2021年1月1日金曜日

恩師 3

やんしゅう先生の奥様と性格がよく似た知人がいる。彼女は45歳。二人の子持ちである。結婚後、ずっと東京に住んでいたが子育てのために家族で静岡県に引っ越した。二人の子供は少し障害を抱えているという。ご主人は東京の会社に新幹線で通勤している。
 
彼女の性格を一言で表現すると、前向き。このことは彼女自身も自覚している。活動的である。これとは対照的にご主人は物静か。東大を出ているのにもかかわらず控えめ。目立つことが嫌いだという。時間があれば家事も手伝うらしい。2か月ほど前に久しぶりにご夫婦にお目にかかった。ご主人は少し白髪が目立つようになっていたが雰囲気は以前と同じであった。ご主人にその前にお目にかかったのは栃木県でであった。盆栽の家元のご自宅でお会いした。そのときは上のお子様の乳母車をご主人が押しておられたのを覚えている。
 
彼女とどういうきっかで知り合ったのかは説明のしようがない。というのは、私が懇意にしていた職場の心理治療師が私の診察室に彼女を連れてきたのだ。彼女は私の患者でもなんでもなかった。なぜその心理治療師が彼女を私に紹介したのかは今もわからない。彼女は当時、20歳代半ばであった。ひょっとしたら、その心理治療師は彼女の結婚相手を私に紹介させようとでも考えたのであろうか。
 
その心理治療師の名前は浅野恭子(以下、浅野先生)。浅野先生にはとてもお世話になった。彼女のカウンセリングの技術を私は高く評価していた。仕事を離れて、浅野先生が生きてきた人生を聞くのも楽しかった。
 
彼女は急性膵炎で急死した。
 
浅野先生本人から電話をもらったのは木曜日であった。年は覚えていないが、6月ではなかったかと思う。急に強い腹痛が起きた。これから病院に行くという連絡であった。浅野先生にはその数日後に私の研究班での講演を依頼していた。浅野先生は、講演ができなくなったと言った。
 
浅野先生危篤の連絡が入ったのはその数日後。勉強会が終わり散会した直後であった。私は仲間に電話をかけ、再度集まり、浅野先生が入院している病院に車に相乗りして駆けつけた。その際、上で話した女性にも連絡し、一緒に病院に向かった。
 
病院に着いたのは深夜であったが、病院の職員は私たちを全員病室に案内してくれた。浅野先生は集中治療に入っていた。人工呼吸器が付けられていた。当然、意識は落とされており、会話はできなかった。一緒に行った一人の後輩は浅野先生の浮腫んだ脚をなでながら涙を流した。
 
浅野先生の訃報が届いたのはその数日後であった。浅野先生は独身であった。私たちは葬儀の後に彼女のお姉さまが開いた偲ぶ会に招待された。ささやかな会であった。
 
人の死は身近な人には深い悲しみを与える。しかし私のように単なる職場の同僚にすぎなかった者が20年近く経っても浅野先生の死を悲しんでいることを誰が想像できようか。
 
上述した女性とは最近、めったに会う機会はないが、彼女はFacebookに時々、自身の近況をアップロードしている。昨年、私はFacebookに投稿することをやめた。他の方達の投稿にも「いいね」はつけない。彼女の投稿にもレスポンスしないが、変わりなく元気に過ごしているようだ。彼女は浅野先生の形見のような存在である。
 
 

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