2007年11月10日土曜日

友人の次男の死とピアノリサイタル

4日前の午後5時過ぎに私の携帯電話が鳴った。友人からの電話であった。私の職場に出かけてきている。これから私の部屋を訪ねてもいいかという内容であった。

その時、私はちょうど外出していた。その旨、彼に告げた。彼の電話の用件は察しがついた。

彼はちょうど2週間ほど前に次男を亡くした。数日後にそのことを私は職場の廊下で彼の部下から聞かされた。私は茫然となった。脳腫瘍であったという。昨年の夏に発病し余命いくばくもないことがすぐにわかったが、職場で彼はそのことを誰にも話さなかったとその部下は私に告げた。

4日前の電話で彼と数分間話したときも彼はそのことを私に語った。「職場で混乱が生じるといけないと思ったので、この1年間、ずっと誰にもしゃべらずに過ごしてきた。」彼はそう言った。この言葉から、彼がこの1年間耐えてきた孤独がひしひしと伝わってきた。

彼は、「息子が死ぬ1週間前まで一緒に食事にでかけたりできたから・・・」とも言った。この1年間、彼は家族と一緒に過ごす時間をできるかぎりとってきたのだろうなと私は推測した。

彼は電話の向こうで涙ぐんでいた。私も涙を流した。

彼は文字通りの会社人間であった。ワーカホリックであった。彼は、会うたびに、彼の仕事と会社に対する熱い情熱を熱く私に語った。「出世したい。」この言葉が何度彼の口から出てきたことか・・・。そのたびに私は、どうしてそう思うのかと尋ねた。彼の答えはいつも同じであった。

よくもわるくも彼は「男」であった。「男」になりきれる彼を私は心から尊敬していた。

しかし彼が「男」になりきれていたのは、彼に温かい家庭があってこそのことであった。この前提が崩された今、彼はこれからもずっと会社人間でい続けることができるのであろうか。

電話を切る間際に、彼は「49日の法要が終わったら、会って愚痴を聞いてよ」と言った。「愚痴」とは「後悔」のことだろうと私はとっさに思った。私は、「もちろん。泊まりがけで出かけていくよ」と答えた。

死は永遠の別れであり、絶対的な拒絶である。

彼との電話を切るとすぐ、私は地下鉄に飛び乗り、上野に向かった。その日の午後7時から東京文化會舘大ホールで行われる関孝弘氏のピアノリサイタルに招待されていたからだ。関氏のそのピアノリサイタルには昨年も同じ知人が招待してくれた。その知人は関氏の姪にあたる。

私には音楽の素養はないが、関氏は基本にとても忠実な演奏をされる方なのではないかと感じている。演奏には技術を超えた「人」が表れる。関氏の奏でる端正なメロディーは関氏の歩んできた人生そして関氏の人柄そのものなのであろうと思う。

演奏の最中、私はずっと友人のことを考えていた。ピアノ演奏を聴きながら、きっとこの音楽は彼の耳にも届いているはずだとなぜだかわからないが私はそう感じていた。関氏の演奏する曲のひとつひとつがその日の私には鎮魂歌として胸に響いた。

彼の次男の死を悲しんでいるのは彼と彼の家族ばかりではない。しかしこの悲しみを乗り越える勇気を彼に与えてくれるのは時間以外にない。

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