2019年8月15日木曜日

御巣鷹山

一昨日(8月13日)、家内と一緒に御巣鷹山に登った。御巣鷹山に登るのは今年で5年連続。この時期に軽井沢に来ると、引き寄せられるように足が御巣鷹山に向かう。事故当時、私の家内は日本航空に勤めていた。家内の知人も2人この事故で亡くなった。

私の家内は国際線のCAであった。亡くなった2人のうちの1人は、2年間ほど家内と同じグループで働いた後、結婚し、子供が欲しいからという理由で国内線に移った。そしてその後、ほどなくその事故に遭った。彼女の関係者から家内が聞いた話であるが、事故の当日、彼女は、勤務(搭乗)するのを嫌がっていたという。何か不吉な予感があったのであろう。

私と家内は、必ず彼女の遺体が見つかった場所に建てられている墓標を訪れる。そして手を合わせる。残された彼女の夫はきっと再婚したのであろう。彼女の墓標には、人が度々訪れてきた形跡がない。

「人は死んだらおしまいよ。」この墓標の前で、私の家内はいつもこの言葉を口にする。

終戦記念日 特攻隊

終戦当時、私の父親は中学生であった。終戦の日、父親は近所の友人と釣りに出かけていたという。その帰り道にすれ違った人から、日本が戦争に負けたと告げられた。そんな話をにわかに信じられようはずがない。父親は友人と「あいつは気狂いだ」と話しながら帰宅したという。帰宅すると、これから玉音放送があるという。実家の隣の家にあったラジオの周りに近所の人たちが集まった。そして流れる玉音放送を聞いた。日本の敗戦を知り、涙する人もいたという。父親はきっとあっけにとられたに違いない。

父親は、中学校を卒業したら、特攻隊員に志願するつもりであった。しかし、晩年、父親は心から戦争を忌み嫌っていた。戦争がいかに人の人生を狂わせるのかを、自分の長兄(私の伯父)の死を通じ、身をもって体験したからであろう。

終戦記念日

きょうは8月15日。終戦記念日である。全国のあちこちで記念式典が開かれている。

幼い頃、この日に、私は毎年、祖父母に連れられて高知市内で開かれる慰霊祭に参列した。まだ小学生にもならない当時の私にこの式典の趣旨がわかろうはずはなかった。祖父母も何のために慰霊祭に毎年参列するのかについて私に何も話さなかった。式典は毎年、炎天下の下で開かれ、とても暑かったことは今も記憶に残っている。厳かな会であった。筵の上にじっと座って、当時の私には何のことかわからない行事が長時間にわたって続くことに私はじっと耐えていた。確か、正午であったと思う。鐘が鳴った。そのときは私もじっと目を閉じた。

私が小学校2年生のときの大晦日に祖母が亡くなった。以来、祖父も私も慰霊祭に参列することはなくなった。この式典が当時、高知市内のどこで開催されていたのか、わからない。また今も開催されているのかについても知らない。きっと開かれているに違いないが。慰霊祭というものが何のために行われるのかを私が知ったのは、ずっと後のことであった。祖父母がなぜ毎年慰霊祭に参列していたのかを知ったのもずっと後のことであった。

祖父母は長男(私の伯父)を戦争で亡くしていた。フィリピンのレイテ島で伯父は戦死した。終戦のわずか1ヶ月前であった。叔父の死は、遺された妻とひとりの幼子のその後の人生を大きく狂わした。叔父の墓には叔父の遺骨はなく、叔父の髪の毛と爪だけが埋葬されていると祖父からは聞かされていた。私の父親が亡くなる直前に行った改葬時に叔父の墓も掘り起こした。当然、何も出てこなかった。一握りの土を団子にし、東京に設けた新しい墓地に埋葬した。

2019年7月28日日曜日

いじょう、もどらん

「いじょう、もどらん」は土佐弁である。「もどらん」は戻らない、帰らないという意味である。ただ、「いじょう」という副詞の持つニュアンスを正確に伝えるのは難しい。「いじょう」というのは「全然」という意味であるが、時間の概念を含んでいる。「いじょう、もどらん」には、例えば、誰それがどこそこに引っ越して以来、全く帰って来ないといったニュアンスが込められているのだ。

2019年5月12日日曜日

マスオさん

私は、留学から戻った1995年秋から数年間,家内の実家に住まわせてもらった。留学中に帰国後の住宅を探すのは、インターネットが発達していない当時は困難であったからである。生活が落ち着き次第、家内の実家を出るつもりであった。しかし家内の両親は思いの他、私を歓待してくれ、実の娘である家内とも一緒に暮らせる生活を喜んだ。家内の兄夫婦も一緒に住んでいたので、家内の両親は実の息子と娘家族と一緒に住むことになったわけである。家内の実家は5階建てのビルディングである。3階に義兄夫婦が、4階に義理の両親が、そして5階に私たち夫婦が住んだ。
 
私は、ただで家内の実家に住まわせてもらうのは申し訳ないと思い、ボーナス月である7月と12月に百万円ずつ両親に手渡した。つまり、毎年、二百万円を義理の両親に支払っていた。
 
 
年間二百万円の家賃が安いのか高いのか、それとも妥当であったのかはわからない。ただ、義理の両親は実の娘と一緒に住めることを心から喜んでいたので、家賃として支払った金額がたとえ少なすぎたとしても、義理の両親には不満はなかったのではないかと思う。
 
 ところが、私たちがただで家内の実家に住まわせてもらっていたと思い込んでいた人がいたという。そしてその人は私の義理の母親にそう言ったらしい。驚きである。その人は、「自分ならばお金を支払わない」と考えたのであろう。私たち夫婦は、少なくとも金銭に関しては潔癖な人生を送ってきた。ただで住めれば得であるといった発想は私たち夫婦にはない。
 

姉 10 お年玉

私と私の家族は、年末年始には毎年、高知に帰省した。正月には姉(池友子)の家族も実家を訪れてにぎやかな正月になった。私と私の家内は、小額ではあったが、姉(池友子)の4人の子供たちにお年玉をあげた。(当時、私たち夫婦にはまだ子がいなかった。)
 
ところが、私の家内が姉(池友子)にお年玉を手渡すと、姉(池友子)は次のように言ったことがあったという。「このお年玉は生活費に充てさせてもらう。」このことを聞いた私の家内は驚いたという。自分の子たちに対するお年玉まで取ってしまうのかと。
 
このことを私はまったく知らなかった。数年前に初めて家内からこのことを聞かされた。家内は他人の悪口をほとんどいわない。私の両親の件で私の家内は、姉(池友子)と姉(池友子)の長女からひどい目に遭わされてきた。私は私でぎりぎりまで私の家内に伏せていたことも数多くあったが、姉(池友子)との間で裁判が持ち上がったときには、それらを伏せておくことができなくなったので、家内に話した。家内も姉(池友子)について腹に据えかねていたことを私に話すようになった。
 
家内は、今、私が少しでも姉(池友子)と姉(池友子)の長女の話を持ち出すと、めまいと頭痛と吐き気がすると言う。

姉 9 無言電話

2013年7月28日の午後、姉(池友子)は私に3つの留守番メッセージを残した。このメッセージの内容は既に書いた。その晩、正確には2013年7月29日の早朝(1:30〜1:48)に姉から7回無言電話がかかってきた。かかってきた電話は業務に使っている電話であったので、夜中でもマナーモードには切り替えていなかった。
 
私の寝室は2階にある。私は既に眠っていたが、けたたましい音で鳴る電話の音で起こされた。最初は頭がぼーっとしておりすぐには反応できなかったが、両親に何事かが起きたのかも知れないと考え、階段を駆け降りた。そしてリビングに置いてあった携帯電話の受話器をとった。聞こえたのは姉(池友子)の息遣いであった。発信元は姉(池友子)の夫の携帯電話であった。2013年7月15日の晩、姉(池友子)が一方的に電話を切った後、姉(池友子)の長女からもあのように非常識な言葉を投げられたため、姉(池友子)の夫と何度か話をしていた。姉(池友子)は夫の携帯電話の記録を見て私と自分の夫とが連絡を取り合っているのを知り、あのような無言電話と留守番メッセージを残したのだろうと私は思った。
 
さて、私は受話器を取るや否や「もしもし、もしもし」と何度か呼びかけたが、姉(池友子)の息遣いが聞こえてきただけであった。私が何度呼びかけても姉(池友子)は返事を返さなかった。そして30秒ほどで電話は切れた。私が携帯電話を元の場所に置くと、また電話がかかってきた。このときは私が電話で応答しようとすると同時に電話が切れた。
 
私は、姉(池友子)がいやがらせで電話をかけてきているのであろうと思ってその晩は携帯電話をマナーモードに切り替えて2階の寝室に戻った。朝確認すると、全部で7回、姉(池友子)から電話が入っていた。私が応答したのは4回目であったことがわかった。
 
(姉(池友子)が私に留守番メッセージを残したのは無言電話の10時間ほど前であったが、私が姉(池友子)からの留守番メッセージに気づいたのは、その無言電話があった日の午後のことであった。つまり、無言電話を受けた日の午後に姉(池友子)からの留守番メッセージに気がついた。)
 
初回、4回目、7回目の姉(池友子)からの無言電話の記録を下に掲載しておく。姉(池友子)は裁判の場で、「不在着信」であったと主張した。しかし4回目の電話の表示を見れば、私が受話器を取っていたことがわかる。姉(池友子)は常に嘘をつく。姉(池友子)から嘘をとると姉(池友子)には何も残らないのではないかと最近は思うようになった。
 
 
 
 

姉 8 「三万円」 その2

2013年7月13日から15日まで帰省した際に姉(池友子)に3万円を返しそびれたことは既に書いた。私は姉弟の間でのことであるし、父親が入院した直後でもある、それに姉(池友子)と姉(池友子)の長女から母親との絶縁を告げられて姉(池友子)との関係がぎくしゃくもしているので、頃合いを見計らって姉(池友子)に金を返せばいいだろう程度に考えていた。
 
ところが姉(池友子)は、私に金を返してくれとは要求せず、なんと両親に返却を要求したのである。姉(池友子)から私の両親に宛てた絶縁状に、私に貸した3万円を返してくれと書いてきた。しかも従姉の一人に電話をかけては「幸伸が3万円を取っていって返さない」と言っていたという。私はこのことをこの従姉本人から聞いた。
 
私は大急ぎで姉(池友子)に現金書留で10万円を送った。借りた金は3万円であったが、実家の近くに住む姉(池友子)には両親の状態をたまには見に行ってもらうこともあろうかと思って多めに現金を包んだ。(この時点では、私は、ほんとうに姉(池友子)が両親との縁を切るとは思っていなかった。)しかし姉(池友子)からは金を受け取ったという連絡は来なかった。当然、礼状も届かなかった。
 
3万円貸しただけなのに10万円送ってもらってどうして私に礼を言わなかったのかと裁判の場で私の弁護士が姉(池友子)と姉(池友子)の姪に尋問した。これに対して姉(池友子)の長女(私の姪)は「おじちゃんが送ってきた現金書留封筒には現金が入っていただけでおじちゃんの添え書きがなかったから怖かった」と陳述した。加えて、「感謝状」であったと姉(池友子)と姉(池友子)の長女が主張する手紙のなかに私が借りた金を両親が私に代わって返してくれという記述があるのは礼状としては不適切な表現ではないかという私の弁護士からの尋問には一切答えなかった。姉(池友子)は、私から10万円送られてきた後、私が金を返したことを誰にも話さなかった。金を借りて返さないと言ってさんざん私を批判したくせに、私から多額の現金が送られたことには口をつぐんだ。
 
繰り返しになるが、「この母にこの娘あり」である。この母娘は、発言内容を節操なくどうとでも変える。

姉 7 「三万円」 その1

2013年6月30日に私は姉(池友子)から3万円借りた。結果的にはその3万円は使うことなく、そのまま東京に持って帰った。次に帰省した際にその金を姉(池友子)に返したかったが、2013年7月1日に母親と絶縁すると姉(池友子)と姉(池友子)の長女から言われていたのでなんとなく姉(池友子)の家を訪れるのが憂鬱であった。そのため2013年7月13日から15日まで帰省した際には姉(池友子)に連絡をとることも姉(池友子)の家を訪れることもしなかった。姉(池友子)から借りていた3万円もそのまま東京に持ち帰った。
 
その当時はまだ、父親とも縁を切るという話は姉(池友子)から聞かされていなかった。2013年7月13日から15日に帰省して私が最も気がかりであったのは、父親が所有する不動産の始末であった。元々農家であったわが家にはあちこちに田畑や山林があった。しかし私はそれらがどこにあるのか、ほとんどわからなかった。母親は慢性関節リウマチを長年患い、歩くことすらままならない。
 
私は高知から帰った2013年7月15日の晩に姉(池友子)に電話をかけた。そして、父親の不動産が欲しいかどうかを尋ねた。姉(池友子)は不動産は要らない。金だけ欲しいと言った。しかし身体の不自由な母親に不動産を相続させるわけにはいかない。父親の所有している田畑や山林はできるかぎり私が処分するが、父親が亡くなったときにもし不動産が残っていたならば、姉(池友子)と私の二人で折半しようと提案した。しかし姉(池友子)は、「要らないものは要らない」と言って、不動産を相続することを拒否した。私は「そんなことを言うても、身体の不自由な母親に不動産を相続させるわけにはいかんじゃいか」と声を荒立てた。そうしたら、姉(池友子)はがちゃっと一方的に電話を切った。
 
姉(池友子)は何か気に入らないことがあるといつも一方的に電話を切った。この日も、再度電話をかけても無駄であろうと思い,姉(池友子)の長女に電話をかけ、姉(池友子)との電話でのやり取りの概略を述べた。
 
すると、姪はいきなり「おばあちゃんは許さん」と怒り出した。その2週間前の2013年7月1日に姉(池友子)と姉(池友子)の長女から母親との縁切りを告げられていたが理由を知らなかったので、このとき姪になぜおばあちゃん(姪の祖母にあたる私の母親)を許せないのかを尋ねた。姪は「おばあちゃんは私のお母さんによりもおじちゃんに少し多めに遺産を残したい」と言った。だから許せないと怒り出したのだ。

姉 6「あなたたち家族の3人」

2013年7月28日に姉(池友子)が残した留守番メッセージの冒頭の「あなたたち家族の3人」は私と私の両親を指しているものとずっと私は思っていた。この「3人」が私と私の家内と私の一人息子を指していたことを知ったのは、2年後の母親の告別式の晩であった。
 
父親の葬儀には出なかった姉(池友子)が、なんと母親の葬儀には参列した。姉(池友子)ばかりではなかった。姉(池友子)の長女と次女、そして彼女達の子供たちも告別式に参列したのだ。しかし彼らは誰一人として親族席には座らなかった。一般席のしかも最後部に一列に並んで座った。私も私の親族も、親族席に座るようにと姉(池友子)に言ったが受け付けなかった。
 
告別式の喪主の挨拶で、私は母親が死ぬ間際まで姉(池友子)に会いたがっていたということを述べた。ところが、少し難聴気味である姉(池友子)は最後部に座ったこともあって私のスピーチが聞き取れなかったという。(事実かどうかは不明。)姉(池友子)が隣りに座っている娘達に尋ねると、娘達は私がさんざん姉(池友子)の悪口を言っていたと話したという。
 
愚かな娘達である。百歩譲って私が姉(池友子)を批判するスピーチをしていたとしても、姉(池友子)にそのスピーチが聞き取れなかったならば、そのようなことは伏せておけばいい。わざわざ話すことではない。ましてや私は、一言も姉(池友子)や姉(池友子)の家族を批判することは話していない。
 
「この母(池友子)にこの娘あり」である。
 
結果として、姉(池友子)は私のスピーチ内容に激怒したという。その晩、親戚に電話をかけてきた。そして電話に出た従姉に次のように言ったという。私と私の家内と息子が母親の財産を全部自分たちの名義に書き換えた。私の家内は「現金が好きだから」と。姉(池友子)の留守番電話の「あなたたち家族の3人」が私と私の両親ではなく、私と私の家内と息子を指していたことを知ったのはこのときであった。しかし、当時、まだ中学生であった私の息子までこれほど憎むとは、姉(池友子)は狂っている。
 
私が姉(池友子)や姉(池友子)の家族を批判するスピーチをしていないことは参列者全員が証言してくれた。繰り返しになるが、私は「母親は死ぬ間際まで実の娘である姉(池友子)に会いたがっておりました」と一言言っただけである。悪口でも何でもない。母親が姉(池友子)に対して最も告げたかったであろう言葉を私が代弁しただけである。どんなに姉(池友子)が母親を憎んでも、母親は実の娘に会いたくて仕方がなかったのだ。
 
父親が亡くなったとき、私は姉(池友子)に手紙を書いた。その手紙の最後に、私は姉(池友子)の病気を知っている。どんなに薬を飲んでもどんな宗教に帰依しても姉(池友子)の病気は治らないと書いた。この一文をとりあげて、姉(池友子)は姉(池友子)の病気の詳細を知っていたはずだと裁判の場で主張した。私が知るはずはない。私は姉(池友子)から不眠を訴えられたことはあるが、どのような病名で通院しているのかもどのような薬を服用しているのかも知らなかった。ただ、誰が見ても姉(池友子)が精神の病気をやんでいるのは明らかであった。その心の病の原因は姉(池友子)の心の持ち方に問題があることであると考えたため私はそう書いたのだ。
 
姉(池友子)は一度でもいいから母親の生前に病院を訪れるべきであった。そして実の娘が見舞いに来てくれ喜ぶ母親の笑顔を見ておくべきであった。その母親の笑顔を見ておけば、姉(池友子)の病気は治ったかもしれない。姉(池友子)の病気は、母親の死後、更に悪化したと人づてに聞いている。当然の結果である。

姉 5

姉(池友子)が2013年7月28日に残した留守番メッセージの音声記録へのリンクを「姉 1」に記した。その留守番メッセージは活字におこして裁判所に提出した。その文書をここに掲載しておく。
 

感謝状? 3

2013年8月13日。高知県で記録的な暑さを記録した日であった。この日、熱中症のためか母親は自宅で転倒し腰椎骨折をおこした。そして救急車で病院に搬送された。母親を搬送する救急車の後を追って実家のご近所の人たちが病院に駆けつけてくれた。
 
その人たち(2名)のうちの一人が、私の実家から姉(池友子)に電話をかけて、病院に来てくれるように依頼した。ところが姉(池友子)は既に両親には「絶縁状」を送っており、家族と相談して家族全員が國弘家と縁を切ることにした。したがって病院には行かないし、両親の葬式にも参列しないと言った。
 
倒れた母親の衣服を救急車が来る前に着替えさせなければならないし、母親の身体の清拭も必要であったふたりは、頑固な姉(池友子)と話を続ける時間はないと考え、途中で電話を切ったという。母親は寝室の中に置いてあったオマルのなかに倒れ込んでいたらしい。身体は糞便でべっとりであったと聞かされた。
 
二人が救急車の後を追って病院に向っているときに姉(池友子)から何回か電話がかかってきた。しかし病院には絶対に行かないという姉(池友子)の相手をする余裕がない二人は、電話をとらなかった。
 
それから約2年後の2015年8月7日に母親は亡くなった。母親の葬儀の日、姉(池友子)はその隣人にこう言ったという。「病院に行こうかと思って五百子に何回も電話したけんど、五百子は電話に出なかった。」(父親の葬儀には参列しなかった姉(池友子)が、なんとこのときには葬儀場に駆けつけたのである。私は驚いた。)
 
つい先日、この隣人は怒りを込めて言った。「おばちゃん(私の母親)が入院する病院はきちんと友子ちゃんに伝えてある。もし友子ちゃんに病院に来る気があれば、私に断る必要などない。直接病院に来ればいい。」
 
まさに彼女の言う通りである。
 
姉(池友子)は自分が両親に送った手紙(「感謝状? 1」を参照)をこの際には「絶縁状」と言った。そして裁判の場では「感謝状」であったと主張した。姉(池友子)の長女も同様の証言をした。
 
姉(池友子)と姉(池友子)の長女のこれまでの人生を象徴するエピソードのひとつである。姉(池友子)は他人を陥れることと金にしか興味がない。これは私と私の家内の共通の認識である。

感謝状? 2

既に何回か書いたが,2013年6月下旬に父親が出血性脳梗塞の二度目の発作で倒れて入院したとき、私は数日間高知に帰省した。私が東京に戻る日の前日(2013年7月1日)の夕方、姉の家に立ち寄ったとき、別れ際に姉(池友子)と姉の長女がかしこまって私の前に立ち、「幸伸,私たちはお母ちゃんと縁を切る」と私に告げた。私はまたいつもの親子げんかでもたのだろうと軽く考え、返事もせずにホテルに戻った。
 
その前日、つまり2013年6月30日にも私は姉(池友子)の家を訪れていた。姉は数日前にその家(賃貸マンション)に引っ越したばかりであった。私が姉(池友子)の家を訪れたとき、姉の夫(私の義兄)は仕事に出ており、家の中には姉(池友子)しかいなかった。姉は引っ越したばかりの住居のなかを案内してくれた。
 
帰り際に屋外でしばらく姉(池友子)と立ち話をした。その際に、姉(池友子)が、「お金は足りる?」と私に尋ねた。当時、高知県内にはメガバンクは1つしかなかった。みずほ銀行であった。しかし私はみずほ銀行には預金口座を持っていなかった。姉は私を高知市内のショッピングセンターの脇にあるATMに私を案内してくれた。私はいくばくかの金をそのATMで引き出した。父親の衣類やタオルなど、いろいろな入院用品を買ったので、私の財布の中の金が少なくなっているのではないかと姉(池友子)は心配してくれたのだ。財布のなかを確認すると、数千円しか残っていなかった。姉(池友子)はそれを見て、「お金を貸しちゃおか。待っちょり」と言って自宅に戻り3万円を持って出てきた。私は翌7月1日しか高知には滞在しないので多くの金は要らないだろうと思ったが、もし金が必要になった際にまたATMに行かなければいけなくなるのは時間の無駄になると思い、姉(池友子)が差し出した3万円を借りた。
 
このことからもわかるとおり、私と姉(池友子)とは決して仲たがいしていたわけではなかった。事情をよく知らない人は、私と姉(池友子)とは元々仲が悪かったのではないかと思ったかもしれないが、そんなことは全くなかった。
 
翌7月1日にも東京に戻る挨拶をするために私は姉(池友子)の家を訪れた。その際には、姉(池友子)の長女と次女および彼女らの子(姉(池友子)の孫)も姉(池友子)の家に遊びに来ていた。屋外で子供たちを遊ばせていた。短時間姉(池友子)と立ち話をしてホテルに戻ろうとしたその時に、姉(池友子)と姉(池友子)の長女が母親と絶縁すると突然私に告げたのである。姉(池友子)の次女は少し離れたところで子供たちを遊ばせており、私たちの会話には加わらなかった。
 
私は7月13日から15日まで再度、高知に帰省した。その際に、姉(池友子)から借りた3万円を返すつもりであった。しかし、当時はまだ身体の不自由な母親が自宅で一人暮らししていた。母親の介護もしなければならなかった。雑用も山のようにあった。
 
また、姉(池友子)の気性を知っていた私は、しばらく姉(池友子)とは接触を持たずそのままにしておくのがいいだろうと考えた。そのため、姉(池友子)には3万円を返さないまま東京に戻ってきた。そしてその日(2013年7月15日)の晩、東京から姉(池友子)に電話をかけた。
 
この際の電話でのやりとりについては次回書こうと思う。

2019年5月9日木曜日

感謝状? 1

下の手紙は、姉(池友子)が両親に宛てて送ってきた手紙である。当時、父親は既に入院しており、この手紙は母親と一部の親戚の者しか読んでいない。私はこの手紙を母親の死後、母親の寝室を整理している際に見つけたので、母親が生きていた時期には読んでいなかった。ただしその文面は母親が私に繰り返し聞かせたので、おおよその内容は知っていた。
 
読者は下の手紙を感謝状と解釈するであろうか。姉は、母親が入院したときには「既に絶縁状を送ったので、もう見舞にも葬式にも行かない」と実家のご近所の者に言った。ところが、裁判の場では、この手紙は「感謝状」であったと姉も姉の長女も弁解した。
 

姉 4

 
 
振り返ると、私の家族は姉(池友子)と姉の家族に利用され続けただけであった、
 
私が留学から戻った後のことであるから1995年よりも後のこどであるが、正確な年を記憶していない。なんとなく秋の初めごろであったのように思うが記憶が定かでない。
 
姉からひっきりなしに電話がかかってくることがあった。1日に2度電話がかかってくることもあった。用件は姉の長女の結婚。長女が結婚すると言い始めたが姉はその結婚に反対であるので姪(池祐唯0の長女)を説得してもらいたいということであった。
 
私は相手の男性に合ったことがなかった。名前すら知らなかった。ただ、姪よりもかなり年上であるということは姉から聞かされた。ただ、姉が二人の結婚に反対するのは年齢差が理由でなかった。始めの頃はなぜ姉が娘の結婚に反対するのか私には理由がわからなかった。姉から電話がかかってきても私は単に姉の話を聞くだけであった。
 
ただ、あまりにもしつこく姉が二人の悪口を言うので、私も最後には姪に電話して二人の結婚を止めてみると答えた。そして姪に電話をかけた。
 
私が姪にまず言ったのは、姪の荷物を実家から持ち出すために姪の結婚相手が姉の自宅を訪れた際に、母親である姉(池友子)に挨拶ひとつしなかいというのは失礼ではないかということであった。このことは姉から聞かされた話であったが、事実であったのかどうかはわからない。ただ、姪はそのことが事実ではないとは言わなかった。
 
私は電話をかけるまえに、10年ほど前に相談したことのある占星術師に電話で姪の結婚について尋ねた。姪の誕生日も結婚相手の誕生日も私は知らなかったのでその占星術師の答えもややあいまいであったかも知れないが、その占星術師は「すこし遅くて30歳代後半になるが、そのころ姪ごさんにはいいご縁がある。今のご縁はあまりよくない」と言った。
 
私はたかが占いのことであったが、そのことも姪に告げた。
 
しかし、姉の言葉をそのまま繰り返せば、姪は既に”目つきが変わっていた”ようだ。(電話であったので彼女の表情はわからなかったが。)姪はその前にも好きな人がいたそうであるが、その際にも姪の目つきが気違いのようになったと姉(池友子)は私に話した。
 
私は輪根の度重なる職場への電話に耐えかね、姉の指示にしたがって、姪に電話をかけた。しかし私は姪の結婚には賛成で反対でもなかった。単に、あれほどまで姉(池友子)が姪の結婚相手を悪く言うのであれば、sの話のどこかには事実が含まれているのであろうと思っただけである。
 
姉の話から、二人が結婚することになっても、姉は結婚式には出席しないものと思った。親が出席しない結婚披露宴に私が出席するわけにはいかないと私は考え、披露宴には出なかった。
 
ところが、ところが、である。あれほど結婚披露宴には出ないと言っていた姉は、何事もなかったように結婚披露宴に出席したのだ。そして二人の結婚に反対する電話をかけさせられた私は姪から今も憎まれている。姪の結婚にあたって披露宴には出なかったが姉に8万円託したが、その8万円が姪の手に渡ったのかどうかすらわからない。
 
私が姪の結婚に反対する電話をかけた経緯については、父親が生前、姪に話してくてくれたという。父親本人からそう聞いた。父親の話を聞いて姪は納得したと父親は私に話した。
 
とんでもない。姪は私を今も憎みに憎んでいる。そして私を悪い者に仕立てた姉(池友子)は何事もなかったように娘をかわいがり娘は姉(池友子)を慕っている。
 
姪は、私には「まっとうな人間になってもらいたい」そうだ。ばかけた話である。

姉 3

母親が亡くなったのは、2014年8月7日の夕方であった。金曜日であった。午前中の外来を終えて携帯電話を確認すると、母親の容体が思わしくないとのメールが主治医から届いていた。早ければ1週間以内に母親は亡くなるかもしれないと書かれていた。私は直ちに主治医に電話をかけ、電話をかけると同時に実家のご近所の人に連絡した。何人かの隣人が病院に駆けつけてくれた。私の従兄姉も病院に来てくれた。
 
私はその日の午後、手術があった。手術を終えて携帯電話を確認すると、ひとりの従兄から繰り返しメッセージが入っていた。母親の容体が刻一刻と悪くなっていく模様が述べられていた。「もう駄目だ!」というのが最後のメッセージであった。なんということか・・・。
 
私はその数日前に母親を見舞っていた。いつも母親は寿司を食べたがるのでその帰省の際にも病院近くのスーパーで寿司を買って病院に持っていった。しかしそのとき、母親はその寿司を口にしようとはしなかった。すでに病態がかなり悪化していたのであろう。
 
帰省するたびに母親の容体は悪化していた。それを見るのは私にはとても辛いことであった。入院当初は、私が病室に入るや否や「お姉は?」と尋ねた。その一言から、母親の電話に姉が無視を続けていることがわかった。私は返す言葉もなく、ただ首を横に振るだけであった。母親はそれを見ると天井を見つめ、しばらく沈黙した。寂しそうであった。入院後数ヶ月すると、母親は携帯電話を手にしなくなった。そして「お姉は?」と私に尋ねることもなくなった。
 
私は母親がかわいそうでならなかった。目と鼻の先に済んでいる実の娘が一度も見舞に来ないどころか電話すらとらない。姉の子供たちも夫も無視を続けている。
 
母親が亡くなったあと、私が高知に帰ることができたのは、その翌日の夕方であった。既に外は暗くなっていた。母親の遺骸は従兄らによって既に葬儀場に運ばれていた。白いハンカチを顔にかぶせられ横たえられている母親の遺骸を見た瞬間、私は涙が止まらなくなった。泣き続けた。
 
私が泣き続けているとき、なんと一度も母親の見舞に来なかった姉が私に寄ってきた。そして、私一人に母親の介護をさせたことをわびた。しかし、姉が母親の面会に来なかった理由は弁護士が止めたからだと姉は言った。
 
そんなことがあろうはずはない! その理由は真っ赤な嘘である!
 
遺産相続の問題が姉と私と母親との間で持ち上がったのは、父親の死後のことである。姉は父親の存命中も一度たりとも病院には来なかった。電話もとらなかった。。
 
なんという言い訳であろうか。
 
これは姉の人生を象徴的に表す出来事である。姉は他人を陥れること金にしか興味がない。これが私と私の家内の共通の認識である。私は生涯、姉(池友子)を憎む。

2019年5月6日月曜日

母親の思い 2

私の姉に対してよりも私に少し多めに遺産を残したいと姉に話した母親の気持ちがよくわかる。姉には4人の子がいるが、私の両親の援助もあり、全員が私立の中学校と高校に通った。そして全員が国立大学を卒業した。嫁ぎ先が経営する会社が倒産したあと家も失って借家住まいになった姉の家族にとって、実家からの援助がなければ、これほどの教育が受けられようはずがない。実家のご近所の人たちは、両親がどれほど姉の家族をサポートしてきたかをよく知っていた。両親からの援助を全く知らなかったのは、姉の夫(私の義兄)と姉の子供たちだけであった。姉は実家からの援助を必死で隠した。
 
母親からすれば、自分たち(私の両親)の援助によって姉の子供たちは全員大学を卒業し就職した。2人はすでに結婚し曽孫も生まれた。ただ、國弘家の跡取りである私の子はまだ中学生。これから教育に多くの金はかかるであろう。先祖代々の墓地の処理も私に委ねなくてはならない。更に実家の建物や土地、点在する多くの田畑や山林の処分も頼まねなならない。したがって、息子である私に多めに遺産を残しておかなければ私が苦労するであろう。こう考えていたに違いない。
 
こう考えた母親は、まず姉の了承を得るために姉に話をしたのだ。姉の了承を得ておこうと考えたのであろう。
 
ところが、なんと、姉はその母親からの問いかけに対して、姉は「絶縁!」で応えた。
 
母親は嘆き悲しみ、私に何度も次のように言った。「親子なんだから、不満があればきちんと話をすればいい。」
 
姉は、母親が何度電話をかけても受話器をとらなかった。母親が脊椎圧迫骨折で入院し亡くなるまでの間に母親は姉に繰り返し繰り返し電話をかけたが、姉は頑として受話器を取らなかった。途中から母親は携帯電話を投げ捨てた。その携帯電話は、母親が亡くなるまで、病院の近くに住む従姉が預かってくれた。
 
姉が母親の顔を見たのは、母親の危篤を従兄から知らされて病院に駆けつけたときであった。しかし、すでに母親は亡くなっていた。姉は母親の遺骸にすがりついて泣き叫んだだという。時すでに遅し。そばにいたひとりの親戚の者が「友子ちゃん、ちっくと遅かったねえ」と言ったという。痛烈な皮肉であった。

母親の思い 1

父親が倒れた直後、姉と姉の長女が、私の母親と絶縁すると突然言ったことはこれまで繰り返し述べてきた。父親が倒れて入院した数日後のことであった。ふたりが絶縁を告げたとき、理由は何も話さなかった。私も彼らの発言をあまり気には止めなかった。またいつもの親子ゲンカをしたのだろう程度にしか考えていなかった。

ふたりが母親と縁を切ることを決めた理由は、母親が姉に対してよりも私に少し多めに遺産を残したいと言ったことが理由であることを姉の長女(私の姪)から直接聞かされた。姪は、「お婆ちゃんはお母さんよりもおじちゃんに少し多めに遺産を残したいと言った。だから許さない」と言った。

この姪は、自分の母親(つまり私の姉)が内密でどれほど莫大な経済援助を受けてきたのかを全く知らされていなかった。姉は実家からの援助をひたすら隠し通した。

姉はまとまった金がほしくて仕方がなかったようである。姉が入信しているエホバの証人の最終ステージの講習会を受けるために多額の受講料を支払わなくてはいけなかったらしい。このことは私の従姉から聞かされた。「最終段階の講習会」という表現をその従姉は使った。ということは、姉はそれまでに前段階の講習会を何度か受講し、それなりの受講料を払ってきていたのであろう。姉は母親から受け取った金のかなりの金額をエホバの証人に貢いでいたに違いない。

裁判の席で、姉は、エホバの商人からは一切金の請求はなかった。支払っても千円程度であったと証言したが、そんなはずはない。その従姉の姉も、私の姉の陳述を全く信用しなかった。「人が生きていくためにはお金が必要である。そんなわずかな金ですむはずがない」と彼女は言った。彼女もある宗教に入信しているので、宗教団体の実情をよく知っており、そう思ったのであろう。彼女は、自分も家族も幸せにしない宗教はやめるべきであると私の姉に忠告したが、姉は聞き入れなかった。

話を本論に戻す。

両親には自分が築いた財産を全て使って人生の最期を楽しく過ごしてもらいたいというのが私の希望であった。したがって事あるたびに、お金を使うようにと母親には話した。母親は何回か私が勤務している病院に入院したが、毎回、大部屋であった。個室に入院すればいいのにと私は思った。しかし高知から遠く離れて東京で入院生活を送る母親は個室では淋しいだろうと思った。また、父親は、金銭的なことも考えていたようだ。父親は「幸伸の体面を考えれば、個室に入院させた方がいいかもしれないが・・・・」と複雑な心境をのぞかせた。私は何も意見を言わなかった。両親の財産は両親のものであると考えていたからだ。

父親とも母親とも、私は遺産相続について一切相談したことはない。父親が倒れ、姉と姉の長女から絶縁を言い渡されたあと母親は遺言状を残したが、私はその遺言状の文面は一切読まなかった。その遺言状には母親の遺産の全てを私に譲ると書かれていたようであるが、遺言状を今まで私は一度も読んでいない。母親の遺言状の処理も弁護士と税理士に全面的に委ねた。

姉と姉の長女は、私が両親との間でこっそりと遺産を独り占めする相談をしていたはずだと思い込んでいるように思えるが、馬鹿げた妄想である。そんなことは考えたことすらない。そんなことを思いつく彼らこそ、彼らが私の立場であったら、両親の遺産を独り占めするためにはどうすればいいかと策をめぐらしたことであろう。他人の物を盗んだりだまし取ったりしようといったことは一度も考えたことがない私と私の家内には、そのような発想は全く湧いてこない。

布引観音











浅間牧場からの眺望 浅間山











東御市武石余里の花桃









2019年5月5日日曜日

姉 2

父親が倒れた直後に姉と姉の長女は両親との絶縁を私に告げた。そして程なく私とも絶縁した。父親に続いて母親も緊急入院した日には、姉は、家族会議を開き、家族全員が國弘家と縁を切ることを決めたと実家のご近所の人に告げた。

姉が國弘家と絶縁することを決めたきっかけは、私の母親が、娘である私の姉に対して「幸伸に少し多めに遺産を残したい」と告げたからであるという。このことは姉の長女から聞かされた。それは父親が倒れて入院した約2週間後の2013年7月15日の夜のことであった。

私は驚いた。遺産相続について、私はそれまで、父親とも母親とも全く話したことがなかった。ただ、そのことを姪から聞かされたとき、私は母親の考えがわかった。

母親は、自分の夫(私の父親)にも姉の家族にも内緒で、多額の経済援助を姉に行なっていていた。当然、父親は父親で別途、姉の家族に経済援助を行った。父親から姉の家族に対する援助については姉の家族は全員知っていた。そのことが姉は気に入らず、父親が死ぬまで父親をなじり続けた。姉は、父親からよりも多くの金銭援助を私の母親から受け続けていたが、この援助は母親と姉との間だけの秘密であった。つまり私の父親はほとんど自分の妻(つまり私の母親)からの援助については知らなかった。ただ、母親は、自分が姉の家族に対して一所懸命経済援助していることを私には隠さず話した。我が家の財布は全て父親が握っていたが、父親は数万円の金を財布から抜かれても全く気がつかなかった。大金を今の畳の上に放りっぱなしにしていたところ、それが盗難に遭ったこともあったという。母親は父親の財布から毎回数万円から10数万円の金を抜き取っては姉に対してこっそり渡した。たまに姉の長女が実家に来てくれたときには、その長女に、姉に渡してくれるようにと大金を預けていた。(このことは実家のご近所の人が目の前で見ている。)母親が姉に与えた援助は2千万円を下らないはずである。母親は、姉の夫の生命保険の掛け金も負担していた。姉の子供たちの成人式の振袖も母親が買ってあげたものであった。冷蔵庫が故障としたときに新しく冷蔵庫を買い換えてあげたのも母親であった。育ち盛りの子供を4人抱えた姉を助けるために実家のご近所の畑を借りて野菜を栽培し、姉の家に毎日のように届けたのも母親であった。姉の家までは、車で片道40分かかった。仕事が忙しくて姉の家に行けないときには、宅配便で食料を送っていた。

ところが、姉は、実家は一円も援助してくれないと、両親がなくなるまで親戚や実家のご近所の人たちに言い続けた。私と電話で話すときにも、話題はいつもそのことであった。母親を病院に見舞ってもバス代すらくれないと言って姉は母親を激しく非難した。

私は「そうかえ」としか言わなかった。実家から多額の援助を受けていることを知られると夫から叱られると姉は私と私の家内に告げていたからである。姉のプライドを傷つけては行けないと考え、私は知らないふりを続けた。

しかしこれは失敗であった。実家から姉がどれほどの援助を受けているのかを私はきちんと姉の子供たちには告げておくべきであった。特に姉の長女の悪態には耳と目を覆わざるを得ないことが度々あった。

姉の長女のことを思い浮かべた際にいつも連想するのは、韓国の慰安婦である。慰安婦たちが日本を批判するために述べていることはあまりにも荒唐無稽なことばかりであるが、姉の長女が私や関係者に話した荒唐無稽な事柄は韓国の慰安婦の陳述と差がない。

姉からも、姉の子供たちからも、一言も私の両親(つまり彼らの母方の祖父母)に対する感謝の言葉を私は一度たりとも耳にしたことがない。

姉 1

私の父親は2013年6月に出血生脳梗塞で倒れた。2度目の梗塞発作であった。梗塞範囲の広さをCTで見せられた私は、もう父親が全快することはないと諦めた。しかしたとえ意識は回復しなくとも数十年間生きるかもしれない。その一方、実家で一人暮らしとなった母親は身体が不自由でトイレにすら歩いていくことができない。私は両親をどのようにして介護しようかと途方にくれた。

こんな大変な時期に、私の姉は一方的に両親に対して絶縁を告げた。私とも縁を切ってきた。姉と姉の長女の話があまりにも荒唐無稽なので、姉と姉の長女が私と私の家族および私の両親と一方的に縁を切ってきた正確な理由はわからない。ただ、姪の話から推測すると、私の母親が「幸伸に対して友子によりも大目に遺産を遺したい」といったことが最大の理由のようである。

私の姉は、1日も早く父親に死んでもらいたい。遺産が欲しいからと私に繰り返し言っていた。このことからも姪の話は信用していいであろう。

下の音声は、父親が倒れて約1ヶ月後に私によこしてきた留守番メッセージである。ここでは一切の説明を加えない。後日、このメッセージの解説をしようと思う。


保証人

10年以上前のことになるかもしれない。私の姉の次女、つまり私の姪が、突然私の自宅を訪ねてきた。勤めていた白木屋を辞めて転職したため、引っ越さなければならなくなった。新たに家を借りるにあたって保証人が必要である。私に保証人になってもらえないかということであった。

どんな些細なことであっても保証人になることは大変である。姪が家賃を払わないというようなことは心配しなかった。私が心配したのは、もし姪が火事でも起こすようなことがあったならば大変なことになるということであった。

私は、両親に保証人になってもらえないかと姪に尋ねた。姪は、転職したことも引っ越すことも両親には話していない。私からも離さないでもらいたいと言った。当然、私に保証人になってくれと頼んだことも口外しないでもらいたいと姪は言った。

親子の間に何かがあったのであろうと私は推測したが、全くそのことについては姪に訊かなかった。私の家内は私が保証人になることに反対であったが、しばらく考えた上で私は保証人を引き受けることとした。そしてその場で不動産の契約書に捺印した。

しかし姪からはその後、なんの音沙汰もなかった。

ところが、それから2年ほどして、突然、姉と私の母親から激しい口調で電話がかかってきた。姪の保証人になったことを何故親である私の姉に離さなかったのかと2人は激怒していた。私には全く意味がわからなかった。私が保証人を引き受けた当時、既に成人になっていた姪から、両親には話さないでもらいたいと言われていたから私は話さなかっただけである。私が保証人を引き受けたことに感謝されこそすれ、私が姪の母親である私の姉からも、姪の祖母にあたる私の母親からも非難される理由は何一つない。

ふたりからは約2週間にわたって繰り返し私に電話がかかってきた。私の母親は「なぜ保証人になったことをお姉ちゃんに話さなかったのか」と言って私を叱りつけた。私は「成人になっている姪から、口外しないでもらいたいと強く依頼されたことをどうして話さなければならないのか」と反発した。しかし、母親は何一つ理由を言わなかった。

私は事情を姪本人から聞こうとして姪に電話をかけた。しかし姪は私からの電話をとるやいなや一方的に切った。そしてその後は、私が姪に電話をかけても反応がなかった。

しばらくして、姪から手紙が届いた。その手紙には、私の姉がいかにひどい母親であるかということが綴られていた。そして私の姉は他人の悪口しか言ったことがないとも書かれていた。まさにそのとおりであった。私の姉は生まれてこの方、私が知るかぎり、一度しか人を褒めたことがない。

皮肉なことに、この姪は、私と私の姉との間で裁判が持ち上がった際に、いかに姪が母親である私の姉を尊敬し慕っているのかという証言を裁判所に提出してきた。

姉も姉の家族も、例外なく全員が、このレベルである。

海野宿と「うだつが上がらない」

昨日の朝、軽井沢から東御市にある海野塾に行った。海野塾は江戸時代の北國街道の宿場町である。真田家とも関係の深い町であったが、昨年のNHKの大河ドラマ「真田丸」ではほとんど取り上げられることがなかった。そのためか、今もこの旧宿場町を訪れる観光客は少ない。しかし町の景観は江戸時代のままをとどめている。住民の教育レベルも高いという。この町を散策しながら何人かの住民と雑談を交わしたが、皆、言葉遣いも丁寧で品格が感じられた。

この町の建物で目を引いたのは、うだつ()のある家が多かったことである。ひとりの住民からは、うだつは経済的に成功したことを示していると教えられた。この旧宿場町は養蚕業の日本での総元締めとして栄えたということであった。そのことから、住民のプライドは今も高く商売が下手であるが、教養や学歴が高い人が多いらしい。上述したように、住民の言葉遣いはとても上品であったことからもそれは頷けた。

道路にはちりひとつ落ちていなかった。観光化され伝統美を失ってしまった馬籠宿や奈良井宿よりもはるかに魅力ある街並みが軽井沢からわずかに20数キロ先にあることをつい先日まで知らなかったことが不思議でならない。









2019年4月16日火曜日

叔母

両親が亡くなってからは、高知に帰省する機会がめっきり減った。昨年帰省したのは2回だけであった。
 
帰省した際には、私は必ず叔父(私の母親の弟)の墓に参拝する。叔父の墓は高知龍馬空港近くの小高い山の南斜面にある。この叔父を私は子供の頃からずっと尊敬していた。
 
未亡人となったこの叔父の妻とも私は血縁関係にある。
 
この未亡人の家を私はよく訪問し、思い出話を聞かせてもらう。高校卒業と同時に東京に出てきた私は、実家の近隣の人たちとも親戚ととも接触がきわめて少なかった。自分の両親が日頃どのような生活を送っているのかすらほとんど知らなかった。数ヶ月以上、電話でですら両親と話を交わさないことも珍しくなかった。
 
未亡人から聞かされる話はどれも新鮮である。亡くなった叔父とこの未亡人は実に正直な生き方を通してきた。叔父が勤めていた会社が倒産したりとなにかと経済的には苦しかった時期もあったであろうが、金銭に関しても実に潔癖であった。私の父親がこの夫婦を最も頼りにしていたのも頷けた。
 
父親が亡くなったあとも、私は引き続き2週間に1回の頻度で帰省し、母親を見舞った。仕事を犠牲にして東京からはるばる高知まで帰ってきているのに一度も私が愚痴をこぼさないことに母親は感謝し喜んでいたということをこの未亡人から聞かされたのは、昨年の秋にこの未亡人宅を訪れたときであった。
 
私の母方の祖母は生前、長期にわたって入院生活を送っていたが、その祖母がどのような経緯で家を出されたのかについてもその未亡人から聞かされた。その経緯を聞かされたときには少なからず驚いた。祖母が入院生活を送っている時期、私は大学生であった。帰省するたびにその祖母を見舞った。単に祖母に会いたかったという理由であったが、祖母は私の訪問を殊の外喜んでくれた。そして、以前にも書いた通り、私が帰ろうとすると、病室から廊下まで私を追いかけてきてお金をくれた。いつも一万円であった。私は、祖母を見舞うたびにお金をもらうことが心苦しくなって、次第に見舞うことが減っていった。その祖母の訃報が届いたのは、私が大学を卒業した数年後であった。私の母親が、亡くなった実母(私の祖母)の最期の模様について語ることはなかった。
 
数年前に初めて祖母の墓に参拝した。この年齢に達すると、遠慮などせず、できる限り祖母を見舞いに訪れるべきであったと思う。
 
思い出はいつまでも新鮮である。
 
 

2019年4月15日月曜日

ブログ「帰省」に対するコメント

メールソフトをいじっていたときに、私のこのブログに対するコメントが自動的にまとめられて一つのメールボックスに入っているのに気づいた。どの投稿者も匿名であったが、それらのコメントの中に次のようなものがあった。
 
「あなたは医者として最低。世間知らずですね。」
 
このコメントの投稿者が誰であるのかはすぐにわかった。この人は何を誤解しているのか、私に激しい憎しみを抱いている。しかしなぜこのようなコメントをその投稿者が残したのか今まで皆目わからなかった。
 
今、このコメントを読み直しじっくり考えてみた結果、なんとなく理由がわかるような気がしてきた。
 
私の推測に誤りがなければ、投稿者は女性である。彼女は高校への進学を強く希望したが、彼女の父親は「女性には教育は要らない」という考えの持ち主であった。そのため彼女は中学校卒業と同時に実家を出て就職した。彼女は高校に進学できなかったことにずっと忸怩たる思いを抱いていた。そのことを繰り返し私に愚痴った。
 
ブログ「帰省」のなかで私の息子が通う学校のことに私が触れたことが彼女にはカチンときたのであろう。確かに私の息子は、恵まれた環境の中で教育を受けることができた。
 
しかし、どんなに親が反対しようと、本人に強い意志があれば彼女も高校に進学できたはずである。私の別のの従兄も母子家庭で育ち、高校には進学させてもらえなかった。しかし働きながら夜間高校に通った。そして働きながら勉強し一級建築士の資格も取得した。
 
その従兄はこう言う。「金がないとか親が銭を出してくれないなどといったことは理由にはならない。本当に高校に行きたければ、行けたはずだ。」
 
いずれにせよ、私の以前のブログ「帰省」の内容と私が「医者として最低」だということとどのような関連があるのであろうか。私はこのブログ(私と家族)に医師の立場から投稿したことはない。
 
 

2019年1月12日土曜日

無題

私も姉もともに私立の高校で学んだ。姉は中学校は地元の公立高校に通ったのに対して私は中学校から私立であったが。

私は、姉がどういういきさつでその私立高校に入ったのかを全く知らなかった。姉がその高校を受験する際に姉の受験のことが家族のなかで話題にのぼることはなかった。私は姉がいつ入学試験を受けたのか、いつ合格通知をもらったのかも知らなかった。姉がその入学試験に合格したときに家族でお祝いをすることもなかった。当時、私はまだ小学6年生であった。まだ幼い私の前で姉の受験の話を持ち出すことを両親は避けたのであろうか。

父親が生前、懇意にしていた老婦人から、つい最近、こんな話を聞いた。私と姉とは3歳違い。姉の高校の受験の時期は私の中学校受験の時期と重なった。私は私立中学校を受験するつもりであった。「弟を私立中学校に通わせるならば、姉弟間に差をつけないよう、姉も私学に通わせてあげなくてはいけない。」老婦人によると、父親はこう考えて姉を私立高校に進学させたという。

姉が入学した私立高校は決して進学校ではなかった。しかし父親は、私の姉の頭は決して悪くないとずっと言っていた。姉は単に野暮なだけだと父親は言った。「野暮」とは、土佐弁で「引っ込み思案で人前に出ることを嫌がる」という意味である。実家の隣には姉より1歳年下の女の子がいた。彼女は何事にも積極的で目立った。利発そうに見えた。父親は、彼女は「りこそうに(賢そうに)見えるが」、頭の出来は彼女よりも姉の方がいいと私と私の母親に言った。

事実、姉の4人の子は、いずれも学力優秀であった。そして全員が国立大学に進学した。長男は東京大学に合格した。他の3人(いずれも女)も、姉の家が裕福でありさえすれば旧帝国大学に進学できるだけの能力を有していたが、経済的な理由で地元の国立大学に進学した。「4人の子を国立大学に入学させた親は高知県のなかにそんなに数多くいるはずがない。」そう言って私の父親は姉を賞賛した。4人が大学に入学し卒業するまでには、私の両親が多額の経済援助をした。そうだとしても、姉の家族が贅沢な生活ができるようになったわけではなかった。姉も努力したに違いない。父親は姉の陰の努力を褒めた。

しかし、姉は、昔から、他人の好意を喜び感謝するアンテナが殊の外低い。口を開けば、父親を口汚く罵った。「ジジイは早う死ね」という言葉も度々口にした。両親の最晩年は、私と姉に対する両親の愛情を肌で感じる貴重な期間であったと思う。東京と高知とを往復しながら帰省のたびに弱っていく両親を介護するのは辛かったが、私にとっては得ることが多かった。この貴重な機会を、姉は自ら放棄した。

2019年1月11日金曜日

WASHINTON HOTEL

昨日の午後、神田に出かけた。その帰り道、秋葉原に立ち寄った。駅の中央改札口を出て右を見ると、白い大きなビルディングが目に入った。その建物を仰ぎ見ると、「WASHINTON HOTEL」と書かれていた。私が家内の実家に住んでいた頃、この建物の外壁は焦げ茶色の煉瓦で覆われていた。真っ白く生まれ変わったビルディングからは当時の野暮ったさが消えていた。

私は留学から戻った後、数年間、家内の実家に住まわせてもらっていた。この時期に私の両親が東京に出かけてきた際には、必ずこのホテルに宿泊した。家内の実家は、秋葉原から歩いて10分ほどのところである。WASHINTON HOTELからも近かった。

私の長男が生まれた際にも、上京してきた両親はWASHINTON HOTELに宿泊した。息子が生まれた翌日の晩、つまり私の両親が上京してきた日の晩には家内の両親がホテルを訪ねてきてくれた。そしてホテルのレストランで会食した。会食中、父親は実に嬉しそうであった。母親も嬉しかったに違いないが、昔から母親はどんなときでも感情をあまり表情に出さなかった。このときもそうであった。話題は長男の名前。生まれたばかりの長男の名前を何にするかということで話が盛り上があった。既に長男が生まれる前に、私の家内は名前をふたつに絞っていた。そして最終的に選んだ名前にすることをほぼ決心していた。しかし私の父親は、もう一方の名前の方がいいと言った。多分、その名前の方が発音しやすかったからだろうと思う。家内がその名前を選ばなかったのは、その名前には「征」という感じが含まれていたからであった。「征」は「出征」を連想させるから嫌だと家内は言った。

この会食の際の写真が今も残っている。両親にとって最も幸せなひとときであったと思う。

2019年1月6日日曜日

無題

両親を姉が褒めたり両親に感謝する言葉を口にするのを聞いたことが私はこれまで一度たりとない。姉は口を開けば両親の悪口を言った。そして両親の前では私のことをさんざん悪く言っていたようである。私はこれまで姉が人を褒める言葉は一度しか耳にしたことがない。
 
しかし、私が両親と話すとき、私は姉を批判したことはただの一度もなかった。姉が一方的に絶縁してきたあとも、このことについては母親と一言も話さなかった。父親は出血性脳梗塞のためほとんど意識がなくなっていたので、父親とは当然、姉が縁を切ってきたことを話す機会はなかったが。
 
姉の長女も姉と同じであった。彼女の祖父母である私の両親を侮蔑し私を憎んだ。私は姉を名誉棄損で訴えたが、裁判の過程で姉が私を憎むに足りる原因は何一つ出てこなかった。
 
両親を介護するために東京と高知とを往復した2年あまりは辛いことが多かった。私の家内は、顔が真っ白になって高知から帰宅する私の健康を心配した。
 
両親とも亡くなった今、私は両親を介護するために全力を尽くした自分を誇らしく思っている。姉はどうか。介護することがいやだというだけで一方的に自分の両親と私との縁を切った。一方的に絶縁しても遺産相続においてはハンディーとならないということも十分調べた上でのことであったようだ。
 
しかし、心は正直である。姉も姉の長女も、生涯罪悪感にさいなまれ続けるであろう。母親の死去直後から姉の病状が悪化したと人づてに聞いた。両親とも亡くなった今、彼らを救う方途はない。

あるとき、姉が親戚の老婦人に電話をかけて、両親が全く援助してくれないとさんざん愚痴を言ったという。その老婦人は私の父親と親しく、平素から私の父親にいろいろの話を聞かされていた。当然、その老婦人は、私の父親がどれほど姉の家族を経済的にサポートしているかも知っていた。電話で、姉が両親を批判やめないので、老婦人は姉にこう言った。「そんなことを言うけんど、あんた、お父さんに車をもらったじゃない。何ももらったことがないことはないんじゃない?」姉はこの言葉を聞くやいなや、がちゃっと一方的に電話を切った。そして、以来、その老婦人には電話をかけてこなくなったという。
 
この老婦人は、母親の臨終に立ち会ってくれ、母親が死んだ直後に病院に駆けつけてきた姉に対して「ちっくと遅かったねえ」と言った人であった。
 
姉はいろいろの人に電話しては他の人の悪口を言うのが癖であった。そして電話をかけた相手が姉が言う悪口に賛同しない場合には、更に別の人に電話をかけ、今度は姉の考えに賛同しなかった人の悪口を言った。姉は悪口を介してしか人と交流を持つことができない。。
 

告別式でのスピーチ 2

私は姉がどのような診断のもとで治療を受けているのかは知らない。しかし姉の症状の一部は承知している。どんな症状があるのかは姉自身の口からも聞かされたことがある。母親の葬儀の際には、姉が服薬している薬を姉本人から見せられた。数種類の薬を姉は服用していたが、薬剤名までは覚えていない。ただ、私は、それらの薬を服用するのはやめなければならないと姉に言った。
 
姉は自分の苦しみが何に起因しているのかに気づいてない。姉がかかっている病院名も診療科も私は知らないが、おそらく主治医も姉の症状がなぜ改善しないかを知らないであろう。私はずっと、姉の病は薬では治らないと思っていた。
 
幼い頃から、私は姉の口からは愚痴と他人の悪口しか聞かされたことがない。小学校入学前には近所の幼友だちの悪口。小学校に入ればクラスメートと担任の先生の悪口。とにかく他人の悪口、悪口、悪口であった。姉にはまた、軽い強迫神経症の症状が認められた。水道の蛇口を閉めたのに何度も何度も確認に戻るといった症状である。土佐弁ではこのような性癖を「かんしょうやみ」という。両親は、姉はかんしょうやみであると思っていたようだ。
 
姉の他人を批判する傾向は、結婚した後も治らなかった。私と話す機会があれば、夫の悪口、舅の悪口、姑の悪口、兄嫁の悪口。終わることがなかった。姉の嫁ぎ先の経営する会社が倒産し、姉の一家が借家住まいをするようになってからば、これらの人たちばかりでなく自分の子らに対する悪口もやめなくなった。私は、多感な時期を迎えていた姉の4人の子に与える悪影響を心配していた。
 
私の予想はあたった。
 
母親の告別式の席で,私は喪主として挨拶した。その際に、母親は死ぬ間際までずっと姉と会いたがっていたということを話した。ただ、親族席に座ることを拒否し一般席の最後部に座った姉は難聴もあり、私の挨拶が聞き取れなかったという。そのため長女に私の挨拶の内容を尋ねた。なんと姉の長女(私の姪)は、私がさんざん私の姉(彼女の母親)の悪口を言っていたと告げたという(裁判での姉自身の証言)。
 
その告別式の晩、姉が私の従姉の家に電話をかけてきた。そして私と私の家内、私の一人息子が母親の財産を全て自分たちの名義に書き換えたと従姉に告げた。たまたま翌日、その従姉の家を訪問した私たち夫婦は、その話を従姉から直接聞かされ驚いた。私の家内について、姉は、私の家内は現金が好きだから、とまで言ったということであった。私の家内は深く傷ついた。
 
裁判の場で、姉は、告別式の席で私が姉を批判したから腹いせにそのような電話をかけたと述べた。
 
姉の長女がどれほど社会常識がないかはこれまで何回か書いてきたが、私は彼女の愚かさに激しい怒りを覚えた。
 
私は告別式の挨拶のなかで、一言も姉を批判する言葉は吐いていない。このことは告別式に参列してくれていた複数の人たちが裁判の場で証言してくれた。なぜ、姪はそのような嘘をついたのか。百歩譲って私が本当に姉を批判していたとしても、彼女の母親の病状を考えれば、そのようなことは言うべきではなかった。伏せておくべきであった。愚かにも程がある。

2019年1月5日土曜日

告別式でのスピーチ 1

母親の告別式。私は喪主として挨拶を述べた。その際に、亡くなった母親は入院中ずっと姉に会いたがっていたと話した。娘から何の理由もなく一方的に縁を切られても、なお娘には会いたい。母親は私の姉と会いたいとずっと願っていた。私が帰省し母親の病室を訪れた際の第一声は、いつも、姉はどうしているかという問いかけであった。私が知ろうはずはない。母親を慰める言葉が思いつかない私はただ頭を横に振るだけであった。母親は寂しそうに病室の天井をじっとみつめた。
 
告別式場で一般席の最後部に座った姉に対して、私は、母親は姉にどんな仕打ちを受けても死ぬまで姉に会いたがっていたと話した。しかし、姉が一方的に縁を切ったことや一度も見舞いに来なかったこと、電話にも出なかったことなどは一切話さなかった。告別式のスピーチのなかで話すべきことではないと判断したからである。母親が死ぬ間際まで姉に会いたがっていたと私が話したのは、姉に対する母親の愛情には変わりがなかったことを伝えたかったからにほかならない。
 
母親の入院中、一度も見舞いに来ず電話もとらなかった姉であったが、母親の死期が間近に迫っているとの連絡を親戚から受け、病院に駆けつけてきた。しかし姉が病院に着いたときには既に母親は亡くなっていた。母親の遺体にすがりついて泣きじゃくる姉に対して、ある一人の親類の老人が姉にぽつりと言ったという。「ちっくと遅かったねえ。」これは、親族やご近所の方々の姉に対する侮蔑を端的に表現した言葉であった。
 
私が高知に帰ったのは、母親が亡くなった日の翌日の夜であった。既に母親の遺体は親戚が葬儀場に移しておいてくれた。葬儀場の広い和室に横たえられている母親の遺体を見た途端、私は涙が止まらなくなった。
 
父親の葬儀には来なかった姉が葬儀場に来ていた。姉は泣きじゃくる私に近づき、母親の看病を私一人にさせたことを詫びた。しかしその理由には納得がいかなかった。姉は、弁護士から、係争している母親と会ってはいけないと止められたから母親の面会に来なかったと言った。しかし姉は、まだ父親が生きている時期、つまり父親の遺産相続で係争が持ち上がる前から父親の面会にも母親の面会にも来なかった。電話にも出なかった。
 
姉が一度でも母親の面会に来ていれば、母親の死後、姉の病状が更に悪化することはなかったはずである。私は、母親の生前から、姉がもし母親の面会に来ないまま母親が亡くなったならば、姉の病状は生涯よくならないであろうと予想していた。そのとおりになった。心は正直である。

2019年1月4日金曜日

留守番電話

姉がぞっとするような声で留守番メッセージを残したのは、父親が入院した約1か月後であった。その留守番メッセージの冒頭の文言は先日書いた。「あなたたち三人がしていることは全部知っちょります。」この『三人」が私と私の家内と私の一人息子のことであることを私が知ったのは2015年に亡くなった母親の告別式の翌日であったことも書いた。それまで「三人」は私と私の両親のことであろうと思っていた。私の家内とまだ中学生であった私の一人息子に対してあれほどまで激しい憎しみを姉が抱いているとは夢にも思わなかったからだ。
 
父親が出血性脳梗塞で入院した当初は、簡単な会話はできた。しかし込み入った話は全くできなかった。父親は自分がどの病院に入院しているのかすら知らなかった。病状はどんどん悪化していった。私は父親を東京の施設に移さなければならなくなる可能性を考え、家内に施設を探してもらった、その一方で、私は父親の後見人申請を裁判所にする手続きを急いだ。その2年前に父親が初回発作で倒れたとき、もしものときには私が父親の任意後見人を務める契約を父親と私は結んでいた。
 
私が家庭裁判所から任意後見人として認めてもらうにあたっては、父親の財産一式の目録を提出しなければならない。私は高知に帰省するたびに雑然とした書類をひとつひとつ整理し、父親の預金通帳や登記簿を揃える作業を続けた。わが家ではずっと父親が家計を握っていた。母親は自分名義の預金通帳すら持たしてもらえなかった。したがって何を母親に尋ねても母親にはわからなかった。唯一、母親が役に立ったのは、金庫の開け方を教えてくれたときだけであった。その母親も父親を追いかけるように1か月後に入院し、わが家は空き家となった。
 
誰も住まなくなった実家で、一人でどこにあるのかもわからない書類を探し、雑然と積み上げられた書類にひとつひとつ目を通して必要な書類と不要な書類を分けた。そしてたびたび市役所に足を運んでは父親が所有していた不動産の目録をコピーさせてもらった。不動産は土佐市内だけではなかった。他の市町村にもあった。それらの市町村から必要書類をもらうには多大な時間がかかった。手間もかかった。
 
私がこんな作業をしていたときのことを、姉は「幸伸が父親の財産をコピーして自分の名義に書き換えている」と解釈したのだ。そのようなことを姉に告げたのは一人の従姉であると姉は裁判の場で証言した。
 
私はこの従姉に電話をかけ、姉の主張の真偽を確認した。この従姉は、そんなことは言っていないと言った。しかし、私に有利になる証言は一切するなと(その従姉の)妹から言われているので、そのことは裁判では話さないと私に告げた。私は弁護士を通じて証言を依頼したが、従姉は拒否した。
 
「幸伸に有利になる証言はするな」と言ったのが誰であるかは、ここに書くまでもないであろう。

ホテル宿泊費と駐車料金

父親の葬儀を済ませたあと,私は3〜4日間、高知に滞在した。その間、高知市内のビジネスホテルに宿泊した。なんとこの宿泊費も高知滞在中の駐車料金も父親介護のための経費と認めないと姉が言い出した。なぜホテルに宿泊する必要があるのか、実家に泊まればいいではないか、駐車は何のためにしたのか、と次々といちゃもんをつけてきた。
 
父親が倒れて入院した直後に姉は私と私の両親と一方的に縁を切った。そして誰が電話しても電話に出なかった。両親の見舞にも来なかった。葬儀にも出席しなかった。
 
そんな姉がこんな小さな経費にまでけちをつけたのだ。
 
両親が入院したあと空き家となった実家は水道もガスも止めていた。実家はきちんと鍵もかからない。このような家に大事な書類を持った私が寝泊まりできるはずがないではないか。父親の葬儀が終われば全てがすむわけではない。どれほど多くの雑用を済ませなければならないのか、姉はわかっているのであろうか。
 
これ以上、このことについて書くのはむなしいのでやめるが、もう一度言う。姉は狂っている。人間らしい情のある人間ではない。

奨学金

私は中学校、高校、大学と12年間、日本育英会(現在の独立行政法人日本学生支援機構)の奨学金を受けた。その奨学金を大学卒業後10年ほどかけて全額返還した。当然、自力で返還し、両親の援助は受けなかった。ところが、父親の死後、遺産相続の調停中、姉がとっぴもないことを言い出した。その奨学金を自分で返還した証明をしろと。私は目が点になった。自分が受けた奨学金の返還を両親に頼るなどといったことは頭の片隅にもなかった。そんなことを証明しろといった要求が姉から出されたことに驚いた。私は証拠を出そうと手を尽くした。古い預金通帳を引っ張り出したり日本育英会に電話したりと、八方手を尽くした。しかし、私はこれまで何度も引っ越しを繰り返した。留学もした。転居のたびに不要な書類は処分した。25年以上前の振込の記録が残っているはずがない。日本育英会にも電話で問い合わせたが、返還が完了したならば5年後に全ての関連書類を破棄すると言われた。
 
姉は狂っている。私がこのことを話した知人は口を揃えて次のように言った。「お姉さんなら自分が受けた奨学金を親に返還させただろうから、きっと幸伸君もそうしたのではないかと思ったのではない?」

2019年1月3日木曜日

名誉棄損

私と私の家内は、両親の死後、姉を相手取って名誉棄損の民事訴訟を起した。直接のきっかけは、姉の夫の次の言葉であった。「そのお金は幸伸君のお金ですか。私はそのようなお金を幸伸君から妻(私の姉)が受け取っているということは知らない。どうぞ裁判を起してください。責任を持って妻を東京に連れて行きます。」
 
私がドイツに留学していた1993年から1995年の間に、姉の嫁ぎ先が経営している会社が倒産した。姉の家族は自宅のマンションも手放して借家住まいとなった。4人の子らはまだ高校生から小学生であった。義兄はタクシーの運転手となり懸命に働いてくれたが、家族6人の生活費と4人の子供たちの学費を義兄の給料だけで賄えるはずはない。私の両親が多大な援助を与えた。
 
姉は実家からの援助をひた隠しにしていたことを私は知っていた。しかし実家から援助を受けていることを姉の家族が知ると、プライドが極めて高い姉は自尊心が傷つくだろうと思い、私の両親も私もその援助については誰にも話さなかった。姉は実家から多額の経済的援助を受けていることを黙っていさえすればよかった。ところが姉は、親戚や実家のご近所の人たちに対して、私の両親は一銭もくれないと触れ回った。
 
一度、私が姉に対して現金書留で10万円送金したことがあった。現金書留の受取人は姉の夫にした。送金した翌々日、姉が慌てて電話をかけてきた。電話に出た私の家内に対して、姉は次のように言ったという。「実家から援助を受けていることを夫が知ると、夫が激怒する。今後、送金してくれるときには夫宛にはしないでもらいたい。」
 
以来、私が姉に援助を行なう際には、必ず、宛名は姉にした。私の援助の総額は200万円を下らない。両親からの援助は最低2千万円〜3千万円に上ったのではなかろうか。
 
私は姉や姉の家族が感謝してくれさえすればよかった。それで十分であった。しかし、姉は夫ばかりでなく自分の子らに対しても私と私の家内からの援助をひた隠しにした。子らが成人したあとも話さなかった。姉の長男が浪人生活を送ることになった際に送った30万円のことも、当事者である甥は知らなかった。甥が大学入試のために上京するために必要とする交通費を出したのも私であったが、姉はそのことすら一言も甥に告げなかった。どれほどの経済的援助を自分の母親が実家から受けてきたのか何も知らない姉の長女は、私の両親に感謝しないばかりか、私に対しては激しい憎しみを抱いた。姉はよほど私を悪く自分の子たちに話していたのであろう。
 
母親の葬儀が姉と姉の子らによって汚されたことは前々回書いた。そればかりではない。姉からの真夜中のしつこい無言電話とぞっとするような留守番電話。実家のご近所の人たちに対する私と私の家内に関する讒言。
 
私は、姉が親戚やご近所に話していることはほぼ全部が事実と異なることをきちんと記録に残しておかなければならなかった。私の両親と私の家族の名誉を私が守らなければならないと私は考えた。

従姉からの手紙

年末年始の休みを利用して家の中を片づけている。今朝、リビングで片づけものをしていた最中に、埃をかぶった封筒を見つけた。手に取って差出人を確かめたところ、ある従姉であった。投函日は平成24年7月2日となっていた。平成24年というと2012年である。父親が倒れたのが2013年6月。父親が倒れる1年前の手紙であった。
 
この封筒は開封されていた。だからきっと私はこの手紙を読んだにちがいない。しかしこの手紙をもらったという記憶は残っていない。しかし、さきほどこの手紙を読んで父親が倒れた頃の人間関係の一部が理解できた。
 
父親が倒れる数カ月前であったであろうか、正確な時期を忘れたが、姉と電話で話していたとき、姉がこの従姉のことを話し始めた。従姉とたびたび電話で話していたが、従姉から金を無心されるのでいやになって縁遠くなったと姉は言った。姉のこの言葉を私は聞き流していた。
 
なんと手紙にはそのことに関連することが書かれていた。この従姉の実家を修繕する費用を私の両親に無心してくるので困ると私の母親がこの従姉の姉に電話したという内容であった。ただ、手紙の文章は十分推敲がなされておらず、正確な事実の把握はできないが。
 
「・・・とんでもない、心にもない事を(私の母親から)言われてびっくりしてます。おばちゃん(私の母親)が姉にTELして、私が実家を直すのにお金を出してくれと言ってると。そんな事、言ってもないのに。ショックです。」
 
手紙には上のように書かれている(一部、改変)。
 
この従姉が直接私の母親に金を無心したことはないであろう。この従姉が金を無心しているということは、私の姉が私の母親に話したのではなかろうか。私の姉からこのことを聞かされた私の母親がこの従姉の姉に電話をかけたのかもしれない。
 
この従姉と電話で話した際に、この従姉は私に次のような話を繰り返した。「実家を修繕したやりたいが300万円ほどかかる。金がない」という話であった。私の姉もこの従姉に同じ話を繰り返し聞かされたと、姉から私は直接聞かされていた。姉がこの従姉に電話をかけなくなった理由は、この話を繰り返ししてくるからだと姉は私に言った。
 
「実家を修繕したやりたいが300万円ほどかかる。金がない」という発言は直接金を無心する発言ではない。私もこの言葉を従姉から直接繰り返し聞かされたが、聞き流した。何事にも過敏に反応する姉は、従姉のこの発言は金の無心であると判断したのであろう。
 
ただ、この従姉は、自分の父親(私の伯父)に対して私の父親が私の祖父の遺産を正当に分与していないと考えていたことは確かである。このことは彼女から私が直接言われた。これは心外であった。父親が元気であった頃、父親自身から、父親の兄弟間の遺産相続はきちんと片づけているので私は心配するなと言われていた。私の父親の姉(故人)の子つまり私の従兄も、兄弟間の遺産相続問題は決着したと私に告げた。彼の母親は嫁いだ身であるので祖父の遺産は一切相続しなかったという。父親の兄である私の伯父(つまり問題になっている従姉の父親)に対しては、私の父親の名義になっていた山林を贈与した。しかし伯父は山林ではなく現金が欲しいと言ったため、遺産相続を放棄した伯母が現金でその山林を買い取ったという。従兄に聞いたところでは、その金額は500万円であった。私の父親はその山林を贈与したばかりでなく、伯父に対してたびたび金を貸したり贈与した。
 
私が幼い頃、わが家には猫の額ほどの田畑しかなかった。山林は全くなかった。当然、現金など家には一銭もなかった。日々の生活費を賄うために、母親は毎晩、夜なべをして筵を編んだ。そしてその筵を売って日々の食費に充てた。親と親の姉兄の間で決着した問題を、当事者でない私に何を言われようと私は対応のしようはない。
 
この従兄弟が修繕したがっていた家は今、空き家となっている。高知に帰省した際に、私はたびたびこの家の前を車で走る。この家をすぎる度に幼い頃の思い出が次々と頭をよぎる。