2018年5月10日木曜日

改葬 1

父親が倒れた後は、全ての雑務を私が代行しなければならなかった。母親とは会話ができたが、母親も父親の入院から6週間ほど後に入院した。退院できる見込みはなかった。しかも我が家では、長年、父親が財布の紐を握ってきていた。そのため、銀行口座のことや田畑のことなどを母親に尋ねても何一つ明確な返事が戻ってこなかった。なんと母親は、自分の年金が振り込まれる口座の通帳すら父親に預けていた。自分名義の預金がどれほどあるのかも知らなかった。したがって私は、両親が行うべき雑務を代行するにあたって、ほとんど全てのことを自ら市役所や銀行に足を運んで確認せねばならなかった。

土佐市役所で両親名義の土地を調べて驚いたのは、墓地が我が家の所有ではなかったことであった。隣りの家の土地であった。その墓地には江戸中期以来の我が家の先祖が埋葬されていた。つまり、300年にわたって我が家は隣りの家の土地をずっと借用していたわけである。祖父母からも両親からも我が家の墓地が隣りの家の所有であることは一度も聞かされたことがなかった。300年間も我が家が利用してきた以上、その土地は法律的にはもう我が家の所有物と考えてもいいであろうとも私は考えた。しかし先祖は全て土葬されていた。土葬されている先祖の遺骨を掘り起こさなければ、その墓地には死期が迫った両親を埋葬するための納骨堂を設けるスペースすらなかった。

父親は、そのことも考慮してか、まだ元気な頃、実家の裏山に納骨堂を造っておいてくれていた。その納骨堂には縁あって國弘家が供養することになっていた他家の遺骨が納められていた。我が家の先祖代々の遺骨をその納骨堂に移そうとも考えた。しかし納骨堂が設置されていたのは畑であった。市役所に問い合わせると、その納骨堂は移設するよう求められた。

私は業者に依頼して墓地を探してもらった。最初は土佐市内の霊園を紹介された。その霊園を下見に行った 。しかしその霊園は小高い山の北側の斜面にあり、少し日当たりが悪く湿っぽかった。また、夏であったこともあり、雑草が生えていた。そのため、別の霊園を探すことにした。次に紹介されたのは高知市内の霊園であった。高知市街を見下ろす小高い山の頂上近くにあった。南側に面しており日当たりもよかった。高知空港からも近かった。この霊園に我が家の墓地を移そうと東京の自宅に戻った。

しかし、9月になって、ひとりの従姉から、墓地を東京に移すように勧められた。自宅に近い場所に墓がなければ先祖の供養ができないというのが理由であった。その従姉はとても信心深かった。

このことを母親に話すと、母親はその考えに賛成してくれた。私は、父親のベッドサイドに行き、墓を東京に移すことを告げた。その頃には、父親も母親も共に土佐市にある白菊園に入院していた。当然、父親は返事しなかった。しかし私は、きっと父親も賛成してくれるだろうと思った。

私と私の家内は東京で霊園を探し始めた。家内は多くのパンフレットを取り寄せ、それらの霊園に下見に行ってくれた。時間があるときには、私も家内に付き添った。

しかし墓地探しは難渋を極めた。霊園はたくさんあったが、いずれも帯に短し襷に長しであった。母親が真言宗の寺に拘ったことも墓地探しが難航した大きな理由であった。私の家の宗教は真言宗豊山派であったが、どの寺でも改宗を求められた。しかし母親は頑として改宗を拒否した。

やっとここにしようと思える霊園が見つかったのは、2013年の年末であったように思う。その霊園がある寺の宗教は真言宗ではなかった。しかし 改宗は求められなかった。その寺の敷地の一部を宗教自由の墓地として開放しており、いかなる宗教も受け入れてくれた。

私たちは、その墓地を管理している業者と墓石の打ち合わせを始めた。暮石に刻印する文字や家紋についても話し合った。

墓地が完成したのは、父親の四十九日の法要の数日前のことであった。父親の四十九日の法要は私と私の家内と私の一人息子の3人だけで執り行った。ひとりの僧侶が読経してくれた。ごくごく少人数の法要であったが、亡き父親はきっと喜んでくれているだろうと私は思った。

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