2009年11月14日土曜日

熊本

きょうの昼、熊本市にやってきた。明日、熊本市内で開かれる、あるセミナーで講演をするためである。

熊本市を訪れるのは初めて。熊本県を訪れるのも33年ぶりである。

33年前に訪れたのは阿蘇であった。阿蘇郡高森町。そこには私が高校時代に地学を習った先生が住んでいた。名前は植田和男。

私は高校2年とき自宅を離れ、2年間寮生活を送った。寮生活を送るようになってからは、夜、よく植田先生の下宿にお邪魔した。植田先生は高校の近くの一軒家で独り住まいをしていた。当時はまだ20歳代後半であった。もちろん独身。

私が植田先生の下宿を訪ねるときには、徳永啓二という友人がいつもいっしょであった。彼は私とは入れ替わりに寮を出て下宿生活を送っていた。

私たちがいつも通された植田先生の下宿の居間には仏壇があった。「仏壇」と呼ぶのは誤りかもしれない。植田先生は当時、密教に凝っていた。密教の祭壇も仏壇と読んでいいのかどうか、宗教に造詣がない私にはわからない。

私たちがお邪魔すると、植田先生はいつもコーヒーを入れてくれた。そのコーヒーをすすりながら、私たちは植田先生の話を聞いた。

植田先生は登山が大好きであった。だから登山の話はよく聞かされた。ただ、登山の話をするとき、植田先生はきわめて冷静であった。対照的に、密教の話をするときにはいつも語り口が熱くなった。密教の話を一度始めると、植田先生の話は尽きなかった。しかし残念なことに、当時の私たちは、植田先生が語る内容をあまり理解できなかった。ただただ、植田先生の表情や身振り手振りに呑み込まれているだけであった。だから密教について植田先生がどんな話をしてくたのか、ひとつのことを除いて全く憶えていない。

そのひとつのこととは、密教の話の途中で植田先生が次のようなことを言ったことだ。「男の価値は才能である。女性の価値は宇宙を包み込むような母性があるかどうかで決まる。」

私は植田先生の口から「才能」という言葉が発せられたことに驚いた。植田先生は「人の価値は才能の有無では決まらない」という思想の持ち主であるとそれまで私は思い込んでいたからだ。

ただ、植田先生は、「男の価値は才能である」という部分よりも「女性の価値は宇宙を包み込むような母性が持てるかどうかで決まる」という後半の部分を強調したかったのだと思う。

私が通っていた高校は、高知県内では進学校として知られていた。しかし植田先生はその進学指導に強い違和感を抱いていた。教員の中で植田先生はひとり浮いているように見えた。

進学指導に対する反発心からか、地学を専攻する教員としての興味からであったのかは今もわからないが、先生は、天気がいい日には、教室のなかでの授業を途中で切り上げて、「城山」と呼ばれていた学校のすぐ側の小高い山にクラス全員を連れていってくれた。私たちは嬉々として山道を駆け回った。

私は高校を卒業と同時に東京に出てきた。その2年ほどあとに植田先生は私の母校を去った。そして熊本県の阿蘇の高校に移った。

植田先生が阿蘇に行った後も何年間か私と植田先生との間の手紙のやり取りは続いた。そして大学時代に二度、植田先生が住んでいる阿蘇の高森町を訪れた。東京から阿蘇まで休まずに行くのは難しかった。二度とも私は京都で一泊し、京都駅前で植田先生にさしあげるお土産を買った。東京から熊本までは比較的楽であった。しかし熊本から阿蘇の高森町までは一両編成のローカル電車を乗り継いでの心細くて長い一人旅であった。

最初に私が植田先生に買っていったお土産はタイチェーンであった。タイチェーンが入った箱を開けると同時に、植田先生が困ったように、「これを着ける機会がここであるかなあ」と何度かつぶやいた。その通りであった。高森町は阿蘇の外輪山に囲まれたなかにある田舎町であった。

私が大学を卒業する間際になって植田先生から一枚の写真が届いた。ひとりの女性といっしょの写真であった。テントの傍らで植田先生とその女性が並んでしゃがんでいる姿が写っていた。その写真に添えられていた手紙には、「私と一緒に山に登ってくれる女性ができました」と書かれていた。私はきっとこの小柄な女性が植田先生の将来の奥様になる女性であろうと思った。その女性はさして美人ではなかった。しかし写真のなかの植田先生はとてもうれしそうに微笑んでいた。この女性は、それまで孤独であった植田先生をきっと真から理解しようとしてくれている方なのだろうと私は思った。

植田先生からもらった手紙はそれが最後となった。

植田先生に伴侶ができた。植田先生はもう独りぼっちではない。そういう安心感からか、私もいつしか植田先生に手紙を書かなくなった。

33年ぶりに熊本を訪れ、急に植田先生に会いたくなった。しかし植田先生の所在はわからない。

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