2015年4月7日火曜日

叔父


母親の兄のことについては先日、このブログに書いた。きょうは母親のもうひとりの男兄弟について書こうと思う。母親のすぐ年下の弟である。

私が、私の親族のなかで最も頼りにしていたのはこの叔父であった。この叔父は、家族と徳島県に山登りにでかけ、そこで急死した。2012年9月23日のことであった。家族と別れて単独行動をしていた途中で叔父に何らかの体調異常が生じたと推測されるが、詳細は不明である。待ち合わせ場所に伯父がいないことが高知の親戚に知らされ親戚中が大騒ぎになった。私の父親は親族一同で叔父を探そうと皆に提案した。警察の手助けもあり叔父は家族と待ち合わせることになっていた場所から遠く離れたところで発見された。当然のことではあったが、家族は警察から事情聴取を受けた。取り調べはかなり厳しかったらしい。叔父の妻は、山で夫(私の叔父)と別れたことを悔いた。夫を亡くした悲しみに加え、そのことに対する罪悪感に苛まれてガリガリに痩せた。叔父が亡くなった日の山登りには長男は同伴していなかった。叔父、伯母、次男の3人での山登りであった。長男は「もし僕もいっしょに山に行っていたら父親はこんなことにならなかった」といって叔父の死を嘆いた。叔父の死は、今もなお叔父の家族に深い悲しみを与え続けている。

この叔父の死は、私にも大きな衝撃を与えた。上述したとおり、私が最も尊敬し頼りにしていたのはこの叔父であったからである。ただ、私は、叔父の生前、このことを口に出して感謝の言葉を叔父に直接述べたことはなかった。

私は中高一貫の私立校に通った。6年間、私の保証人となってくれたのはこの叔父であった。幸い、在学中に叔父が学校から呼び出されることはなかった。大学浪人中、心の支えとなってくれたのも叔父であった。叔父から励ましの手紙をもらったわけではない。電話ももらったわけではなかった。ただ、親元を離れ東京で一人暮らしをしながら浪人生活を送っていた私の頭に浮かんだのは、父親とこの叔父の姿であった。

私の家族や親族に問題が生じたとき、とりまとめ役を務めるのはいつもこの叔父の役目であった。叔父の墓石にも刻まれているように、叔父は文字通り「誠」を尊ぶ人であった。叔父の判断には親族の誰もがうなずかざるを得ないところがあった。

叔父の墓は、高知龍馬空港から車で15分ほどの小高い山の中腹にある。私は帰省すると、この山の下を抜けるトンネルを必ず車で走る。ここを走るときには、私はいつも叔父が眠る霊園を見上げる。そして時間が許せば叔父の墓に参る。つい先日も墓参した。霊園のなかの桜の花はすでに少し散りかけていた。私は叔父の墓にお参りした後、墓石の上の落ち葉を拾ってその場を去った。

叔父の人生は決して順風満帆ではなかった。高校では当時の県知事から成績優秀者として表彰されたということであったから頭はよかったと思う。しかし家庭が貧しかったため大学進学は断念し就職した。そして船の設計を始めた。しかし高校卒では二級のライセンスしか取得できなかった。

就職と同時に叔父は実家を出た。そして高知市の浦戸湾にある造船所の近くの種崎というところに移り住んだ。我が家で私の父親が叔父の家族の話をするときには名字ではなく地名で「種崎」と呼んでいた。つまり「種崎」と叔父一家とは、我が家では同義語であった。子どものころ、1回か2回、叔父の家を訪ねたことがある。決して大きな家ではなかったが、その小さな家の棚には書籍がぎっしり並べられていた。

つづく

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