の状態であった。ただ、私たちは追い払われたのだということは何となくわかった。

「買うのでなければ試乗させない」というのであれば試乗させてくれるように無理に頼むわけにはいかない。私たちは試乗させてもらえるフォークスワーゲンのディーラーがないかとその担当者に尋ねた。その担当者は池袋にあるディーラーを紹介してくれた。

私たちは地下鉄を乗り継いでそのディーラーに向かった。私たちが地下鉄を降りて紹介してもらったディーラーに電話をすると、担当者が車で私たちを迎えにきてくれた。そして「お帰りはどちらですか」と尋ねた。私たちがJR池袋駅に出たいと話すと、帰りはそこまで送り届けてくれるとのことであった。

そのディーラーではいくつかの車種を見せてもらった。Golfにも試乗させてもらった。(Beatleは置いていなかった。)ただ、どの車もあまり気に入らなかった。私たちのその様子を見てかどうか、私たちが帰ろうとすると、「あそこにバス停がありますので、そこでバスに乗ってください」とその担当者はそっけなく私たちに告げた。

私たちは「えっ」と思ったが、何も言わず、バス停に向かった。

帰宅途中、家内は、「もうフォークスワーゲンの車は絶対買わない」とつぶやいた。

私には、フォークスワーゲンの人たちの冷たい対応の理由がわかった。服装であった。私たちは、誰が見ても金を持っているようには見えないような服装をしていた。私も、家内も、そして息子も。私たちの服装を見て、金のない客に用はないと、フォークスワーゲンのディーラーの人たちは思ったのであろう。服装がその人を判断す一つの指標となることは至極尤もである。実際、私たちは金持ちではない。フォークスワーゲンに乗ることが富の証であるとするならば、私たちはそれにふさわしいとはいえない。したがって私は彼らに恨みはない。

この出来事は私にとっていい勉強になった。私は、世の中というものがどういうものかということについて、その一端を見たような気がした。ただし、私たちが貧乏ではないように見せようと翌日からドレスアップしてディーラー出かけようという気は起きなかった。私たちは、その後もずっとみすぼらしい格好のまま、あっちこっちのディーラーを回った。いいか悪いかは別にして、当時も今も私たちにはほとんど見栄というものがない。

(余談であるが、私の息子は穴があいても気にせずその靴を履き続ける。先日、両親が上京してきた際にその靴を見て、父親が「お医者さんの息子がこんな靴を履いているというのは恥ずかしいから、どうぞやめて」と息子に言ったということを後で家内から聞かされた。家内は、単に笑っているだけであった。息子はその破れた靴をまだ履き続けている。つい昨日もその靴を履いて出かけた。服も然り。先週の土曜日には、塾の先生に、また同じ服を着てきているとからかわれたと息子から聞かされた。息子はそんなことは全く気にならないらしい。私も私で、「来週の土曜日も同じ服で塾に行けばどう?」と息子をからかった。息子が幼い頃、息子に着せた服はほとんどバザーで買ってきた古着であった。一着10円から150円程度のものばかり。スキーウェアーも30年以上昔のものではないかと思われる知人のお下がりをずっと着せて、毎年、スキーツアーに行かせている。息子はそれらをいやがらずに着る。他人からいろいろのことを言われても全く無頓着である。)

顔を合わすなり、「私の主人はどこどこ大学の教授であり、私の息子はどこどこ大学の専任講師をしています」などと一人勝手に話し始める婦人がいる。私は「そうですか」としか答えない。私は、学歴、地位、財産などといったものでその人の価値を測ったりはしない。そんなことでどんなに自慢されても私の心には何も響かない。学歴、地位、財産といったものを自慢する人は、逆にそれらに劣等感を抱いているのではないのかとすら思える。

学歴にこだわる人は学歴を得ようとして努力するであろう。努力すればそれなりの成果は得られるものだ。しかし自分が目標とした学歴を得られたとしても世の中には上には上がいる。その人たちを見れば羨ましく思うであろう。逆に自分よりも学歴が劣る人に対しては侮蔑の感情を抱くに違いない。お金に関しても同様である。学歴、地位、財産などというものを他人との比較という視点から捉えると際限がなくなる。相対的な比較の世界でしか生きていくことができない人は、生涯、心が満たされることはない。その不満は顔に表れる。その人の心構えやそれまで生きてきた人生はその人の顔にそのまま表れるものだ。態度にも表れる。自分よりの上の人に対しては卑屈な態度をとり、自分よりも下の人たちに対しては横柄になる。何のことはない。これは単に自分が自分自身に弄ばれているだけのことである。

さらに話は飛ぶが、私の父親の最終学歴は青年学校(今の中学校)である。母親の最終学歴も中学校。父親も母親も高校には行っていない。戦争と貧困という環境が進学を許さなかったのだ。しかし、自分たちの置かれた恵まれない環境のなかで、これまで一度も他人から後ろ指を指されることもなく正直にまっすぐ生きてきた両親は、たとえ学歴も地位も財産もなかろうと、それだけで十分立派ではないかと息子である私は思っている。これ以上、何を求めるのか。自分たちが歩んできた人生を振り返り、自らを褒めてあげたい気持ちを両親が持てるかどうかが最も大切なことであろう。

高知の実家に帰ると、私は近所に住む90歳を過ぎた老婆からよくこんなことを言われる。「あんたんくが今えい生活をできるのは、おじいさんが結構な人とじゃったけえよ。」そして私の祖父との思い出を語り始める。私の祖父が保証人になっていたためにその人の多額の借金を背負うことがあったが、私の祖父がその借金を誠実に返済していったことを私は何度もその老婆から聞かされた。祖父が莫大な借財を背負った当時、祖父にたかられることを心配して、近所の人たちは我が家に誰も近づこうとはしなかったという。父親も似たことを近所の人たちから言われるらしい。「おんしゃんくが今えい生活をしゆうがは、おんしゃらあがだれっちゃあに迷惑をかけんずつきたからえや」と。

ただ、見栄を張ろうとしない私の家族の生き方はエネルギーに乏しい。向上心も劣るかもしれない。虚栄心は向上心の源でもあるのだろうから。

2009年12月1日火曜日

祖父 その2

私が物心ついた頃、祖父は既にびっこを引きながら歩いていた。特に右脚が不自由であったように記憶している。O脚でよたよたと歩いていた。ただし杖を必要とはしなかった。自転車に乗ることもできた。

祖父がなぜ膝を痛めたのかについてこれまで一度も家族の間で話が出ることはなかった。幼い頃からなぜだろうと私も思っていたが、祖父にも家族の誰にも尋ねなかった。祖父が自分の脚が不自由であることを難儀がっているのを見た記憶もない。

つい先日、帰省して両親と雑談している最中、母親が突然、父親に向かって、祖父はなぜ脚が不自由であったのかと尋ねた。母親も知らなかったのだ。母親が我が家に嫁いできたときには既に祖父の膝は歪んでいたのであろう。

父親は、「重いものを持ったからえや」と答えた。

祖父は若い頃、ある人の借金の保証人となっていた。その人が突然亡くなった。このことによって祖父は莫大な借金の返済を肩代わりしなければならなくなった。近所の人たちは皆、「これでヨイ(私の祖父の愛称)も終わりじゃねや」と噂したという。

借金を返済するために祖父は朝早くから深夜まで休まず働き続けた。焼いた木炭を自宅に運ぶために夜中に人里離れた寂しい山に出向くこともたびたびあったらしい。自分の身体の何倍ものカサのある荷物を背負って夜中に狭い山道を下ってきた。時折、人が叫ぶような不気味な声が聞こえてきたこともあるという。「ほー、ほー」という声が。怖かったにちがいない。

祖父は自分の身体の何倍もある荷物をいつも背中に負って運んでいた。だからその姿を見ると遠くからでもそれが私の祖父であることが一目瞭然であったという。

祖父が脚を痛めたのはこの重労働が原因であった。

祖父の身体が不自由であることは父親にも影響を与えた。祖父が脚を痛めると、その作業は父親が代わってしなければならなくなった。祖父は父親が17歳の時に父親に家督を譲った。

父親はふんどしひとつでキンマを引いた。若い女性とすれ違うと、とても恥ずかしかったと父はその当時の思い出を語る。

父親はまた、農家から栗やエンドウ豆を買い集めてそれを出荷する仕事もしていたという。夏のある晩、120キロもある栗の荷を自転車で引きながら山里離れた道を歩いているとき、突然、大雨が降り始め、雷も鳴り始めた。しかし重い荷物を引いている父親はゆっくりゆっくりとしか進めない。周囲には街灯もない。寂しい山道を大雨に打たれびしょびしょに塗れながら一歩一歩必死で自転車を押したという。

私が幼い頃、我が家にはアルミでできた大きな弁当箱があった。片手では持てないほどの大きさであった。深さも7センチほどあったであろうか。父親が野良仕事にでかけるときには、その弁当箱にぎっしりとご飯を詰めた。味付けは塩。それに沢庵が載っているだけであった。

私が小学校に持っていく弁当も大同小異であった。おかずは毎日同じ。「鯛でんぶ」と呼ばれていた一袋10円の甘い粉末だけがご飯の上に載せられていた。鯛でんぷに飽きた私はよく母親に愚痴をこぼした。しかし別のおかずが載ることはなかった。

母親もよく働いた。母親は病気を患うまでゆっくりとくつろぐことは片時もなかった。姑と嫁とはあまり仲が良くないものであるが、私の祖母は近所で「うちのミッチャン(私の母の愛称)は毎日ずっと走りゆうで」と嫁を褒めていたという。確かに私が母親と祖母とが言い争うのを見たことは一度もない。祖母が脳卒中で倒れたときも母親は自宅で献身的に祖母の介護をした。

当時、我が家は藁葺きで、かつ古く、いつ倒れるともしれなかった。家にはよく蛇が入ってきた。ムカデに噛まれることもよくあった。そんな家に住むことしかできないことは父親にとっても家族の誰にとっても恥ずかしいことであった。倹約に倹約を重ね、睡眠時間を削って働き、父親は家を新築するお金を蓄えた。いよいよ家を建てることになり少しずつ買い集めた材木が高く積み上げられていくのを見て、祖母は新しい家ができるのを心待ちにしていた。しかしその家の落成を見ることもなく、祖母は寒さの厳しい日の午後に脳卒中で倒れ、2週間後に息を引き取った。祖母が亡くなったのは私が小学校2年生であった年の12月30日であった。

貧困から抜け出すこと。これが祖父母と両親の大きな目標であった。家を建てることはこの貧困からの脱出のひとつの象徴的な出来事になるはずであった。しかし祖母はそれを見ずして亡くなった。祖母が亡くなったとき、母親は祖母を不憫に感じて涙が止まらなかったという。

新しい家が完成し引っ越しするまで、母親は毎晩深夜まで夜なべ仕事としてむしろを編んでいた。いつ母が床につくのか私は全く知らなかった。私が目覚めたときにはいつも母親は既に朝食の支度を終えていた。朝食が済むと近くの川まで洗濯にでかけた。冬、川の水は冷たい。手が凍える。それでも思い洗濯物をかかえて母親は川と自宅とを毎日何往復もし、山のような洗濯物を片づけた。冬になると母親の手はあかぎれと霜焼けで鳥の足のようであった。

「貧困」がマスコミを賑わせている。しかし現在の貧困など本当の貧困といえるのであろうか。私の両親は若い頃、もっとずっと貧しい生活に耐えた。そして窮乏の中でもできるかぎり他人に迷惑をかけないようにと心を砕きながら生きた。借金をしたこともない。ローンを組んだこともない。家を建てたときにもその費用は現金で一括で支払ったという。藁葺きの、いつ倒れるともしれない家に住み、倹約に倹約を重ねて、家を新築する費用を現金で一括払いできるようになるまで両親は近所の人たちからの嘲笑に耐えた。両親はこの家に今も住む。この家は、両親の終の住み処となるはずだ。

2009年11月28日土曜日

墓参

きょうの昼、先祖の墓参りをした。我が家の墓地は実家の裏山にある。ほとんど土葬である。若くして亡くなった祖父の3人の墓地は離れた場所にあったが、数年前に遺骨を裏山に埋葬し治した。この3人はまとめられて埋葬されている。

私がひとつひとつの石塔の前かがむと、傍にいた父親が一人一人について説明してくれた。

父親は5人兄弟の末っ子であった。一人の兄と一人の姉は私が生れたとき既に亡くなっており、我が家の墓地に埋葬されていた。兄は戦死であった。終戦の一ヶ月前にフィリピンのレイテ島で戦死した。父親のこの兄は私にとって伯父にあたるが、この伯父は生れたばかりの幼子を残して戦地に出向いた。残された伯父の妻とその幼子は、その後、貧困の中で一生を終えた。

(伯父が出征したのは我が子が生れて32日目であった。高知駅で親族全員が見送った。汽車が動き出しても伯父は顔が見えなくなるまで帽子を持った手を振り続けたという。母と子はその後、一回だけ広島県福山市の駐屯地を訪ねた。そこで伯父は一晩だけ息子と一緒に寝た。それが父子が顔を合わした最後となった。間もなく伯父は朝鮮に出征した。母子は朝鮮まで面会に出かけようとしていた。その矢先に今度はフィリピンに出兵。そして安否がわからなくなった。伯父がレイテ島で戦死したことが知らされたのはずっと後のことであった。)

もう一人の夭逝した姉の名は米尾といった。20歳で亡くなった。結核であった。発病後、死ぬまでの間、姉(私の伯母)は自宅の牛小屋の側の小部屋で養生したという。

伯母が息を引き取る直前、伯母は胸水が溜まって苦しんだ。胸水を抜くと死ぬと医師に言われていたが、あまりに伯母が苦しみ胸水を抜いてくれるようにと懇願する姿を見かねた私の祖父(米尾の父親)は、伯母の死を覚悟で胸水を抜いてくれるように医師に依頼したという。そして「気丈にしていなくてはいけないから」と言って酒を飲み始めた。伯母はほどなく息を引き取った。

伯母が亡くなったことを聞いた近所の方が駆けつけてきてくれた。そして酔っている祖父に向かって伯母の遺体の処理を手伝おうかと申し出てくれた。

当時、結核は忌み嫌われていた。伯母が闘病中は誰も我が家に近づこうとはしなかったという。そんな時期に結核で亡くなった伯母の遺体に触れようとする人などいようはずはない。

もちろん、その申し出は丁重に辞退した。しかしその方の親切は今も父親は忘れないと言う。

伯母は土葬であったのであろう。しかし伯母の遺品はことごとく自宅の庭で燃やした。

私の祖父は生前、何一つ愚痴を言ったことはなかった。自分の息子と娘の死は私の祖父にとってとてもつらい出来事であったに違いないが、その不幸な出来事についても祖父から聞かされたことはなかった。

伯母・米尾が亡くなって70年以上経った。祖父が亡くなってからも既に30年近く経つ。これほど時間が経って初めて父親が話してくれた伯父・伯母の小さな思い出話である。父親が亡くなれば、裏山の墓地で父親からこの話を聞かされたことが私にとって忘れることのできない父の思い出となるであろう。

戦死した伯父の遺影も結核で亡くなった伯母の遺影も、まだ実家の仏壇に掲げられている。その傍に私の祖父母つまり彼らの両親の遺影も一緒に飾られている。4人とも同じ墓地に眠る。

帰省

今月の25日から27日まで徳島市で学会が開かれた、その学会を利用して高知の実家に帰省した。

徳島駅前から高知駅前まではバスで2時間40分。途中、渋滞に巻き込まれることもなく、予定通り高知駅に着いた。高知駅までは父親が迎えに来てくれることになっていた。高知駅到着は午後6時20分。すでに空は真っ暗であった。

バスから降り立った私は、高知駅が様変わりしていることに驚かされた。私の記憶の中にある古ぼけた高知駅の建物は跡形もなく、近代的な鉄筋の建物が建っていた。駅のターミナルも整備され、駅前の景色もすっかり姿が変わっていた。私が乗ってきたバスが着いたのは高知駅の北口であった。しかしそれに気づくのにしばしの時間を要した。父親と携帯電話で話しながら父親を探したがどうしても父親を見つけることができない。父親は高知駅の南口で待ってくれていた。しかし南口に着いたと思っている私が父親を見つけられるはずがなかった。

高知駅から私の実家までは車で約1時間。高知県は過疎が進む。しかし帰省するたびに新しい道路ができあがっている。対照的に、かつての高知市内の繁華街にはチャッターを下ろした店が並ぶ。

自宅に帰る車の中で、私の実家の隣の家が空き家になったことを父親から聞かされた。その家には、93歳のおばあさんと30歳台の孫娘が二人で住んでいた。そのおばあさんが転倒し大腿骨を骨折した。手術を受けたが歩くことはできず、そのおばあさんの長女が住む東京に二人で移り住むことになったという。

私の実家は土佐市であるが、須崎市に近い。四方を山に囲まれた農村である。図書館や劇場などの文化施設はない。書店もない。

小学校6年生になるまでに私が手にすることができた本は学校の教科書と学校の図書館の蔵書、そして小学校の近くの文房具店で買うことのできた漫画本だけであった。しかし図書館で本を借りて読むことはなかった。だから学校の授業の予習や復習をすることもなかった。私が自宅で読むのは漫画本だけであった。私は月刊誌である「冒険王」という漫画本が発売になる日をいつも心待ちにしていた。

クラスメートのなかには小学校5年生のころから塾に通っていた人がいたように思う。私は小学校6年生になって塾に通うようになった。そこは自宅から10キロほど離れた場所にあった。バスで週3回その塾に通った。塾では参考書を渡された。私はその本の厚さとぎっしりと詰まった文字に圧倒された。結局、私がそれらの参考書を開くことはなかった。だからそれらの参考書に何が書かれていたのか全く憶えていない。

小学校6年の2学期になると運動会の準備が忙しくなった。当時、私は、児童会の会長を務めていた。私の関心は運動会の準備に奪われた。そして塾には行かなくなった。

私が再び塾に通うようになったのは、翌年の1月からであった。4か月近く無断欠席していた私はばつが悪く、復学の依頼を母親に頼んだ。私は塾に戻ることを許された。

私は中学校受験することにしていた。しかし今振り返ると、信じられないほど暢気であった。受験勉強といえる受験勉強は何もしないまま入学試験を受けるつもりでいたのだ。入学試験は3月。もういくばくも受験準備の日は残されていなかった。

さあ、明日は入学試験、という日の前の晩、私は父親から突然、受験を思いとどまるようにと言われた。あまりに突然のことであった。私は激しく怒り、父親と口論になった。

父親が私の受験に反対する理由は何であったのか、はっきりとは覚えていない。ただ、経済的な理由からだったのだろうと思う。父親と私との口論の最中に、祖父が田畑を売ってもいいから私に受験させてやるように、と言った記憶が鮮明に残っているからである。

親から譲られた財産を売るということは父親には想像することすらできないことであった。77歳となった今も、父親は親から譲られた田畑を売ろうとはしない。

入学試験の朝、父親は私を受験会場まで車で送っていってくれた。母親もいっしょであったと思う。私は顔を泣きはらしたまま試験を受けた。受験会場の父兄控え室には、担任の先生も来てくれていた。隣のクラスの担任の先生も来てくれていた。受験したのは私のクラスでは私を含めて2人、隣のクラスでは3人であった。しかし、その3人のうちの2人は他の中学校を受験した。だから私と同じ中学校を受験したのは3人であった。

私は当時、「おとそ」という言葉を知らなかった。したがって、誤って「おそと」と書いてしまった。他の2人はきちんと「おとそ」と書いたとのことであった、また、「精を出す」と書くべきところを、私は「勢を出す」と書いてしまった。やはり他の2人は「精を出す」と書いていた。受験勉強をほとんどしなかっただけでなく、おとそを飲むような家庭に育たなかった自らの育ちの悪さを心のなかで私は恥ずかしく思った。

ただ、入学試験には運良く合格することができた。5人とも合格した。そして私と同じ中学校に入学した他の2人とは高校卒業までいっしょに学生生活を送ることになった。

試験が終ったあと、同じ中学校に進学することになった3人は担任の先生のご自宅に招待された。1泊目は隣のクラスの担任の先生のご自宅に2泊目は私のクラスの担任の先生のご自宅に泊めてもらった。

「ナポレオン」というトランプゲームを教えてもらったのはそのときであった。ナポレオンを教えてくれた隣のクラスの担任の先生は、トランプゲームのなかで一番楽しいものであると説明してくれた。ナポレオンは独特の駆け引きを要求される知能ゲームであった。私はその先生の駆け引きのうまさに感嘆した。私たちは深夜までナポレオンを楽しんだ。

二日目は私と私のクラスメートの2人だけであったように思う。隣のクラスの先生もいらっしゃらなかった。私たち3人は布団を並べて眠った。先生は布団のなかで長時間にわたって私たちにいろいろの話を聞かせてくれた。何人かのクラスメートの家庭の事情などの裏話などもしてくれた。また、隣のクラスの担任の先生が、ご主人との関係で長年悩んでいたといったことも話してくれた。

私のクラスの担任の先生も隣のクラスの担任の先生も日教組の活動家であった。私はクラスの代表として日本国憲法第9条を暗記させられ、ある催しのなかで起立して大声でその条文を復唱したこともあった。二人とも私たちが私立の中学校に進学することには反対であった。ただ、私たちが進学することになった中学校ならば受験してもいいと言ってくれていた。

私は、先生のご自宅に招かれたこの3日間のことをその後ほとんど思い出すことはなかった。しかしいま、こうして文章を綴りながら当時の光景を振り返ってみると、2人の先生は心から私たちの前途を祝ってくれたのだろうと思う。

私が通ったのは片田舎の小さな小学校であった。過疎と少子化が進行し、いつ廃校になるともしれない。しかし私はここで育てられた。かけがえのない思い出をつくることができた心のルーツである。

2009年11月21日土曜日

サン・サーンス 「白鳥」

私には音楽の素養がまるっきりない。しかし、耳に入るとつい聴き入ってしまう曲が何曲かはある。そのひとつがサン・サーンス「白鳥」である。

私がこの曲を初めて聴いたのは私が保育園に入園したときであった。私が2年間通った保育園では、午後4時の帰宅時刻の10分前になるとこの曲が園内に流れ始めた。私たち園児は、この曲が流れ始めると同時に片づけを始めた。片づけを終えると、正門前に集合した。そしてみんなで歌を歌った後、解散した。♭♭先生さよなら、皆さんさよなら、お手手つないで帰りましょう♭♭ 皆で声を合わせ、先生に向かって手を振りながらこの歌を歌った。

当時、帰宅の合図である「白鳥」が流れ始めると、私はいつもとても寂しい思いにとらわれた。この曲のメロディーそのものによる寂しさもあったかもしれない。しかしこの曲を聴くと、その日は友達ともうお別れだという思いが私をよけいに切なくさせた。

信じられないかもしれないが、私がこの曲の題名を知ったのは、その後、30年ほど経ってからであった。それまで私は、誰に対してもこの曲の題名を尋ねることすらしなかった。

クラシック音楽などとは全く縁のない幼小児期を過ごした私は、クラシック音楽を聴いてもほとんど曲名がわからない。教えてもらってもすぐに忘れてしまう。子供のころからクラシック音楽に馴染んでいる人たちであれば、一度曲名を聞けばきっと忘れることはないのではないか。

クラシック音楽の曲名を覚えることができないというのは私の育ちの悪さを示すひとつの証左である。「育ちの悪さ」というものは、ごまかすことができないものだ。無意識に発する言葉や表情、身のこなしにその人が生きてきた人生そのものが表れるのだ。

私は自分の親を責めているわけではない。

私の両親は決して教育熱心ではなかった。しかし、社会人として生きていくうえで必要とされる最低限のモラルは教えてくれた。「他人のものを盗んではいけない」、「他人のお金を横領してはいけない」、「借りたお金は必ず返さなくてはいけない」、云々。列挙すれば限りがない。

どれも当たり前のことばかりである。しかし、両親が私に言って聞かせたことは、確かに両親も確実に守って生きてきたと思う。それで十分である。

躾けとは繰り返しである。

「北枕で寝てはいけない」と子供のころ繰り返し両親や祖父母から言われた。北枕は死人を寝かせる向きであると説明された。死人と同じ向きに寝たらなぜいけないのか。誰も答えられはしないであろう。それでも多くの人は北枕を避ける。私もそうである。

「人を跨いではいけない」ということや、「夜、爪を切ってはいけない」といったことも繰り返し諭された。人を跨いではいけないのは、人を跨ぐとその人の背が伸びなくなるからだと祖母は私に説明した。「なら、成長が止まった大人を跨ぐのはかまわないではないか。」

当時の私はそんなことは考えもしなかった。躾けとはそのようなものであろう。繰り返し繰り返し諭されることによって理屈を超えてその教えは自分の心の中に染み渡っていく。そしてその人の人生を生涯支配する。

電車のなかで若い女性が化粧をする姿は醜い。そればかりではない。電車のなかで化粧をしている女性の中に美人だと思える人はいない。女性の美しさとは顔のつくりだけではない。顔にはその人がそれまで生きてきた人生が表れる。その人の人生観が表れる。顔にいくら化粧を施したところで、それまでの自分の人生を覆い隠せるわけではない。覆い隠せるのは白髪や顔の皺であって心ではない。

彼女らは幼い頃に「美」に対する感覚を磨く訓練を親から受けなかったのであろう。すでに成人してしまった彼女らを諭す言葉はもうない。「美」も「醜」も言葉で教えることはできない。

2009年11月14日土曜日

熊本

きょうの昼、熊本市にやってきた。明日、熊本市内で開かれる、あるセミナーで講演をするためである。

熊本市を訪れるのは初めて。熊本県を訪れるのも33年ぶりである。

33年前に訪れたのは阿蘇であった。阿蘇郡高森町。そこには私が高校時代に地学を習った先生が住んでいた。名前は植田和男。

私は高校2年とき自宅を離れ、2年間寮生活を送った。寮生活を送るようになってからは、夜、よく植田先生の下宿にお邪魔した。植田先生は高校の近くの一軒家で独り住まいをしていた。当時はまだ20歳代後半であった。もちろん独身。

私が植田先生の下宿を訪ねるときには、徳永啓二という友人がいつもいっしょであった。彼は私とは入れ替わりに寮を出て下宿生活を送っていた。

私たちがいつも通された植田先生の下宿の居間には仏壇があった。「仏壇」と呼ぶのは誤りかもしれない。植田先生は当時、密教に凝っていた。密教の祭壇も仏壇と読んでいいのかどうか、宗教に造詣がない私にはわからない。

私たちがお邪魔すると、植田先生はいつもコーヒーを入れてくれた。そのコーヒーをすすりながら、私たちは植田先生の話を聞いた。

植田先生は登山が大好きであった。だから登山の話はよく聞かされた。ただ、登山の話をするとき、植田先生はきわめて冷静であった。対照的に、密教の話をするときにはいつも語り口が熱くなった。密教の話を一度始めると、植田先生の話は尽きなかった。しかし残念なことに、当時の私たちは、植田先生が語る内容をあまり理解できなかった。ただただ、植田先生の表情や身振り手振りに呑み込まれているだけであった。だから密教について植田先生がどんな話をしてくたのか、ひとつのことを除いて全く憶えていない。

そのひとつのこととは、密教の話の途中で植田先生が次のようなことを言ったことだ。「男の価値は才能である。女性の価値は宇宙を包み込むような母性があるかどうかで決まる。」

私は植田先生の口から「才能」という言葉が発せられたことに驚いた。植田先生は「人の価値は才能の有無では決まらない」という思想の持ち主であるとそれまで私は思い込んでいたからだ。

ただ、植田先生は、「男の価値は才能である」という部分よりも「女性の価値は宇宙を包み込むような母性が持てるかどうかで決まる」という後半の部分を強調したかったのだと思う。

私が通っていた高校は、高知県内では進学校として知られていた。しかし植田先生はその進学指導に強い違和感を抱いていた。教員の中で植田先生はひとり浮いているように見えた。

進学指導に対する反発心からか、地学を専攻する教員としての興味からであったのかは今もわからないが、先生は、天気がいい日には、教室のなかでの授業を途中で切り上げて、「城山」と呼ばれていた学校のすぐ側の小高い山にクラス全員を連れていってくれた。私たちは嬉々として山道を駆け回った。

私は高校を卒業と同時に東京に出てきた。その2年ほどあとに植田先生は私の母校を去った。そして熊本県の阿蘇の高校に移った。

植田先生が阿蘇に行った後も何年間か私と植田先生との間の手紙のやり取りは続いた。そして大学時代に二度、植田先生が住んでいる阿蘇の高森町を訪れた。東京から阿蘇まで休まずに行くのは難しかった。二度とも私は京都で一泊し、京都駅前で植田先生にさしあげるお土産を買った。東京から熊本までは比較的楽であった。しかし熊本から阿蘇の高森町までは一両編成のローカル電車を乗り継いでの心細くて長い一人旅であった。

最初に私が植田先生に買っていったお土産はタイチェーンであった。タイチェーンが入った箱を開けると同時に、植田先生が困ったように、「これを着ける機会がここであるかなあ」と何度かつぶやいた。その通りであった。高森町は阿蘇の外輪山に囲まれたなかにある田舎町であった。

私が大学を卒業する間際になって植田先生から一枚の写真が届いた。ひとりの女性といっしょの写真であった。テントの傍らで植田先生とその女性が並んでしゃがんでいる姿が写っていた。その写真に添えられていた手紙には、「私と一緒に山に登ってくれる女性ができました」と書かれていた。私はきっとこの小柄な女性が植田先生の将来の奥様になる女性であろうと思った。その女性はさして美人ではなかった。しかし写真のなかの植田先生はとてもうれしそうに微笑んでいた。この女性は、それまで孤独であった植田先生をきっと真から理解しようとしてくれている方なのだろうと私は思った。

植田先生からもらった手紙はそれが最後となった。

植田先生に伴侶ができた。植田先生はもう独りぼっちではない。そういう安心感からか、私もいつしか植田先生に手紙を書かなくなった。

33年ぶりに熊本を訪れ、急に植田先生に会いたくなった。しかし植田先生の所在はわからない。

2009年10月27日火曜日

通信簿

私の息子が通う小学校では、4年生になると通信簿がつくようになる。

通信簿のことを私は子供の頃から「通知簿」と呼んできた。「通信簿」と「通知簿」とどちらが正しい呼び名なのか、私は知らない。どちらも正しい呼び名なのかもしれない。

私が子供の頃は、小学校1年生のときからずっと学期末に通信簿をもらった。学校で担任の先生から一人一人名前を呼ばれ教壇に立つ担任の先生から通信簿をもらう。これは私が小学校を卒業するまで毎回繰り返された終業式の日のお決まり行事であった。

私が初めてもらった小学校1年生の1学期の通信簿のことは、今もおぼろげに覚えている。私はその通信簿を自宅の囲炉裏端で母親と一緒に見た。5段階評価であった。算数は「5」であった。「5」の評価をもらったのは算数のみ。他の教科は「4」か「3」であった。母親は何も言わずその通信簿を棚にしまった。

私は高校を卒業するまで、自分の通信簿について親から何か言われたことは一度もなかった。親は私の学校での成績には関心がないものと私は思っていた。

定期試験の直前には「早く寝るように」と、親からよく諭された。しかし「もっと勉強するように」と言われたことはなかった。私と姉とは3歳違いであった。私が中学校に入った年に姉は高校生になった。私と姉の定期試験の時期はほぼ重なった。私たちふたりは定期試験の直前になるといっしょに勉強したが、二人ともいつも一夜漬けであった。勉強用の机は買ってもらっていた。しかし私たちが机に向かって勉強することはなかった。電気炬燵が私たちの勉強机であった。母親は時折、眠いだろうからと言って私たちにコーヒーを運んでくれたが、私たちが勉強している姿を見ても喜ぶことはなかった。私たちの勉強が終わりそうもないのを確かめると、逆に落胆したかのような表情を見せながら「早く寝なさいよ」と一言だけ言って立ち去り、先に寝た。

父親が私の通信簿を見ていた記憶は私にはない。私が社会人になってから、私の高校までの成績について知っていたのかと父親に尋ねたことがある。父親は「知っちょったよ(知っていたよ)」と答えた。ただ、それだけであった。私の通信簿を見た際にどのような感想を抱いたかについて語ることはなかった。

のんびりした時代であった。少なくとも親が自分の子の成績に一喜一憂する時代ではなかった。

ただ、私の両親と同じ世代の人たちはこう言うかもしれない。「自分が生きていくのに精一杯だっただけなんだよ。」

確かに貧しい時代であった。しかし将来への希望に満ちた時代でもあった。私自身もクラスメートも、そして誰もが、自分の将来にはきっといいことが待ち受けていると無意識に思っていた時代であった。

2009年10月23日金曜日

父 その3

幼い頃、私が父親に遊んでもらったことがなかったことはこのブログのなかで既に書いた。しかし、当時、そのことに私が強い不満を抱いていたわけではない。私は、父親と遊ぶことを想像したことすらなかった。私の父親は私に無関心であるが、世の父親も皆、自分の子にはさほど興味を抱かないものだろうと思っていた。

こんな私であったが、私と同年代の子供たちが父親と楽しそうに遊んでいるのを見て羨ましいと感じたことがないわけではなかった。

実家の隣に1歳年下の男の子が住んでいた。私が中学生になるまで彼とはよく一緒に遊んだ。

彼の家の庭には卓球台があった。手作りの卓球台であった。薄い黄緑色のペンキで塗られていた。10枚ほどの板を組み合わせて作られており、板と板との間には隙間があった。その隙間にピンポン球が落ちるとイレギュラーバウンドした。誰が作った卓球台であるのかを聞いたことはなかったが、私はその男の子の父親が作ったのだろうと思った。

その男の子と私とはその卓球台でよく卓球をした。彼と私が卓球をしているときに彼の父親が帰宅すると、彼の父親はいつも彼の父親は私たちのそばに近寄ってきて私からラケットを取り上げ、自分の息子と卓球を始めた。その間、私は卓球台のそばに佇んで二人が楽しそうに卓球するのを眺めた。

二人の卓球は長く続いた。いつまでも終わることがなかった。二人は私がそばにいるのをすっかり忘れているかのように卓球に興じた。実に楽しそうであった。彼らが私の方を振り返ることも私に話しかけることもなかった。私はただ黙って二人が仲良く笑いながら卓球を楽しむ姿を眺めた。私には無限に続く時間のように思えた。

息子との卓球を満喫すると、彼の父親は私には一言も話しかけず、無造作にラケットを卓球台の上に置いて立ち去っていった。

彼の父親は息子を心からかわいがっているように思えた。自分の父親に遊んでもらった記憶のない当時の私は少し羨ましく思った。と同時に、私は彼の父親に敵意のような感情も抱いた。彼の父親は自分の息子と私とが卓球をしている姿を見つけると必ず割り込んできた。子供同士が楽しく卓球をしているときには子供だけで遊ばせてくれてもいいのではないのではないかと私は思った。

こんなこともあった。当時、私の家にはテレビがなかった。毎週、日曜日の午後6時からは、彼の家の茶の間に置いてあるテレビの前に座って私たちは「風のフジ丸」というアニメを観た。しかし、私たちがその番組を観ているときに彼の父親が帰宅すると、毎回、彼の父親は無言でテレビの電源を切って立ち去った。父親が立ち去った後、父親に切られたテレビの電源を彼がもう一度入れることはなかった。彼と私との間には数分間の沈黙が訪れた。

彼の父親は生前、正面から私の目を見たことすら一度もなかった。当然、私に話しかけることもなかった。小学校を卒業すると、私は地元の中学ではなく高知市内にある私立中学校に進学した。それと同時に私が彼と遊ぶことはなくなった。彼の父親と顔を合わせることもなくなった。

彼の父親は20年ほど前、交通事故で急死した。私の父親からその訃報がもたらされたとき、私は右手をじっと胸に当てて目を閉じた。なぜ無意識にそのような動作をしたのか自分でもわからなかった。

2009年10月17日土曜日

「やしべる」

生まれ育った高知を離れ上京してから35年経った。もちろんこの35年間、ずっと東京に住んでいたわけではない。東京に住んだのは通算27年である。それでも生まれ故郷である高知よりもずっと長く東京に住んだことになる。同僚は、私には訛りがないと言う。

しかし、今でも、東京の言葉で何かを表現しようとするともどかしく感じることが少なくない。土佐弁だと一言で微妙なニュアンスを伝えることができるのに東京の言葉ではいくら言葉を尽くしてもそのニュアンスを伝えることができないことがあるのだ。

「やしべる」という言葉は土佐弁であるが、この言葉のニュアンスを一言で伝えられる言葉は東京にはない。敢えて意訳すれば「弱いものいじめをする」ということになるであろうか。だが、「弱いものいじめする」という表現はあまりにも都会的であり、「やしべる」という言葉の持つ暗くてじめじめした雰囲気が伝わってこない。

「やしべる」に限らない。「およけない」、「やくがかかる」、「きしょくがわるい」、「ほたえる」、「しらった」、「くじをくる」、「ころがたつ」、「こみこんで」、「のうがわるい」、「しでる」、「たつくる」、「さがしい」、「たくのうで」などといった言葉の持つニュアンスも東京の言葉では言い表せない。

それだけではない。ひとつひとつの土佐の方言には私の思い出が染み付いている。たとえば、「およけない」という言葉をつぶやくと、いつも生前の祖母の顔が浮かぶ。祖母が「およけない」という言葉を使ったときの光景が目の前に浮かんでくるのだ。「ほたえる」という言葉は私の父を思い出させる。

「やしべる」という言葉はそれ自体、悪い意味しか持たない。しかし、「やしべる」という言葉を思い浮かべるたびに、私はこの言葉が本来持っている意味以上に不愉快な思いに取り憑かれる。幼い頃に「やしべられた」辛い思い出が今でもまざまざと蘇ってくるのだ。

「他人をやしべたらいかん。絶対、やしべられんでえ。」

私は父親から耳にタコができるほどこう言い聞かせられながら育てられた。

2009年10月14日水曜日

飛鳥山公園

昨夜、自宅で夕食をすませたあと、私は散歩に出かけた。いつもは巣鴨駅の方に向かって歩く。途中の公園で鉄棒にぶらさがって身体を伸ばしたり柔軟体操をしたり、巣鴨駅前の書店に立ち寄ったりしながら、閑静な住宅街をぶらぶらと散策するのだ。

ただ、昨夜は、自宅を出た直後に気分が変わり、巣鴨駅と反対方向に歩いてみた。当てはなかった。足が向くのに任せて歩いた。ふと気がつくと、飛鳥山公園の前の歩道を歩いていた。飛鳥山公園を見ると私はいつも浪人時代のことを思い出す。

私は浪人生活をしている時期、毎朝、この飛鳥山公園を横切って予備校に通った。当時、私は都内で唯一の路面電車である都営荒川線の滝野川一丁目駅の線路脇に住んでいた。私が住んでいた下宿は3畳一間。家賃は1月7千円であった。洗面所は共同。風呂もなかった。近くの銭湯に通った。ここには同世代の学生が5人住んでいた。大学生が3人。いずれも近くの東京外国語大学の学生であった。残りが私を含めて浪人生が2人。もう一人の浪人生も私と同じく、お茶の水にある駿河台予備校に通っていた。

私の部屋にあるのは、小さな冷蔵庫と机、そしてビニールファスナーと古ぼけたテープレコーダ。これらが全てであった。小さな押し入れは布団を入れるだけでいっぱいになった。そして、夜、寝る前に布団を敷くと、全く畳が見えなくなった。この狭い3畳の部屋が私が一人で占有することができる唯一の空間であった。

都会生活に慣れない私は、電車でお茶の水の予備校まで通うだけでへとへとになった。予備校の教室は学生ですし詰めであった。机は長机と長椅子。3~4人がその私が使用できる幅は50センチほどしかなかった。この狭さも疲労を増悪させる原因であった。予備校の授業は午前中だけで終了する曜日もあったが、そのような半日授業の日であっても、帰宅後、しばらく横たわって身体を休めなければその日の授業内容の復習をすることができなかった。救いは、授業がとても楽しいことであった。学問の楽しさを教えられた授業であった。浪人生は誰もが挫折感に苛まれていたが、予備校の講師は誰もが私たちの能力を高く評価してくれた。事実、私の通う予備校からは、日本中のどの有名高等学校よりも多い東大そして医学部への合格者を出した。

この下宿の大家さんは金坂さんといった。当時、既に70歳を過ぎているように見えたが、頭脳はすこぶる明晰であった。定年を迎えるまで、ある新聞社の記者をしていたということであった。金坂さんはご夫婦で1階に住んでいた。風通しが悪く薄暗い部屋であった。二人はいつも電気炬燵のなかに入ってテレビを観ていた。奥様は眼が不自由なように見えたが、そのことについて金坂さんから話を聞いたことはなかった。

私が大学に合格してその下宿を引き上げる日、田舎から私の両親が出かけてきた。母親はわずかばかりの私の荷物をまとめるのを手伝ってくれた。私の荷物をまとめながら、母親は私の部屋の狭さに驚いた。しかし父はずっと1階の大家さんと話し込んだまま、私の部屋にあがってくることはなかった。荷物をまとめ終わって私が1階に降りていくと、父親は上機嫌であった。そして炬燵から立ち上がって大きな声で私にこう言った。「えい大家さんのところに住んじょったねえ。」父親は、金坂さんの高い見識に触れて感動したようであった。

私は横浜で大学生活の第一歩を踏み出した。そして辛かった浪人生活を少しずつ忘れていった。

私が今住む家はこの下宿から徒歩で10分ほどの場所にある。浪人生活を送ったこの下宿のすぐそばに住むことになろうとは考えもしなかった。この下宿の建物は今も残っている。しかし建物の屋根と外枠だけである。この建物は材木置き場になっている。誰も住んではいない。

この下宿の前を通り過ぎて自宅に戻る途中、当時あった銭湯の煙はみえないだろうかと、私は、今は材木置き場となっている元の下宿の上空を見上げた。 煙はなかった。

2009年10月12日月曜日

小さな思い出

私は小学校入学前、2年間、保育園に通った。私が保育園に通っている時期、一人の男の子が同じ保育園に入ってきた。彼は、母、姉と3人で私の住む田舎に引っ越してきたのだ。両親が離婚したためと人づてに聞いた。彼の母も同じ保育園に勤務するようになった。彼女は、私たちの通う保育園で私たちの給食をつくってくれた。

私たちは同じ、地元の公立小学校に進学した。私たちの学年の児童ははわずか45人。それでも2クラスに分かれた。彼と私とは同じクラスになった。

2年生のときであった。いや、1年生のときであったかもしれない。彼の母が交通事故に遭って亡くなった。私たちが通っていた保育園のすぐ近くの国道で自動車にひかれたのだ。彼はしばらく学校を休んだ。担任の先生から、彼が高知市内の小学校に転校することになったことを知らされた。

彼が転校していく日、彼は朝から学校に出てきた。教室では彼とのささやかなお別れの会が開かれた。その会が終わると彼はお昼前に帰宅していった。私たちは彼を学校の正門で見送った。ランドセルを背負った彼は、何度も私たちの方を振り返りながら笑顔を見せ、手を振った。私たちも競って手を振った。まだ子供であった私にも、彼の笑顔は痛々しく感じられた。彼は母と死別し、仲良くなったクラスメートとも別れていくのだ。彼は父親に引き取られることになっていた。しかし彼が一緒に暮らすことになる父との生活は、母との生活と比べれば、ずっと寂しいものになるであろう。なぜ彼は笑顔を見せられるのだろうと私は不思議に思った。

私が手を振りながらふっと左側を振り返ると、担任の先生がじっと彼の方を見つめながらハンカチを顔にあて、涙ぐんでいるのに気がついた。担任の先生はずっと無言であった。

彼を見送った後、私たちは教室に戻った。担任の先生はもう泣いてはいなかった。私たちは、その日の午後、いつもと変わらぬ授業を受け、帰宅した。その後、彼の思い出話が私たちの間で話題にのぼることはなかった。担任の先生も彼のことを口にすることはなかった。

彼とは2度か3度、手紙のやり取りをした。その後、彼との接触は途絶えた。

40数年前のことである。

2009年9月29日火曜日

きゅうり

私の息子は11歳になる。小学5年生である。息子の最大の長所は、気分転換が早いことだ。嫌なことがあってもすぐにけろっと忘れてしまう。

服装も全く気にしない。スイミングパンツがすり切れてお尻に穴があいても、母親に繕ってもらってまたはき続ける。新しいスイミングパンツを履くようにといっても、古いのがいいと言う。帽子もしかり。5年前からずっと同じ野球帽をかぶる。頭が大きくなったので、当然、帽子はきちんと頭にはまらない。それでも、その帽子がいいらしい。穴があいた靴もずっと履き続ける。

こんな息子でもたまには落ち込むことがあるようだ。息子は週に1回、水泳教室に通っている。その際に、先日、おやつとして生のきゅうりを2本持たされたらしい。皮も剥いていない買ってきたそのままのきゅうりである。当然、味付けもされていない。水泳教室が終わったあと、友達が甘いあんぱんをおいしそうにかじるそばで、息子は生のきゅうりを猿のようにかじっていたわけである。友達のお母さんは「まあ、健康にいいわね」と言ってくれたらしいが、息子はとても惨めと感じたらしい。

息子はその翌日、私の家内にぽつりとこう言ったという。「おやつにきゅうりは、もうやめてくれない?」

息子は生野菜も刺身も調味料を何もつけないで食べる。きゅうりは息子の好物であるが、やはり味付けをしないまま食べる。私は不思議でならないが、これはおそらく小さい頃からの食習慣の影響であろう。離乳食を始めたときから調味料を入れない食事ばかり食べさせていた。このような事情もあって私の家内はあまり深く考えずに、買ってきたままのきゅうりを息子の手提げに入れたのに違いない。

私がこの出来事を知ったのはそれからずっと後のことであった。夕食時に息子がいるそばで家内はくすくす笑いながらこの話を私に聞かせた。息子が恥ずかしそうにきゅうりをぽりぽりかじる姿を想像し、私は大笑いした。そして、息子に「惨めだったの?」と冷やかし半分にわざと尋ねた。息子は小声で「うん」と答えた。私はまた笑った。家内も、「きっと治豊はこのことを一生忘れないよ」と他人事のように言い、くすくす笑っていた。そして、さらに意地悪く、「治豊は生のきゅうりが好きなじゃないの?」と言った。息子は、もじもじしながら小声で「家で食べるのはいいけど」と答えるのがやっとであった。

激しい水泳の後に買ってきたままのきゅうり2本のおやつ。きゅうりにはほとんど当分も含まれていないし、激しいスポーツの後のおやつとしてはふさわしくない。何本きゅうりをかじっても空腹は満たされない。

ただ、この出来事の救いは、我が家の生活が苦しいがために息子にきゅうりしか持たせられなかったわけではないということである。少なくとも親である私たちにとっては単なる笑い話の域を出ない。食べ物のことで引け目を感じる経験も息子にとって無駄ではなかったのではないかと思っている。

この種の惨めな思いを私自身は高校を卒業するまで幾度となく感じた。小学校時代、母が私に持たせた弁当のおかずは毎日、10円の「鯛デンプ」だけであった。クラスメートのお弁当のおかずを見て、いつもうらやましく思うとともに恥ずかしく感じた。クラスメートのお弁当には、私が見たことも食べたこともない珍しいおかずがたくさん詰め込まれていた。もやしを見たのも初めてのことであった。私はクラスメートに「それはきんぴら?」と尋ねた。そのクラスメートからは「もやし」という答えが返ってきた。私には、その「もやし」というものの味すら想像することができなかった。そのクラスメートのお弁当の内容は毎日異なっていた。

自宅でも食事情はほぼ同じであった。タケノコの季節には毎日、タケノコだけを煮た鍋が出てきた。1日3色ともおかずはタケノコの煮物ということも珍しくなかった。ワラビがとれる時期には毎日ワラビだけが食卓に並べられた。夏になるとサツマイモの茎ばかり食べさせられた。私は食事中、よくべそをかいた。しかし他におかずがあろうはずもない。空腹に耐えかねて私は泣きながらそれらを口にかけこんだ。そんな私を慰めることもせず、私の母は黙々と毎日同じおかずを食べ続けた。祖父母も父親も同じおかずに文句を言わなかった。

貧困は恥ではない。恥ずかしいことではない。しかし、まだ幼い子供であった私には、貧困はつらいだけでなく恥ずかしいことであると感じられた。

2009年9月24日木曜日

映画

私は20年以上前から映画館に足を運んだことがない。映画館には行かないと決めているわけではない。ただ、よほどの差し迫った理由がなければ今後も私が映画館で映画を観ることはないように感じる。

今朝、出勤途中、このことについて、何故なのだろうと、いろいろ考えてみた。

私の頭にまず浮かんだのは、私が生まれ育った田舎にあった小さな映画館であった。その映画館は私の実家から2キロほど離れた場所にあった。映画館というよりもむしろ掘建て小屋と表現した方が適切と思えるような今にも倒壊しそうな木造の古い建物であった。その映画館では時々いろいろな映画が上映されていた。

私もその映画館で何度か映画を観る機会があった。すべて、当時はやっていた怪獣映画であった。ゴジラだとかモスラだとか、私の年代の男性にとってはとても懐かしい怪獣映画ばかりであった。大魔神の映画もその映画館で観たことがあったが、大魔神の映画を思い出すと、いまでも背筋が寒くなるような恐怖感に襲われる。

それらの映画を私が観ることができたのは、当時、その映画館の主が営業していた米屋に勤めていた私の実家の隣のおじさんが私に無料チケットをくれたためであった。親からもらった小遣いでその映画館を訪れたことは一度もなかった。

当時、私の家は貧しかった。我が家は貧しいのだと親からも言い聞かされた。私が生まれたのは昭和30年代初頭。まだ第二次世界大戦から10年あまりしか経っていなかった。いま振り返れば、当時は日本全体が貧しかった時期ではなかったかと思う。しかし当時の私は、貧しいのは我が家だけであると無意識のうちに思い込んでいた。こんな私にとって、自分の小遣いで映画館に行くなどということは夢の夢であった。

その映画館に入ると、壁の隙間から日光が差し込んできた。その光を見ると、映画館にはもうもうとほこりが立ちこめているのがわかった。それだけで私は息苦しくなるような気がした。

映画の上映はたびたび中断された。フィルムがところどころで切れていたのだ。上映が中断されると同時にガシャガシャという音が聞こえてきた。2〜3回の中断はいつものことであった。

映画館から出てくると外はまだ明るい。そのまぶしさに耐えかねて私はしばらくじっと眼を閉じてうずくまった。そのとき、いつも私は車酔いのような吐き気と頭痛を覚えた。動く画面を長時間観ていたために起きた動揺病であったのだろうと思う。

チケットをくれた実家の隣のおじさんにはとても感謝した。次はいつまたチケットをくれるだろうかと私はいつも心待ちにしていた。しかしその一方で、映画館とは不潔で空気の汚い場所であるという先入観が私のなかにできていった。映画館を出た後の気分の悪さも手伝って、私は映画館という場所に対する親しみを徐々に失っていった。映画館は当時の我が家の貧しさを私の心の中で引き立たせるひとつの象徴でもあった。

いまの映画館の中がどのようになっているのか私にはわからない。おそらく、とても換気がよく、かつ清潔であろう。しかし、当時の貧しい生活から這い上がってきた今でも映画館に足を運ぼうという気にはならない。映画館の外にでた後の頭痛と吐き気はいまも生々しい記憶である。加えて、今の私はテレビや映画のドラマに全く関心がない。

2009年4月7日火曜日

失いしもの

桜が満開である。今朝、通りすがりに見た日比谷公園の染井吉野も見事な花を咲かせていた。思わずカメラを取り出しシャッターを切った。

写真を撮りおわってカメラをしまおうとしたとき、私の頭に妙な歌が思い浮かんだ。「同期の桜」である。「きさまと俺とは同期の桜」で始まる戦中の歌である。

私は戦後生まれであるが、私が子供の頃にはよくこの曲が流れていた。最近、この歌を耳にすることはない。放送禁止歌にでもなっているのであろうか。

私はこの曲を小声で口ずさんだ。そして、その歌詞をゆっくり頭の中で辿りながら、戦争で死んでいった多くの若者の思いを想像した。終戦の1か月前にフィリピンのレイテ島で戦死した伯父のことも脳裏に浮かんだ。伯父は、生まれて数か月にしかならない一人息子を残して戦地に飛び立った。その息子は私の従兄になる。その従兄も既に亡い。10年ほど前、膀胱癌で亡くなった。私はその従兄から、生前、小児期の寂しかった思い出を聞かされたことがあった。その従兄には4人の娘があった。娘全員を連れてその従兄が私の実家を訪れたとき、しみじみと私に語った言葉は今も忘れることができない。「貧乏じゃきに娘にはなんちゃあしちゃれん。けんど、親の愛情は伝えることができるけんのう。」

そんなことを思い浮かべているとき、私の頭に、ふと、コタキナバルの光景が浮かんだ。私は、ドキッとした。

コタキナバルはマレーシアの小さな町である。スマトラ島の北端に近いところに位置している。私は、家族とともに、この島を昨年の春と今年の春、2年続けて訪れた。

いうまでもなくマレーシアはイスラム教社会である。「イスラム教」という言葉を耳にして、私たち日本人が思い浮かべるのは、まず、テロ、そして男尊女卑の世界、といったイメージであろう。

今の日本は、キリスト教社会の価値観が社会を席巻している。一神教はイスラム教であれキリスト教であれ、非常に厳しい宗教である。世界では今もキリスト教とイスラム教との争いが絶えない。イラクでの戦闘も、アフガニスタンでの戦闘もキリスト教とイスラム教との間の宗教戦争である。日本人では古くから仏教という多神教が心の基盤となってきた。多神教を奉じてきた日本人には宗教戦争という観念はない。そして、日本は無批判にキリスト教国に荷担する。

しかし果たして、ほんとうにイスラム教社会は悪なのであろうか、男尊女卑だけの遅れた社会なのであろうか。ヘジャブは女性蔑視の象徴なのであろうか。大胆に肌を露出し路を闊歩する日本の若い女性。しかし肌をさらす自由と引き替えに日本の女性は自らの神秘性を放棄した。

コタキナバルで出会った多くの現地の人々の屈託のない笑顔を思い浮かべるたびに、私は、日本人は戦後、生きていく上で最も大切なものを失ってしまったのではないかと思わざるを得なくなる。それは、「信じること」と「信じられること」である。何が正義であり、何が善であり、何が価値のあることなのか、美とは何か、そういったことに関する心の拠り所を日本人は見失ってしまった。社会が共有する美意識や価値観は、日本にはもうない。

日本社会はどこに行っても「個性、個性」のオンパレードである。しかし、電車の中で化粧をするのは個性ではないであろう。成人式の最中に騒ぎ立てるのも個性ではないであろう。イスラム教の世界では祈りの儀式の最中に騒ぎ立てる者はいない。祈りは侵すべからぬ神聖なものである。そこには価値観の共有がある。今の日本社会には、もはや「神聖なもの」など存在しない。日本人が古くから培ってきた、世界に誇るべき、かけがえのない美意識も失われた。

信じるものを見失った日本社会。日本人の心は路頭に迷っている。誰もが慢性的な不幸感にさいなまれている。現在の日本は「総不幸社会」である。

2009年3月23日月曜日

父 その2

私はこのブログをマレーシアのコタキナバルに向かう飛行機の中で書いている。今朝、成田空港では、着陸時に貨物機が火災を起こし炎上した。その影響で欠航が相次いだが、運良く私たちの瓶はほぼ定刻に成田空港を発つことができた。

飛行機に搭乗する直前、私は父親に電話をかけた。父は成田空港での飛行機の炎上を既に知っており心配していたので、私の声を聞いてほっとしたようであった。

つい数年前まで、私は父親とも母親とも話すことはめったになかった。数か月以上、一度も話さないことも珍しくなかった。私にとって両親は関心の対象ではなかったのだ。両親はいつまでも若く健在であると無意識に思い込んでいたのだ。

しかし父はつい数日前に77歳になった。母親は74歳。両親に残された時間は、もうそれほど長くはない。

私が幼い頃、私は父親に遊んでもらったことがない。おそらくこれは私の記憶違いではないであろう。父親自身も私の幼少時の記憶は全くないと言っているからである。家族揃って食事をする際にも父親が私や私の姉に話しかけることはなかった。父親はいつも祖父母や母と仕事の話をしていた。一家が食卓を囲むこともほとんどなかった。両親とも土間に立ったまま漬け物だけをおかずとして茶漬けをかけこんだ。そしてあっという間にまた家から出て行った。当時の私にとって、父親は、いつも何かに苛立っており気むずかしく恐ろしい存在でしかなかった。父親が帰ってくるバイクの音に私は怯えた。

それでも、私が中学生になると、父親は山や海に何度か私を連れて行ってくれた。山に行く目的はメジロを捕まえることであった。当時家で飼っていたメジロを小さな鳥籠に入れて持って行く。そのメジロの鳴き声でほかのメジロを呼び寄せるのだ。鳥籠のそばに鳥モチを巻いた止まり木を用意しておく。鳥籠に近寄ってきたメジロがその止まり木にとまると足が鳥モチにくっつく。そうやってメジロを捕まえるのである。木陰に隠れて声を潜めながらじっとメジロが捕まるまで待つのだ。私にとっては単なる苦痛でしかなかった。

このようなことをして野鳥を捕まえることは、今は違法であるかもしれない。しかし当時、私の生まれた田舎では最も任期のある娯楽のひとつであった。

父はまた気分転換のためにひとりでもよく海釣りに出かけた。車のトランクの中には常に釣り竿が入れられていた。私も何度か父親と一緒に海釣りにでかけた。

ただ、残念なことに、私はどうしても魚釣りが好きになれなかった。いや、むしろ魚釣りは嫌いであった。船酔いのせいである。船に乗らず海岸で釣り座をを垂れているだけでも海の波のために気分がわるくなる。今でも当時のことを思い出すと頭痛がする。私は映画館に足を運んだことが20年以上ない。スクリーンを見ているだけも気分が悪くなるからである。

最近、私は、両親が辿ってきた人生をよく振り返る。仕事に全身全霊を傾けていた若かりし頃の父親はそれなりに満足感を得ていたのであろう。しかし、母親が病み、父親が母親の介護をしなくてはならなくなった数年前からの人生は、父親にとって最も心豊かに過ごせた時期ではなかろうかと私自身は思っている。老いること、病むこと、そして身近になった死。父親がこれらのことを考えない日はないであろう。そんな中で、父親は残り少なくなった母との人生を精一杯前向きに生きようとしているように見える。また、迫り来る自らの死をすら素直に受け入れている。

昨年、父親の膵臓に腫瘍が見つかった。また肺にも2か所に異常陰影が見つかった。検査を受けたが良性なのか悪性なのかすらまだわからない。父親は平然としている。むしろ動揺しているのは母親の方である。父親の介護なしには生活ができない母親にとっては当然のことであろうが。

父親は最近、信じられないほど気が長くなった。これは母親の言葉である。母親は歩行器なしでは歩けない。昨年8月に頸椎骨折を起こした歳にはほぼ完全な四肢麻痺に陥っていたのであるから、これでも見違えるほどに元気になったのであるが。のろのろと歩行器で歩く母親に細かな指示を与えながら父親はゆっくりと母親に付き添って歩く。自分の身体が思うように動かないことを母親は悔しがる。もどかしくて仕方がないという。しかしやっと歩いている自分に付き添う父親の姿といつも苛立っていた昔の父親の姿とを重ね合わせながら、わずかといえども母親が幸福感を味わっているのも事実であろう。夫婦の間の心のアヤに息子の私は立ち入れない。


Gmail

私は長い間、メールサーバを自宅に設置し、そのサーバを自分で管理してきた。独自ドメインを利用したかったからだ。メールボックスの容量にも余裕がほしかった。

しかし最近、メールサーバをGoogleが提供しているものに移管した。もちろん、これまで利用してきた独自ドメインもこれまでどおり利用可能である。それに7GB以上の容量が無料で得られる。私が自宅のサーバで利用していた機能はほとんど全て提供されている。

メールサーバは片時も稼働を停めることができない。一年中電源を入れておかねばならない。サーバにかかる負担は大きい。ログを見ると、外部からのたゆみないアタックにさらされているのがわかる。いつサーバがクラッシュするのかといつも気が気ではなかった。

Googleのサービスを利用すれば、ひとつのドメインに対して50までのアカウントを無料で作成することができる。POP3だけでなくIMAP4にも対応している。当然、SSLを利用した通信も可能である。ほかのメールサーバからメールを読み込むことも可能である。1メールの最大容量は20MB。これも十分であろう。これ以上大きなファイルを送りたければほかの方法はいくらでもある。ボイスチャットやビデオチャットも可能である。

唯一残念なのは、ブラウザを利用した場合には、一種類の署名しか使えないこと。

このブログでは、これから時々、Gmailの利用方法について書いてみようかと思う。

2009年3月17日火曜日

土佐の森・救援隊


中学高校時代の3年後輩が吉祥寺に住んでいる。彼とは寮で1年間同室であった。彼は「土佐の一本釣り」で有名な高知県中土佐町久礼の出身。しかし漁師の持つ荒々しさは彼にはなかった。いつも控えめで笑みをたたえていた。彼が怒った顔を私は見たことがない。

彼と私とは私が高校を卒業してからは疎遠になった。時折、彼のことを思い出すことはあったが彼の所在も知ることはなかった。そんな彼から10年あまり前に思いもかけず連絡をもらった。ある雑誌で私の顔を見たのでびっくりして連絡を寄こしたということであった。私たちは渋谷のレストランで20年ぶりに顔を合わせた。

彼は多少髪が薄くなっていたが、そのほかは高校時代と変わりがなかった。彼は昔と同じように私の前に座るとどぎまぎしながらぽつりぽつりと近況を話した。

彼はまだ独身であった。社員は社長と彼だけというごくごく小さな業界紙の出版社に勤めているということであった。ただ私は彼の踏み込んだプライバシーについてはほとんど何も尋ねなかった。彼も積極的に自分の生活をしゃべろうとはしなかった。

彼と2度目に会ったのは新宿西口のインドネシア料理の店。私の他の知人も同席していた。そこでの話はほとんど何も憶えていない。

彼の趣味は連句。この世界では「市川千年」と名乗っているらしい。名刺ももらった。

私には連句というものがどのようなものであるかすらわからない。しかし彼から送られてくる歌にはいつもユーモアに溢れていた。「楽しそうだね」と私が話すと、連句の集まりを見学に来てくれと私に言う。1か月に1回、西荻窪に仲間が集まるそうだ。

文章には書く人の全てが表れる。このユーモアこそ彼の持ち味である。彼は決して経済的に裕福な生活をしているわけではないように感じる。しかしその貧しい生活を心から楽しんでいた。

そんな彼がつい数日前、私の自宅にやってきた。私の高校時代の友人が3月一杯で四国の丸亀に転勤になる。そのお別れの食事会に彼も誘ったのだ。

彼は今年3月いっぱいで出版社を辞め、あるボランティア活動に従事すると話した。彼が退職するということは昨年12月に電話で聞いて知っていた。しかし詳しい話は聞いていなかった。彼が私の家にやってきた日の午後、ボランティアの仲間を集めるための面接があったということであった。

この日は彼のこの活動で話が盛り上がった。

彼はこの活動からほとんど何の報酬も得られないことをつい最近まで知らなかったという。今月いっぱいで退職した後は6か月間、失業手当で暮らすという。彼らしい。

まさに「三つ子の魂百までも」。彼はいまも愛すべき好青年である。

2009年2月25日水曜日

少子化

日本の国民の最大の関心事は失業問題、年金、医療であろう。失業は国際的な不況が最大の原因である。しかし外需依存の日本の産業構造が先進国で最悪のGDPの低下を招いた誘因となっていることも事実であろう。

内需が伸びない理由は何であろうか。私は経済については全くの素人であるが、最も大きな原因は少子化だと思っている。年金問題も医療問題も少子化によってもたらされたものだと私は考えている。就労、年金、医療などといった国民の基本的生存権に関わる問題の根本的解決法は子供を増やすこと以外にない。

私には一人息子がいる。いま10歳。これまでは親である私が期待するとおりの成長をしてくれた。このことには大きな喜びを感じる。しかし、子はこの息子一人。子に対しても社会に対しても罪悪感を抱いている。だから息子には早く結婚し沢山の子をもうけてもらいたいと願う。子沢山は幸福の代名詞である。

私は、独身の男女と話す機会があれば、いつも早く結婚すべきだと話す。幸い、彼らの中に生涯独身主義者はいない。「いい人」がいれば結婚しようと思っている。

いい人・・・。この言葉を聞くといつも私は考え込んでしまう。私がいい人と思っても彼らもいい人と感じる保証はない。先ず彼らが直接相手と会ってみる以外には確かめる手立てはないではないか。

彼らは相手の家系、出身校、勤め先、背の高さなどを指定する。それらが自分の希望に添わないときには会おうともしない。私は悲しくなる。その本人に会ってみなければわからないことがたくさんあるではないか。なぜ最初から全ての可能性を否定するのか。

作家の曾野綾子氏は次のように語る(「夫婦、この不思議な関係」 WAC BUNKO)。

「・・・つまり、これは、人間というものが説明しきれないような複雑な理由で惹かれ合うことがあるという可能性に対する最初からの拒絶である。いかに毎日1時間ずつトイレの掃除をしなければなかろうと、私がもっと相手に惚れていたら、それも致し方ないと思っただろう。外国に住むのはいやだと思っていても、「この人に引っぱられていやいや30年、ついに地球の反対側に住んでしまいました」などという科白を、人間はにこにこしながら言える場合もある。

夫婦というものは、当然、出会いから始まるのだが、その場合、条件を優先させる人を見ると、私はどうも不思議な気がしてならない。・・・・こういう人は、どうも自己本位で、それだけ自分に目をかけているわりには自分が見えていないのではないだろうか、という気がする。」

同感である。

数年前、ある女性に、高知に住む男性を紹介しようとした。彼女は話にならないという口調でその男性に会うのを断った。彼女はこう言った。「だって、高知には台風が来るじゃないですか。」

その1年後、彼女より15歳年上の男性を紹介したときには、「想像すらできない」と言われた。その男性に関する説明すら聞いてもらえなかった。

彼女はいまも独身である。そして生涯独身率を上げる一人となった。
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2009年2月24日火曜日

辿りきて

昨日の午前中、名古屋に住む友人から電話がかかってきた。東京に出てきたので会わないかという誘いであった。彼からは上京する旨のメールを1週間ほど前にもらっていたが、雑事に追われて返事を書かないままになっていた。

彼とは昨年暮れにも高知で顔を合わせたばかりだった。高校時代の友人との同窓会の席であった。

東京で彼と会うのはいつも神田の讃岐うどんの店。彼は香川大学出身だということもあって讃岐うどんが大好物だ。彼が帰りの新幹線に乗るまでの2時間ほどこの店で讃岐うどんを食べながら語り合った。

彼がいつも話すのは自分の親のこと。彼の母は数年前に交通事故で亡くなった。即死であった。彼の父親が運転する車が交通事故を起こしたのだ。当時の出来事は既にこのブログに書いた。

彼は一人暮らしとなった父の世話をするため1か月に2回ほど高知に帰る。しかし高知空港に降り立ったときの寂しさは今もこたえるという。事故の前はいつも、彼が飛行機で帰省するときには、彼のお父さんが出迎えにきてくれた。そして「もんたかよ」と言って喜んでくれたという。「もんたかよ」というのは土佐弁である。「帰った?」という意味であるが、この言葉には独特のぬくもりがある。このぬくもりは高知で育った人にしかわからない。

こんな彼も別の友人には羨ましがられるという。親が1人生きているだけでもいいではないかと。

親が死ぬというのは心の拠り所を失うことだと彼は言う。「この世の中で無条件に自分を支持し支えてくれるのは親しかいない。たった2人だけだ。」彼は言葉を噛みしめるように私にそう言った。私の両親はまだ健在である。しかし遠からず私も彼らと同じ寂しさを味わうことになろう。

10年前までは親のことが私たちの間で話題に上ることはなかった。親は私たちの関心事ではなかったのだ。親が元気でいることは私たちにとって当たり前のことであった。

彼と私が出会ってから40年経つ。中学校1年生のときであった。何回かクラス替えはあったが、私たちは6年間一緒に過ごした。最も多感な思春期を共にした。この6年間が私たちの友情を育て、その後の私たちの人生を決定づけたと彼は言う。そして中学高校一貫教育を受けたことを人生のなかで最も幸運なことであったと言う。

私たちが6年間通ったのは高知市内にある私立の学校であった。高知県内では進学校と考えられているが、全国的には全く無名である。

しかしこの学校は今も私たちのアイデンティティそのものである。誇りの源である。

私たちは夜9時過ぎに店を出た。そしてJR神田駅の改札口で別れた。

別れた後、新幹線のなかからメールが届いた。

「今日はすみません。ありがとうございました。今、新幹線に乗りました。勝手に呼び出して勘定まで払わせる、こんなこと、出来る人は少ないですよね。そんなことが嬉しく思います。その意味では学芸のおかげかも。また、宜しく。ありがとうございました。」

「学芸」とは、私が卒業した高知学芸中学・高等学校のことである。

2009年2月23日月曜日

鞄の中身

一日の仕事が一段落して自分の席に戻る。溜まっている残業を片付けようと思う。しかしどっと疲れが出る。帰宅に帰って続きの仕事をしようと思う。重い書類を抱えて帰宅する。通勤時間は片道45分。電車のなかでもほとんど立ちっぱなしである。帰宅すると同時にもっと強い疲労感が襲ってくる。家族もいる。そして翌朝。何も手がつかなかった書類をまた職場に持ち帰る。残るのは虚しさだけである。

こんな経験をしているのは私だけであろうか。そうかもしれない。私は人一倍ぐうたらである。ずぼらである。そして三日坊主である。

こんな悪循環の解決策はないものか。ひとつの解決方法は時差出勤。もうひとつは車での出勤。

しかし電車のなかで座るためには朝6時過ぎには家を出なければならない。これは家族の生活のリズムを狂わせる。車での出勤も精神的に疲れる。つい数日前にも通勤途中、スクールゾーンに進入して警察に捕まってしまった。その通りはこれまで7年間、幾度となく車で走ったところだ。それなのに時間によって車の進入が禁止になることを知らなかった。その日は、職場について駐車場に車を停める際にも電柱に車をぶつけてしまった。挙げ句の果てに、さあ帰宅しようと思って駐車場に来たまではよかったが、エンジンがかからない。バッテリーがあがってしまっていたのだ。泣きっ面に蜂である。家内のアドバイスもあり、当分、車の運転はしないことにした。

結局、通勤・移動の疲れを少なくするために私が始めたのは手荷物を軽くすること。そのために軽いノートパソコンを購入した。このことだけでも荷物が1キロ以上軽くなった。パソコンの電源は切らない。したがってパソコンを開けばいつでも作業を再開することができる。パソコンの付属品も必要最小限のものだけを鞄に入れておけば重さが苦になることもない。この他、鞄の中に入れるのは、携帯電話、メモ帳、ボールペン、そしてわずかの書類だけである。

確かに通勤の疲れは少なくなった。

2009年2月22日日曜日

エキナカ

「エキナカ」というのは「駅中」のことであろうか。ここ数年、東京ではJRの駅中には商店が建ち並び多くの人で賑わっている。私が毎日通勤に利用する駅でも再開発が進んでいる。

こんなエキナカの店のなかで私がよく利用するのは書店とパン屋である。「パン屋」と聞くと奇異に思われるかもしれないが、私の目的はパンを買って家に持ち帰ることではない。パン屋のなかのテーブルに座ってパンをかじりコーヒーを飲みながらくつろぐためである。一人でぼーっとする一時は私にとって至福の時間である。周りには大勢の人がいる。しかし誰一人として知る人はいない。一人きりでいるのと気分は同じである。

こんなとき、ときにノートパソコンを開き、キーボードを叩くこともある。メールを書いたり、ブログを書いたり、急ぎの原稿を書いたりと、することには事欠かない。真夏であっても店内は冷房が効いており涼しい。逆に冬は寒さがしのげる。それに静かだ。パン屋という性格上、流れるBGMは穏やかなものが多い。明るくて清潔感があるのもいい。煙草の煙も流れてこない。その代わり、長居するのは憚られる。また深夜まで営業している店は少ない。無線LANが使える店もない。

私は通勤途中にあるふたつのJRの駅のエキナカにあるパン屋を時々利用する。電車から降りてすぐに店に入れるので便利だ。それに駅前の雑踏を通り抜ける必要もないので疲れない。店内が混んできたら邪魔にならないように早めに店を出ることさえ心がければ、パソコンを開いて作業をすることがあっても許されるのではないかと私は勝手に考えている。

カラオケボックスやインターネットカフェを書斎代わりに利用することを勧める人もいるが、ずぼらな私は駅の構内を出るだけでも億劫である。エキナカのパン屋はこれからも私の憩いの場となろう。

デジタルカメラをメモ帳代わりに使う

私はずぼらである。そのうえ、物忘れが激しい。だからマメにメモをとるのかといえばそうではない。だから大切な事柄もすぐに忘れてしまう。思いついたアイデアも活かせない。たとえその場でメモをとってもそのメモをなくしてしまう。

こんな私がメモをとるために最近よく用いるのはデジタルカメラである。私はいつもデジタルカメラを持ち歩いている。メモ用紙に手書きで殴り書きした場合には、そのメモをデジタルカメラで撮影し、メモ用紙はその場で破り捨てる。だから小さなメモ用紙とボールペンも常に持ち歩く。メモは100円ショップで購入したものである。ボールペンは三色ボールペン。

どのようなメモ用紙を用いるべきかという点について書店に並ぶ本にはいろいろと書かれている。A4大のメモ用紙がいいとか、碁盤の目が入っているメモ用紙が入っているのがいいとか。私自身は左の手のひらに入る程度の大きさのものでいいのではないかと考えている。色も白で十分。白ならばどの色のオールペンで書いても鮮明に見える。デジタルカメラで撮影しても見やすい。ただし20~30枚程度はいつも持ち歩く必要があるだろう。メモ用紙を用途によって使い分けることはしない。ずぼらな私にはメモする事柄の内容によってメモ用紙をかえるといったことは到底できない。三日坊主になる種はできるかぎり取り除くことが私にとっては必須である。

字は大きく書く。急いでいるときでも必ず後で読めるように書かなければならない。要点だけをメモするが、そのメモに書かれた内容だけで理解できるように留意しながら記載する。

デジタルカメラで撮影した画像はiPhotoで取り込む。そしてiPhoto上で整理する。整理して不要となった写真は削除する。

iPhotoでは複数の写真を「イベント」にまとめることができる。また写真を内容によって「グループ」に分けることもできる。個々の写真にキーワードをつけることも可能である。

これならばずぼらな私でも物忘れを最小限に食い止めることができる。

ブログの作成には"MacJournal"が便利

私は2年あまりからブログを書くようになった。私がブログを書くようになったのは私には日記を書くという習慣がなかったからである。きょうから日記を書くぞと決めても長続きしたためしがない。私は何事につけても三日坊主である。ブログならば気が向いたときに書けばよい。そう思ったのだ。

ただし、私のブログは自分のために書いているのではない。また不特定多数の人のために書いているのでもない。10歳になる一人息子のためである。

私はまだ50歳代前半である。健康でもある。しかし何時何時死ぬかわからない。私が死ぬとき、息子に遺せる最も大きな遺産は父である私の思い出であろう。このブログを公開しておけば、いつか息子がこのブログを読むこともあろう。そんな思いから、私はこのブログを非公開とはしなかった。

ブログを書くにあたって、通常はブラウザを利用する。私もブラウザを用いて直接入力することが多い。しかし出先でブログを書こうと思い立つことがある。こんなときにはMacJounalというソフトを利用してブログを書く。このソフトを使用すれば複数のブログをまとめて管理することができる。ネットに繋げられたときにブログ用のサーバーにそのファイルをアップロードすればよい。原稿を校正しそれを再度アップロードすることによってブログを更新することもできる。MacJournalはMac OS X用のソフトウェアである。Windows用にはWinJounalというソフトウェアがある。ブログ用のソフトウェアにはいろいろのものがあろうが、私はこのほかにはiPhoneで使用できるものとしてiBloggerを利用しているだけである。ただしiBloggerでは画像のアップロードができない。

MacJournalの特長のひとつは、アップル社のMobileMeに加入していればMobileMeを利用したファイルの同期ができることである。したがって複数のコンピュータで同じファイルを共有できる。ただし、1ファイルあたり5MBを越す容量のファイルは同期できない。ファイルの中に画像を貼り付けるとすぐにファイルサイズが5MBを越してしまう。もっと大きなファイルの同期もできればいいのだが。

何か思いつくとノートパソコンを開く。電車の中で立ったままでパソコンを開くこともある。すぐに作業ができるように電源は常に入れたままである。私はMacBook Airを持ち歩いている。MacBook Airは軽いので用い歩いても苦にならない。昨年の暮れに型落ちしたものを40%引きで購入した。

このMacBook Airを購入する前、私はMacBookを持ち歩いていた。しかしMacBookは重い。出先で作業をしようと思ってMacBookを持っていっても、出先でどっと疲れが出てしまう。結局何もしないまま重いMacBookを持ち帰ることになる。長い間、こんなことの繰り返しであった。

MacBookの重さは1.3キロ。ディスプレイも文章を書くだけならば十分な広さがある。速さも十分。バッテリーも3時間以上もつので、長時間の移動をしない私には十分である。

最近はネットパソコンがよく売れるという。私もMacBook Airを購入する前にはネットパソコンの購入を真剣に考えていた。しかしバッテリーを挿入するとMacBook Airとほぼ同じ重さになる。しかもスペックはMacBook Airよりもはるかに低い。デザイン性にも劣る。

MacBook AirとMacJounalの組み合わせには満足している。

2009年2月16日月曜日

早寝と早起き

早起きは爽快である。この爽快さは何から来るのであろうか。出勤まで時間があることによる心の余裕もあろう。空気も新鮮である。それに静かである。家族も近所の人たちもまだ眠りの中だ。車の音も聞こえない。

ただ、ほんの少し眠い。テレビを観ようか。本を読もうか。それとも書き物をしようか。迷っているうちにどんどん時間が経つ。

テレビを観始める。すると出勤までずっとテレビに釘付けになってしまう。もし前の晩に読むべき本をテーブルの上に置いていたとしたらきっとまずその本を開くだろう。そうすれば出勤までに何ページかはその本を読み進めることができる。また翌朝書き物をしようとすれば、寝る前にコンピュータをテーブルの上に用意しておく。そしてどの書き物に手をつけるかをメモに書いておく。そうすれば起きてすぐに作業を始めることができる。怠け者である私には朝起きたらまず何をするかを前の晩に決めておくことが重要である。

書店には早朝の時間をいかに有効に使うかという点に関する書籍がたくさん並んでいる。私もその何冊かに目を通してみた。確かに早朝に作業をすると能率が上がる。したがって頭脳労働を朝するというのは合理的であると私も思う。ただ、早朝にするべき作業があまりに多いと朝を迎えても憂鬱である。過大なノルマを課さないことが私には大切なようだ。

朝早く起きれば当然、夜は早く眠くなる。最近は息子よりも早く寝床につくことが珍しくなくなった。

睡眠時間を削ることは効率化には役立たない。特に私は睡眠不足に弱い。睡眠不足だとぼーっとしたまま一日が過ぎてしまう。いくら焦っても頭も体も動かない。私はほんの一晩でも睡眠不足だとすぐに目にクマができる。昨年まではほとんど毎日目にクマがあった。非効率的な生活を送っていた証左である。

日没後、何をしようかと迷ったら、まず寝床に入ろう。そしてぐっすり眠ろう。爽やかな朝を迎えるために。今年に入ってそう決めた。おかげで最近は昼間眠くなることがほとんどなくなった。ぐうたらはぐうたららしく、まず寝るべし!

2009年1月14日水曜日

昨年12月の初めに私は高知で司法書士事務所を営む友人に電話をかけた。私の父親が所有する山林の管理を彼に頼みたかったからだ。二束三文の価値しかないだろうが東京に住む私には管理ができない、父にもしものことがあったときに備えて山林の境界を確認し管理を頼めないかと私は彼に話した。

彼から帰ってきた第一声は「それは、親父さんの思いじゃねえ」であった。彼が言いたかったのは、父親が私に遺す山林の金銭的な価値は低くてもその山林には私の父親の思いがこもっている。相続するのは金ではなく父親の心なのだということであった。

彼とはその3週間後の昨年12月30日に開いた高校時代の仲間との忘年会の席で顔を合わせた。その席で立ち入った話はできなかったが、忙しいのですぐには無理だが時間を見つけて父親の所有する山林を見にいってくれると彼は言ってくれた。今回の年末年始、私は父親と一緒にそれらの山林を巡ることになっていたが、私には山林の境界を憶える自信がなかったので、彼の言葉に安堵した。

12月31日から1月3日まで4日続けて私は父親といっしょに山にでかけた。しかし父親が所有する山林は高知県内のあちこちに散在しており、4日間では回りきれなかった。父親は76歳になる今でもチェーンソーを抱えて急な斜面を力強く登っていく。その後ろをのこぎりを下げた私がのこのことついていく。初日は息子も一緒であったが、都会に生まれ育った息子はそれきり私たちと一緒に行くとは言わなくなった。それでも1月3日には無理に息子を誘ってまた父親と3人で山林巡りをした。

父親は成長した杉や檜の木を見上げては感慨深そうにそれぞれの山林に関する思い出話をした。日が暮れて真っ暗になるまでまだ小さかった杉や檜の枝打ちをしたこと。あと1日出かけてくれば枝打ちが終わるという日に肺がんのために入院しなくてはならなくなり、枝打ちをしていない木が残ったことが残念だったという話。他人に無断で木を切られてしまって悔しかったことなど。父親の話が途切れることはなかった。

車での移動の間にも父親とはさまざまな会話を交わした。祖母の生前、なぜ父親と祖母とがあれほどまで激しくけんかをしたのかについても、その理由を初めて聞くことができた。

まだ幼かった私は、当時、祖母と父親とのけんかを見るたびに怖くて震えた。父親は私にとって単に怖い存在でしかなかった。時には父親を激しく憎むこともあった。

祖母が他界すると、今度は私の父と母との間の夫婦げんかが絶えなくなった。父親は一生家族とけんかし続けて死ぬのだろうかと私は真剣に思った。

鬼のようにしか見えなかった父親に対する印象が変化したのは、母親がリュウマチによる関節の変形のために歩行すらままならない体になってからであった。ごく最近まで、父親は自分で身の回りのことをすることはほとんどなかった。お茶を飲みたくれば「おい、茶っ」と言う。そう言えば母親は台所に足を運んでお茶を入れて持ってくる。「おい、水っ」といえばすぐに母親がコップに水を入れて父親に渡す。父親は天皇であった。

こんな父親が、母親が病気になると急に優しくなった。母親の下の世話までまめにするようになった。母親の入浴も父親がさせた。

母親が東京の病院で治療を受けることになってからは、母親を連れて20回近くも夜行バスで東京まででかけてきた。片道11時間の長旅であった。途中、2時間ごとに母親は夜行バスの中のトイレに立った。その度に父親が介助した。父親は「俺が元気なうちはお前の介護は俺がしてやる」と母親に話すという。数か月前、電話で父親はぼそっと、母親がかわいそうでならないと私に言ったことがある。

昨年8月、家で母親が転倒し、四肢麻痺になった。それでも短期間の入院すらさせてもらえなかった。ぐにゃぐにゃになった母を抱きかかえて風呂に入れることが76歳の父親一人にできようはずがない。

結局、頸椎骨折の疑いがあるということが判明し、やっと1か月後に入院させてもらうことができ、緊急手術の運びとなったが。呼吸停止のためにあやうく母親は命を落とすところであった。まさに田舎の医療は崩壊である。

3か月の闘病を終えて母親は昨年12月28日に退院し帰宅した。母親は自力で体を起こし、ベッドのそばに据えてあるポータブルトイレで何とか用を足せるまでに回復していた。しかし首には固いカラーが巻かれている。それに首を絞められて苦しくて仕方がないと言って母親は一日に何度もうめき声をあげた。母親は何事につけても実に辛抱強い女性であった。気が遠くなるほどに我慢強い。その母親がうめき声をあげるというのはかなりつらいのだろうと私は思った。しかし何もしてあげる術はない。

私は1月4日に東京に帰った。その翌々日、母親はまた入院することになっていた。父親の肺に異常が見つかったためだ。父親は1月13日に病院で再度診察を受けるという。もし父親が入院しなければならなくなったら母親の介護をする者が誰もいなくなる。

さきほど父親から電話が入った。昨年9月に撮影した胸部レントゲン所見とほぼ同じであるのでもうしばらく様子をみようと主治医から言われたとのことであった。家族一同、胸をなでおろした。私はもう一度、父親と一緒に山林を見て歩くことができることにも一人安堵した。暖かくなる前にもう一度帰省しよう。暖かくなれば山に蝮が出、山歩きは危険になる。

私に父親が残そうとしているものは遺産ではない。父親が生きてきた軌跡であり父親の思いなのだ。友人の言葉を改めて噛みしめている。

2009年1月10日土曜日

iBlogger

さきほど「iBlogger」というソフトウェアを購入した。これはiPhone用のソフトである。私はいまこのソフトを使って文章を綴っている。布団に横たわりながら。

ここ数日、体調がすぐれない。身体がだるく、少し節々が痛む。微熱も続いている。加えて、無性に眠い。年末年始の疲れが出たのだろうか。

きょうは夕方から出かける用事が入っていたが、自宅で身体を休めることにした。外は寒さが厳しい。

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