2007年4月13日金曜日

祖母の死

私の生まれ故郷は高知県の土佐市である。国道56号線沿いの四方を山に囲まれた農村で育った。私の生家には今も両親が暮らしている。もっとも母は昨年ほとんど入院していたが。

私は正月には必ず帰省する。両親に孫を会わせるという目的もある。しかし最も大きな目的は墓参りだ。

私の田舎ではごく最近まで土葬であった。ひょっとしたら今も土葬が行われているのかもしれない。私の祖父母も土葬であった。だから別々の墓石がある。

私の祖母が亡くなったのは私が小学校2年生のときの冬であった。12月30日に息を引き取った。脳出血で倒れ、ほとんど意識が回復することなく2週間ほどで亡くなった。

祖母が倒れた日はとても寒い日であった。その日、祖母は近所の家の農作業を手伝いに出ていた。金柑採りの手伝いだった。畑で突然倒れたという。祖母は高血圧であった。

一緒に農作業をしていた近所の人たちが祖母を家まで運んできてくれた。近所の医師を喚んだ。その医師は私の田舎で唯一人の医師であった。その医師は横たわる祖母を無言で診察した後、私の両親に何かつぶやくように話した後、すぐに帰っていった。

それから祖母が亡くなるまでの間、その医師は数回往診してくれた。しかし点滴一つすることもなかったように記憶している。ひょっとして祖母は少しは 食事摂取ができていたのだろうか。私の母がつきっきりで看病していたが、私が祖母のそばにいくと遠ざかるようにと指示された。いま考えると、おそらく祖母 の下の世話をしようとしていたのかもしれない。

祖母が元気だった頃、祖母と私の父親とは毎日のように家でけんかした。何が原因なのか幼い私にはわからなかった。激しいけんかであった。けんかの 後、祖父母はよく離れに布団を敷いて寝た。その離れを我が家では「鳥小屋」と呼んでいた。当時、我が家では鶏を飼っていた。まさに本当の鳥小屋だった。そ の一角にあった3畳ほどの畳部屋に布団を敷いたのだ。私も祖父母の間に挟まって寝た。

私には怒っていた父親の顔しか思い出せない。父はいつも家族に対して激しく怒った。幼い頃、私は常に父を恐れていた。そんな父親ではあったが、祖母が亡くなった後は、長い間、祖母の死を悲しんだ。

私が小学校3年生になるまで我が家は藁葺き屋根の家であった。台風が来ると大きく家が揺れた。祖母は呪文を唱えるかのように「ほー、ほー」と大声で うなり声をあげた。柱は虫に食われており、いろりの煙のため家中煤だらけであった。私はいろりの側で祖父の膝の上によく乗った。私が膝に乗ると、祖父は火 箸でいろりの灰に字を書いていくつかの漢字を私に教えてくれた。しかし祖父の書く漢字はいつも一緒であり、私が学ぶ漢字が増えることはなかった。祖父が好 んで書いた漢字は、「松」と「杉」であった。

そんな家を建て替える直前に祖母は亡くなった。祖母とけんかが絶えなかったことも父を更に悲しませた。藁葺き屋根の家の隣の土地に新しい家が完成し たのは祖母が亡くなった翌年の夏であった。その家が完成した夜、私と私の姉は、ふたりだけでまだ障子もない開けっぴろげのその家に寝かされた。それはどう も当時のしきたりであったらしい。

祖母は63歳であった。早すぎる死であった。

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