2011年6月13日月曜日

2週続けての帰省

高知から東京に戻る飛行機の中でこの文章をしたためている。

2週続けての帰省になった。

昨日は、高知空港でレンタカーを借り、姉の嫁ぎ先に立ち寄り、姉と一緒に父親が入院している病院に向かった。ちょうど姉の三女(私の姪)が帰省しており、その三女も同乗した。

私の父親には孫が5人、ひ孫が2人いる。これらの孫やひ孫が可愛くて仕方がないらしい。父親は彼らの顔をみると心から嬉しそうな笑顔を浮かべる。

昨日、私たちが病院を訪れたのは、父親の病状に関する説明を主治医から直接聞くためであった。私が主治医に会うのは初めてであった。説明は簡単であった。医師である私にとって、父親の脳MRIを見せてもらえればほとんどなんの説明も要らなかった。これからの父親に必要なのは、脳梗塞の再発を防ぐための治療とリハビリテーションであった。

リハビリテーションによって父親の失語症が完全によくなるとは思えない。しかし、できる限りの治療を受けさせる必要がある。父親は仕事や自宅にいる私の母親のことをしきりに心配している。まずは父親のこれらの心配事を取り除いてあげなくてはいけない。

昨夜は実家に帰り、母親と夜遅くまで話した。母親とふたりきりでこんなに長時間話すことはなかった。今まで聞いたことのない話もいくつか聞くことができた。たわいのない話が多かったが。

そんなたわいのない話の中のひとつ。

だいぶ前のことであろうが、私の父親が近所の人に「うちの嫁は地味で」話したことがあるという。その時、その隣人は「亭主(つまり私)の稼ぎが少ないからよ!」と言ってあざ笑ったという。また、実家の近くの別の老婦人からは「息子を医者にしたのに役に立たんねえ」と言われたこともあるらしい。母親が地元の病院で入退院を繰り返していたことに対する嫌みであったようだ。また、父親は父親で更に別の老夫人から、「おまん(土佐弁:あなた)の頭は大したことがないのに、お孫さんができるのはどうしてじゃろうね」と言われたことがあるという。父親はその言葉に対して「ワシはこればあの人間じゃけんど(私はこの程度の人間であるが)、孫がようやってくれるけ(孫がよく勉強してくれるので)、幸せじゃ」と言い返したという。それ以来、その老婦人は父親に対して嫌みを言うのをやめたらしい。

これは余談。

母親と私が寝たのは午後11時30分を過ぎていた。私は母親の寝室の隣の居間で電気炬燵に潜って寝た。

翌朝、私は7時30分に目覚まし時計の音で目覚めた。起きると急いで身支度を整え病院にでかけた。きょうはいくつかの書類手続きを進めるつもりであった。父親と一緒に市役所や銀行に出向き、所要を済ませた。そして病院に戻り、公証人立ち会いのもと、「任意後見契約」の手続きを済ませた。父親の病状が悪化した際、父親が尊厳を失わず、かつお世話になった人たちに対して義理を欠かずに死を迎えられるよう、今から準備を進めておかなくてはいけない。

人は誰も死から逃れられない。私の父親にも、自分の人生の最期をどのように締めくくるのかを真剣に考え、そして直ちに実行に移すべき時が到来した。幸い、病状は比較的軽かったが、そんなに長い時間が残されているわけではない。

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