2011年6月10日金曜日

無題

私が幼なかった頃、我が家では祖母と父親との言い争いが絕えたことがなかった。怒ると父親は祖母に対して暴力を振るった。そんなとき、祖父母は私の父親の暴カから逃れるため、我が家で「鳥小屋」と呼ばれていた小さな離れに逃げた。私も祖父母を追いかけ、その「鳥小屋」の中で祖父母の間に入り込んで寝た。なぜその離れを我が家で「鳥小屋」と呼んでいたのか私は知らない。私が生まれる前か物心つく前にその離れで鶏を飼っていたのであろう。家が吹きぬける、広さが四畳半ほどの粗末な小屋であった。

まだ幼なかった私には、なぜ祖母と父親との間にけんかが絕えないのかがわからなかった。その理由を私が知ったのはごく最近のことであった。

当時、我が家は貧乏のどん底にあった。中学校を卒業後ほどなく一家の柱となった父親はなんとか貧困生活から抜け出そうと必死であった。その方策をめぐっての意見の対立が2人のけんかの原因であった。

父親は五人兄弟(男3人、女2人)の末っ子。一番上の兄は戦死していた。上の姉は肺結核で死んでいた。私が生まれたとき、私の父親の兄弟としては兄1人と姉1人が残っているだけであった。その2番目の兄は何故か生家である我が家を継がず別に所帯を持っていた。つまり、父親は末っ子でありながら家を継いでいた。貧乏も一緒に引き継いだのだ。

父親は深夜まで休まず働いた。母親も一緒であった。両親がいつ寝、いつ起きているのか、私にはわからなかった。しかしその代償として、私が幼い頃、我が家には一家団欒の時は皆無であった。食事中も父親が私や私の姉に話しかけることはなかった。父親は食事中ですら気むずかしい顔をしながら仕事のことを延々と話し続けた。一家揃っての食事が楽しく感じられたことはなかった。幼かった頃の私は、父親が仕事先から帰宅する車の音にすらおびえた。

父親と祖母との争いが絕えないことに勘えかねた祖父が「正義(まさよし)のところへ出ていく!」と怒り出したことがあったということを、つい先日、母親から聞かされた。「正義」というのは父親の二番目の兄の名である。祖父はきわめて温厚であった。私は祖父が怒ったのを見たことがない。父親と祖母との言い争いは、私の記憶よりもはるかにひどかったのであろう。

祖父が家を出ていくと怒ったとき、私の母親は「こういう状況ですからやむを得ないでしょう」と言ったという。すると祖父は「やむを得ないとはどういうことか」と今度は母親に対して怒り始めた。母親はまだ20歲になったばかりの新妻であった。そんなに若い母親が祖父に対して「どうか家にいてください」と言い直して謝まり、祖父母が出ていくことを思い止まらせたという。

こんな我が家の状況を見るに見かねて、母親の2人の姉は離婚して実家に戻るようにと勧めたらしい。

しかし母親は実家に戻らなかった。なぜ母親が離婚に踏み切らなかったのか、私は知らない。既に私の姉が生まれていたので子のために離婚を思い止まったのであろうか。

ただ、当時の母親にも全く救いがなかったわけではなかった。祖母の存在であった。姑である私の祖母は嫁である母親を何かにつけて褒め、近所の人たちにも自慢して廻ったという。祖母が母親を叱ったことは一度もなかったらしい。当時の母親にとって大きな心の支えになったようだ。

祖母は63歲のとき脳出血で倒れた。2週間後に死ぬまでの間、母親は自宅で献身的に祖母の看病をした。まだ8歲にしかすぎなかった当時の私にも、母親のその献身的な看病は神々しいとすら感じられた。

祖母は祖父とは対照的に気牲が荒く口も悪かった。父親との言い争いが絕えなかったひとつの原因もここにあったのではないかと思う。しかし、人と人との感情の機微は家族の間でも理解しきれない。祖父母と両親の4人の間の心の綾を私が正確に理解できるはずがない。

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