2016年8月13日土曜日

母親の一周忌

母親が亡くなったのは昨年の8月7日。その日のことは今も鮮明に憶えている。

金曜日であった。午前中の外来診療中に主治医からメールが届いた。母親の病状が思わしくないとのことであった。外来診療が終わると直ぐに私は主治医に電話した。場合によっては2~3日の命になるかもしれないと告げられた。

しかし私は、その日の午後、手術があった。すぐに帰省することはできなかった。実家のご近所の人や従兄弟に電話し病院に駆けつけてくれるように頼んで手術室に入った。夕方、手術を終えて携帯電話を確認すると、従兄から何通かのメッセージが届いていた。ご近所の人からのメッセージもあった。刻一刻と悪化してゆく母親の病状を告げる内容であった。

私は大急ぎで着替え、自分の部屋に戻りその従兄に電話をかけた。既に母親は亡くなっていた。ご近所の多くの人たちが母親の最期を看取ってくれたということであった。

その日はもう飛行機便はなかった。翌日の午後の飛行機のチケットがやっととれた。高知空港の近くに住んでいる再従妹が私の父親の車を空港まで運んでくれた。その車を運転して家内と一緒に葬儀場に急いだ。いつもは空いているルートを選んだ。ところが途中から大渋滞となった。花火大会とぶつかったのだ。

葬儀場に着いたときには既に暗くなっていた。2人の従兄弟とご近所の人たちが私たちを迎えてくれた。母親の遺体が横たえられていた部屋は、1年5か月前に亡くなっていた父親が安置されていた部屋と同じであった。驚いたことに2年間連絡の途絶えていた姉が葬儀場に来ていた。

私は既に冷たくなった母親の遺体の傍で泣きくずれた。母親の死に対する悲しみはさほどなかった。自分の娘(私の姉)の顔を見ることなく死んでいった母親の無念さを思い、悲しくて仕方なくなったのだ。

私の姉は母親が亡くなる2年前、つまり父親が2度目の脳梗塞発作で倒れた直後に、両親に対して絶縁状を送りつけてきた。そして私とも一方的に縁を切った。理由は全くわからなかった。2年余りの間、私は東京と高知とを往復しながら一人で懸命に両親の介護を続けた。孤独であった。



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