2020年12月4日金曜日

恩師

 
 
先日、亡き恩師の奥様から菓子折りが届いた。帝国ホテルの菓子折りであった。なぜその菓子折りが送られてきたのか合点がいかなかった。一昨日、その菓子折りに挟まれている封筒に家内が気づいた。その中には、上の手紙が入っていた。
 
恩師の名前は齊藤誠次。しかし本名で呼ばれることはほとんどなく、医局員も病院の職員もほぼ全員が「やんしゅう先生」と呼んでいた。本人も自分の名を尋ねられると「やんしゅうだよ」と答えていた。「やんしゅう」という名は「やんしゅうかもめ」から取られたのだと聞いた。若い頃、あちこちの病院を転々としていたことからそう呼ばれるようになったらしい。
 
この恩師にはずいぶんかわいがってもらった。夕方になると毎日のように職場の私の部屋に入ってきては飲みに行こうと私を誘った。恩師の行きつけの店は、当時、病院のそばにあった「キャンドルライト」というラウンジであった。そこは当時50歳前後と思われた上品な女性が経営していた。松村という女性であった。フルネームは知らない。彼女には当時、東京工業大学に通っていた一人の息子がいた。夫はいないようであった。離婚したのか死別したのかについては聞かなかった。
 
原宿にある「ウィークポイント」というラウンジにもよく連れていってもらった。そこには仕事を終えた「宝塚ジェンヌ」が毎回、夜遅く入ってきた。ただ、店内での彼女たちの立居振る舞いは決して上品ではなかった。私が今でも宝塚が嫌いなのは、この店のなかでの彼女たちの振る舞いに幻滅したためであろうと思う。
 
帝国ホテルもやんしゅう先生は大好きであった。当時、ホテルの中にあった「フォンテンブロー」というフレンチレストランに何度も連れていってもらった。このレストランでは、著名人の姿を何度か見かけた。私の記憶違いでなければ、当時、やんしゅう先生の奥様も帝国ホテル内で書道教室を開いていた。
 
「フォンテンブロー」は今はない。
 
やんしゅう先生の奥様が今回お送りくださった菓子折りが帝国ホテル内のお店のものだったのは、奥様にとっても私にとっても帝国ホテルが共通の思い出の場所であるからであるということを手紙の文面から知った。恩師が亡くなってから27年。恩師が亡くなったのは私がドイツに留学中のことであった。したがって恩師の葬儀には参列できなかった。しかし帰国後、奥様の実家のある群馬県太田市で執り行われた恩師の三回忌には参列した。恩師の遺骨は奥様と実家とで分骨したと聞かされた。
 
恩師が亡くなって30年近く経過した今も、恩師の奥様が私を記憶に留めてくれていることに感謝せざるをえない。しかも「強く、彩かな思い出とともに」。

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