2009年11月28日土曜日

帰省

今月の25日から27日まで徳島市で学会が開かれた、その学会を利用して高知の実家に帰省した。

徳島駅前から高知駅前まではバスで2時間40分。途中、渋滞に巻き込まれることもなく、予定通り高知駅に着いた。高知駅までは父親が迎えに来てくれることになっていた。高知駅到着は午後6時20分。すでに空は真っ暗であった。

バスから降り立った私は、高知駅が様変わりしていることに驚かされた。私の記憶の中にある古ぼけた高知駅の建物は跡形もなく、近代的な鉄筋の建物が建っていた。駅のターミナルも整備され、駅前の景色もすっかり姿が変わっていた。私が乗ってきたバスが着いたのは高知駅の北口であった。しかしそれに気づくのにしばしの時間を要した。父親と携帯電話で話しながら父親を探したがどうしても父親を見つけることができない。父親は高知駅の南口で待ってくれていた。しかし南口に着いたと思っている私が父親を見つけられるはずがなかった。

高知駅から私の実家までは車で約1時間。高知県は過疎が進む。しかし帰省するたびに新しい道路ができあがっている。対照的に、かつての高知市内の繁華街にはチャッターを下ろした店が並ぶ。

自宅に帰る車の中で、私の実家の隣の家が空き家になったことを父親から聞かされた。その家には、93歳のおばあさんと30歳台の孫娘が二人で住んでいた。そのおばあさんが転倒し大腿骨を骨折した。手術を受けたが歩くことはできず、そのおばあさんの長女が住む東京に二人で移り住むことになったという。

私の実家は土佐市であるが、須崎市に近い。四方を山に囲まれた農村である。図書館や劇場などの文化施設はない。書店もない。

小学校6年生になるまでに私が手にすることができた本は学校の教科書と学校の図書館の蔵書、そして小学校の近くの文房具店で買うことのできた漫画本だけであった。しかし図書館で本を借りて読むことはなかった。だから学校の授業の予習や復習をすることもなかった。私が自宅で読むのは漫画本だけであった。私は月刊誌である「冒険王」という漫画本が発売になる日をいつも心待ちにしていた。

クラスメートのなかには小学校5年生のころから塾に通っていた人がいたように思う。私は小学校6年生になって塾に通うようになった。そこは自宅から10キロほど離れた場所にあった。バスで週3回その塾に通った。塾では参考書を渡された。私はその本の厚さとぎっしりと詰まった文字に圧倒された。結局、私がそれらの参考書を開くことはなかった。だからそれらの参考書に何が書かれていたのか全く憶えていない。

小学校6年の2学期になると運動会の準備が忙しくなった。当時、私は、児童会の会長を務めていた。私の関心は運動会の準備に奪われた。そして塾には行かなくなった。

私が再び塾に通うようになったのは、翌年の1月からであった。4か月近く無断欠席していた私はばつが悪く、復学の依頼を母親に頼んだ。私は塾に戻ることを許された。

私は中学校受験することにしていた。しかし今振り返ると、信じられないほど暢気であった。受験勉強といえる受験勉強は何もしないまま入学試験を受けるつもりでいたのだ。入学試験は3月。もういくばくも受験準備の日は残されていなかった。

さあ、明日は入学試験、という日の前の晩、私は父親から突然、受験を思いとどまるようにと言われた。あまりに突然のことであった。私は激しく怒り、父親と口論になった。

父親が私の受験に反対する理由は何であったのか、はっきりとは覚えていない。ただ、経済的な理由からだったのだろうと思う。父親と私との口論の最中に、祖父が田畑を売ってもいいから私に受験させてやるように、と言った記憶が鮮明に残っているからである。

親から譲られた財産を売るということは父親には想像することすらできないことであった。77歳となった今も、父親は親から譲られた田畑を売ろうとはしない。

入学試験の朝、父親は私を受験会場まで車で送っていってくれた。母親もいっしょであったと思う。私は顔を泣きはらしたまま試験を受けた。受験会場の父兄控え室には、担任の先生も来てくれていた。隣のクラスの担任の先生も来てくれていた。受験したのは私のクラスでは私を含めて2人、隣のクラスでは3人であった。しかし、その3人のうちの2人は他の中学校を受験した。だから私と同じ中学校を受験したのは3人であった。

私は当時、「おとそ」という言葉を知らなかった。したがって、誤って「おそと」と書いてしまった。他の2人はきちんと「おとそ」と書いたとのことであった、また、「精を出す」と書くべきところを、私は「勢を出す」と書いてしまった。やはり他の2人は「精を出す」と書いていた。受験勉強をほとんどしなかっただけでなく、おとそを飲むような家庭に育たなかった自らの育ちの悪さを心のなかで私は恥ずかしく思った。

ただ、入学試験には運良く合格することができた。5人とも合格した。そして私と同じ中学校に入学した他の2人とは高校卒業までいっしょに学生生活を送ることになった。

試験が終ったあと、同じ中学校に進学することになった3人は担任の先生のご自宅に招待された。1泊目は隣のクラスの担任の先生のご自宅に2泊目は私のクラスの担任の先生のご自宅に泊めてもらった。

「ナポレオン」というトランプゲームを教えてもらったのはそのときであった。ナポレオンを教えてくれた隣のクラスの担任の先生は、トランプゲームのなかで一番楽しいものであると説明してくれた。ナポレオンは独特の駆け引きを要求される知能ゲームであった。私はその先生の駆け引きのうまさに感嘆した。私たちは深夜までナポレオンを楽しんだ。

二日目は私と私のクラスメートの2人だけであったように思う。隣のクラスの先生もいらっしゃらなかった。私たち3人は布団を並べて眠った。先生は布団のなかで長時間にわたって私たちにいろいろの話を聞かせてくれた。何人かのクラスメートの家庭の事情などの裏話などもしてくれた。また、隣のクラスの担任の先生が、ご主人との関係で長年悩んでいたといったことも話してくれた。

私のクラスの担任の先生も隣のクラスの担任の先生も日教組の活動家であった。私はクラスの代表として日本国憲法第9条を暗記させられ、ある催しのなかで起立して大声でその条文を復唱したこともあった。二人とも私たちが私立の中学校に進学することには反対であった。ただ、私たちが進学することになった中学校ならば受験してもいいと言ってくれていた。

私は、先生のご自宅に招かれたこの3日間のことをその後ほとんど思い出すことはなかった。しかしいま、こうして文章を綴りながら当時の光景を振り返ってみると、2人の先生は心から私たちの前途を祝ってくれたのだろうと思う。

私が通ったのは片田舎の小さな小学校であった。過疎と少子化が進行し、いつ廃校になるともしれない。しかし私はここで育てられた。かけがえのない思い出をつくることができた心のルーツである。

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