2018年6月13日水曜日

又従姉妹 1

2013年6月に父親が倒れて亡くなるまでの8ヶ月間は、精神的にも肉体的にもとても辛い時期であった。父親を追うようにして母親も入院した。ふたりの介護をするには、帰省したときにはどうしても平日に最低1日は高知に滞在しなければならなかった。週末には市役所も銀行も閉まっており、何の事務手続きもできなかった。したがって必然的に土曜日、日曜日、月曜日と2泊3日で帰省することが多くなった。

土曜日と日曜日には、実家を訪れ、天気がよければ家の窓を開け布団を干した。庭の草むしりも欠かさなかった。夏には汗まみれ泥まみれになった。しかし実家をきれいに保つことは両親に対する私の責務であると考えた。実家では、倉庫に山のように積み上げられていた農機具などの始末もせねばならなかった。自宅にあった重要書類も急いで整理する必要があった。家庭裁判所に父親の財産目録を一日も早く提出しなければならなかったからだ。

実家に母親が住んでいる時期には母親と雑談しながらそれらの作業を行うことができたので気が紛れた。しかし母親は父親の後を追うかのごとく1ヶ月半後に腰椎圧迫骨折のため入院した。母親が入院した後は、実家に帰っても会話を交わす人はいなかった。私は一人、黙々と実家の清掃と書類の整理を続けた。このような孤独な作業の最中に古いタンスの引き出しに仕舞われていた私と私の姉の小学校時代の通知簿を見つけたときには驚いた。通知簿は紫色の風呂敷の中に入れられていた。風呂敷を紐解くと、当時のままの通知簿が出てきた。
 
私はこれらの通知簿を破棄する気持ちにはなれず 、姉の通知簿を姉の夫(私の義兄)の勤務先に届けた。その日、義兄は出勤しておらず、義兄の同僚に通知簿を入れた包みを託した。その通知簿の入った包みを見て、姉が両親の愛情に気づいてくれることを願った。私自身の通知簿は東京に持ち帰った。

ただ、私が最も多く時間を取られたのは、田畑と山林の処分であった。両親が所有していた土地は50筆近くあった。それらの殆どの正確な場所も境界もわからなかった。場所も境界もわからなければ処分はできない。私は実家のご近所の人たちを頼って田畑や山林の場所と境界を教えてもらった。ただ、市役所でコピーした切り図と実際の区割りとが違っており、誰も正確な境界がわからない田畑も少なくなかった。田畑を荒らすと隣りの田畑を所有する農家に迷惑がかかる。そのため、東京では、時間を見つけてはインターネットで田畑を管理してくれる人を探した。しかしそのような人は見つからなかった。私は途方にくれた。

そんな私に手を差しのべてくれる人がいた。私の又従姉妹であった。彼女とは小学校から高校まで同じ学校に通った。彼女は、私が少しでも長い時間両親のそばにいられるようにと、高知空港のそばにある駐車場を貸してくれた。そればかりか、私が高知に帰る際には、予め車を空港の駐車場まで届けてくれた。そして私が東京に戻る際には車を空港の駐車場に乗り捨てて置くようにと言ってくれた。私は彼女の行為に甘えることにした。

彼女がこのような申し出をしてくれたのには理由があった。 彼女は自分の人生の進路を巡って父親と衝突することが多かったという。女性は大学進学も不要であると彼女の父親は彼女に行ったという。彼女は父親の反対を押し切って1年浪人した後、薬学部に入学した。今も薬剤師として働いている。また、彼女が離婚したときにも父親と大ゲンカしたらしい。彼女ははっきりとは言わなかったが、彼女の話からは、彼女の父親の存命中には何度か絶縁状態に陥ったこともあったのではないかと私は思った。

しかし彼女の父親が脳出血で倒れた後は、彼女は懸命に父親の介護をした。父親が入院したときには1日も欠かさず仕事を終えた後、病院を訪れたということであった。片道1時間を要した。彼女は、父親の側に行ってあげることが最大の親孝行だと考えたという。私の父親が倒れたとき、彼女が私のためにいろいろと便宜を図ってくれたのも、私が少しでも長い時間、父親の側にいてあげられるようにという配慮であった。嬉しかった。「棄てる」神あれば拾う神あり。

一方で、何の力もなくなった最晩年の両親を見捨てた姉を救う神はいるだろうか。

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