2015年6月9日火曜日

墓参

私は、高知に帰省すると、よく叔父の墓に参る。先日、高知に帰省した際にも叔父の墓を訪れた。そして墓の草をむしり墓前に手を合わせて墓地を後にした。

叔父はこの墓地ではなく実家の墓地に葬ってもらいたいと言っていたという。しかしその希望は叶わなかった。叔父にはふたり男の子がいるが、ふたりとも独身である。叔父の妻は、いずれこの墓の守をする人もいなくなるだろうと寂しげにつぶやくことがある。

私は叔父が愚痴を言うのを聞いたことがない。ただ、叔父が死んだ後、叔父の妻からこのようなことを聞いた。「まるで親戚中の不幸を我が家が一身に背負っているようだ」と叔父は嘆いていたという。

もう30年以上昔のことである。私はまだ多感な時期であり悩みも多かった。いつも考え込んでいた。そんなとき私はあることにはっと気がついた。どんなに悩んでも、あと50年すれば自分は死んでしまい、苦しむことすらできなくなると。50年という年月はあっという間ではないかと私は感じた。わずか50年ではないかと。

叔父がどれほどの不幸を背負っていたのか、詳しくは知らない。ただ、叔父がどれほどの不幸を背負っていたとしても、その苦しみは叔父の死とともに消えた。

自分の墓地を私がこれほど度々訪れようとは、生前、叔父は予期していなかったにちがいない。

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