2008年7月22日火曜日

生きてありて

高知市のメインストリートは今も路面電車が走っている。このメインストリートを車で走るとひっそりと身を隠しているかのような南病院の建物が目に入る。この小さな病院に私はかつて入院したことがある。小学校2年生のときであった。確か9月。秋の運動会の前であった。病名は自家中毒(周期性嘔吐症)。

入院する2週間ほど前、食欲不振、嘔気、全身倦怠感が出現。私の実家のある土佐市内の小児科を母に連れられて何軒か受診した。しかし、どこでも「寝冷え」と診断された。そして特別の治療を施されることもなく家に帰された。そうこうするうちに病状はどんどん悪化していった。

しかし私は体調の悪さをおして毎朝登校した。自宅から小学校までは1キロ半ほど。その頃はまだバス通学をしていた。午前中はなんとか授業を受けることができた。しかし午後になると全身がだるく立っていることすらままならない。毎日のように自転車の後部座席に乗せられて教頭先生に自宅まで送ってきてもらった。

症状が出てから2週間ほど経った頃、嘔気が強く、とうとう食事がとれなくなった。そして、もう翌日は学校に行くのは無理と思われた。ちょうどその晩、評判がいいという小児科の話を近所の知り合いから父親が聞いてきた。その病院が南病院であった。翌日、私はその近所の知り合いの車に乗せてもらって自宅から30キロほど離れた南病院を受診した。当時、私の家には私が横たわって乗ることができる乗用車はなかった。病院での最初の検査は検尿であった。母親に支えられて尿の採取をしたことまでは憶えていた。しかしその直後に意識がなくなったようだ。洗面所を出たことすら記憶がなかった。

私が病室のベッドの上で目覚めたのは午後2時か3時であったと思う。周囲は明るかった。ふっと振り返ると母親が私のベッドの側にじっと座っていた。母親は私の意識が戻ったのに気づくと主治医や看護師に連絡することもなく、「受診するのがあと3日遅かったら死んでいたと言われた」と淡々と語った。そして3日間意識がなかったと告げた。当時から私の母は喜怒哀楽をほとんど表情に出さない女性であった。その日も同様であった。母の表情からは喜びも悲しみも感じ取ることはできなかった。まだ7歳であった私も自分の死が迫っていたことに大した恐怖も感じなかった。意識が戻った翌日、私はクラスメートから届けられていた見舞いと励ましの手紙をベッドの中で読んだ。

意識が戻ったあとの私はあっという間に元気を取り戻した。体のだるさも嘘のように吹き飛んだ。私は病院の中で片時もじっとしていることができなかった。当時、木造であった病院の階段を走り回っていた記憶が今も鮮明に残っている。意識が回復してから3日後に退院したが、その3日間は当時の私には気が遠くなるほど長い時間であった。

周期性嘔吐症は小児科医であれば誰でも知っている病気である。私の症状も定型的な周期性嘔吐症であったと思う。だから、なぜもっと早く正確な診断が下されなかったのだろうかと思う。しかしその一方で、自宅から遠く離れた南病院を紹介されたことも奇跡だと思う。私自身が医療に携わるようになって以来、私は診療行為はロシアンルーレットのようなものだとずっと思っている。そうはっきりと患者に告げることもある。医療には100%ということはない。逆に0%ということもない。たとえば薬を投与しても必ずしも効果があるとは限らない。副作用が出るだけのこともある。手術に関してもしかり。リスクのない手術はない。「その手術は安全ですか」と私に真剣に問いかける患者に対して私はどのように答えようかといつもとまどう。医療行為のなかに安全なものなどあるはずがないではないか。医療行為の結果はある程度、確率論的なものでしかない。

長い間、医療は精神論で語られてきた。何か問題が起きるたびに医療を提供する側に全責任がかぶせられ、医療提供者の心がけだけで安全な医療が提供できるという神話がまかり通ってきた。患者はこの不毛な神学論争に片足を突っ込んだまま、さびれゆく日本の医療の現状に単に慌てふためいているだけのように私には見える。

男性の平均寿は80歳に近づいている。そんな今、私が生きていることは決して不思議ではない。しかし必然のことでもない。高校時代の同級生もすでに何人かは亡くなった。単なる確率の問題なのだと自分自身は考えている。そんなふうにしか考えない私は生に対して淡泊すぎるのであろうか。

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