2011年6月6日月曜日

帰省と介護

6日前(先週の火曜日)の昼、私は汐留のオフィスに勤めている友人と新橋駅前で会って話をしていた。彼との話はいつも家族や親戚のこと、そして高校時代の友人の近況。

そろそろ席を立とうかと思い携帯電話を見ると、父親からの電話の着信履歴があった。2回かかってきていた。

私は喫茶店から道路に出て父親に電話をかけた。すぐに父親は電話に出た。父親が病院に来ていることはわかった。しかし要領を得ない。代わって出てきたのは姉であった。父親の具合がわるくなり診察を受けていたところ、突然、診察医の目の前で訳がわからなくなったという。「訳がわからなくなる」ということの意味は不明であったが、おそらく頭が朦朧としたのだろうと推測した。

短時間ではあったが父親と話し、父親が失語症になっていることはわかった。脳梗塞が起きたのだろうと推測した。

学会があったため私は直ちに帰省することができなかった。結局、金曜日の夕方、学会会場から直接羽田空港に向かうことになった。学会会場から羽田空港までは徳島に住む友人がいっしょであった。早めについたので彼のお勧めの喫茶室でお茶をしながら時間を潰した。

そうこうしているうちに上述の友人も羽田空港に到着。その徳島の友人と別れ、彼といっしょに高知に帰ってきた。彼は入院している父親の看病のために2週間に1回、東京から高知に帰省している。

いつもは高知空港まで父親が迎えに来てくれる。しかし今回は誰も迎えに来てくれない。彼も然り。私たちは1台のレンタカーを借りることにしていた。まず、彼の家に行くことにした。彼の家は国道から分かれて狭いつづら折りの道を登った山の中腹の寒村にある。車で山を登る途中、小さな温泉があり光が見えた。しかし光はそれだけであった。彼の家の両隣には民家があるが、いずれの家からも光は漏れてこなかった。1軒の家は既に空家になっているということであった。あたりは真暗。私は彼が家の玄関の電灯をつけるまで待った。家が明るくなるのを確認して彼の家の前を離れた。

実家に着いたのは午後10時を過ぎていた。家にはまだ電燈が灯っていた。玄関のドアを開けて「ただいま」と言うと、「おかえり」という女性の声が返ってきた。しかし聞きなれない声であった。姉であった。姉とは数年間会っていなかったが、声が低くなっていた。私はてっきり父親と母親しかいないものと思っていたが、父親が病気になった日からずっと実家に泊まってくれていたのであった。

私の母親は長年、慢性関節リウマチを患い、手も足も大きく変形している。右の肘関節には人工関節が入っている。数年前には頚椎骨折のため四肢麻痺になるとともに意識も朦朧となり生死をさまよった。歩行器を使えばなんとか歩くことができるまでには回復したが、これ以上の回復は望めない。

こんな母親の介護は年老いた父親がすべてやってくれていた。その父親が脳梗塞になった。四肢の麻痺はないが、自分の名前すら書くことができない。このような状態では銀行から預金を引き出すことも自分ひとりではできない。運転も医師から禁じられた。田舎では車がないと何もできない。食べ物さえ買いにいけない。

こんな両親を置いたまま、私はきょうの午後、東京に戻らなければならない。当座は県内にすむ姉と姉の長女(私の両親の外孫)がなんとかしてくれると思うが、長期的な介護をどうするか。母親はこの家からは出たくないと言う。「頚の骨が折れた時になぜ死ななかったのだろう。あの時に死んでいればよかった。」この言葉を何度母親から聞かされたことか。身体の自由が利かず一日ごとに年老い、将来への希望を持たない高齢者に共通する心の中からの叫びかもしれない。

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